残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

明け暮れ明星日記「円形脱毛症の話」(第3回)

なりました。ちょうどつむじのあたり(頭頂)が、凄く頭髪が薄く……ほぼ肌色の頭皮が出ています。この間、一年ぶりに散髪に行った時に気づきました。

(頭髪に関してはデリケートな話題なので、「HAGE」という俗語は使いません)

この脱毛症で、自分は「円形脱毛症」という「頭髪状況」については、全く問題にしていません。要するに、頭髪の薄い濃い・長い短いのルックス的面については、本当に全く気にしていないのです。

しかし、「円形脱毛症に成るに至った、ここ最近のライフスタイル」に関しては、非常に問題視しています。

以下、そのあたりを備忘録&自分の整理のために、書き記してみます。

 

●ルックス面


この間、33歳になりました。自分はもともと、加齢については、そこまでネガな認識をしていません。なんてったって、自分のロールモデルが、人間椅子の和嶋慎治と鈴木研一なのですから。

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和嶋慎治(ギター

 

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鈴木研一(ベース

www.youtube.com


こういう風に歳をとっていって、「妖怪」みたいになれたらいいなぁ、と本気で思っています。

自分は、頭髪がある程度まで薄くなったら坊主にしよう、と、6~7年まえから決めています。鈴木の研ちゃんみたいに。というか、すでにこれまでに何回も坊主というか、頭をバリカンで剃ったことも何回もあります。

これはあくまで個人的な感覚ですが、「自分が、中途半端に薄い頭髪のままだったら、何だか未練たらしいから、さっさと坊主にしてしまおう」という考えのもとです。
もちろん、世の頭髪の薄い方々が中途半端なひとだとか、そういう話ではなく。個人の頭髪は個人のものですから。そこには哲学と迷いと決断があります。
ただ、あくまで「自分は、自分の頭髪に対して」そう思ってる、ってだけの話です。

だから、髪が薄くなること自体は、とくに問題とは思っていないのです。これが広がれば、坊主になればいい、というだけのこと。妖怪にまた一歩近づいたぜ!と。


問題は、頭髪が薄くなるに至った「リアル仕事の多忙によるストレスフル生活」「ライフスタイル・ライフサイクルのどん詰まり的ストレスフル」にあります。それは、妖怪として、すげぇカッチョ悪い。

 

●凡人の生活

 

異様に忙しい。リアル仕事が、忙しい。それに尽きます。この円形脱毛症の理由は。

なにしろ、家業が自営業なので、仕事とプライベートのメリハリなんてほぼないようなもの。ゆえに、際限なく細切れ仕事がプライベートに浸食してくる。当然、家事もしなくちゃならない。ウチの中で年齢的にも職業的にも一番下っ端なのが自分なので、各種の雑用が自分のところに降りかかる。しかし、上司(親様)の方も方で、マネジメントやら交渉やら経理やらの上司的仕事に追われてるわけですから、あっちもあっちで大変なんだ、ということが重々解る程度には、自分も家業に精通しております。

さらには、今ウチの家業は事業の方向性を転換しようとしていて、それ関連の事務作業が、この通常家業仕事に上乗せされます。ウチでPCを扱えるのが、ほぼ自分しか居ない。しかし自分は上司(親様)ほど各方面と交渉も出来ず、事業方向性の裁量決定権もないので、いろんなPC事務作業が「上司待ち」になります。もちろん、それゆえに楽といえば楽ですが。

また、ウチはほぼ毎日出荷がある、食品関連の仕事なので(ナマモノ製造業)、基本的に「一日フルに休める休日」というのが、ありません。正月の1日くらいかな……。
休日でも、出荷作業があります。

一番キツいのは、実は最後の「フルタイム休日がなし」なので、「連休という概念がない」=ちょっと小旅行やミニキャンプでリフレッシュ、ということすら出来ない。

そう、休めない。

合間時間でスマホをいじってるのも、いけない。もっとも、メールやSNSはほとんどしていなく、電子書籍やブログを見まくっています。
「お、読書家ですね」で済めばよかったのですが、最近はこれ、「本を読みまくってるとあほになる」と思うようにもなってきました。
合間時間で、何かこの現状を打開するようなライフハックな方策を探して、読書、読書、読書。
神経が休まりません。ある人にこう言われました。「常に何かを考えている状態」。
なるほど。休憩時間が休憩してない。

