残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

2020年のラストリグレッツ

うぐぅ

 

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いやぁ、「なぜこのタイミングで!??!1?」と、本気で目の前の時空が「ぐにゃり」と歪みましたね。マジで文脈がわからない。まだシスタープリンセスVtuberの方が文脈性というものがあるような気がする

フーム1999年からもうすでに21年ですか。あの頃現役だったゲーマーの年齢に+21歳を重ねるのがファクトフルネスですか。まいっちんぐ

しかしここまで時間性をブッチぎられると、このダッフルコート羽リュックのデザインに、普遍性というものを感じてきてしまいます。

とはいえ、やはり思いますね。「今はいったい何年だッ?!」

本棚の無い家、優しさの無い読書人

●本棚の無い家の知的レベルとかいう話のむずむず

しばしばSNSで「知的下層階級の家には本棚が無い」という物言いがされている。
その例え話を扱う手つき・視線に、ときたま
「自分の家はそうではなかった」「そして今の自分は、昔に増して自己をアップデートしている」
と言わんばかりの自負を感じる、時がある。

ここに人々の断絶を見る。

昔は自分も、「本棚が無い」類の人を「えーっ」と眺める類であった。
だが今は、「本棚が無い」に成るに至った人達・家族たちの、記述されにくい物語、人生というものを、純粋に考えるようになった。
少なくとも、いまの自分にとっては、世間にある小説より、そういった「記述されにくい人生の物語」に重みを感じるようになった。
なぜなら、「記述されにくい人生の物語」の無数の集積の上に、自分が成り立っている、と、痛切に思う34歳の今だからだ。
だからこそ、記述されにくいそいつらの人生物語は「重みもなく意味もない」、と暗黙のうちに持っている手つき・視線に対して、妙なむずむずを感じてしまう。

 

●たまたま(偶然)

自分が今、本を読んでいるのは、たまたま中学生の時に「暗殺者 村雨龍」という現代チャンバラバトル大衆小説を「なんとなく」読んで、「活字情報から脳内映像を立ち上げることが出来るのだ」という事を、「たまたま」覚えたから、というだけに過ぎない、と思っている。
父母の仕事関連の書類棚と、大衆小説の文庫本棚以外の本棚には、埃が溜っていた少年時代を思い出す。

たまたま生まれ、たまたま出逢い、たまたま勝って負けて、必ず死んでいくのである。
どこぞの誰かが、「そのように成った」ことに対し、確固たる強靭な理由がバチコン屹立存在している、と思いすぎるのはどうかしら。むしろその「たまたま」というサイコロダイス・ローリング的偶然性そのものこそが「確固で強靭」である、と考えた方が、まだ優しくなれるのではないかと思う。

だから「知的下層階級の家には本棚がない」というリツイート(RT)が流れてくるのも「たまたま」であれば、その知的下層階級を目にした人々が「えーっ」と嘆き、何らかの留飲を下げるのも「たまたま」であろう。
しかしどの「たまたま」にも、優しさというものはない。

つまり優しさとは作るものなのである。そりゃあ人間、本日「たまたま」気分が良いから、少し優しくしてやっても良い、っていう状況のが多いってことは知っている。
だけど、「気分が良い」状態に自分をセッティングしていこう、となるべく努力することは、出来ないわけでもない。そしてそのセッティング努力こそが、「優しさを作る」ことそのものなのである。

たまたま自分が本を読んでいる、ただそれだけのことで驕るようなら、活字を活かすことがついぞ無かったわけで。
そういう読書にはたして、文字数ほどの意味があるのかどうか怪しい。
少なくとも、その読書のあと、ポーッと忘れられてるものがかなりありそうな気がしている。

 

●愚かな速読

最近、自分の日本語読書が異様に早くなってきている。とくに新書はひどい。45分以内に1冊読めてしまっているのが酷い。何が酷いって、ジュースのごとくゴクゴク飲むようにして「あーっ知的に気分ええわぁ」と思って、独り静かにその本の内容を熟考していない、っていうファッキン・イージーゴーイング態度こそが問題なのだ。
むしろ今、模型をいじっている時、ヤスリをかけたり、塗装をしている時の方が、遥かに「読書をしている」感覚を覚えている妙さである。正確にいえば、手を動かしている時、独り静かに熟考している。自分との対話をしている。そうか、模型工作とは読書だったのか。

 

●小説を読むのが苦痛なのと、外国語読書の遅さの優しさめいたもの

もうひとつ、本について言えば、最近、日本語の小説(物語)がとみに読めなくなった。日本語の文字列からイメージされる「画」が爆裂しすぎるのである。ジュブナイルポルノ(ライトエロラノベ)の冒頭部分で、

「午後の光差し込む校舎で生徒たちがざわついている」

たったそれだけの場面を、脳内CADソフトをフル稼働させて校舎や生徒たちを脳内3Dモデリング・デザインして、動かす必要がある。光の加減を脳内フォトショップでレイヤーかける必要がある。そんな風に「画」が爆裂しすぎて、小説が読めない。このあたり、むしろ「むつかしい思考を述べるのみ」の純文学の方がまだ読める可能性はワンチャンあるほどなのが酷い。

小説という、「文」のみの「芸」術の極みに対して、敗北感すら覚えている昨今。これはマズいなー、と思っている。
その一方で、外国語で小説をたまに読むようにしているのだけど、こっちの方がストレスが少ない。なにせ、どうせ読めない外国語なのだから、ゆっくり読まざるを得ない。意味の解らない単語に出会うなんて毎ページ単位である。
しかし、少なくともこの外国語読みは、本に対して「優しい」読み方である、と自己認識している。

