残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

読書日記

何か今日の記事のタイトル、やたらとクサいですね!
書いておいてなんですが。
それから、今になって言うのもなんですが、毎回日記のタイトルが何か詩のタイトルのようになってますが、これには何の意味もありません。
本心を隠喩で隠しているとか、社会に対するオピニオンだとか、何か名状しがたいもの(クトゥルー神話体系的な)と交信しているとか、そんなことは一切ありませんから。

読書日記

よし、本日はちょっと本気出して、美水かがみらき☆すた』7巻の感想&考察をしてみましょう。

6巻でこなたたちが卒業、それによってタイムループ制度の取り止めが行われました。
7巻はその流れに基づき、こなたたちの大学生活の描写(と書いておきます。若干の疑問ありですが)、
そして、1年生組の進級・パティ・いずみ参入という構造上の変化がもたらされました。
で、この変化によって何が起こるかというと……人によってはここで「本家『らき☆すた』」というコンテンツを見限る人も出てくるかなぁ、というわたしの予測です。
とくにアニメから入った人は。
ちなみにわたしの『らき☆すた』歴は、単行本1巻発売よりもさらに前、コンプティークでぼちぼち人気が出てきたころから読んでました。いや別に自慢するわけではないですが(でもこの文脈は誤解されるよな)。

話を戻しますが、何で見限るかというと、彼らアニメ参入組(と便宜上呼称します)が求めるものは、あくまで「こなたたち四人組が陵桜学園でゆるネタを(キャッキャウフフ込みで)繰り広げる」という点に集約されると思います。
ここで重要なのは、「四人組が」「陵桜学園で」という二点です。
これにはいくつかのエレメントが含まれています。
それら今までの『らき☆すた』を構成する要素が削られることによって、それによって「もうこれは『らき☆すた』ではない」と目されてしまうのではないか、と危惧するのです。
「四人組が」「陵桜学園で」の二点。
まず、四人組の「関係性(ボケ・ツッコミの相関性)」が常に成り立っているか否か、ということです。
これが成り立たないことには「らき☆すた」にあらず、と目する向きもあるでしょう。「こなかが」なんてその急先鋒ですよね。
そしてそれを成り立たせているのは、実は「陵桜学園」という「場」にあるのです。
ま、単純な話で、高校生だったら嫌でも一緒にいることになるよね、という話です。
大学生になるということは、顔を合わせる機会が減ることになります。しょうがなく。
それでも四人組を「常に」一緒にいさせよう、ということになると、「あんたら大学で友達いないの?」ということになってしまいます。
もっともそのあたりは作中ではさりげなくスルーさせてるというか……仲良いことはいいことなんですけどね。
らき☆すた』のあのまったり空間を構成している要因の一つ「(四人組における)学園」が失われた、というのは、ひとつのターニングポイントかと。
その「場」が失われた、ということは、四人の関係性にも若干の変更が生じることとなり、それは作品全体のノリをも変化させることとなります。
それに単純に、こなたたちが高校生だからこそ萌えていた、というところもあるかと思います。
すっげシンプルに言うと、「制服着てるからこそ萌えるんだーい!」ってな理屈ですね。
このように、いくつかのものが失われたわけです。

結局、編集部サイドは(美水氏も?)、アニメとの同期という意味と同時に、制服、じゃなくて「学園」の消失を回避させようとしてタイムループを導入したのだと思います。
いわばまったり空間の永遠性を確保しようとして。
しかしともあれ、そこからの脱却が図られました。
動き出した時間は元には戻りません。
もうこうなったら不退転である、ということは美水氏をはじめとした『らき☆すた』関係者皆が思っていることでしょう。
そして実際、7巻からはいくつかの「テコ入れ」が行われています。
その最たるものが新キャラの導入です。
わたしは、これは結構いい傾向に行っているのではないかと思っています。
パティにしてもいずみにしても、キャラが立っていて、そして作中での役割をしっかりとこなしています。
とくにいずみですが、「隠れオタ」というのはかつて描かれていなく、しかも世間ではそれなりに実感を伴ったネタなので、これからの発展が期待されます。
ただそれによって『らき☆すた』全体の全面的な刷新(膠着してしまった状況のブレイクスルー)が図られるかというと……これは積み重ねてきた(あるいは、「ファンのみんなによって」積み重ねてきた)世界観の大きさがありますよね。
何回も言いますが、こなた、つかさ、かがみ、みゆきの四人組によって定着したイメージというものがいかに大きかったか、ということを思い知らされます。