これは疲れるなぁ、と。ここまでを読んでても相当しんどいですね。

あと、常に自分は「自分は結構ラクな立場で、ニートとまではいわないけども、一般の社会人のひとに比べて、相当ラクをしている」と思っていたのですね。
世の中には、ブラック企業なところで、日々辛い思いをしてるひともいるのに……って。
また、長い間病気生活で、半分以上ニート生活をしていたので、動ける今、「ある程度は仕事しなくちゃなぁ」とも思っていて。

そんな状態を、ずっと続けていました。

そこに、この円形脱毛症です。
頭髪が薄くなったことそれ自体は問題じゃない。
「薄くなるに至った、今の仕事の日々が問題過ぎる」。

象徴ですね。この円形脱毛症は。
いわば、「プチ吐血」というか。吐血よりはだいぶ症状は軽すぎますが、それでも、それが表しているのは、「現在の仕事日常は、無理があって、問題である」という。
プチアラートを出している。
プチアラートがいま、ということは、この先もっと我慢して仕事の日々を過ごしていくと、遠からずツブれることは、言うまでもない。
さらには、自分がこれまで克服してきた各種神経・精神病理に、また立ち戻ってしまう。とすると、自分のこれまでの数年間の闘病生活が、無意味になってしまう。
これはいけない。

 

●どうすればいいのか

 

一番良いのは、「強制的に休む」ことですね。これも人から言われました。
「実家家業」なのがいけなく、まず家から離れないといけない。

さらには、自室のオタク図書館状態もいけない。
つい、活字を追っかけてしまう。何かのヒントを模索してしまう。

そして、スマホもいけない。電子書籍に罪はなく、そこに逃げ場書を追い求めてしまう自分がいけない。

結局これは「仕事(義務)」に疲れると同時に、「活字(意味)」に疲れる、という話でした。
義務、と、意味。
あーそりゃー疲れるなー、と。

仕事の意味はなんぞや?とか、自分の意味はなんぞや?
仕事をもっとうまくこなせるハックは?とか、休みの上手い使い方とは?とか、「意味」を調べまくってた。

義務を意味で解消しようとして、その意味をさらなる意味収集(読書・ネットによる情報収集)で解決しようとした。
義務と、意味。この二つしかなかった。

今こうしてテキストを打鍵してるのだって、これだって「意味」の話です。
やばい。活字依存もここまでくれば、あほの領域だ。愛嬌のないあほだ。

そういえば、ずいぶん「絵を描く」とか「ただ模型を作る」とか。
音楽にしても、工場作業のBGMとしてウォークマンをただ突っ込んではいましたが、じっくり「味わう」こともなかった。

「味わう」。
ただの行動、それそのものを、時間をかけて「味わう」。たのしむ。

余裕が完全にない、って話でした。
じゃあ余裕をどうやって生むか。
それは、テキスト打鍵からではないですよねー。

「じゃあどこから時間を捻出すればいいんだよー!」と、ウチの誰もがいいます。
やばい。
しかし、ふと気づきました。
「仕事のために日常や、休みがある」
のがこれまででしたが、これはない。
「日常のために、仕事がある」
こっちですよね。

調整すべきは仕事なんですよね。
あー(ぽっかり)
的な気づき度合いなんですが。
どうすればいいのか。「仕事」を前提にするんじゃなくて、「日常/休み」を前提にする。その意識転換こそをしなくてはならない。休みの最高率化を目指すんじゃなくて、仕事の最高率化でしょう。それすらも意識の内から度外視していた、っていうのは極まれりです。

 

●近視眼的

 

自分でも、そうなるんだなぁ、って思います。
それだけ、仕事をする社会人になったのか。病理から抜け出ることが出来たのか。それでも、こうやって極まってるだけ、なんか変だ。
ニートな自分が仕事www っていう、なんかおかしみはあるんですが。今はあの、ニートな日々のヒマさっていうのが、すごく懐かしい。

でも、円形脱毛症はないわ。
脱毛は別にいいですが、ストレスにこんだけ参ってる日常、ってのはあかん。
なにせ、それは「妖怪」ではない。そんな凡人な。
もっともっと、人間をやめよう。あ、ここで言う人間っていうのは、「仕事ストレスで狭く悩んでる、小さい奴」っていう意味です。そんなものに意味はない。

