残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

風邪&Making*Lovers可憐ルート感想メモ(日記10日目)

●風邪をひきましたアゲイン


 今日は手抜き更新です。いつも手抜きのような気もしますが、今日はかなり手抜きです。いばるな。
 風邪を召してしまったようで、体に力が入らず、脳に気合いが入らず、よって文章もかなり気の抜けたものになっています。
 先日「風邪を半日で治した」って話を書きましたが、その時と同じ対処法「とにかく寝る」をカマしています。自分の体の声を聞くのだ……
 ということで、寝ます。それだけではネタがないので、今書いてるSMEE「Making*Lovers」の「可憐ルートにだけ焦点を絞った」長文感想の途中までをさらしてみることにします(エロゲー批評空間に投稿予定のもの。もちろんこのブログにも載せる)。たぶんこのままだと、7000字くらいの感想になると思うのです。なぜ可憐ルートだけ? もちろん好きだからです。

www.hook-net.jp

●Making*Lovers・可憐ルートonly感想

北大路可憐|Making*Lovers - SMEE 9th Project

 北大路可憐はひんぬーである。だがそれはガリガリというわけではなく、むしろさわり心地がよさそうである。実際本編中でもたびたび「可憐の肌はきれいだ」と言うシチュがある。


 この「肌がきれい」というのは、主人公と可憐の関係性、物理的距離感を表している。なにせ肌のきめ細やかさっていうのは、見るだけではなく、触って把握するもんである。

 模型で例えるのもなんだが、きちんとヤスリをかけてサンディングし、表面加工をした模型の質感というものは、言葉に表すのが難しい。だがその丁寧な仕事のきめ細やかさは、それだけで価値なのである。つつーっと触ってみて、「ああ……」と恍惚となってしまう。可憐の肌とはそのような雪のようでありながら暖かさを感じさせる綺麗さであり、優しさである。そういえばレイナルートで主人公のおかんが、亜子の肌とレイナの肌を比較してうんことシルクとかって言ってたがさすがにこれはひどいんじゃねえか。
 可憐の肌だが、そのように「触れられる」というのが、主人公の距離である。触ってOKなんである。むしろ触ってほしい。それを許しているし、求めている。このカプには、イチャイチャしながらも、どこかでちょっとした寂しさがあって、それを埋めてもらいたがっている。お互いに。埋めることでもっとイチャイチャする。そして幸せになる。欠落が最初からあるからこそ、お互いを必要とするーー

 

 ……と、最初からバーストしきった形で語るのもなんですが、この長文感想では、「主人公・小鳥遊和馬(デフォ名)×北大路可憐」のカプ(ルート)」しか語っていません。そんなバランスの悪くて、ゲーム全体のことを語っていない感想文章!……とかって言われても、しょうがないじゃないか、和馬×可憐という、久々にジャストミートストライクにして、斜め上からの一撃であり、それでいて収まるところにきちっと収まるっていう心地のよさなカプを見て、「ああこのカプ世界観いいぞいいぞ!延々と妄想してられるぞっ」と滾っているのだから仕方が無い。
 もちろん全ルートクリアしてはいますし、他のキャラクターも大変魅力的。ハズレはなし。だけどそれ以上に可憐ルートが萌え萌えであります。

 

●他ヒロインとの絡みのないエロゲ

 

 エロゲを語るにおいて、このMaking*Loversというか、基本的にSMEE作品というか。「ルートに入ったら他のヒロインの陰が薄くなる」っていう類のがあります。その形式の系譜とか客観的意義はともかく、それが「個人的に好きかどうか?」といったら、あくまでわたし個人的には「諸手をあげてOK!とは言いがたい」です。基本的に、ヒロインと主人公のいちゃラブを見ながらも、他のヒロインたちがわいわいと周りで賑やかしにかかる、というのが、個人的には萌えゲーでは大変好ましく思っています。
 なので、このMaking*Loversのように、「ヒロインルート入ったら、そのヒロインだけ」というゲームは、様々なキャラの入り乱れるゲーム、ということではないので、「他のヒロインとの関係性でもって作品世界をトータルで語る」みたいな論述形式があまり似合いません。

 もちろんレビューの器(ガラ)を大きくして「あるヒロインAのルートの特性はこうだけど、別のヒロインBのルートと比べて、こういう特性があるし、欠点もある」という風に比較論でもって語る、というのもあり、そういうレビューは立派だと思います。作品全体を読み解いている、そして作品全体を愛している、ということで。

 ただ、今回自分がその手法をとらないのは、ひとえに「他のヒロインも好きだけど、可憐がドンズバでノックアウトしにかかってきた」からだ、といえます。

 

 ていうか……ていうかなぁ……あああああ、もうしゃらくせえ! わたしゃ可憐を語りたいんじゃ! この寂しい女を語りたいんじゃ!

