残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

ぎっくり腰 Now on the time

ぎっくり腰をやらかしました。痛さレベルは、「強! …の範囲だけど、いちおう下層レベル」です。少なくとも数日立ち上がれない「ハイパーレベル激痛」ではこざいません所が、これ幸いです

冷え、仕事ストレス、肉体仕事で長時間コンクリ立ち仕事…とかがいけません。また、そういったもろもろの要因を、軽く見ていたのも、日常緊張感の足りなさを表しています。たるんでました。

知人各位方面の皆さん、連絡レスが遅れていてすいません。そういうわけ(ぎっくり)なので、ちょっと療養してのち、復活しだい、もろもろ再開します。

趣味外国語、記念すべき10カ国語めにアラビア語に入門したら全く歯が立たないがそれでもリアンナハー・ルガ・ジャミーラ・ワムムティア

最後の呪文は「なぜなら、それ(アラビア語)は美しくて楽しい言語だからです」という意味なので、一応記事タイトルは意味が繋がってます

 

いろんな外国語に手を出す趣味が1年以上続いています。昨年末、某所で「来年はアラビア語タイ語に手を出してみたいんですよね~」と発言して、その通りにアラビア語です。

これまで手を出した言語ですが、改めて列挙さすれば、

 

・英語(現在、講座に通って暗唱稽古中。海外の模型メーカの欠品にメール質問するくらいは書ける)

・ドイツ語(大学時代基礎はしっかり叩き込まれましたので冠詞や前置詞移動は大丈夫ですが、単語力がボロい)

スペイン語(大学時代、わりとライトにやったので、基礎が怪しすぎる)

ポルトガル語(近年、我が町に来日ブラジル人労働者(ブラジルポルトガル語話者)が増えてるので、この言語やっとけば将来わたくし食いっぱぐれるこたぁないんじゃね的なスケベ心で始めた。いま、英語に次ぐ2番手の熱量)

・フランス語(大学時代、手を出さなかったので、長い間引け目を感じていたけど、いーかげん一念発起してはじめた。なんだ略記法にビビらなかったら馴染みやすいやん)

・中国語(大学時代の専門が漢文だったので、イージーモードいけるか?とスケベ心出したら、まぁインチキ適当ピジンならまだしも、ガチ運用においては全然ダメだぞ、という典型的パターンを味わってる)

エスペラント語(悪かったな純百合ADVことのはアムリラート並びにいつかのメモラージョだよ)

・ロシア語(さすがに、八卦電影城の艦これ同人誌「ヴェールヌィのロシア語講座」はクリアするくらいは)

・フィリピノ語(フィリピン共用語。まだVSO構造、つまり動詞を冒頭に持ってくる文法基礎を体に叩きこみきれてない)

 

ということで、なんだかんだでこれまで9カ国語つまみ食いしてきました。以前、町のカルチャーセンターでフィンランド語講座にも顔を出したことがありますが、「文法把握&単語暗記」を心がけるくらいにはやってないですし、これはノーカウント。会話練習で、わたくしアレンジして「ケーキ2個(勝手フィンランド語)」って作ってみたら、「フィンランド語では、それは、うんこ2個になります…(日本語)」と言語学習の奇跡(悪夢)が起こったときは講師に平謝りでしたね

 

てなわけで、記念すべき、10カ国語めです。アラビア語。わくわくして「例文で学ぶアラビア語単語集」を開いてみました。元旦に町の本屋で買いました。その本屋にはこれしか売ってなかったのです。

 

「わ、わからねぇ……何もかもがわからねぇ……」

 

まず、アラビア語の文法のまえに、アラビア文字(アラビア・アルファベット)が皆目わからねぇ、って話です。そりゃ、アラビック・ポップス音楽や、近年のヨーロッパアラブ移民コミュニティ音楽も聞くことありますから、アラビア文字読めといた方がいいかなー、とは思っていました。

しかし、難易度が高い。今まで全く知らなかった文字です。だってこの国こと極東エキゾチックジャパーンでは、アラビア語の扱いって、ほとんど漫画の絵文字みたいなマイナーじゃないですか。日常、目にする機会がない。

なんというか、いざアラビア文字を理解しようとすると、その難易度に「うげげっ」って感じがする。脳がエマージェンシーを放つ。そのあたり、ハングル文字やキリル文字は、意味がわからねど、まだ「慣れて」いたんだなぁ、と改めて思いました。また、フィリピノ語も、表記はローマ字アルファベットなので、この「うげげっ」はなかったんですよ