そう考えれば、まあこれは水木先生的な哲学ですが、鬼太郎の妖怪って、確実に「仕事ストレスで狭く悩んで」いない、ですよね。
尺度を、基準を、「仕事な日常」においていない。「個人の存在」に置いている。いや、違うな。「そいつがそいつであること」っていうことに置いている。個人、っていう近代概念とも又違うのだから。

あー個人がー、社会による搾取が-、ってなると、マルクス共産主義革命の方にいきますので、ここではここでやめます。はい。

エロゲ対談/読書会ブログ「止まり木の足りない部屋」補足情報ページ

※この記事は、feeさんと共同で運営している対談ブログ「止まり木の足りない部屋」を、より楽しんで頂くための、補足ページです。
このページは、残響が勝手に管理しています。

 

●「止まり木の足りない部屋」

止まり木の足りない部屋

(以前使用していたjugemブログから引っ越ししました)

feeさんと残響の対談ブログ。エロゲをプレイして、それを語り合ったり(基本、メインキャラルートを、1記事ずつディープに)、小説一冊を精読して「読書会」を行ったりする、対談形式のブログです。

 

feeさん……書評・エロゲレビュー・サッカー観戦ブログ「止まり木に羽根を休めて」管理人。

止まり木に羽根を休めて

エロゲー批評空間でも、御健筆を奮ってらっしゃいます。

feeさんのサマリー ErogameScape-エロゲー批評空間-

 

残響……この日記ブログや、「ホームページオブ百合機械」という百合趣味、模型趣味のwebサイトの管理人。

ホームページオブ百合機械

エロゲー批評空間でも、同名義で書いてる

残響さんのサマリー ErogameScape-エロゲー批評空間-

 

●これまでの対談の歴史

千夜一夜エロゲ対談」

……お互いの趣味嗜好や、好きなエロゲ、最近のエロゲ界隈の情勢についての語り合い。基本ノンテーマ

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SMEE「ラブラブル」対談

……イチャラブゲーが好きな残響が「これで対談やってみません?」と提案。シナリオ読みを重視するfeeさんと、イチャラブ/キャラゲーを重視する残響、お互いの立ち位置の「たのしい相違」は、この段階ですでに。また、対談読者の方からおたよりも頂きました。そのレスのひびきあいもどうぞ

 

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レイ・ブラッドベリ「太陽の黄金の林檎」読書会

SF短編集であるこの本を、全短編を語りつくします。残響はブラッドベリを「華氏451度」の「焚書ディストピア未来」というイメージで、「社会派なのかな」と勝手に推量していたのですが、ブラッドベリ・ファンのfeeさんに、その偏見を大いに打ち砕かれるものとなりました。

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レイ・ブラッドベリ火星年代記』読書会

同じくブラッドベリ。この連作短編集『火星年代記』は、feeさんのフェイバリットのひとつ。全作品を精読し、お互いの物語観や、宇宙の詩情について語り合う、「読書会」です。

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つよきす」対談

(1)「無印(1学期)」対談

シナリオライタータカヒロゼロ年代中ごろに出した、世間では「ツンデレゲーの傑作」とくくられている、「つよきす」。「たのしいゲームをしたい!青春の!」というfeeさんの希望でやってみたら、……「ツンデレゲー」というパブリックイメージとは、どんどん違うものがずるずる。むしろ「人間模様」と言ったほうがいいくらいの。

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(2)「三学期」対談

タカヒロきゃんでぃそふとを退社し、その後きゃんでぃそふとは、オリジナルスタッフでない布陣で、つよきすの続編を作ります。「二学期」はさておき、この「三学期」は、「さかき傘」というライターを招聘して制作された、かなりボリュームのある作品です。そして、この作品が、なかなか読ませるのです。タカヒロの精神を継承した、力の入った作品です。

 

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真剣で私に恋しなさい!!』対談

このみなとそふとタカヒロが起こした会社)の2009年の意欲作「まじこい」を巡っての対談が、今回完結したものです。若人の輝きとヤンキー性、タカヒロのキャラメイキングと、余計な作中ゲームバトル。そして、魅力的な群像劇。考えれば、ずいぶんタカヒロ(的なるもの)に、この対談で触れ続けてきました。

 

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(↓ Twitterモーメント)

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●そして次回は

 

Key「リトルバスターズ!(エクスタシー)」をやります。すでに実際のリアル対談は終了しており、現在ブログ記事に編集中です。お楽しみに!