 ひんぬーでウェーブのかかった緑髪で、なんか童顔で背中のラインがセクシーで、デート服も悪くはないが最初の部屋着のゆったりさが個人的にかわいくて、そりゃあ咲さんやレイナのように「あ、金もってそうで高貴」というのではないけども、日々の努力でもって清潔さと立派さが、高潔さに結びついている清き正しきツンデレ美学でありながら、その一方で嫁/新妻力の高さというか……そしてそんないじりがいのある可憐を面白くしていくのが我らがSMEE主人公・和馬であって、この二人のちょいしみったれた生活模様がなんとも楽しくて……


 感情の!奔流が!エロゲ語りなのだ! もちろん作品を客観的に語るのもひとつの達成ではありますし。それに対しこのような奔流語りがどれだけの価値を持っているかはわからねえ、ただ自分は可憐を語りたい!

 

●寂しい女


 可憐をヒステリックだと思うかどうか。そこが分水嶺かもしれません。もちろんエロゲ美少女のかわいさはありますし、かつての暴力ツンデレみたいに、主人公を殴って終わり、っていうこともない。もちろん和馬がいつも可憐より一歩上を行ってるから、暴力ツンデレみたいな現象は起こりませんが。
 可憐自身、これまで「突っ張ってきた」人間であります。突っ張ることが女のーたった一つの勲章ー、と歌うのもなんですが、ルームメイトに裏切られ(見つけたら殴っちまえよ)、夢の直前で、その夢を逃しそうになる。

 可憐ルートについて、きっとこれからも語られることになる「鬱展開予測妄想」がひとつあって。それは

「可憐ルートを選ばなかったら、可憐はホームレスをこの先も続けるのか?」

というもので。そんなKanon問題を一度考えると、例えばどうも咲さんルートにハマりきれない。わたしが、咲さんと和馬の、高級マンションでの深夜→早朝のテレビ局職員ルートな微妙な時間帯のユルめのハイソ生活というのを観測しているとする。そんな微妙な時間帯のユルめの生活というのも素晴らしい。

 ただ、可憐はどうなる? 部屋を追い出されて、波止場で一夜を明かす、っていうのを、もう2,3日は続けるのではないか。そして実家に帰るか、それとも……それとも? この「それとも」以上の考察を自分はイチャラブ野郎としてしたくない。冗談でもしたくない。そこにさらなる悪意の第三者がいるって想定をしたくない。まあそこまでいくと考えすぎになるけど、可憐に惚れたらこういう想定だってしてしまう、っていう人間がここにいる、ってことをわかっていただけたら、と思う。

 

 北大路可憐は寂しい女である。さて、この寂しい、っていうのは、「孤独が好き」ということではない。孤独がイヤな人なんである。そもそも可憐がクソルームメイト女と一緒にいたっていうのも、孤独がイヤだったからではないか、と思う。それでいて、突っ張ることしか知らない女でもあった。
 北大路可憐の自己認識は「自分は凡才である」ということ。ラスト付近で語られる「あまり親にも期待されて無くて……」という述懐。もちろんこの「期待されていない」というのには、可憐の親と、可憐自身の認識に誤差・齟齬があるとは思う。


 「たぶん」の妄想だけど、この可憐の親(北大路家)というのは、資産的に鳴瀬家のようなハイソな一直線ではなくても、ちょっと「いいとこ」な家なのではないか、とも思う。インテリで名をなしてる、というよりは、「ちょっと古い地元の名家」とか。代々受け継いでる家業がある、ってんでもなく(それだったら可憐を引き戻すにおいて、家業という話が出てくると思う。ラブラブルの奈々子さんルート参照)。
 今自分は、日本が誇る怪奇文芸ロックバンドの「人間椅子」のギターボーカル・和嶋慎治の自伝「屈折くん」を読んでるのですが………………(ここまで書いたリアリティ

www.shinko-music.co.jp

●今日の感想メモはここまで

 

……というところまで書きました(リアル)。果たして和嶋の自伝はどう可憐の実家と絡んでくるのか? 全然主人公と可憐のイチャラブについて語ってないが、これがどう絡んでくるのか? 乞うご期待!(というか)

 

●メモ

 