ジャンル時流に乗るのを切っちまうのと、これまで伸びまくったジャンル世界樹が今ますます爆発する34歳の話

どんな表現分野でも、表現ジャンルでも、その時代ごとに「トレンド」とか「ブーム」とか「今イケてる奴ら」とか、そこから派生して「次来るのはこいつらだッ!」っていうのがあるじゃないですか。トレンド競争っていうか●●を好きな俺スゲー的な。差異化ゲームっていうむつかしい言葉もありましたね。
自分は十代後半のあたりから音楽を聞き出して、なんだかんだで15年余り、いまだに音楽が好きなので、この文章では「音楽」で各種の例示をしますが、もちろんこれは読者の皆さんのお好きな表現分野、表現ジャンルで当てはめてみてくださいね。少なくともこの文章を読もうと思われた方は、それくらいの読み取りはできるくらいの屈託は持ってるはずだ。

●この2年くらいのシーンの大雑把すぎる概観

例えば2018~2020年あたりの音楽の超大雑把な流れとして、
・音圧競争がひと段落したかと思ったら、欧米EDMやトラップ系の超低音志向の影響を受けて、まだまだハイファイに磨き上げる方向の音作り
・ロックは「超絶技巧テクニカル」がもう通常になって、その上にまたも異種混合になっていって、ブラックミュージックのリズムとフロウの感じを歌謡曲性と矛盾しないように導入
・リスナーに対する歌詞やバンドのアティチュードの「煽り方」も「露悪自意識」一辺倒は終わった
・ボカロが古典
凛として時雨以降の変拍子バキバキプログレちっくなのは、むしろアニソンの方に伸びていったか
・シティポップとディスコ再解釈は完全に定着した。
ナンバーガールが古典
・コライトが通常になったけど、じゃあ音楽業界界隈以外で「これがコライトの典型的代表曲だッ」と言えるものってあるんかいな

参考音源としてなんとなくこれを貼ってみます


【まちカドまぞく】オープニングテーマ「町かどタンジェント」&エンディングテーマ「よいまちカンターレ」試聴動画


などなど簡単に概観してみて、まとめて簡単に言うと
「音の詰め込みや超絶技巧、普通になったよね」=「全体的に今の音楽、難しいのが当たり前になった」
→「だからカウンターとして時代の雰囲気をうまく取り込みつつのシンプルなリフ重視歌謡ロックが出てきてる」

っていう風に「自分には」みえています。このあたり概観な上に、偏見的な音楽史観によるものなので、ツッコミ大歓迎。とくにメタルのオリエンタル和要素の取り入れっていうのはGYZEの4thあたりで、ほーうなるほどそっちに進んでいってるなぁ、というのは把握していますが、まだバリエーションを追いきれていなくて。

で、自分はこのちょっと前の超絶技巧派(UNISON SQUARE GARDENを想像してみてください)の方向も、2020年のカウンター的シンプル派(ザ・リーサルウェポンズを想像してみてください)の、どっち側に着くんだ、って話ですが……


UNISON SQUARE GARDEN「Phantom Joke」ショートver.


ザ・リーサルウェポンズ『プータロー』 THE LETHAL WEAPONS - Pooh The Law [EngSub]

はっきり言いまして「その、どっち?! っていう図式そのものに乗りたくない」っていうのがあります。ユニゾンもポンズもどちらも今自分はヘビロテしています。ポンズの「E.P.」は聴けば聞くほどハマりが激しいですし、ユニゾンが先日発表した8thなんて、音楽性の情報がほとんどないにも関わらず、今から「これが出るまでしねん!」と思っていますよ

●時流(シーンのトレンド)のへの意識、そして斬鉄剣

例えばビリー・アイリッシュがどうこうとか、King Gnuがどうこうとか、ヒゲダンがどうこうとか、ミュージシャン個別の「音楽解釈」については、やはり聞き込んで、自分の中で「なるほど」と思いたいです。というわけでこれからKing Gnuの「CEREMONY」をPCにインポートしたので聞くわけなんです。そのチョイスの理由ですが、「うーん、【飛行艇】のリフはイケてますよ」「勢喜遊のドラムのグルーヴのドタドタさってやっぱ独特ですよ」ってあたりの小さいものですが、そういう小さいきっかけを大事にしていきたいと思っています。


King Gnu - 飛行艇


その一方でいわゆる「時代のアイコン」みたいな、時流ありき、トレンドありきの聞き方っていうのを、もう本当に「切っていいや」と確信してしまったというのがあります。

なぜ時流を切っていいや、と思えるようになったかというと、まぁそんだけ歳を重ねてしまったんですね。とくに自分の音楽の聴き方が、かなり「時代を遡って、その時代の総体を想像しながら」の聴き方だったんですね。5~60年代のハードバップ、モード系のジャズ(そして70年代のフュージョン以降で分裂)というのとか、80年代のニューウェイブに対する「オルタナ」勃興、とか。NRG系、ユーロビートの日本歌謡融合からトランスに移る過程とか、まあそういう風に「時代を概観しながら聞いてきた」というのはあります。

だから今、の時代においても「時流(シーンのトレンド)」をある程度は意識していました。少なくとも、トレンドに浮かんだからといって、「ただそれだけで嫌ッ!」というあまりに‌スカンピンな脆弱な理由で、自分の音楽の可能性を封じたくなかったですし、老害にもなりたくはなかった。
で、その結果、努力してシーンを多少は見よう、としましたが……その「シーン概観」単位では、自分としては実りの率が少なかった、と言わざるを得なく。