 

また、対談へのおたよりは、いつでもお待ちしております!対談ブログのコメント欄や、Twitterなどでどうぞ。

第2回ごうつホビー祭りイベントレポート(2)島根県江津市、イベント内容

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 会場「パレットごうつ」の天井の開放感です

●チノハテ

 

島根県は東部と西部に分かれます。県庁所在地・松江や、出雲大社の出雲。これらが「東部」です。
西部は、港町「浜田」、森鴎外の故郷「津和野」、そして今回の舞台「江津(ごうつ)」です。

江の川を挟んで、主に工業都市な江津。有名ローカル鉄道「三江線」が去年廃線されてからも、近年は若い有志による地ビールの工場が建設されたり、とさまざまな試みが行われています……が。
が。

どうにも「この土地には目立ったものがない」というある種のフラストレーションにも似たものがあるようで。

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まずもって、この江津というのは、地理的に「東京から来るのに、一番不便」なところなのです。近くに空港もないし、新幹線の路線から物凄い距離がある。実際、自分(島根県東部在住)にしたって、第1回ごうつホビー祭りが開催されるまで、全然江津って行った事無かったですからね……その時点で推して知るべし、ではあります。

しかしそれ以上に問題なのは「たのしみ(ホビー)」のなさ。島根県のいろんなところに、「たのしみ(ホビー)」を抱えて、日々その探求に勤しんでいる人々がいる。しかし「発表の場」は、少ないです。

「ならば、自分たちで楽しい場(祭り)というのを、立ち上げてしまえば良いではないか!」というインディペンデントな思想が、理工クラブのHPからはビンビン伝わってきます。自分にしたって、この心意気でもって、第1回の参加を決めたようなものですから。

前回の記事で、このイベントが去年も、そして今年も「手作り感」のある自由な気風、と書いたのは、まずこの「地元に何もないな……よし、やろう!」というDIYの気概。そしてそれに賛同する作者(モデラ)たちの気概。及ばずながら自分も参加出展者としてその末席に加わらせていただいても良いかもしれませんが。
参加者の皆さん、多少はそういう「島根の鬱屈」がバックボーンに、うっすらとはいえ、ある程度はあるのかもしれない、と思う次第であります。

腐ることは簡単です。ネガ愚痴をたたくのも。でも、なかなかこういう風に「じゃあ何かをやろう!」という方向にはいかないものです。
まして、「自由の気風」と自分が感じられるほど、風通しの良いイベントたるや。そこのあたりは、理工クラブさんと地球堂さんが非常に努力されておられるのだなぁ、と思います。

閉鎖的な「サークル内イベント」であったり、「模型オタクのジャンル流儀マニアックイベント」ゴリ押しで、というのは、このごうつホビー祭りには、合わないと思うのです(念のため。そういうイベントを批判してるわけではありません)。
それよりもまずは「ホビーのたのしさを!」という思想。それに賛同し、もり立てていこう!という実際の行動、作品展示・企画による参加。それが今回の場合は、大事だったのです。

「たのしさ(ホビー)」とは、生きる意味そのものです。それを日々の仕事の中に見いだす人もいれば、日々の作品作りの中にライフワークとして見いだす人も居る。お好み次第です。
重要なのはそこから「熱」を得ることです。モチベとも言いますが。

 

●第2回ホビー祭り 企画内容


今回の催しものは以下のようなものでした。

 

・模型展示会(ノンジャンル・ノンスケール)
・工作スペース
ジオラマ制作教室(KATO)
鉄道模型試走(蔵模型)
・エアガン試射
・プログラミングロボ
プラ板制作
・ネイルアート
・バンド演奏・アニメ曲吹奏楽演奏
・物販(キットや完成品おもちゃや、模型関連書籍が買える)
・ラジコン試走
ぷよぷよを、プロゲーマーと対戦
・将棋やTVゲーム
アナログゲーム、カードゲーム対戦

次回からは、このそれぞれについてレポートをしていきます。

 

今回は前回に比べて、格段に規模が増えました。後述するように自分は半ばスタッフ側になったものですから(笑)、この全部を回りきる事は出来ませんでした。

しかしこれだけを招聘するのも、大変なことで。
どれもが「楽しんでいってください~」という雰囲気があったのでよかったのですが、一歩間違えれば、このゴチャ度合いはカオスですよね。

でもそこは、再三申している「風通しのよさ」があった。
それはイベントを無理に一つのマニア的方向に結ぼうとしない「自由の気風」があってこそ、だと思います。

このホビー祭りにランキングはありません。
別にランク上位にいくことがすべてではない……というか、そういう方面での「ガチ」さは今回ノーセンキュー、not for us(うちらのやり方とはちょっと違うよ)っていうだけです。