・これはいつものメモです。

 参加(寄稿)させていただきました。担当タイトルはまた後日お話します。先日からこのメモ欄で申している「冬コミ同人誌」とはこちらです。

・風邪は今日結構寝たので、ある程度は回復しつつありますが、大事をとってさらに寝ます。明日も仕事なんで

・その次はガルパン最終章第一話なんで。もう今日で治す以外手段がない。

・例によって冬、年末となると、ダイナソーJr.を聞く頻度が増える。なぜか

静かな夜(日記9日目)

●また日付変更してからの日記
 

 ブログの日付上は「毎日」になってないと思うが、まあ一応「ブログ更新を一日のうちに組み込んでる」日々の流れとしては、「毎日更新」になってる。これもまた、こうして更新していくことが「当たり前」の日常になっていくのかなぁ、とも思う。驚きもなくなっていくのだろうか。

 「そういうものだ」と知りつつも、けど些細なことに驚くのも細やかに人生を送るということだろう。もちろん、些細なことに驚く人生は、些細なことに地獄を見いだす人生でもあるが……。

 

●静かな夜

 今日は、なんだか静かな夜だ(午前1時50分)。とくに今即座にやらなけれればならないこと、というのはない。もちろん、目が覚めれば一日のやること、というのがやってくる。でも、それはいまじゃない。
 また、将来の目標に対する「仕込み」のために、やらなければならないタスクというのもある。今やる、というのもひとつの方法ではある。でも、いまはこの静かな夜を味わっていてもよい、と思う。今すぐやらなければいけないものじゃない。
 風の音が聞こえる。水がそよいでいるのが聞こえる。たまにそれらの上にそっと音楽をかぶせる。大音量のハードロックではなくて、少し小さめの音量で古い古い昔の歌をかける。悪くない感じだ、と思う。


 例によって(こういう時、人は昔のことをよく思い返す)、ちょっと昔のことを思い出す。あのときああしていればよかったのかな、とか。あるいはそんな「たられば」解決策ではなくて、あの時から今に至るまでの、継続している感情の「感じ」「雰囲気」みたいなものを思う。うまくそれは言葉に出来ない。……それを上手く言葉にしておかないと、いつかふっと消え去ってしまう、のかもしれない。人生は奔流だからね。でも、それでも、上手く言葉に出来ない。


 どーすれば、と思う。確か村上春樹は、こういう記憶を「頭のキャビネットに入れておく」と言う。実際にノートに記録メモではなく、頭の中で、記憶(の概念・想念)にラベルというか簡単なタグをつけて、脳内キャビネット(悪魔的に物凄い大きさ・量で、配列をしている倉庫)に放り込む。そして、小説を書くときに、そういう「最低限のタグ」を頼りに、膨大なキャビネットから自由自在に記憶を「ひょいひょい」と引き出してくる、らしい。記憶の情報ではなく、記憶の「感じ」を。慣れれば「ひょいひょい」が可能らしい。


 自分は、この数年(もう6,7年にはなる)、アナログノートだったり、Pomeraを使ったワープロだったりで、「簡易日誌」のようなものを書いてる。それは文章にはあんまりなってなくて、ただの記録と思考メモの羅列であって、人には絶対見せられるものではない。身体的にも心理的にも汚いことだって書いてるから、自分が死ぬ前には焼き捨てておかねばならない。しかし、ともかくそんなものを書いている。その理由のひとつには、「忘却するのが怖い」っていうのがあった。面白い着想とか、大切な記憶とかが、消え失せて無になってしまうのが怖い、と。
 でも、そうやってノートにメモるせいで、頭をよく働かせて、思考の庭を耕してなかったかもしれない。「記憶」と「記録」、というのがあまりうまく連関してなかったというか。「記憶」を頭の中にひょいと取り込んで、やたらめったら自分を責めて、やがて忘れる……みたいなことをしていたかもしんない。それは自己肯定からずいぶんと離れたことだよな……

 

 ……というようなことを、つらつらと夜、考える。静かの中で。


 ここに、他人というのはいない。以上の思考を語り合う他人はいない。ただ独り、己のみで考える。孤独ってやつである。でも、寂しくはない。いや、例えぽつねんとした寂しげな感覚であっても、それで良い。……と心から思っているし、その味わいを味わってもいる。少なくとも「こんなのイヤだ」の感覚はない。こういう時間を一日のうち、どこかでとっていないと、自分は発狂してしまう。あるいは魂が死ぬ。(もっとも、こういう時間をとると得もしれぬ不安に襲われる、という類の人がいるのも知ってはいるが)
 