美水氏は苦労しているだろうな、と思います。
ファンの期待に応えるためにはヘタなものは打てないわけです。
なので新たな地平に足を進めないといけません。
けれどファンは「革新性」を必ずしも求めているとは限らないのです。
なにせ、『らき☆すた』ファンは、何より「まったり」を求めているわけですから。
そしてこの変化によって、旧来の、とくにアニメ参入組のファンは離れていってしまうかもしれません。
しかしこなたたちは卒業してしまいました。もうもとには戻れません。
……ともあれ、美水氏は決断したわけです。
ならば美水氏のファンとしては、「陵桜学園での四人組のゆるネタをもっとやってくれよ〜」と懐古的なことを美水氏に求めるよりも、
果敢に美水氏が描こうとする新たなゆるネタ(なんか矛盾した言葉?)に期待するというのが筋というものでしょう(『らき☆すた』をネタとして楽しもうとする向きに関してはこの限りにあらず)。
そしてこの「新たなネタ」ですが、美水氏がネタの質という面で新たなフェーズに入ったということが、この7巻を通してわかります。
一読してゆるゆるな感じで読んでいてもわかる、というのが『らき☆すた』のネタの特徴ですが、しかしこの7巻では、行間を読ませるタイプの、少し考えなくてはわかりにくいようなネタがたまにあります。カラオケのネタとか(「フラグキタコレ!」)。
また、コマ間の流れを重視した、グルーヴ感に面白さの強度を託したネタもあります。ひかるセンセの髪型のネタとか。
……普通の四コマに近づいた、と一発で言ってしまうことも可能なのですがー。
今までが「理想型の萌え四コマ」としてチューニングされすぎてた、といいますか。
それから単純に、絵柄も変わりましたしね。縦に頭身が伸びたというかシャープになったというか。いえ、全然嫌いじゃありません。あ、それと、「鼻」については言わなくてもわかりますよね?

最後に。ラストのストーリー漫画ですが、いいじゃないですか。
ダイナミックなコマ構成でなかなか読ませます。
四コマ漫画家のストーリー漫画というと、定型的なコマ割りか破綻したコマ割りかのどちらかしかないのですが、本作はそんなこともなく。
まあ細部を詰めて言えば、まだ「若書き」的というか、手法にこだわったが故の固さが目立つところもありますが、それはまだ将来性があるということ。
将来性といえば、『らき☆すた』をはじめて読んだとき、「何て固い絵なんだろう」と思ったことを今でも覚えています。
「固い」というのは、「完全に型にはまった絵」ということです。
その先の発展が見込めないほど。びっくりするほどでした。
正直、最初『らき☆すた』に注目していたのも、今のようにキャラの魅力とかという以前に、その「絵」のあり方に興味があったからなんですよね。
まあ実際は「その先」はあったわけですが、ああいう感慨を思わせる絵というのもそうそうありませんでしたね。
思い出話ですが。
今は素直に好きですよ? 美水氏の絵。
ていうかさ、ここまでこの作品がヒットコンテンツになるとは思いませんでしたよ。
ネタ、さすがにゆるすぎだろうと思っていたので。ここまで支持を得るとは。
けいおん!』のときもそうだったけどさぁ。

小説進行状況・近況報告

ちょっと最近人生の転機を迎えているようで、それにかかりきりで小説に手がつけられない状況です。
そんなわけで小説停滞中。10月完成はちょっと無理そうかなぁ?
あーあ、やっぱり、の声聞こゆ。
でもなぁ、ちょっと本気で決断を迫られているからなぁ。
詳しくはここでは書けませんが。あまりにもプライベートすぎるので。まあもうしばらくして軌道に乗れば書けるかなぁ、と。
困ったなあ。

本日のBGM:ピクシーズ『ドリトル』(わたしが世界で一番好きなバンドの2ndアルバム。ポップさとノイジーさ、「何かすごくヤバいことがすでに終わってしまった」みたいな感じの独特な歌詞、ブラック・フランシスのハイトーン・ヴォーカル、そして断末魔のような絶叫、キム・ディールの童女のようなコーラス……このバンドについてはほんと語りだしたら止まりません)