かといって、ストイックでない、というのは違う。皆さん作品作りと「この場を楽しもう!」という意識はストイックです。そして、もともと真のストイックとは、そういう「楽しみのためのストイック」であるはずだと思うのですよ。やっぱり。

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次回に続く……

第2回ごうつホビー祭りイベントレポート(1)今年も開催されました

このイベントレポート連載は、全部で7~8回くらいを予定しています。

 

 ●目次

 

(1) 
いまここ

(2) 

第2回ごうつホビー祭りイベントレポート(2)島根県江津市、イベント内容 - 残響の足りない部屋

●hobby is 何


「なるほど社会の為に働き、社会を護るのが人間の存在価値という貴様の主張は解った。そして質問させて欲しいが、では、社会の……我々の【何】を護るために働くのかね?」


「人は、パンのみにて生くるにあらず」

そんなことはある種の人々にとっては、考える間もなく当然なことなんですけどね。娯楽が、遊びが、「ホビー」がこそが、人間の生きる意味を、日々の仕事にいそしむ意味を形作る。マァそんな哲学は追々語るとして……。

●第2回ごうつホビー祭り

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去る2018年8月末に、「東京から最も単純移動時間がかかる町(教科書認定」こと島根県江津市の駅前「パレットごうつ」にて、二日間の「ホビー」の祭典、ごうつホビー祭りが今年も開催されました。
この催しは、地元の有志団体「江津理工クラブ」さんが、地元の商店や、各地の企業と連携をとって、去年2017年から行われているものです。不詳わたくし残響も、去年の第1回ごうつホビー祭りのイベントレポートを書きました

 

あれから1年。理工クラブの方々から「今年(第2回)もやります!」とオフレコで情報を頂いてから、わたくしもとてもたのしみにしていました。
第1回はとても手作り感と「自由の気風」溢れる、風通しの良いイベントでした。何もかもが手探りでしたが、予想を越える反響を得て(主催側が「ここまでとは!」と思うほど)、各々が手応えを感じていたと思われます。

わたし(筆者)にしたって、ずいぶん久しぶりに模型展示会に参加しました。しかも出展側で(同人CDは同人即売会で頒布の経験がありますが、模型の出展はなかったのです)。しかし、そんな「お初」であっても、とても良い経験・思い出を作らせていただいた、と思っております。

そんな自由の気風溢れるごうつホビー祭り。今回は規模を拡大しての催しです。去年の段階で、都市の企業がわざわざ江津まで来てくれました。また、工作スペースを会場に設けたり、ゲーム対戦を実際に会場で出来たり、と様々な企画がありました。


しかし今回はその規模をさらに拡大
「二日間開催」ということもそうですが、
ホビー関連参加/協賛企業の数の多さ(20企業はある)、
物販ブースの設置、ラジコン体験コーナー、プロゲーマーのさらなる招聘(この1年でどれだけeスポーツ関連の隆盛があったか)、
エアガン試射や、プラバン工作、プログラミングロボット工作、ネイルアートなどの企画。
ブラスバンドによる生演奏、地元バンドによるライヴ、
ココイチカレーやアイスクリーム屋、タコス屋といった屋台の常設……

などなど、「祭り」の規模をさらに拡大しての催しなのです、今回は。
実際、今回の集客は、前回よりも「さらに」よかったそうです。

 

前回は会場がパレットごうつの1階スペースに集中していたので、結構手狭な感じはありましたが(すし詰めほどではないものの)、今回は「熱気のある会場をゆったり回れる」くらいでありました(体感として)
どのブースも人が途切れることはなく、展示された力作の作品に多くの人が見入り、そして作品の作者、参加企業、スタッフ、来客の皆が「良かった」と充実した二日間を過ごせた催しだったと断言出来ます。
それは自分の古くからのネット友人である義実たかさんが、わざわざ遠方からこのホビー祭りに二日間来てくれて、以下のレポートを即座に書いてくれたことからもわかることです(まずはリンク先のこのレポートもお読みいただけたらと思います)

yoshimitaka.hatenablog.com


今回から連載するこの「第2回ごうつホビー祭りレポート」では、作品紹介や企画紹介をするとともに、その場に居合わせた「わたしたち」がどのように楽しんで、ホビー文化について考えていたか、を紹介していけたら、と思います。
というのも、参加した自分にしても、義実さんにしても。理工クラブの方々にしても、模型関連を取り仕切っていた地球堂模型さんや地球堂さん旧知のスタッフにしても。そして参加者からお聞きした言葉にしても……
たのしくお話している間で、時たま「自省的(省察的)」な言葉や「思想」を伺うことが出来たからです。