 もう少しだけ味わってから、寝ようと思う。
 いつのまにか音楽(古いR&Bを流していた)は消えている。再び、水と風の流れる音が聞こえる。うまくそれを文字で再現は出来ない。「そよこごこ……」あたりでしか上手く表せられない。でも、もっと聞くべきは、まだどこか凍っている自分の心の音なんだろうな、とも思う。……いや、これは危険な考えだな。「心の音、声、をそのまま聞くことはかなり危険」だ。今、直感でそう思った。むしろ、こういう外界(水の音、風の音)を「通して」自分の心の音を聞いた方が、ずっと健康的だ、と思う。確証はないけど、直感として。

 

●メモ


・今日の日記は個人的には意味のあるものですが、どう見えるでしょうか。他の人からは
・寒い。よく寝落ちしてしまう。寒い。
・なんとか今日のドタバターgodbusyーが終わって、明日は平常に戻る。
つよきす3学期も進めよう。つよきす(無印)については、かなり把握したとは思う……が、細部の把握の詰めが、自分でもまだ甘い、と自己認識している。それでも、まず概観を語れるだけはある。
・でももう師走なんだなぁ、と。この特有のドタバタと静かさが
・お歳暮の準備をしなければ。
・またHP百合機械のアナウンスのことを忘れた

続けるために続けるというのも違うんだけど(日記8日目)

●日付変更したけど

12/8の日付のはナシ。それでも「寝るまでが今日」!なのだから「今日」はセフセフ(抗弁)。しかしこの「1ヵ月更新のために更新する」というのも、またちょっと義務的な感じでイヤンですが、それでも1週間続きました。YATTA。過去に例のないことです。

もっとも、このブログに関しては、書く事によって日々の創作とか模型とかに「常在戦場」の感じで居られることを目的としていますから、この日記をちょいサボっても、創作や模型がokであればそれはそれでいいんですけど。

 

ガルパンSSのちょっとしたまとめ

最終章だからってこともないけど、日々こういうガルパンSSはチェキ巡回してるので、個人的に好きなSSのリンクを貼り付けておきます。全部が全部百合じゃないけど……

elephant.2chblog.jp

ペパロニSSにして、「部活もの」としての戦車道のアンツィオSS。泣ける。

 

elephant.2chblog.jp

 

こちらは本当に「1年」を通してアンチョビ目線で語られているアンツィオSS。アンツィオの陽性な感じが良いですね。黒森峰ではこうはいかん(といいつつも、らぶらぶ作戦最新刊での黒森峰の賑々しい感じというのも全然良いです。JKだもんね)

 

privatter.net

ネットでみほまほSS(同棲シチュ)を探していて、えーいなかなかないぞ!これだけの王道シチュがなぜないっ!おれが書けばいいのかっ!と思いつめていたとき、たまたま見つけたもので、SSサイトやぴくしぶでの公開ではないのですが、とても良い質のみほまほ同棲でしたので、ここで紹介いたします。やっぱり幼いころからの関係性を修復しての仲良し姉妹は西住姉妹ですよ!(興奮で日本語が変)

 

www.pixiv.net

くっそーミカアキ同棲でミカ視点、しかもミカが自分の焦がれる思いを扱いかねているだとぅ!? たまらん! こういうスナフキンな自由人が恋によって堕天するのもまた味よ!まだ攻受が確立していない(この状態を誘い受けと表現するのもまた違うだろう)状態での百合ですよ!善き。

 

今日はこれくらいで。しかしくるわ氏のぴくしぶでのミカアキSSが見れなくなったのは痛いな……

 

●メモ

・模型作品はなんとか出来ました。

・今日(土曜日)は仕事の人員が欠けて、朝から神の忙しさーgodbusyーになるので、一日大変です。夜までどったんばったん大騒ぎかしら

・その分、来週火曜日はガルパン戦車道最終章休暇をとりましたよ! よーっし明日(日曜)になったらこの日の予約が解禁されるから、ネットで予約をまずは1件、出来るものなら連続でその日のうちに2回は視たいところだ! 物理的には可能!

・ブログに手を入れれば入れるほど、自分のブログが自身にとって心地よい「思考の庭」となって、毎日ブログを更新していく、という循環なのだろう。これが「ブログを続けるにはブログを続ければよろしい」というトートロジーめいた言い方になってしまうが、結局は日々「ブログ庭を耕す」ということが大事なんだろね。あ、この「思考の庭」に関しては近年の森博嗣の思想の影響が大

ライアーソフトのファンクラブ会報が届いた。

・先日また森山鉄道模型店に行って、いろいろとジオラマ資材を買い込んだ。

・冬だからか、なんか寝落ちが多い。

 

過集中も良し悪し(日記7日目)

●す、すまねえ!

今のいままで模型の作業していて、超・過集中モードに入っていて、日記をサパーリ忘れていた!