自分のやり方がマズい、っていうのはあるんですよ。
「あ、このバンドいい!」→「仲良しのこのバンドもいいっ!」→「うわ、そうかと思ってたらこんなところにもマブいバンドが!」→「このシーン最高ッッ!」
っていうのが健全で自然な流れです。「そういう流れ」が自分のなかで自然に起こらない限り、やっぱそれは無理してるんですよ。
実際、自分が知ってる音楽ファンでも、
「ここしばらく新しいミュージシャン発掘していないな……」→「なんとなく最近のとあるバンドを聞いてみる」→「ウォーッ!ウォーッ!うぉーーーっ!(再燃)」
っていうパターンをよく見るようになりました。

おお、自分も最近の音楽についていけないようになったオッサンになったか、と思うのですが、どうなのだろう?ちょっとそれを断じるにはまだ早いような気がする。なぜなら、


●自分のこれまでの音楽世界樹の爆発に忙しい

なぜなら、

  • 「これまで聞いてきたバンドのソロプロジェクトとか、新作とか、過去ライブ音源とかをさらに味わうので忙しい(自分はユニゾン(田渕ケバブス&斎藤さんXIIXや、ナンバガ向井秀徳田渕ひさ子、がそのパターン)」
  • 「最近ハマったバンドが影響を受けていて、自分がこれまであんまり手を出してこなかった音楽を遡るので忙しい(リーサルウェポンズが影響を受けた80sサウンドとか)」
  • 「日本・アメリカ・イギリス以外の、自分がこれまで聞いてこなかった新しい国の言葉を覚えながら、その国のシーンを概観するので忙しい(改めて言うのもなんですけどアイスランドエレクトロニカ系フォークバンドシーンって「夢幻そのもの」ですよね。あとインドネシアやマレーシアのシティポップ/ローファイドリームポップとか、いろんな意味で「未成熟な洗練、都会への幻想」ってまさに今を生きる憧憬ミュージックじゃないすか……)
  • 「自分にとって【新しい】音源デバイスから見えてくる世界を追うので忙しい(カセットテープの話だよっ!)」
  • 「作曲家のメソッド論や、ミュージシャンの機材話から、【こういう音の奴らいるのか!】【こういう考えの奴いるのか!】を追うので忙しい」
  • 「当然、これまで溜めこんできた音源を聞き返し新しい発見を見るのでも忙しい」
  • 「そもそも同人自作曲の作曲・編曲の時点で忙しい」

アーッこりゃ確かに国内や英米の新しいシーンに本腰入れるばかりなことは出来ないゾーッ、と。
つまり、これまでは「若さゆえに、今を知らなかった」というのがありましたが、ある程度歳を重ねて「これまで」の音楽世界樹の幹や枝がどんどん伸びてきて。そして他のいろんな国・過去の時代の音楽世界樹も視ようとしていて。その上で自作曲の創作までしようとして。これまでの蓄積が、どんどん爆発していってる。そりゃ「今(時流)の流行歌」にまで手を伸ばせない、っていう話です。

じゃあ「これまでの音楽世界樹」をあっさり見限って捨てるか、っていうとんでもない話にどうして耳を傾けることが出来るでしょうか。そんなの小理屈にすぎませんよ。そんな安い音楽人生を送ってきてないぞ。

ていうかこれ、アレですね。贅沢な話ですね。すでに自分は豊穣に実り育った音楽世界樹を所有してるっていうのに、まだ新しい何か、見知らぬ何かを見たい、って願っていて。しかも音楽世界樹から得られる滋養は年々ますます爆発してる。贅沢すぎる。暇してる場合じゃねえ。

だから、いまこの自分の音楽世界樹の爆発に身をゆだねるだけでいいかな、っていうのはあります。それが自然な結論。少なくとも上記「あ、あのバンドもこのバンドもいいっ!→シーン最高っ!」の図式のように、「うひょーっ、この国のアレおもろい、昔のこの音源これおもろい!」っていうのが、自分は上記の項目列挙のように、いろいろあります。「時流」をいつしか自然にオミットするほど。
つまり、日本・米国・英国の流行歌は、多分今のまんまでも、まあ自然に、いつかは入ってくるだろう、っていう据え置き感ですね。米津玄師も自分の中に、6,7年くらい遅れましたが、しかし入りつつあります。面白みを少しわかるようになってきた、というか。米津さん。
そんなわけで、相対的に「時流(トレンド)」の重みが自分の中で薄れて、弱くなっていった。そして、以前はコンプレックスだった時流の追い切れなさも(ほら、ビレバンでのPOPにちょっと忸怩たる思いをするアレです)、自然と「切る」ことが出来た次第です。

それよりもやっぱり「知らない国、知らない心象風景」の方が、自分にとって重きがあるんですね。他人が「えーっ、まだ2020年に来る、コレを知らないの~っ?」って差異化ゲームで煽ってきたとしても、冷静に考えれば、だいたいそういう手合いは1940年代のチャーリー・パーカーのノイズだらけの音源(天をハイスピードで駆けるペガサスのような天才)を出せば蜘蛛の子を散らしてピャーッと逃げる雑魚だというのは論じるまでもなく明白ですし。はっきり言いましょう2020年に来るソレをしらないよ。しらないから選り好みも、拙速な判断もしないよ。君ら「教えたい」のか「マウント取りたい」のかどっちかにしてくれよ。そんで「教えたい」のだとしたら、明らかに手法間違ってんからなKIDS、ってな話ですよ。