それは激しいものでも、反逆的なものでもない。もっと静かなもので……

「自分(たち)にとって、趣味(ホビー)とは何か」
「子供たち(後世)に対して、何を伝えていったらいいか」

という無言の省察をどこかで雰囲気感じていたのです。自分は。
そういう意味で、ずいぶん考えさせられることの多いイベントでありました。

今回のこの第二回ホビー祭りのオフレポがこんなに遅れたのは、そのいろんな考え・省察の整理に時間がかかってしまったから、というのがあります(すいません)。
ただ、もうそろそろ纏まった、というのがあり。また、いくつかのカテゴリにバラけさせて語ることにより、このホビー祭りがいかに「いろんな輝き」に溢れていたか、の総体的なレポになるかな、と考えて、今回こうして連載形式で書くことにしました。
とりあえずは、まずは写真をいくつか掲載しますね。(撮影許可は理工クラブさんに取ってあります)

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次回に続く……

暁け暮れ明星日記「本CDを売った」(第2回/全20回 9/24分)

●本やレコードを売った。

 一般人がびっくりするほど売った。オタクでさえも「え、それって残響さんという人間存在において、象徴的な作品だったじゃん」って証言するだろうものまで売った。

 なぜなら、その作品の数々に関しては、もう魂と血と肉に染みわたっている確信があるから。「血肉になった」という慣用表現は、正しい。自分の肉体を行き渡る血の水分のなかに、その作品は偏在している。脳内のシナプスに、その作品は宿っている。構成物質。

 管理が出来なくなった、という情けない理由もある。こうして本棚や倉庫から引っ張り出してみると、まあ出るわ出るわ(本とレコード)。「さっと耳クソを取るくらい」と思っていたのが、あれやこれやで、ちょっととんでもない量になった。これは耳クソの量ではない。

 そんだけのものを「死蔵」していたのだ、と考えると、ちょっと愕然とするものがある。自分は「大切」という感情に、かなりの「惰性」を交じりこませていた。

 別にミニマリストになるのではない。しかしミニマリストとやってることは変わらないか?でもいまだにある程度の本とレコードがある。これらは「血肉レベルで大切にしてはいるが、まだ現在進行形で養分を吸収する余地があり、自分をすぐに奮い立たせ勇気づけてくれるもの」である。ややこしい書き方をしているが、まだこれは、自分のなかで「伝説」になってはいないモノだ。。神格化ではない。今、自分と共に歩いている物だ。そういう物まで売ることはないだろう。

 

●かといって「創る」という義務は採用しない

 

 ときに、一部の人間はこういう風に、思い定まったら断捨離をする時があるらしい。少なくとも人間椅子・和嶋の自伝本でそういうエピソードを読んだ。

 あるいは、いつかこういう日が来るということも、自分は予想はしていた。自分を託していたものに、いつか別れを告げて、どこかへ旅立つ日だ。

 どこへ行く? 数日後に実はリアル旅行を控えているけど、それが「どこかへ旅立つ」という意味ではない。まだ少々は、このガランとしつつある部屋で、事を為すつもりだ。それは大いに作り「かけ」たり、大いに遊びまくるのだ。

「売った(別れを告げた)からには、創作せねば」の悲愴ではない。そんな、人質にナイフを突きつけるかのような「取り引きの創作」なんて、ロクなもんじゃない。人生は義務ではない。創作は義務ではない(もちろんこのブログ日記も義務ではない)

 そうじゃなくて、作り「かける」のだ。作品にせねば!と思って作品に取り掛かるのではない。遊びの延長線上として、「まあ作品として形作ってもいいかな」程度のものだ。

 「遊び」こそが、(あくまで)自分にとっては、根幹なのだ。

 

●遊び

 

