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残響の足りない部屋

同人DTMとか模型庭園とかエロゲとかの日記

読書日記・同人考

読書感想文

近況報告:読書日記

ちまちまと合間を見てリルケの『若き詩人への手紙 若き女性への手紙(新潮文庫)』を読んでいます。
そろそろ『若き詩人への手紙』パートが読み終わります。
手紙形式なので、時間がちょっと空いたときなんかに読めるのがいいですね。
それにしてもリルケは痛々しいまでに誠実な生き方を希求していたのだ、ということがわかります。
硬質な精神。
人が孤独に生きるということは大変なことなのだ、ということを、しみじみと感じさせてくれます。

それから、ドストエフスキー罪と罰』、いよいよ読み始めました。
相変わらずロシア文学らしく、登場人物の口上、思索が延々と続くので、いやあ、たまりませんね。(褒め言葉)
ささいな脇道的描写が実に微細に描かれていて、それを追っていくのが読書の楽しみ、といったところ。
ああ、ロシア文学の愉悦!

八房龍之助『仙木の果実』を久々に読みなおしました。
時代がかって、衒学趣味に満ちたネームがやっぱり素敵。何度読み返しても飽きません。
それにしても、聞くところによれば現在の『電撃大王』は、創刊当初のあり方今いずこ、な感じになっているとか。
それこそ売れ線だーのメディアミックスだーの……わたしが読んでいたころはまだ、90年代初頭から続いている正統派オタク文化の影があったと記憶していますが……まあ当時から売れ線を狙っていた面もありましたが、それでも「売れ線ではなくても」的な、地力のある作品が載っていましたしー。それこそ八房氏の漫画のような。
80年代・90年代初頭あたりのオタク文化というのは、今どれくらい生き残っているのでしょう?
それらの一部は怪物的進化をとげ、今のオタク文化を形作っているわけですが、形を変えず「そのまま」生き残っているのは数少ないと言えます。
わたしは、年齢的に言えば、今のゼロ年代オタク文化を享受している世代に該当するわけですが、しかし実感的には、今のオタク文化にはついていけない、と感じているところが多くあります。
というのも、オタクとしての仁義だの倫理観だのを、80〜90年代のオタク文化に叩き込まれた、という感覚がありますから。
まあ平たく言えば、年寄りだよね、ということです。はあ。

体調はまだよくないです。
薬がやっぱり合っていないのか……。うーむ。
結構薬に左右されるんですよね、わたしの体調。
何でも、薬に敏感で、すぐに副作用が出やすい体質らしくて。

小説の進行状況

そういうわけで体調が優れないせいで……もう少し日中の行動時間が多ければ小説に時間を割けるのですがー。
何分ほんとに体調が優れず、足りない頭も余計に動かせず(やっぱり基礎は体力か?)、でこんな感じのぐだぐだ進行。
でもいちおう進んではいます。それが救いでしょうか。
あと一息で第二話が終わります。思っていたよりも時間がかかったか、あるいはこんなもんでしょうか?
第三話はもっとあっさりにしましょう。
というわけで、怠けてるわけじゃないですよ、ただ時間がかかってるというだけで。(私信)

同人文化を遠巻きに見て

コミケの季節ですね。
ちょうどいい機会だから、今日のテーマは「わたしと同人」についてにしましょう。あるいは、「いかにしてわたしは同人から離脱するに至ったか」。

友人に「同人から足を洗おうと思うんだ」と言ったときには、「また何で? 正気か?」的な反応が返ってきました。
もともとわたしは同人をさほどはやっていなかった人間です。
まあそれでもたまにとらやらメロンやらにお世話になっていました。
同人業界全体を把握している、なんてとても言えません。巨大過ぎますよこの業界……恐竜的進化と言ってもいいです。
でも自分の好みに合わせてちょくちょくネットを散策しては、良さそうな同人誌・同人CDを買っていました。
「祭り」が好きではないので即売会には行っていません。そういうわけでコミケにも行ったことがありません。
あの人混みを思い浮かべただけで、行く気がへなへなと消え失せてしまうのです。

同人から手を引くとは言っても、完全に同人誌を買わない、というわけではなく、とくに気に入った作家さんのはこれからもピンポイントで買い続けようとは思っています。
例えば上海アリス幻樂団。ここの新作・新譜だけは何があろうと買おうという誓いを立てています。
わたしがもっと若かったころ、将来ああしようこうしようと思っていたこと……誓いは、結局は無残な形となって潰えました。ですがこの誓いだけは変わらないままです。
それでも、わたしは同人から……チャレンジ精神でもっていろいろな作家さんの作品にあたってみよう、という気持ちは、もうほとんど消えかかっています。
それならば、もうすっぱりと足を洗った方がいいな、と。