今は23:50!どう考えても今日の日記を今からかっちりとは書けないので、一応今日中にこれを投稿しておいて、お茶を濁して、0~1時で記事を書いて投稿する、っていう姑息なスタイリングをします! ひどすぎる!

あ、それから、今日模型屋さんに行って、どうも本館サイト「HP百合機械」の所在がわかりにくい、って話になったんで、ここのところでちょっと訂正します。

 

●風呂ってきました(本題)

なんだこのtwitterライクな書き方は。まあいいや。いやよくないことを話します。

 今、あれこれの模型作業を終えて、「ふうー、結構良い作品が出来て、写真も雰囲気のあるの撮れたぜ」って悦に入っていました。
 そしたら上司氏(残響は自宅作業&家業です)とすれ違い、なんだかおかんむり(不機嫌)なご様子。


……あっ。

 やっとく仕事ひとつ忘れてたっ!

 
 これはもう平謝りです。上司氏に。即刻仕事モードになって、冷や汗とともにPCをカタカタやっていました。そんな塩梅なので、今日はこれ以上テンションがあがりません。集中も二度とやってくることはないでしょう。
 ひとえに、模型で集中力……ADHD特有の「来るときはクる過集中」の波に乗ってしまったがゆえですね……。もうこれになると、目の前の作業以外サパーリ忘れてしまうのです。このブログの毎日更新にしたってそうですが、仕事にしたって忘れるっていうね。

 その忘我境とも言うべき瞬間は、確かに幸福ですが、まあこの過集中で今までやってきたわけですが。それにより達成できたり、なんとかマクれたりすることもありました。

 ですが、ミスはミス。
 いくら過集中で物事を成し遂げたとしても、その日のタスクすら忘れてしまうようでは、結局トータル差し引きで見た場合、「あんまり良くないよね……」って客観評価です。少なくとも他人の評価はそれだ。
 そんなわけで、久々に典型的な仕事ミス(すっぽかし)をやらかしてしまいました。

 

●過集中でもタスクをこなせる自分になれるか?

 努力の必要はありますが、基本的に過集中に入ったら「もう周りを見るの、無理!」です。「手元の作業以外」のことは、全部頭から掻き消えます。何しろ自分は、テキストを書く場合でも、このモードに入ったら、プロットを書いたメモやアナログ紙の存在すら忘れます。そんで、もともとあったプロットを無視する形で文章を書いて、あとで「あっ、プロットここにあった!」っていう超バカ野郎をかまします。もうこうなると自分のやってることは「文章書き」っていう知的作業じゃなくて、呪術というかシャーマンの託宣に近いものがあるような気がする……。原始……。

 それでいいのか? うーーーーーーーん。わからん。過集中に入ったときの、「ZONE」感覚というか、アイデアがわいてくる感覚、ってものは善いものなんですよ。ただ、「もともと表現したかったもの」とズレがいくばくかは生じますよね。それに、もともとあったプロットの要素をどうしても書いておかなきゃマズい、って場合もダメですね。うーーーーーーん。

 

●メモ

・そんなわけで模型作品は出来たけどさ、まあ
・週末の仕事の忙しさは、現在「並」ってあたりでしょうか。突発がない限り、まあ平穏に済むとは思う。
・年末、ああ、年末。25日を過ぎたあたりで、修羅がはじまる……
・あ、HP百合機械について書くの忘れてた。明日。

 

風邪を半日で治した話(日記6日目)

●いつにも増して時間がない

 そもそもこの時間(11時30分)にようやくブログに着手出来るって時点でどうよ?とは思うけれども。
ただ、今日はちょっと疲れて寝落ちがひどかったです。

 前回(創作におけるヴィジョンと勉強)が特にそうだったのですが、「きちっとした文章」をいつしか書いてしまうところがあって、うわ真面目だなぁとかって思うのですが、これも一つの枷ではあります。

 とはいえ、今日は軽く書くといっても、ネタが寝落ちにより最初からないわけですから、さあどうしよう。

 生き方が雑である。生活が雑である。こまやかな生活をしたい。パスカルが言う幾何学の精神と繊細の精神であるが、幾何学の精神の取り扱いを繊細にする、という含みを考える。丁寧に計算、思考、言葉を紡いだり、図面を引いたり。


●こないだ風邪を半日で治した話

もう32歳にもなると、エネルギーダイナモヴィンヴィン、というのとは違いますよね。徹夜は当然出来ないし、それやったからには翌日のダメージがひどいし。20代後半以降で見る徹夜明けの日差し、か~ら~の続けて仕事っ!……っていうののこう絶望に向かって行軍していく感覚ってなんなんでしょう。