 「自分の限界がどこまでかを知るために僕は生きてるわけじゃない」という歌があったり、「俺は俺を証明する必要なんてない!」という歌があったり。

 昔はその意味がわからなかった。

 今は分かる。

 限界を証明して、だから何なんだ。世界に自分を刻み込まなければ自分の価値はないってか? いいや、その類のマインドゲームには乗らない。わたしの価値にして神は、ダイヤブロックガンプラジャンクをガチャガチャいじって遊んでるこの(たなごころ=手のひら)の中にあるのだ。あるいは、掌動くときがまさに神の実在を感じるのだ。これはおれの神だ。あなたがたの神ではない。おれだけの神だ。わたしは、こいつ(掌の神)なら信じても良いと思う。ずいぶんこの神に、自分は冷や飯を食わせてきたけど、いまだにこいつは自分を見守っていてくれてるのだ。

 その掌の神が告げる。「世界ニンゲンいいね!レース」に不参加表明でもいいんじゃないか?と。少なくともこの両の手(掌)は、ブロックやジャンク、あるいは画材や楽器を使って、ひとつの「自分にとっては悪くないバイブスの、なんか楽し気なもの」を作ることが出来る。例えば、ガンプラジャンクとダイヤブロックを組み合わせたオブジェをつくる。それは、精密さでは遥かに有名モデラに及ばない。それでマネタイズが出来るわけでもない。

 しかし自分は、まずこの世にこういうオブジェを、ガチャガチャといじって遊んで、作ることが出来るのだった。そんで、気が向いたらそれを画材でイラスト、あるいはコラージュアートにしてみる。写真を撮ってさらにサンプリングコラージュしてみるのも良い。また、そのオブジェの「なんとなくこんな感じ」のイメージに合いそうなコードを、サンプラーで録音して、切り刻んでビートにして、MTRで曲を作ってみたりする。

 そうして、自分の「神話」が、少しだけ豊かになる。それで、良いのだと、思う。作品にせねばならない義務はない。自分がネットを介してその「神話」をひょいと置いてみるのは、ただ単純に自分が楽しいからであって、バズなんてどうでもよろしい。というか、ぶっちゃけるとこのオブジェを中心にした「神話」に関しては、どう考えても自分は他人に「見せてやってる」上から目線が凄い。他者には「見せてやってる」のだ。例外的に、うちの同人活動でイラスト描いてもらってる小西さんだけは、「これどうでしょう?」と意見を求める。もちろん、これは「創作者と創作者の神聖でたのしい意見交換」である。バズなんぞといっしょくたにしないでくれ。

 

●血肉の本、CD

随分、助かった。これらの血肉の作品のことを、忘れない。というか、このまま死蔵していたら、なんか惰性のままに「忘れて」しまいそうな気が物凄い。それは、違うだろう。だから、自分は手放すことに決めた。

あるいは、そういう手放しを、「いつかそれらの作品のレビュー書くときに困るよ」という向きもあるかもしれない。それは前は思っていた。だからため込んでいた。でも、もうそういう「資料を駆使して、誰かにツッコまれないような、技術と理屈のレビュー」はやめたんだ。自分が、その作品の「凄い読者/リスナー」であることも、手放したんだ。

 ただ自然に遊べばいい。あの時あの作品たちからもらった感情が今も自分の中に息づいていて(まちがいなく、いる)、それが何かこれからの「遊び」「創るかもしれない作品」に、形を変えて芽吹いていればいいな、と思う。誰かに知識量でマウント取るのが趣味の本質じゃないことは明らかだ。すげえ!と言われることでこの世に証をたてることは、すごーく歯ぎしりして疲れるっていうことに気が付いた。

暁け暮れ明星日記(全20回 第1回9/16分)

今日もPCやって目が痛い。ということで生存報告的な記事を書きますが、この「ということで」っていう接続語いるか?って話ですね。ああこうして余計な文章が出来ていく。
現時点でPCを40分くらいやってるので、あと活動限界5分くらいなので、がががーっと書きます。
 
Twitterをやっていないこと
 
主に最新のツイで書きましたが、まあSNS中毒ですね。これはいけない。このまま死んでしまってはいけない、そんな風な自分という人間はいけない。そんな風に死んでしまう自分が許せない。許せないっちゅーかなんかな。自分は猛烈に後悔&イヤな気分になるだろうな、って話。臨終のとき
 