しかし……だからこそ、この「未知の知」に惹かれます。この難しくも魅惑的なアラビア文字に親しむことから始まります。なので、まずは文法よりも以前に、アラビア文字の習字ですね。アラビア・アルファベットを筆写です。それから、中2病を使って、アラビア語の「音」に親しみましょう。イスラム原子論では「もはやそれ以上分割できない存在」を、Juz' la yatajazza'uと呼ぶ……!(これほど語学初心者にいらない知識もないですね)

さて、そんな具合でアラビア文字を覚えていきますが、おお、覚えたら母音と子音の組み合わせでかなりいろんな音を再現できる…!?やったぜ!

…と思ったら、「正書法では母音を省略します。文意から母音を判断します」とのこと。おーいそれって「イタリア人の大人はパスタ食べるにスプーンなんぞ使わんよシニョリータ」的な話やんか。大丈夫かアラビア語学習。(やがてつづく)

 

 

The Times They are A-changin’--仰木日向「作曲少女2」

(なるべくネタバレなしの感想)

www.ymm.co.jp

「作曲少女」「作詞少女」(作曲少女シリーズ)は「作曲入門ラノベ」と銘打ってるだけあって、「実際に作曲をしてみて初めて珠美の言ってる意味が肉体でわかる」という書物です。今ここまで打鍵してみたけど、なんかいやらしい響きがないですか。肉体でわかるって書いてるからあかんのですか。いけませんね。

そう、実際に「手を動かして、耳を澄ませて、実際に作曲」してみて初めてこの本は意味を為す類の本です。読んで「あーわかるわかる」とだけ言ってたら定価1600円プラス増税10%を自らの懐から出した意味はないのです。そればかりかいろはと珠美の会話の真摯さに対してゴロ寝屁するようなものです。だからわたしはやはりこの本を一度通読して、即座にギターを持ってスケール運指を今一度はじめましたさ、このクソ忙しい師走だというに!(とりあえずリフ(小さなメロディ反復)は2個くらい出来た)
なので今回は百合カプ観測の話はやめましょう。コンプレックスを抱える先輩後輩百合の話もやめましょう(したいんか……)。とにかく作曲少女2の話です。


しかし我ながらAmazon着弾と同時に昼休みに読んで、仕事終わって即座にこの文書を打鍵しているのもどうかと思う。が、それだけの熱のある物語で、それはひとえにうぐいす(新キャラ後輩)のコンプレックス……

創作において、人生において、自分の好きなものが無いという人はどうすればいいんですか

というものです。これが強烈です。え、うぐいすたんアナタ楽器吹けるやん、というツッコミには、万葉集1837読み人知らず「山の際にうぐいす鳴きてうち靡く春と思へど雪降りしきぬ」と返しましょう。(意:うぐいす鳴いちょるから春? まさか!あの子の心は降りしきる雪なのよっ!)(誤訳系超意訳)


うぐいすちゃんは相当音楽の知識と技能を持っているけど、オリジナルの発想と、創作物がない、ということがコンプレックスで、さらに「自分の好きなものは何なんだ……ひょっとしたら皆目無いのではないか!?そんな自分は世界に存在価値が……ッ!」と堂々巡りで思い悩んで、このままだと演ってるクラリネットもgo to hellな勢いになりかねない少女でありました。
そこで「その気持ちわかる」「ていうか自分もそうだった」という共感でもってのいろは先輩。しかし直接的に導くことも「嘘だっ!」とわかるだけのコンプレックスを今まで地味に抱えてきたいろはさん。音楽オリジナリティコンプレックスには作曲するしかない、とわかっていながらも、それは水嫌いチャイルドを海に叩き込んで浮かんでこい系のスパルタDVです。「効果がないとはいわんけどさ超リスキー、っていうか自分のメサイアコンプレックス(救ってあげたい症候群)のマスタベイションに近いぜ」ですね。
そこのところで、実際いろは先輩がうぐいす後輩にそっと寄り添ってあげた話は、ネタバレなしのこの感想なので、伏せます。でもこのくだりは、自分は「納得」しましたね。そして自分がこういう「寄り添い」のこころに非常に欠けている人間なのに今こうして打鍵していてほとほとうんざりしますね。人の心(後述)。