先日、毎日の疲れがたたったのか、風邪をひいてしまいました。朝起きてから、さあどうせ夜は時間がない。早朝(AM5、6時くらい)しか時間がないんだから、創作とかHPデザインとかやるべか、って思っていたんですが、「異常にやる気がでない」。
おかしいなー、と思っていて。
で、ふと昨日、家族がゲホゲホやっていたな、と思い返し、これは風邪をもらったなぁ、と。

 

……さて。

まだ体は動く。でも頭は動かない。
仕事はしなくてはならないけども、今は「自分が居なくちゃ仕事が死ぬ!」のレベルではない。

8分くらい考えて。

仕事場に降りて行って(家業が自宅仕事なんです)、「すんませんが半日休ませてくらさい」
と正直に。

そして、布団に入って、風邪薬飲んで、ミカンなどでビタミンCを補給して、部屋をガンガンに温めて、厚手の靴下はいて、葛根湯飲んで、寝ました。

ウォークマンで音楽も聴かず、貯めてたアニメも見ず、エロゲもせず、本すら読まず、スマホすらいじらず。
とにかく徹底的に「寝る!」を完遂しました。

そうして正午目が覚めると、

「……えー、こんなのでいちおう治るんだ……」
っていうくらい、朝の「体キツい、頭動かない」がすっきりとしていました。

若干腰あたりの体に違和感と、喉がイガラっぽいのはありますが、体は動かせる……ということで、午後からは仕事場にはいって、仕事をした次第であります。


●教訓


また「自然」を教師として科学と哲学しますが、


・体力回復/自己免疫機能とは、「寝る」が一番の武器である
・身体のホメオスタシスを保つにあたって、「寝る」ことに体力を使うというメソッド
・つまりそのメソッドをより意識的に、毎日の入眠でやっていけば、もっと毎日が楽なんではないか。風邪を半日で治すくらいのモンであるから。
・ようするに寝る前は本もスマホも音楽もネットもやめろ、体に良いものを摂取して寝ろ、って話
・それが出来たら夜更かしはしてない。もう寝てるはずだこの23時30分
・ダメやないか


・さかしらな頭でもって「〇〇する!」っていうのよりも、「体が欲していること」を聞くことのが大事
・でもついついライフハックなブログを見てしまう
・それがあかんのか? いや自分の安易さがあかんのだ
・頭に文字を入れていくと、体の声が聞こえにくくなるって傾向はあるなぁ


・ひとつの病識の兆候は「音楽とか、絵とかの【愉しき】表現に、ハマりきれない集中力の欠如」っていうのがあったら、やっぱそれは疲れてるってことなんだと思う。
コンパイルエラー吐くのをチェックするようにね。
・「健康食品」や「健康習慣」を「すればよい」、っていう発想があかん
・「ちょっと困ってるんですけど……」と相談してきてるクライアントはおれの体自身である
・体を適当に洗ってるなぁって思う、風呂場で
・おそらく、運動も「すればよい」ってもんじゃないと
・この「すればよい」っていうのは思考の放棄だけど、体の声を聴くのの放棄でもある。ようは生き方が雑だっていう話である
・人として軸がブレている。


●メモ

冬コミ原稿、誤字脱字の修正終わりましたよ
・締め切りには間に合った
・ちょっとエロゲ停滞中。模型作品の方が忙しい
・時間がほしい
・作品が一応出来たら、次は机を整備しなおさないと
・PCもバラしてホコリをとらないと
・仕事用のPCもそうしないとなぁ
人間椅子・和嶋(gt)の自伝「屈折くん」は本当面白いなぁ
・ならびに、人間椅子のweb連載やインタビューも読んでる。以下リンクはっとく

 

honcierge.jp

 

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33man.jp

 

 

ヴィジョンと努力・勉強ーー創作における楽しさと苦しさ(日記5日目)

●これで5日め


三日坊主はなんとか回避できたけど、早くもネタ切れに近いです。いや、自己紹介の「ジャズ、ロックの他の音楽趣味」とか、「エロゲ、百合ゲーの趣味」とかって書いていくことはあるんですが、毎回自己紹介っていうのも。
 それに、今これを投稿してる時間もそうなんですが、ちょっと最近忙しくて、なんかをしよう、とするのが23時を超えてから、っていう。よくないですね。 無理に日記をするのもまた「違うな」とは思うのですが、ちょっとは自分にルールでも定めないと、なんかこのままずーっと「本格的に何もしない」まま終わっていくような気分がする。そんな予感だけでこの日記を書いてます。

 