最近「考現学」というジャンルに目を向けるようになりました。路上の標識とか、道路の様相であるとか、「当時よくあった、普通のイラスト」であるとか、そういう「近いむかしの、みんなが見向きもしないささやかな現実アイテム」をやたら楽しみたがる、っていうジャンルです。Vaporwaveと近い。
つまり「楽しみたがろう」と思うその気持ちが、やたら「音素材」に向いていれば、そこで音楽趣味は成立する、って話です。すごい大雑把すぎる括りですが、まあいいじゃないですか。我々の何らかの達成であったり、時代であったりも、いずれ消え失せます。でも今日、音楽を聴いてなかなか良い感じになって、自分で納得いく音楽史観で、音楽世界樹を伸ばすことが出来たら、それでいいじゃないですか。自己満足こそが趣味の王道です。そしてそれ以外の王道はありません。

まあここまでお話しても、やっぱりKIDSからは自分は、老害おっさんということになるのかなぁ。グフフそれならばおっさんの音楽的手練手管のウネウネにいつしか飲み込まれるのがKIDSよグフフ! シーンの移り変わりと、幾多の「またかよ」をこっちは味わってきてなお、強靭に鍛えられた音楽世界樹よ。
あなたの知らない世界へ、光へ輝く世界へ!(人間椅子っていう50歳代のEUツアー大成功させた70年代風ハードロック/プログレバンドをロールモデルとしています)


【EU TOUR 2020】NINGEN ISU/ Heartless Scat (The Underworld Camden)

少しずつホムペ移転

8TR戦線行進曲のホームページ

このブログから、同人サークル 8TR戦線行進曲のホームページ(軽量版)に拠点を移しています。

2020年初夏(5月)現在、このブログ(記事アーカイブ)を削除するつもりはまだありませんが、活動拠点は移していきたいな、と考えています。

「アナログホームページ」の方も、このままいくと、8TRホムペに統合される予感です。

アメリカ民謡研究会の研究

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(聞いて考えたことをそのまま打鍵しています)

mywaymylove00.hatenablog.com

上記音楽ブログ管理人・カナリヤさんからのお勧めで聞いた。そんではじめてきいたこの人(Haniwa氏という個人。会ではない)の動画は、ファズをかませたベースをループさせた音源のオケに、ボイスロイド(音声朗読版ボーカロイド)のポエトリーリーディングを載せる、というものでした。

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あまりにガチガチに歪みきったサウンドに驚いた。この手の弦楽器の生演奏を、ループ・サンプラー(ルーパー)を使って重ねていくのは、マーク・マグワイアやダスティン・ウォンといった「エフェクター・マガジン」ループサンプラー特集号で出てきた面子だったりで存在は認識していました。インディーシーンで、機材オタ的な面子が、アンビエントだったりバキバキテクニカルフレーズ重ねを、ルーパーを使ってやる、っていうのは、2010年代以降の展開だなぁ、と、個人的には好感を持ってみていました。独りで演る、っていうのがよろしい。以前、この手の生演奏ループ音楽について語ったところ、「打ち込みでやったらええやん」と無情な批判コメントをもらったことがあった自分でして、その時、有用な反論をかませなかった情けなさです。

今、改めてこの手の生演奏ループを思うに、「独りで行う」ということが何より重要なのだと重いまする。確かに、演奏全体の総合構築性の整合性を目指すなら、打ち込みにしたほうがよいのは明白。でもこのループ系の場合、独りで演奏し、ジャズのようにアドリブを自由なタイミングでカマし。独りでその演奏レイヤー(重ね)を編集し、さながらクラシックのように指揮する。演奏レイヤーは重なっていく。その各レイヤーのテクスチャーやファサード(音の肌触り)を、重ねていく。独りで。たった独りで。それは要するに、自分の演奏を素材にした編集音楽である。何より、自分を分解してライヴで統合する、自分との対話に他ならない。

 

バキバキに乱打するドラムトラック、そのウワモノとして使うのはベースだけ。歪ませたベース。これについては、2000年代以降のフリクションDeath from above 1979、ロイヤルブラッド、などが、「歪ませたベースでのロックンロール、パンク」でもって追及してきました。スリーピースでの、ギター、ベース、ドラムという「いわゆる最小編成」での音像より、もっと少ない。ギターソロはない。ギターのコード感は、ベースで補う。ギターの「壁」的なコード・リフの音圧は、エフェクターでもって解決する。あるいはドラムのウワモノ(シンバル、スネア)とのコンビネーションでどうにかする。しかし問題は、ギターという「音階をメロディアスに奏でることができる音源」のなさで。上記バンドは、どれもそのあたりの流麗メロディアスさの歪みギターを、どこかで諦めることにより、リフ重視の、ループ系にも似たグルーヴ音楽を構築することとなった。ヴォーカルも、どちらかといえば「歌い上げる」よりも「グルーヴに沿う形」といったほうがいいだろうか。さらにいえば、ロック・デュオ最小編成はギター&ドラムの、ベースレスな、ホワイト・ストライプスがこの分野では一番成功を収めているが、やはりこちらもギターの流麗さよりも、もっと別のものを持ち込もうとしている音楽である。ジャック・ホワイトのシャウトとノイズギターは、何よりもブルースである。元来、電化ブルースの初期は、ベースがない場合がたびたびあった。マディ・ウォーターズのギター&ドラムの音源とか。


このアメリカ民謡研究会が、ループ&機材音楽や、ドラム&ベース音源のあたりの文脈を押さえてはいるだろうけど、サークル名の「アメリカ民謡」をちゃんと研究しようとしている、とは到底思えない。ライ・クーダーのようなアメリカ民謡・古楽・ワールド系復刻的な視点も、ボブ・ディランウディ・ガスリー以前をフォーク文脈からアメリカ民謡掘り起こしみたいな観点も、あるいはいわゆる「アメリカーナ」的なノスタルジア憧憬も、または南部ブルーグラス音楽をアイリッシュ移民ケルト音楽の文脈から、というような視点も…とにかく、ちゃんと「アメリカ民謡を研究しよう」という気構えが感じられないのは明白で。ようはVaparwave的というかパンク的な「さして意味のない、やる気のないタイトルの中の虚無性」でもって、逆説的にアティテュードを表明する、というものだと思う。