サブタイ「転調を知って世界が変わる私たちの話」ですが、本作のモチーフはそのままズバリ「転調による楽曲の色彩感覚の変化」ですし、「あの創作できずに息苦しかった私たちの世界が、作曲によって確かに変わったんだ」という話です。
作曲少女シリーズ……というか仰木日向という文章家は、どうにもこの「コンプレックスによる息苦しさ」というものから目をそむけません。それは仰木氏自身がまさに体験してきた負の経験があってからこそ言える説得力の血です。このあたり、「作詞少女」が作品全体でもって斬りつけてくるリアルさがあります。屈折していなければ書けない内容です。本作「2」にしても同じで、うぐいすちゃんの屈託、屈折は、「自分には何もないのではないか?」という痛切な疑念を抱いた人間にしか描けない感情があります。
超単細胞バカは、「その屈折、屈託があるから、素晴らしい芸術が描けるんだヨ!」とノータイムで放言しますが、一発My bloddy Valentineのユーメイドミーリアライズのライヴ轟音パートを耳栓せずに聞いてしんどけ。この虚無感、形がないのにこの「息苦しさ」。これが延々続くのか自分の人生。コンプレックスを抱え続けて苦しいというコンプレックスがずっと続くのか。報わることない労苦背負い日陰に佇むこの私が、天駆ける日は来るだろうか!しくじりばかりのこの私に、満ち足りる日は来るだろか!私の命に光を、私の明日に光を!シャバダバディア!シャバダバディア!シャバダバディア!ババッブッブー!

www.youtube.com

中野サンプラザでのyoutubeライヴ配信全部リアタイ見ましたよ。めちゃくちゃよかった……)

 

 

自由になりたい。
このコンプレックスから。手足塞がれたよなこの芋虫みたいな無創作のこの生から。違った世界を見たいのだ、命に灯りをともしたいのだ。自由に表現活動をしたいのだ。
それは「楽に」表現したい、というのではない。
この自分の屈託、屈折、欠落、欠損から目を離さず、あの日の自分を見捨てず裏切らず、その上で自分という人間存在を救ってやりたいのだ。
その答えは自分の中にしかない。人間椅子の和嶋も「深淵」で言っているではないか--「私の喜びがあるのは苦しみのゆえ」と。そしてその意味は自分で苦しんで自分で喜びを掴んで初めて意味がある幸せなんだと。

珠美「あたしの言うことをすべては真に受けるなよ、いろは。あたしの言ってることは、あたしにしか意味がなかったりするんだ。あたしにとってあたしの言葉は全部真に迫るものだけど、実はこれはいろはにとってもそうというわけではない。(中略)それはね、『体験』の有無なんだ。あたしは全部のことを体験してきて、ひしひしと思い知ってきたから、今までみたいなことを頭の中でまとめてきたし、いろはにも言ってきた。けど、体験がない人にとってそれは単なる「よく出来た理屈」であって、自分で使える哲学ではないんだ」(※作曲少女「1」より)

だから珠美は「自ら手を動かして作曲した」いろはに言い、読者にも「自ら手を動かして作曲する」ことを迫る。そうでない読者にとっては、このラノベは「ナイスな楽理×ラノベフュージョンだね」って話です。そんなものが何になる。地上波バラエティ番組のあとの22:55天気予報BGM商業フュージョンか。そうじゃない。「自分の息苦しい世界を変えたい」んだ。他人の世界を変えうるかどうかなんて考えちゃいない。まず自分を救いたいんだ。

必要なのは変えたいという意志、そして「音楽にとって本質でない義務じみた小手先の努力」を回避し、「自分が作曲出来るにあたって必要なちょっとした技術」を最低限学ぶ。その上で、何か表現したいものがあったらラッキーだし、なくてもその「ちょっとした技術」をいじくったり。そしたら何かメロディが生まれるかもしれない。自分がメロディを生むという作業に拒否感がなかったら。(そう、「小手先の義務」を排すのはこのためである。自分もMIDIを書くのを作曲入門初期段階から今まで拒否ったのは……まぁそれで同人CD5枚作れたけど、やっぱMIDI完全なしはキツいかなぁ(汗))
実際、うぐいすは吹奏楽で学んだ知識を、見事に援用してみせた。でもそれも、自分がメロディを作れたんだ!という心からの喜び、心からの自分だけのメロディあってのことです。こうなるとあとは早い。世界にはいろんな「素材」が転がっている。
「お勉強(の強制)」では見えてこなかった、いろんな音の素材……世界は素材だらけだ……
自然の音(アンビエント・フィールドレコーディング)、
工場の音(インダストリアル・メタル)。
肉体の音(声、ダンス、ハンドクラップ)、
楽器の音(あらゆるクラシック楽器、民族楽器、エレキ楽器……)、
パソコンから出る音(MIDIDAWプラグイン)、
生活の音(目覚ましアラームのサンプリング、電子レンジの以下略)、
そして魂そのものが放っている意志……(屈託、屈折、欠落、欠損の叫び……スクリーム、轟音ノイズ、シャウト!)