●人生の意味を「楽しさ」と定めて以降の、創作におけるヴィジョンと努力・勉強についての考察
 

  他人にとっての意味とか、人間一般にとっての意味はしらん。ただ自分にとっての意味を定めるなら、「楽しむ」ことかなぁと。「今を楽しむ」と表現すると、それなりに近くはあるのですが、でもやっぱり違う。

 それっていうのは、「今を楽しむonly、だけじゃダメだろう」の理由は、「今をちょっと我慢して努力することによって、この先においてやってくる満足度の高く深い【楽しみ】がくるかもしんない」っていうのがあって。
 ただ、「今をちょっと我慢して努力」するそれそのものに価値があるか、っていったらこれもわからない。「今をちょっと我慢して努力」するってことがまた微妙なる楽しみになってる場合もあって。そしてその「日々の微妙なる楽しい」努力の果てに「満足度の高く深い楽しみ」がくる、ってなったら最高だと思いますが。

 

 抽象的なので例を出すと、絵を描くことについてです。
 例えば、自分の中に「うわっ、すげえ良い崇高ななんかのヴィジョンが生まれた!」って発見があったとします。(この「発見」に至るまでがすんげえ苦しいっていうのもありますが、今は割愛。後述はします)
 それで、それを表現するために筆をとりますが、自分の技量の少なさによって、上手く描けねえ。そんな状況があったとします。

 ここで、
(A)絵の勉強・努力をするのが楽しい
人と、
(B)絵の勉強・努力をするのが苦しい
傾向にある人と、で分かれます。

 

(A)勉強がたのしい人


 前者(A)「努力も勉強楽しいよ」の人にとっては、苦労するって認識もなく、黙々と絵の勉強をします。デッサンを毎日やったり、デジタル絵の導入をしたりスキルを学んだり。たぶんこれが「才能」ってやつなんでしょう。自ら発見したヴィジョンがあって幸せ、それを表現出来る技術を「楽しんで」会得する……この過程も幸せ。そんで、勉強の努力の結果、発達した技術でヴィジョンを形作れて最高に幸せ! ってことです。

 

(B)勉強が苦しい人

 一方、(B)「努力も勉強も苦しい」って人は、幾通りかのパターンに分かれます。

 

(パターンB-1)

……それでも苦しんで努力を続けて嫌々勉強をする人。それが結果、苦しんで得た技術によって、ヴィジョンを形作れる場合があるかもしんない。ないかもしんない。日頃の苦痛と苦悩を経て、ようやく「美」にたどり着けるパターンというか。
 ただ、この「日頃の苦痛と苦悩」がヴィジョンを遠ざけたり、歪めたりするのが曲者ですね。やっぱり苦痛や苦悩って「蝕み」ますから。己っていうものを。結果、ヴィジョンとはちょっと違ったモノが形作られてしまう。「労作」であることは認めるけども、それは結局テイのいい「努力賞」であって、本人が幻視したヴィジョンとは違う……これもまた、本人にとっては辛いです。

 

(パターンB-2)

 ……さらにまた別のパターンが「努力も勉強も苦しい」の人にはあります。「この表現形式は、自分にとって違うんじゃないか」っていう風に、絵から別のジャンル(表現手段)に移る人です。なにしろ、自分のやってる努力は苦しい。でもそれは向いてるものじゃないからなんではないか?と考える。そして、例えば音楽をしたり、小説に移ったりする。
 それが正しいのかどうかはわからない。これもケースバイケースで、

(α)その新しい勉強(音楽、小説)が楽しいかどうか 
と、
(β)その新しい勉強は、ヴィジョンを達成するものなのかどうか
っていうのが、この「ジャンル変え」の時点ではまだわからないからです。これも、ある程度やってみなくちゃわからない。

 

 とにかく「幸福なる天才」っていうのは、この「ヴィジョンが見えていて、勉強も楽しい!」って人です。もしそういう方が今これを読んでる方でいらしたら、本当大切にしていただきたいです、その天才ぶりを、幸福ぶりを……と言わずとも、もう幸福ばっかりなんですから、そういう人は。もう悩みもないでしょう。ハマってる(そう、これが「ハマる」です)その手段(勉強)と目的(ヴィジョン)に邁進するのみです。没頭というやつです。
 今、目的に向かって「辛いなぁ……」と思ってる方。今回の文章はそういう方に向けて書いています。
 あなたは、上で書いたパターンのうち、
(パターンB-1)でしょうか、それとも(パターンB-2)でしょうか。
 言い換えれば、今も苦しんで絵を描いてる方でしょうか、それとも絵をあきらめようとしてる方でしょうか。

 