ただし、何かを「研究」しようとしている態度はとてもよくわかる。どの音源も、実験性にあふれている。音楽機材…ファズ系エフェクターとループ系エフェクター、ドラム音源のビート系PAD、パソコンによるDAW編集、そしてボイスロイド。機材の研究のなかにインスピレーションを求めている。アメリカの中には求めていない。もっとも、現在のアメリカが表明する「米国ファースト」に対するアンチ視線をナチュラルに持ち合わせているくらいの反骨的な魂は当然持ち合わせているだろうと思う。
そんな詩人だ。この詩人は反骨と屈折、屈託と、綺麗で透明な風景に対する憧憬と、穢れていく人間の精神へのまなざしと、それでいて「やっぱり何かを諦めきれない」詩を書く。それをメロディ(歌)にしようとしない。ポエトリーリーディングで行う。ベースとドラム音源の轟音リフにのせて。それが、非常に、クる。

 

以上のことを端的に述べれば、カナリヤさんのこのツイートになる。自分はこんなに文量を稼いで何をやってるというのか。コントラスト。それも、ぢゅくぢゅくしている傷口から放たれる、折れそうな精神の、それゆえの強靭なメッセージというか。何を自分は書いているのか。意味がわからない。でも、「もうぼくは…消えてしまいたい…」という方向性じゃないんですよ。しっかり考えているっていうことがわかる詩。こちらのリスナーをアジテート(煽り)しながらも、煽って終わり、という下衆な感じはぜんぜんない。いつもこの人の音源は、冷徹な語り口で、完結していて、ドライで、だからこそどうしようもなくエモーションなコントラストなんです。この人の語りには、襟を正して耳を傾けたくなる何かがある。ボイスロイドなんだけど。

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最近の音源では、お手の物だった轟音ベース&ドラムよりも、落ち着いたエレクトロニカ的なバック音源に乗せて、やはり冷徹で、完結していて、どうしようもなくエモーショナルなボイスロイドのポエトリーリーディングを載せている。だから、ベース歪みだけの実験音楽なだけではないのだ。この人の本質はこの報われないエモーションなのだ。誰かに自分の声を聞いてもらえる(そしてヤンヤと共感喝采される)ことをハナから期待してはいないけど、こっち(リスナー)はこっちで、この人の言葉に耳を傾けてしまう。向井だ、わたしたちが向井秀徳の「自問自答」を夜中延々歌詞カードを読みながら自分の人生を投影していたあの感覚だ。

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どうしてもベース歪みでないといけないのか? 
おれら機材マニアは、こだわりっていうものからインスピレーションを得る。そして楽曲を作る。その意気っていう。自分も、歪みベースについてはさんざんやりました。ベースから音をパラって片方をファズにつないで、片方のドライ音をベースアンプにつないで、ミキサーを使ってローカットして…。「そこまでして」っていわれようが、こうして機材をいじることがとにかく楽しいんだから仕方がない。ある程度それが逃避めいたことであるのも自覚はしているんだけど。

しかし、この人の動画(写真と文字を多用)を見るのは楽しいですね。機材トークももちろんですが、この人は音楽を作ることを、日常の中に取り入れている。地獄の日常から詩をひねり出す、っていうのよりも、冷凍都市であるけども、時たま透き通って見える風景であったりの日常ってものを、見捨てきれないというか、やっぱりこの日常だって美しく見えて、そして機材をいじってるのが楽しい、っていうのが伝わってしまう。機材をいじることは、やっぱり楽しいんですよ。そして、音楽を作るっていうことも、楽しいんですよ。研究するのが楽しいんですよ。この人の音世界の透明な殺伐なのに、現時点での結論それ?と思いますが、この人の作品、音源から見えてくるのが、そういった「音と共にある生活」のささやかな愛しさみたいなものなんですね。まるでルインズ(日本のプログレデュオ。変態変拍子ドラムと歪ベース。この人の音源に一番近い音像かもしれない)みたいな音ですが、どこかに生活日常への目線が紛れ込み、絶望をこの人は日常的に感じながらも、「孤独に音を楽しむ生活」っていうスタイルに、なんか良いなぁ、と勝手に感じているんです。だから「誰をも幸せにしない実験」な音だけをやってるわけでなく、この人はこの人で、音楽を楽しんでいるんだぁ、という風通しのよさがあるわけなんですね。そんなことをまず思っております(たぶん続く)

職業倫理としてのゴブリンスレイヤー

ゴブリンスレイヤーは辺境都市社会に必要な人材である。だが求められる形は、勇者でもなければ、英雄でもない。王でもなければ、騎士でもない。求められる形、それは実のところは冒険者ですら、ない。
この場合の冒険者、とは「富と名声、そして浪漫(ロマン)を対価として、荒事を解決する便利屋」といったものが、四方世界中世における役回りだ。
そしてゴブリンスレイヤーのやっていること、ゴブリン退治が、「冒険」の名に値しないのは、散々、作中にて妖精弓手が糾弾しているところのものなのだが、本考ではそこのとこをもっと話していきたいと思う。