 

詩文「……本当は、お前と話したいことはまだまだいっぱいあるんだけどな。星の話、海の話、貝殻の話、音楽の話、絵の話。歴史の話。踊りの話、人間の話。神様の話。自然の話。宇宙の話。……けど、ここが潮時だ」

悠「もっと聞かせてよ、そういう話」

詩文「ん?……あはは、それはさ、いつかお前がアタシに聞かせてくれよ。どんな話でもいいからさ」
(作詞少女より)

 


ああ……そうだよなぁ。聞いてくれる人がいるっていうのは奇跡でありありがたいことだよなぁ。この文章は、自分に作曲少女を勧めてくれた人に書いてるものだし、そんな人に対し、ちょっと前に自分は冷めた態度をとってしまったと思っている。そして、その人の友達にもこないだ、自分はバツの悪いタイミングでメサイアコンプレックスのひどいメールを書いているのだ。
時たま、自分が「創作する価値なんてない創作者」だと思うときがある。ふいに差し込んでくる冷や水はまるで冬の空気のように。
自分がやるべきは、まず謝ることなのだ。創作することではない……だから珠美も、最初にまず「自分の制作机を自分の好きなもので埋めるんだ」という極めて「人間として正しい」……「楽しさ」の話をしていたではないか。
そこに天才も凡人もない。少女たちは喫茶店「バードランド」で楽しき作曲を語る。「バード」ことチャーリー・パーカーは天才的に吹きまくって、自分のあだ名がジャズの聖地的なライヴハウスになってしまった(N.Yマンハッタンの「バードランド」)。バードの人生が美しすぎる……なんてこたぁないのは、奴が静脈にテメェで打った麻薬劇薬鎮痛剤覚醒剤の量を勘定するだけでたくさんだ。でも、奴が即興--アドリブ--で刹那に作曲しまくったあまりの輝きは、バード自身をも救っていた。でなければ、チャーリー・パーカーのダイヤル盤の、あの自然で闊達で天を地を高速で飛天滑空する「アレ」はなんだというのだ。


そう、作曲そのものに、天才も凡人もない。「良い作曲で、良い人生を」。アンタの作曲は誰かの人生に奉仕するためにあるんじゃない。思い上がるな。でも、自分が作曲して自分を楽しませることには意味がある。わたしが意味があるっていったらわたしには意味があるんだったら。

そうしてこの小説の中で、少女たちの世界は確かに変わったわけです。よかったね、と言うのだったら、次は自分を良くしてみよう。彼女たちが望むことがあるとしたら、多分そういうことだから、と思うのでありました。さぁ、Reason立ち上げてギター弾いてみよう。Reasonに課金バージョンアップするのはもっと後あと……(ぉぃ)。

 

いろは「こんな風に、気持ちをかたちにして、それを伝える方法がわかった今、もう足りないものなんて何もないから。(中略)今この瞬間だけでも、もう私には出来すぎだって思うから。」(作曲少女2より)

 

2019/12/15あたりの日記

redselrla.hatenadiary.jp

こつこつと、箱庭ホムペや、設定タグ整理ブログを更新していきたいですね。いきがいを大事に

 

ツイッターのアカウントを消すまで、あと8日ですね。DM確認のためにちょろっと見ることはあります。でも、12/23の消去日以降は、ツイッターもDMも使えなくなります。

 

仕事は相変わらず忙しいです。最近は機械の不調でキーッ

生活スタイルの変更が必須になりました。

夜はほとんどなんもせず、ほんとにさっさと寝て体力を回復し、朝、出勤前に「趣味をしっかりやる!」という生活スタイルでないと、「趣味、創作を行うことすら」出来ない、というありさまです。情けない。こりゃSNSをやる暇はどこにもありませんわ

それでも、10年ツイッターをやって、自分も言の葉を重ねてきたわけです。アカウントを消すまでに、ログをローカルに保存しておいて(エクスポート)、今一度この10年の言の葉を読み返して、再び思考し、ヒントを得る、というのは、とても意味のある行為だと思うのです。惰性でSNSをやることよりも、もっとずっと。