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残響の足りない部屋

同人DTMとか模型庭園とかエロゲとかの日記

ルドン考・読書日記・ラノベ考

絵画評論 読書感想文

●はじめに:絵画・読書日記
図書館から借りてきたオディロン・ルドンの画集を見ていますが、初期の版画の「黒い」グロテスクさといったらありません。
奇怪なモチーフ……エルンストのコラージュを思い出しますね。相通じるものがあるかと。
その後の神話や花をモチーフにした際の幻想的な色彩感覚も大好きなのですが。
いや、やっぱりルドンはいいですね。
あの日見た一枚の孤独さが溢れている版画、あれは幸福な出会いでした。

まほろ駅前多田便利軒』読み終わりました。
納得の伏線回収。硬質な心理描写がいいです。
ラストも心地よい風が吹いているような感じで好印象でした。
それと、村上春樹さんのエッセイや紀行文をこの一週間再読しています。
今までに、もう何度読み返したでしょう。そして今も読み返しています。
前は『シドニー!』を、今は『遠い太鼓』を。
波長が合うのですね。気持ちいい温水の中に浸っているような感覚です。
わたしはこのように、気に入った本を何度も何度も読み返す人間です。
そんなわけで、本が好きなわりには読破数の絶対数が増えていかないのです。ううむ。
本好きの人、活字中毒の人に比べたら、よほど読破数が少ない、と常々感じているところです。
人それぞれ、とは思っていても、ずいぶん傾向が違うのだなあ、と思います。
まわりから見れば同じ類の人なのでしょうが、実質は違うもんです。
何ででしょうね?

小説の進行状況
いまいち。体調が妙な感じで。
やはり薬が合っていないか。
そんなわけで、より体力的に楽な読書の方へと行ってしまう傾向が。むむむ。
プロットは固まってきているのですがー。
創作と吸収(読書)のバランスをとらないと……。

ライトノベルについていけない

いつごろからわたしは「ライトノベルについていけない」と思うようになったのでしょう?
おそらく大学に入ったころ……それまでは友人と毎日のようにラノベの貸し借りをしていたのに。
毎日読んではそれの感想を伝え合っていたというのに。見てますか土方君?(私信)
そういう友人がいなくなったから? 
……しかし、大学で付き合った人の中にはラノベを読む人もいたんですよね。
でもそれを見ても、積極的にライトノベルを読もうという気にはなれませんでした。
熱狂的に舞い上がった恋の熱が一気に冷めていってしまうみたいに。

おそらく、それはラノベが本質的に「中高生向け」に作られたものだからでしょう。
当時(大学時代)のわたしはまわりとは違うところを歩んでいました。
空気を、時間性を異にするところを。
それは今でも続いています。でも当時はひどかった。
ラノベの、無鉄砲な若さ溢れる登場人物の行動心理、リーダブルを第一義とする文体。
当時の(あるいは今の)わたしの求めていたものは、魂を救済してくれるような、ひとつの「深み」でした。
そういう自分にあっては、ラノベが提出するものは、受け入れがたいものでありました。
ですから、ラノベ側にとっては罪はないんですけどね。
こちらの勝手な都合というか。
それから、時は空前のラノベブームがはじまったころでもありました。
『完全読本』などのラノベ解説書が出始め、いよいよラノベが一般社会を席捲しようとしているころでした。
世の流行というものに中指おっ立て「ヘイ・マン、ファック・オフ」なわたしとしては、それには乗れなかったのです。

わたしがラノベにハマっていたのは、そこに至るまでの「成熟期間」にあたるころでした。
ブギーポップ』が落ち着くべきところに落ち着き、『まぶらほ』はよくわからんが売れ、『ラグナロク』の新刊が定期的に出ていたあのころです。
富士見ファンタジアの装丁も今とは違ってカッチリ形態が決まっていたころのことです。
トリニティ・ブラッド』とかもあったな。懐かしい。
そのころのわたしはライトノベルに淫していました。
いや、ライトノベル(ティーンズ・ノベルス)というカテゴライズすら気にしていませんでした。それはわたしにとってただの「小説」でした。
そう、その「取り方」は正当・自然なのです。小説は小説であれば小説なのです。
ジャンルとかカテゴリーとか、そんなことは気にせずに読んでいってしかるべきものなのですから。
事実わたしは気にしていませんでした。