この記事は、ゴブリン退治の汚濁についてと、ゴブリンスレイヤーを認める人たちを踏まえて、社会整備・職業倫理について語る。

ゴブリン退治に求められているのは、都市における社会インフラの整備である。
ゴブリンは定期的に沸いてくる。とくに訳もなく生まれ、善陣営(プレイヤー)側に迷惑をかける。ゴブリンを退治することは、けして不可能事ではない。レッドドラゴンを殺す(バスター)事に比べれば、ゴブリン退治単体の苦労など、非常に低レベルだ。
だがそれを継続して行っていくことは、これもまた難事であることは、小説本文中において、ゴブリンスレイヤーの数年の営みとして描かれている。
それにしても、「汚濁」に対峙し続けるということは、当たり前のことをここで言うが、とても疲弊するのだ。

どの社会でもゴミは出る。ゴミ処理業者の話をする。
ゴミを出すことは、一般人にとっては、特に問題なく毎週行われることだ。そして、回収業者は各家庭から出たゴミを、毎週2回は回収しなくてはならない。生ゴミは腐敗するからだ。そして、このようにゴミを処理することは、とくに大したことではない。物理的な仕事としての意味合いで。この、人がやりたがらない仕事であるゴミ処理。これを率先して行う者は、家庭でも、社会でも、ありがたい存在である。だが、社会的に「高い価値」のある仕事と、率先して称揚はされていない。下水道管理や浄水槽管理も同じようなものだ。
ゴブリン退治の本質はここにある。社会インフラの整備は誰にとっても大事で、誰もが重要性を訴える。にわか大学生のレポートから、ごみ処理業者に「もっと回収に来い」と促す町内会の議事録まで。だが、率先してゴミ処理業者になろう、という者は少ない。家庭で出る生ごみの処理すら、疎ましく思うのが大半である。


ゴブリン退治においても同じことだ。ゴブリン退治は雑魚狩り。誰にでも出来る。しかし、汚い。見返りは少ない。もっと実入りがあって、もっと「カッコいい」英雄譚がある。誰もが必要としている仕事ながら、汚濁ゆえに、誰もがしたがらない。ようは、汚い仕事の押し付けである。

ゴミが臭いと同じように、ゴブリンは臭い。獣の話をする。
賢明なる読者の方々は、獣が檻に入れられて、刃物や猟銃にて処理される時。とくに獣がいきり立って、泥まみれの上に糞まみれになって檻を体当たりでこじ開けようとしている時の、あの臭いをご存じだろうか。筆者はとある機会があり、こういう場面に出くわしたことがある。凄く意外なことに、ここまでの激臭だと、リアルに「甘い臭い」すら漂ってくるのである。泥、草の臭いと、糞の臭い、獣の臭い。そして死を前にした獣が放つ殺気とタブーのオーラ。それらが混じりあって、異様な「甘い臭い」を感じてしまう。ラディカルナチュラリストは「いのちをだいじに」と言うが、気を抜けばこちらもやられかねない、獣との対峙なのである。緊張は常に抜けない。そして、やがて、血は流れる。その臭いに蝿がたかる。忌まわしい虫が、自分たち人間の頬にも触れる。それを払い……

こういう「獣の処理」に、多少の対価はあれど、社会的意味付けはあれど、「率先して称揚」はされない、という話である。とくに、この臭いにまつわる場面は称揚はされない。

都市というものは、人工なる清潔を尊ぶ。「自然」から、あらゆる手段を用いて、「汚れ」「臭さ」を脱臭したものが、都市なのだ。

そういうあたりの「汚濁にまつわる身体性」という観点からしたら、ゴミ処理は、いつだって都市の中心たりえず、いつも周辺・周縁の位置にある。バッチいから、なるべく遠ざけたく、目に触れたくないのである。

四方世界中世においても、おそらくそうだろう。中世都市とはいえど、その本質が都市の人工の清潔志向である以上、臭いは排斥されなくてはならない。そのレベルは現代の清潔レベルとは低いレベルで段違いといえど。臭さ、汚さ、野蛮、それは都市から排除されなくてはならない。だからこそ、再三ゴブリンスレイヤーの鎧のみすぼらしさは、文中において強調される。あの鎧の描写こそ、ゴブリンスレイヤーが都市において「異物」である証拠だ。


だがそれもおかしな話だ。誰にとっても必要な仕事をしているにも関わらず、ゴミ処理業者の制服や、ゴブリンスレイヤーの鎧が、率先して称揚されることはない。本当は、これは論理的に言っておかしな話なのである。人間にとって、衛生とは非常に大事な事柄だ。そしてその大事なことがらの処理を、わざわざ率先して行ってくれる者を、どうして「汚物として排斥」するような真似をするのだろうか。マルクス社会学的な疎外論に入るとややこしいのでここでは匂わせるに留めるが、しかし人間社会において、どう考えても「大事」な仕事を、その仕事の汚濁性ゆえに排斥する、というこの奇妙(と筆者には思える)構造。大衆社会が清潔志向をするということは、汚濁の存在を「忘れよう」と封殺することでもある。それは、ごみ処理業者やゴブリンスレイヤーのような存在に、汚濁を「押し付ける」ということだ。

かくして、ゴブリンスレイヤーは辺境都市社会に「必要」な存在である。だがそれは、辺境都市社会において「冒険者」としてすら称揚されず、「処理業者」として便利な存在である、という、仕事の押し付けなのである。