また最近臨終のことばっかり考えていますが、もともと自分は35歳で死ぬと考えていました。自殺か衰弱かはともかく(比率としては自:弱=3:7かなぁと)、まぁ自分に与えられた所与の魂継続時間は35年くらいだろうな、と
それは自分の投薬とこれまでの病気によるダメージ蓄積がかなりスゴイので、肉体が虚弱になってってるということ。
それと、2008年から2012末冬-13年新年あたりまで、ほぼ1/2日の確率でずーっと「宇宙曼荼羅直結幻覚」を就寝時に見ていた、というのがあったからですね。あの宇宙曼荼羅はいかんよ。あれを受け続けたら、見続けたら、人生観変わるよ。死生観か。「もう【死の苦しみ】より強大な苦痛を、こんだけの期間受け続けた(しかも発生条件はダイス振る感じ)」というのが、自分の死生観を決定してしまって、そこから逆算して「自分の死の価値」「現世に存在している自分の価値」「現世でやりたいこと」を決定してって、その決定が「今何をすべきか」「今なにをして、後悔せん人生になりうるか」っていうことを考え続けてるのだと思う。実際に行動をやりまくってるのだと思う。だから、これもこれで、一応自分の人生を「ちゃんとたのしもう、やりたいことはやろう」っていう表れのポジなんだろうなと思う。
それが、こんだけ虚弱体質でも、一応「リアル行動」「創作活動」をやってってる理由ですね
 
で、まあSNS中毒なわけです。これはいけない。自分の人生で「猛烈にやりたいたのしみ」のなかに、Twitterというのはちょっと違うわけです。
だのに、ついやってしまう。これを中毒と言わずして。
ついツイをやると、ちょっとだけ何かを忘れることが出来るんですね。ちょっとだけ呟いて、それで何かをしたような気になる。
自分のやりたいことは、創作HP運営、オリジナル創作神話の構築だったろう……という
 
●文章下手だね
 
これはまた記事を改めて、日を改めて書きますが、自分えろすけ(批評空間)に投稿しといた「駄作」の感想を読み返したんですよ(そういうタイトルのグロゲーがあるのです)
ところどころで、「へー、おもろいことを書いてるな、あくまでfor me(おれにとって)な感じではあるが」とポジなことを想えて、あー「おれはへただへただ」の悔恨ばっかりでもないんだな、と思えたのは良いのですが、しかしあれだ。それとは別に、文章の構造力というか、論理的メッセジ伝達力が、あまりに希薄で。怪文書を並べ立てて口上カマしてるよなもんですから、あの文章。だから自分にとって意味はあるが、他の人にとってはなぁ
 
●しかしヘンリーダーガー
 
でもこの「他人を意識する」っていうのを、今排除したいがゆえに、SNSを遮断したのも事実。よってヘンリーダーガー的な創作ライフスタイルをどこかでロールモデル理想としてる自分もいる
 
※ヘンリーダーガー:ものすっごい量の妄想小説とその挿絵コラージュアートを描きまくったけど、どこにも誰にも発表せんだったから世間的には無名だった「非現実の王国で」という長大な妄想の作者。前世紀のアメリカのひと。
 
結局「オリジナル神話の構築」であって、それは他者が褒める認証する、っていうのが前提ではなく、それによって価値が決められるもんでもない。自分が構築する、自分が手で作るいままさにこの瞬間(と、構築物)こそが、自分にとっての価値なんだと。その価値だけでいいのだと。
というか価値っていう概念自体が、「他者」という存在をそもそも前提にしている。「うわおれ、いまめっちゃ気分ええわぁ、たのしいわぁ」だけで十分ではないかと。そこにおいて「他者」は前提的必要必須ではないのだし。
 
●PCやって目が痛い
 
そんなわけで5分。今日はTwitter小説の更新をやって、しかしTwitter小説を投げるだけで、纏めてはいません。
あ、この「Twitter小説更新」はSNSではないです。あのSNSっていうのは、「残響さん」としてなんか「わかってくれよぅ、自分の日常をよぅ」という感じで流すようなのです。この「Twitter小説更新」はどう考えても「路上ライヴパフォーマンス」です。「口上(ことばあそび)の文芸」を自分の創作の母胎のひとつとしているからには、このライヴパフォーマンスはやはり定期的にやっていきたい。そこに本質は、確実にあるし、Twitter小説をやってるってことは、ライヴで創作をしてることだから
(オフラインで創作をする価値はいささかも減じていない)
 
ただ、虚弱になったから、目は痛い。電磁波はくる。pcから。これがとてもつらい。だからPCは45分ワンセット、で休憩、っていうのが一連の流れ。
ここまで一気に書きました。
 
この日記は、生存報告と、自分(残響)がやってることの更新としてやっています