それが気にせざるをえなくなってきたのは、わたしの人格的進行(発達、とは呼ぶまい。断じて)という内在的要因からか、
あるいは、業界の地殻変動による、「ライトノベル」という「ジャンル」の勃興という外的要因からか。
あるいは、ライトノベルそのものの、カンブリア紀大爆発進化のような、過剰な萌え化、一発芸的ネタ化、そしてセカイ系の大躍進……。
それらさまざまな側面から、わたしはラノベから離れることになりました。
というよりも、わたしはラノベを読みすぎたのかもしれません。その自覚はあります。
食傷気味、ということが起きていたのでしょうね。
それ以外の本も読んでいたのですが、正直ラノベは胸焼けするほど淫していました。
そんなこんなで、「もういいや」と思ったのです。
過剰な萌え的記号論的キャラクターにもついていけないし、そのキャラや世界観の青臭さ(中二病)にもついていけないし、ということで。

でも今年に入ってから、再びラノベを読み出してみようかな、と思い出したのです。
わだかまりがようやく解けつつあるのか……わたしは物事を自分の中で落ち着かせるのにひどく時間がかかる人間です。
正直、ラノベを巡る状況、ラノベ本体の問題、など、言及したいところはあります。
高校生のときのように、ラノベにぴったりよりそって、ラノベが進む道についていくことはできないでしょう。
それでもラノベを読むのはなぜか……一言言えるのは、ラノベから離れていたころ、それに興味はあったのですが、どうせ向いていないから、と、売り場を羨望の目つきで通り過ぎていったという経験がたびたびあったのです。
それはなかなか歯がゆい感覚でありました。
だったら自滅覚悟で向き合ってみて、それから判断を下そう、そう考え、ラノベの世界に再び足を踏み入れました。
そして得た感覚は、もう昔のようにラノベに淫することはできないのだ、という淡いあきらめの感覚と、まだ自分はラノベを読んでいける、というささやかな喜びでした。
そういうわけで、今ライトノベルを読んでいます。
「この世界」に再び舞い戻る最初のきっかけになったのは『狼と香辛料』でした。
これが抜群に面白く、「またラノベを読んでみるかな」と思ったのです。
それから少しずつ新しいのを読み始め(『生徒会の一存』は面白かった)、過去に読んでいた作品の続刊も読み進め(『ウィザーズ・ブレイン』新刊読みましたよ)、で、今『禁書目録』読んでいるわけですな。
ゼロの使い魔』とかもよんでみようかなー、どんなもんかなー、と思っている昨今です。

余談ですが、(今だから冷静になって思えますが)今現在のわたしの感覚をもってして、見つけることができるラノベの魅力というのがあります。
ひとつは、ラノベというフィールドは、この世の「表現」の中でも、とりわけ突飛な発想の設定が盛り込めるということですね。
ご存知の通り、ラノベの設定は、SFという面から見ても、ファンタジーという面から見ても、とにかくユニークです。
それはまるで「設定の実験場」を見ているかのようです。それが苛烈な商業主義競争という外圧から生まれるものであっても。
というわけで、そんな「面白設定」を見逃す手はないなぁ、と。
もうひとつは、ラノベのリーダブルさ、ポップさは、やはり読んでいて心地よい、と感じます。
もちろん、ものにもよります。
ただそれでも、「楽しさ」を第一義として書かれた小説を読んでいて、素直に楽しいし、エンターテイメントってこういうもんだったよなーと思えるのです。
単純に、自分の作品に役立つというか……自分の小説がどういう立ち位置にあるのか、というのを教えてくれますから。

おわりに:今後の計画
久しぶりにロシア文学を読もうと思っています。それもドストエフスキーとかトルストイとかの大長編を。
もうしばらく実家にいることに予定を変更しましたので(体調の問題で)、この機会に、と思ったのです。
ロシア文学も久しぶりですね……最後に読んだのがチェーホフだったかな?
ちなみにわたしがはじめてちゃんとした形で読んだロシア小説はソルジェーニツィンの監獄小説『イワン・デニーソヴィチの一日』でした。なぜに陰鬱と絶望極まるこの作品を? ほんと、当時の自分は何を考えていたのでしょうか。
まあ、久しぶりにあのむつかしい登場人物名と長ったらしい口上と「いつ終わるのか」的なロシア的長編感覚を堪能したいと思います(褒めているんですよ)。

本日のBGM:カルロス・ヌニェス『メロディーズ・フロム『ゲド戦記』』(スパニッシュ・ケルトの雄。バグパイプの響きがーっ。オリジナル曲がいいよ。ああ過去作が欲しいです)