ゴブリンスレイヤーのゴブリン退治に、終わりはない。ごみ処理に終わりがないのと同じように。獣が田畑を荒らし、沸いてくるから狩る。その遺体を処理するのと同じだ。終わりがない、という営為は、簡単に人を殺す。持久戦こそが最も過酷な戦である。一時期ゲーミフィケーションという言葉が流行ったが、あれは仕事のタスク管理において「ゴール(達成)」を持ち込んだものだ。短期的であれ長期的であれ、ゲーミフィケーションを導入したならば、仕事のタスクは点数化され、数値化され、その果てにゴールがある。工夫を行い、競争をし、ゲームとして仕事を楽しんでいく。
そして、いわゆる冒険者の「仕事」もまた、非常にゲーム的だ。金やアイテム。それはまさにわかりやすい点数だ。
それに引き換え、ゴブリンスレイヤーの点数化とは、単にゴブリンの殺害数をカウントしているだけ。しかも、「討ちこぼし」がないか、という非常に消極的なものだ。ゴブリンを100匹殺しても、次の1匹がいる以上、その殺し(スレイ)にかからねばならない。

ときに、ブログやweb小説の更新において、ゴールを設定していなく、小説を延々と更新していって疲弊しきって、やめてしまう、というパターンをよく見る。
終わりのないゴブリン殺し、ゴブリンスレイヤーを支えているのは、狂気の妄執だ。彼は、それを昏い悦びとするまでに至ってしまった。ブログやweb小説の「目的なき、終わりなき更新」に疲れるのは、むしろ健全なのかもしれない。ブログやweb小説に取り憑かれ、ゴブリン殺しをするかのように更新していっては、誰も救われない。

役にはたっているが、ほとんどの人は彼に感謝をしなかった。彼はひたすら、己の妄執にのみしたがって、人生を費やそうとしていた。
ところが、彼を認めている人たちがいた。メインキャラたちのことを語ろう。

女神官(弟子と信仰者)

女神官はゴブリンスレイヤーの弟子である。

師匠と弟子、という関係性において、何にも増して重要なのは、弟子の自主性だ。師匠に「教えてもらう」ばかりのみだったら、弟子はあっさりとその後しんでしまう。弟子は自ら学び、発見し、己の道を進んでいかねばならない。将棋界において、師匠を負かすことを「恩返し」と呼ぶのも、そのあたりだ。

ゴブリンスレイヤーは、誰をも弟子にとるつもりはなかった。しかしたまたま、女神官が弟子になった。それは、女神官がゴブリンスレイヤーの「行っていること(営為)」すべてに、何らかの意味を見出し、そのスキルは絶対に必要なものだ、と判断したからだ。
もとよりゴブリンスレイヤーは、この終わりのないゴブリン退治(殺し)の修羅道に、女神官を誘うつもりなどない。終わりのなさは、彼自身がよくわかっているからだし、なにより女神官にゴブリンを殺す理由(妄執)など、基本的にはないからだ(恐怖こそあれ)

女神官が、ゴブリンスレイヤーの営為に見出しているものは、ただひとつではない。慎重さ、装備を整えること、撤退の見極め、決断力、情報収集、及び知識に対価を払うこと、風土への知識、裏社会の作法、持久力の配分、などなどなど……あまりにも多い。

それは、ゴブリン殺しを経てでないと、得られないものか? いや、レンジャー職を志せば、それは得られるものだ。
だが、彼女には「信仰」がある。彼女の地母神信仰は、ゴブリンスレイヤーの「知」と「力」を求めるべきだ、と判断した。ゴブリンスレイヤーの行っていることは、汚濁ではない。汚濁を処理しているが、汚濁ではない。見せかけの汚さなど、地母神の教えにおいてはメッキに他ならない。「本質を観よ」それは地母神的であり、まさにそれこそ「信仰」生活そのものなのだ。

この視座は、牛飼娘では持ちにくいものだ。彼女は、「彼」であるが故に彼を肯定する。だが、彼の仕事そのものへの知識はまだ、薄い(当然、ゴブリンスレイヤー自身が、牛飼娘を「汚濁」の存在から遠ざけ、なるべく知らせることのないように努めているからである)

ゴブリンスレイヤーの仕事の「本質」を、女神官は把握し、了解し、尊敬している。そしてゴブリンスレイヤーの行っていることを肯定し、職業は違えど、本質を継承しようとしている。自分なりに。それは、巡りまわって、ゴブリンスレイヤーの存在の肯定であるのだ。師匠は弟子をとるのではない。弟子が、師匠を師にしてくれたのだ。人間に、してくれたのだ。

受付嬢(職業評価)

上記で、「職業倫理」という観点からゴブリン退治を語った。この職業倫理を、最大限に肯定しているのが、この受付嬢である。個人的な好感もあるけれど、それ以上に彼がここまでゴブリン退治という職業を、誠実に行ってきたからこそ、彼女の「ストイック」の評はある。
職業、仕事は、相手(評価する者)がいないと、成り立たない。人間社会のなかで在る以上、それは当たり前のことだ。そして、上記でさんざん、このゴブリン退治の仕事が「評価されにくい」ものであるのは語った。
それでも見てくれる人は見てくれるのだ。彼は社会において、公正に扱われてはいないだろうが、しかし最も公正に扱うべき職業人(ギルド)は、、きちんと彼を認めている。というか、社会そのものが、彼に感謝をしている、というのは言い過ぎだろうか。いや言い過ぎであっても、それは構造上、彼には伝わりにくいものであることは、秋祭りの時の受付嬢の「伝わってほしい」という願いに表れている。だからこそ、受付嬢は常に、ゴブリンスレイヤーに声をかける。諦めないで、と。

牛飼娘(存在肯定)

しかし仕事のみが人生ではないことは明白である。それ以前に、人は、一個の人間として、その存在をどうにかして肯定せねばならない。自分自身で、時には人の存在を借りて。

ゴブリンスレイヤーこそ、牛飼娘という幼馴染の存在に救われている者だ。全て無くなってしまった(虐殺された)過去。しかし、幼馴染は生きていたのである。同時に、彼女は彼女なりに、あの虐殺された日々から立ち直り、自分を肯定しようとしている。そして、その肯定度合いは、「自分ひとりで精一杯」な彼よりも上手をいっている。なにせ、彼をも肯定してしまっているのだ。