何でこんなことになったのでしょうか?
一つには、コストパフォーマンスの悪さ、というのがあります。
冷静に考えてみればすぐにわかりますが、同人誌というのは高いです。
何を今更、と言われるでしょうが、同人をやっていく、ということはその不文律を受け入れることに等しいのです。
でも……正直、単価高いですよ。50ページ足らずで一冊500円だの700円だの。
創作物を量で切り売りするのは愚かです。そのことはわかっています。
しかしこちらの銭にも限度というのがありましてですね……それを思うと、もっとコストパフォーマンスがいい商業単行本にシフトしたくなるというもの。
そう、商業単行本。これがわたしが同人から手を引きたがっているもう一つの要因です。
よく商業はパッケージングされているとか何とか言われますが、しかし商業でやっていくということはそれだけの実力が備わっていなくては駄目だ、ということ。
つまり商業で出されている、という時点である程度の選別はなされている、というわけです。
同人はこの選別がされていないので、よく言えば可能性があるし、悪く言えば玉石混合。
商業と同人の境目……例えば商業アンソロジーなんかを読んでいると、このあたりがよく分かってきます。
すなわち同人がレベルが低い、というわけではありません。
正確に言うならば、レベルの低い同人はレベルの低い商業に比べてさらに劣っている、ということです。
ようするに、同じ金を出すのだったら、はじめからある程度のレベルが期待されているものに出す、という論理です。
これはすなわち、好きな同人作家の作品だけを買う、という行動が導き出される要因です。

しかし事はもっと単純に……同人の熱気というものに飽いてきたから、というのがあるからかもしれません。
さらに言うなれば、オタク文化でもっとも活気があり、流行を形作っているところから、身を引きたがっている、とも。
何でしょうね、もう年でしょうか?
同人は若いがゆえの産物、とは言いませんが……。
しかし同人特有の熱気・ノリを受け入れがたくなってきたら、もうそれはオタクとして一線を退いた、という証なのでしょう。前から退いている感覚はあったのですがー。
若い頃は、今感じられる感覚がこれからもずっと感じていられるような気がしていたものです。
ですが、そうはいかないのですよね。
ある感覚は磨耗し、ある感覚には飽きが生じ、ある感覚はさらに発展し、ってな具合で、感覚というものは変わっていくものです。
それを受け入れることがどうやら人生らしい、と悟ったときにはもう若くはないのですよね。はあ。
とにかく、わたしの同人に対する考え方、感じ方は変わってしまいました。
再び同人を知ったころのように戻れるか?
いや、それは無理なような気がしますね。
ライトノベルのときのように、仮に戻れたとしても、「以前のよう」には戻れまい、と思います。

こうして、わたしの同人は終わりを迎えたのでした。
いつも思うのですが、終わったときに何かの「思い」が来るわけではないのですね。
「終わった」と腹の底で感得したときにはじめて「ぐわっ」と「思い」が来るのです。
それにはタイムラグがあります。
終わったことを自分の中で納得させるだけの時間が。
……終わったからこそ、今こうやって書けるのですよね。
どんな気持ちか?
わたしは「青春」という言葉が大嫌いですが、それでも、わたしの青春を傾けたもののひとつがこうして自分の中で終わっていくのだと思うと、なんだか寂しい気がします。
もうここには戻れないのだな、と。
しかし人はそうして生きていくのでしょう。
あとに残るのは思い出ばかりなり、ってな感じで。
少なくとも、そう感じられるだけ、わたし自身はまだ終わっていないのかもしれません。
(そのことは少しだけわたしの心を暖めてくれます)

おわりに

夏も盛りを終えましたね……いやコミケのことではなくて、一般的に。
方々に残暑見舞いでも出そうかな、と思っていますが、どうなることか。
毎年夏になると嫌気が差してくるのですが(夏嫌い)、今年は冷夏で過ごしやすかったです。
とくに実家は涼しかったです。
その代わりに湿度が高く、異常気象でしたが。

本日のBGM:サラサーテツィゴイネルワイゼン」(重厚なオケの上に物悲しく弾き倒すヴァイオリンが乗って、ってな感じで、これこそヴァイオリン協奏曲だな、と思うことしばし)