残響の足りない部屋

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彼は焦土の大気になる

この小説に関しては7月31日の更新をご覧ください。

○彼は焦土の大気になる

「無様ね」
彼女はカクテルをテーブルに置きながらそう言った。
「あなたは本当に無様」
彼は部屋の片隅のミニ・バーで片付けを済ませながら言う。
「あるいは」
「あるいは、という留保なんてないわ。あなたにはカクテルを作る才能しかないのよ」
昼下がりの彼の一室、カーテンは開けられ、窓の光は静かだ。
大型のサボテンが、バケツみたいな植木鉢に植えられている。彼が旅先から持って帰ってきたものだ。
「それで、今度はどこへ行くの?」
白いタオルで手を拭き、彼は彼女の向かいの椅子に座る。
彼はしばしば遠くを見つめる。
人によっては、それは彼の現実性のなさを表しているのだ、と言われる仕草だ。
そう言われてしまいがちな気質が彼にはあった。
「焦土へ」
彼はかもめが空中をひるがえるかのように自然に言った。
それを聞いて彼女は言う。
「止めはしないわ。しかし理由くらい聞かせなさい。理由によっては行かせない」
「矛盾しているけど」
「言動に矛盾のない人間などこの世にあって?」
彼は両手を挙げた。降参。
そして静かに語りはじめる。
「君も知ってのとおり、僕の心の膜は破れた。無茶苦茶だ」
「あるいは、という留保などなく」
「僕は『夜汽車』に乗って、夜の街を越えて、あの焦土へ行く」
「そして何をするつもりなのかしら? 稀代の魔法使いは?」
試すように彼女は言う。彼女の目は動かない。
「焦土に行ったことはあるかい?」
「いいえ」
「あれはね、本当に広いんだ。そこにいる人は、立っただけで絶望的になる。そして、空気は、大地は、焦げ付いている。焼け跡の匂いって、どうしてあんなに、いつまでも消えないように思うんだろうね?」
「何をするつもりなの?」
「魔法で僕の体を粒子にして、大気に拡散させる」
「で、どうするの?」
「見守るのさ」
彼はテーブルに両肘をつき、組んだ両手を額に当て、じっと目を閉じる。
「時にはささやかな奇跡だって起こしてあげようと思う。でも正直な話をすると、君が言った稀代の魔法使いでも、何千人のオーダーの人を幸福にすることは出来ない。僕が出来ることは……見捨てられて泣いている子供と同じなんだ。人も、生き物も、大地も。誰かが見守ってあげなければならない。誰かがそうしなくてはならないんだ。あるいは、という留保などなく」
彼女はそっとたずねた。見計らったかのようなタイミング。
「何年?」
「十年はかかるだろうね」
「そう」
彼女は彼の目をじっと見て、口を開く。
「どうしてそれをしなければならないの?」
彼女は静かに責めていた。
それはあなたにとって愚かしい行為よ、と、彼女は物事の真実を伝えようとしていた。
「僕は無価値だ」
彼は言う。
「僕はこの世の中にあってはどうやら無価値だ。僕がどれほど魔法を使えたとしても、人はそれを利用しようとするだけだ。物扱いをされるということは価値を認められることとイコールではない。僕はそれに疲れた。嫌気がさした」
彼は顔を上げ、今度は彼の方から彼女を見据えて言う。
それは消え入りそうな声で、響きはまるで、洞窟の中に吸い込まれていくかのような、あるいは、海に碇が沈んでいくかのようなものであった。
「僕は消え入るような形で誰かのために尽くしたい」
それを聞いて、彼女は目を閉じた。
少しの間、沈黙の時間が流れた。
午後一時の空気は澄んでいて、部屋の明かりは柔らかだった。
「あなたのカクテルを、私は『本当に』気に入っていたのだけどね」
「それは何よりだ。しかし、君はそういうことを言わない人間だと思っていたけど」
「言動に矛盾のない人間などこの世にあって?」

(おしまい)