「わたしには君が必要なんだ」と何のてらいもなく言ってくれる人がいるということ。これは奇跡だろうか。「君が生きてくれることがうれしいんだ」と言ってくれる人。
彼の姉は死んだ。だから彼は、もう二度とこの言葉をかけてくれる人は、この世には存在しないと思っていた。ところが生きていた。だからこそ大事にしたいと思う。

ところが、すべてを牛飼娘に捧げ切ってよし、とするには、彼の人生は虐殺されているのである。どう生きていったらいいか、彼にはまだわかっていない。
そこのところで、ゴブリンスレイヤーの、「先生」や、牛飼娘の伯父に対する、報われない尊敬、というのが筆者には痛ましく映る。ゴブリンスレイヤーは、亡き「父性」の代替えの存在を求めている。「こう生きていけばいいんだ」というロールモデルを。だが、これは非常に難しい。この父性は、即座にマッチョ思想に結び付く。そして、そのマッチョ思想のもっとも悪しき形が、ゴブリンによる凌辱なのであるから。あまりにも、このマッチョの抜き差しならない問題に、彼は骨まで漬かってしまっているのだ。


一党…妖精弓手、鉱人道士、蜥蜴僧侶(余裕、誇り、可能性)

そこから救うのは、余裕(ユーモア)である。この三人がとにかくユーモアの達人であることは言うまでもない。まして、男二人は、初見でゴブリンスレイヤーの特質と美点を見抜いた。人間社会=都市社会、とはいささか異なる「職人」あるいは「蛮族」の流儀社会では、ゴブリンスレイヤーの美点は、明確に見いだせる。

鉱人導士から話そう。一党の中で鉱人は、ゴブリンスレイヤーに「余裕」を持つことを進める。ゴブリンスレイヤーがそれを素直に聞くのは、相手が職人であるが故だ。それも「物を作る」職人であると同時に、「術士」という、理に長けた者であるという、モノづくりと理屈の両方の説得力があるのだ。その両面から「余裕」を諭されては、ゴブリンスレイヤーに返せる言葉のあろうものか。

ましてや、鉱人は人生を楽しもう、という享楽的な面を持っている。それは「善し」としてよし、なのだと。これこそがロールモデルのひとつである。父性にはなれないけれども、先達として、ゴブリンスレイヤーが人生を正当に楽しむのは、肯定して良いものなのだ、と。

蜥蜴僧侶はもっとわかりやすい。あの堂々として、知性豊かな僧侶こそ、見事に「信仰生活」を行っている「大人」なのだ。自分を安定させているという余裕である。ブレていない。すでに彼の「悩むべき物語」は、ゴブリンスレイヤー本編では終わっている(だからこそ、蝸牛くも氏は、蜥蜴僧侶の裏設定がやたらにある、と言っているのだ)
その存在そのものの重みが、彼に「余裕」と「信念」の大事さを教える。自分が持っているもの(ポケットの中には何がある!?)を大事にし、感謝をする。そして、たとえ死ぬことがあっても、自分が納得しているのであれば、それでいい。蛮族式になる、ということではなく、己が立つ誇りこそが重要なのだと。ゴブリン殺しに誇りなぞ求めるべくもないが、だが女神官、受付嬢、牛飼娘と、ゴブリンスレイヤーを「誇り」と思う人たちはいる。なら、そこからまた考えられることはあるだろう、というのが、蜥蜴僧侶の存在そのものの重みである。蜥蜴は背中で語っている。

最期に、妖精弓手
ゴブリンスレイヤーの生き様は、ゴブリンの巣穴に似ている。「それ以外の世界(可能性)」が実に見えないのだ。なにせ、ゴブリンを殺すばかりの生活。ほかの土地、世界に行ったこともないのが、彼だ。
というか、場所というより、精神的な立ち位置の問題なのだ。なにせ、ゴブリンしか見えていないから。

そんな狭い視界から、強引に彼を引きずりだそうとしてくれる「光」が、まさに妖精弓手なのだ。冒険!冒険!とうるさい金床であるが、放っておいたらどこまでもダメな意味で先鋭化(つまり袋小路)に陥ってしまうのが、小鬼殺しの生き様なのである。

賢明なる読者諸賢においては、社会人になって、突然「なーなー、あれやってみようぜ!あそこ行ってみようぜ!」と誘ってくれる友人の存在が、自らの閉塞しつつある生活に、新鮮な風を吹き込んできてくれた経験はないだろうか? あの理屈である。

ゴブリンスレイヤーは、牛飼娘が秋祭りで云ったように「小鬼殺しだけの男じゃないんだよ」ということ。妖精弓手もそれを理解している。もっと楽しいことがこの世にはあるんだよ、ということを、この偏屈な若者に教える2000歳なのである。

と同時に、この一党に居るということは、言うまでもなく、ゴブリン退治の重要性を、骨身にしみてわかっている妖精弓手である。彼女もまた、社会の中で生きている。
だが、その反面、どこまでも彼女は自然児だ。自然は汚濁で、汚くて、臭いかもしれない。でも、光輝いている面も確かにある。彼女がいつも天真爛漫に美しいということは、自然が美しいということを証明していることでもあるのだ。

だからゴブリンスレイヤーもいつか、世界を見続ければ、虐殺された自分であっても、この世界と和解できるかもしれない。そんな途上の路上で、今日も彼はゴブリンを殺す。自分に出来ることを着実にこなしていく、それが小鬼殺しの職業倫理だ。