●努力・勉強が楽しいひとの妬み

 この文章には答えはありません。わたしでさえ、今なお悩んでるとこですから。「そんなに苦しんでるんだったら他の手段(ジャンル行こうよ)」とは、時に的を得た忠告にもなりますが、冷や水にもなります。本人は往々、「俺にはこれしかない!」って思ってますから。
 そして、ジャンルを変わったけど、不安でいっぱいのひと。今まで得たスキルと時間と熱意を無駄にしたくない人。これも辛いですよね。何しろ、自分の周りは、すでにそのジャンル(音楽、小説)で長く努力を続けてきた人たちばっかりですから。

 

 ただ、ヴィジョンが見えてる、っていうのをここでは前提にしてきました。それって、ものすごく幸福なことなんですよ。
 なにしろ、「スキル(技術)はあっても、勉強が楽しくても、ヴィジョンが見えなくて、何に向かっていけばいいのかわからない、小器用な秀才
っていうのが、世の中には結構いて、「くそう……」と妬みながら日々を過ごしています。自分の得たスキルでもって、誰かに奉仕する形で生きていますが、やっぱりヴィジョンを得たい得たいと、妬んでいます。

誰を? 

 あなたのような「ヴィジョンを持ってるけど、まだ技術がない人」です。なにしろ、こういう小器用な秀才にとっては、ヴィジョンこそが遠くて仕方がないものなのですから。
 そういう意味では、「勉強や努力がたのしいよぅ!」の人だって、足下が怖くなる可能性だってあるのです。ヴィジョンが無くなったら、こういう「小器用な秀才」になってしまいますから。

 

 

 そうこう考えると、人生の意味っていうのは、ほとんど「ヴィジョンが見えてる」ということ……言い換えれば「自分の作りたいものの意味」をきちんと見定めている、ってことと、かなり近いのではないか? ほとんど近似で同じなのではないか? と仮説します。
 このヴィジョンっていうのは、持ってる人は持っていて、努力で誰もが100%手に入れられるか、っていったらそうでもありません。なにしろヴィジョンは「あなただけのもの」なんです。というか「あなた」そのものがヴィジョンの大いなる母胎、というか。お、なんだ「自分探し」っぽくなってきたぞイヤだなぁ。
 じゃあその「あなた」って何なのよ、って話ですが、これって頭で「おれって何?」をしても、案外たどり着かなくて。それよりも日々なんかを作っていたりして、その時々で「おれってこういうことに楽しみを見いだすんだな」とか「おれってこういうことが我慢ならないんだな」というのを「発見」していくもんですし。その繰り返しで、いつしかヴィジョンが見えたら……やっぱりそのヴィジョンを、後生大事にしてほしいと思うんですよ。ほとんどそのヴィジョンは、人生そのもの(あるいは象徴)に近いものなんですから。まとまってないですが、今日はここまで。

 

●メモ

・相も変わらず人間椅子ばっかり聞いてる。

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・最近目が悪くなったなぁ、といってもまだ両目1.2はあると思うのですが、乱視が入ってるようで、ちょいボヤける。昔の視力2.0以上っていうのにはもう戻れないのか。乱視用の眼鏡をかけると楽っていうんだからなぁ。歳か。

・模型を作っています。毎日何かしらの手は動かすようにしています。現在作品を作っています。

・音楽表現(同人音楽活動)で、ヴォーカルを入れようと考えている。自分の。

・少しずつ絵を描き始めた、というか「線の引き方」を勉強するようになったというか。あまりにも「物の形を線で表現する。手で線を引くことによって」という技術が、自分の手にはない。この場合、手こそが脳なのだ

・つまり、本を読みすぎて「テキスト・オリエンテッド」な人間になっちまった、っていうこと。文章はこうやってガガガと書けるのに、線の一つも引けないというこれね。

・やっぱりあの「とりあえず物語の本(小説)をパラパラっと最後までめくって目で見てみること」→「次にもうちっと深くパラパラっと読んでみること」→「そこから熟読していく」という「CTRLスキップ読書」が一番自分に合ってるみたいで、よく本が読める。もちろんこれは「パラパラめくりをやって、それで【読破した!】」というあほではない。何度も読むことが重要というか、当然のことであって。これはまた日記で書こう。

・今日も3800字か

・上の「CTRL読書」は、映像認識の人間というか、デザイン表現ってものが血肉にしみ込んでる人間にとって意味のあるものだと思う。そこまで映像特化の人間でなかったら(どちらかといえば聴覚優位?)、やっぱり最初から一文字ずつ読んでいった方がよいのかもと思う。その区分っていうのは「高校のあたりで漫画を最低1000冊は読んでた、読めてた」類の人間かどうか、っていうあたりで分けられるのではないか?と思う。