残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

Frederick on the Knife-edge(ショートショート・小説)

○Frederick on the Knife-edge

フレデリックは今まさに歯車の街を出ようとしている。
鉄さびのような茶色をした荒野の中の街、
太陽は白くていつも薄い雲がかかっている。
町のはずれは数千メートルの断崖絶壁、
底を見れば深い闇に落ち込んでいく。
そこに、街を動かす機関のための歯車がある。
大小さまざまの歯車は、縦にいくつもいくつも絡み合う。
大きいものは百メートル、小さいものは数ミリ、
それらがかみ合って、かみ合って、
きりきりと、かたかたと、耳障りな機械音を立てて、駆動している。
それらが密集して並んでいる様は、まるでベルトコンベアーのように見える。
ただし、たどり着く先は歯車の間。
そこに巻き込まれたら命はない。
だが安心するがよい、たとえ巻き込まれてそこに血さびを残したとしても、
その日のうちに洗い流され、油をさされ、
何事もなかったかのように機関は動く。
機械文明のあけぼのである。
ハラショー!

だがフレデリックはそんな歯車の上を、
まるで何でもないことのように、ぽんぽんと飛んで歩いていく。
ステップを踏むように、大きいの、小さいの、中くらいの、というように、
ぽん、ぽん、ぽん、と歯車の上を歩いていく。
飲み込まれることはない。
すり潰されることはない。
彼はどこでそのような芸当を覚えたのだろう?
汗ひとつかかず、顔色ひとつ変えず、
乾ききった風の中を泳ぐように、その挽肉機(ミンチ・メーカー)の上を……。

彼以外にはそんなことを出来る者などいなかった。
彼以外、だれもそんなことをしようとは思わなかった。
考えもしなかった。
街の中で一生を安全に過ごすことしか考えなかった。
だがしかし、彼に恐れはなかった。
そればかりか、この歯車の上をあるくことが楽しくさえあった。
タイミングを覚えてしまえば楽さ、すべてはコツさ、
だって僕はこれが出来るんだから……それがすべて。
彼はそう思っていた。

しかしやがて歯車の連続は終わる。
そこには何もない。
ただの「空中」だ。
切り立ったこちらの絶壁と向こうの絶壁の間には、巨大な「空間」のみが広がっていた。
歯車が回りきったら、あとは谷底へ落ちていくしかない。
そう、皆これを知っていたのだ。
億分の確率を潜り抜け、歯車を歩いていったとしても、
どこにも行けないのだ、ということを。
何にもならないということを。
歯車が回りきったら、
あとは。

だがフレデリックは知っていた。
ナイフエッジよりも細いものではあるが、
確かに空中には見えない足場があると。
だからフレデリックはためらわずに空中に飛び出した――ひょいっ、と。
そして、確かにそこに足場はあったのだ。
ちょうど両足分くらいの大きさしかない、小さな丸い足場が。
ここにあるなら次もある。
そしてフレデリックはその足場がどこにあるかを「実感」している。
迷うことはない。軌跡はすでに頭の中にある。
フレデリックは自らが信じるままに体を動かしていった。
彼は、今まさに空中を歩いていた。
遠くからその姿が見える。
彼が過ぎ去った街からその光景が見える。
人々はそれを見ている。
犬であることに、豚であることに安んじている人々は、
彼の姿を見てすべての思考・判断がショートしてしまった。
しかしフレデリックはそんなことはつゆ知らず、
ただ自らの体を動かしていくだけ。
止まったらはるか彼方に落ちていってしまうのだから。
だがそんな彼の心地よい必死さなど、民衆には知りようもない。

やがてフレデリックは対岸へとたどり着く。
空中の見えない足場から、この大地に足を下ろす。
そして彼がそこから広がる荒野を見たとき、
急に彼は得体の知れない困惑に襲われた。
荒野は無限に広がっていた。
右を見ればどこまでも荒野は伸びていき、
左を見ればどこまでも荒野は伸びていく。
そして前に広がる荒野の果てしない大きさは、
おそらく一生かかっても果てまでたどり着けることはあるまいと予感させるほどだった。
この先に何があるか分かるはずもない。
誰に聞いても教えてくれはしない。
ましてや自分に聞いてなど――このとき彼は知ったのだ、
自分の小さな勘など、
今まで上手くやってきた直感的な「コツ」など、
この荒野の前では何の約にも立たないということを。
そして彼は――ただただ、「わからなかった」。
これから自分がどこへ行けばいいのか。
これから自分が何をすればいいのか。
今まではそれがわかっていた。
歯車の上を歩いていけば、足場の上を歩いていけば、
それで世界はにっこり微笑んだ。
つまりは、彼はその行為の楽しさしか考えていなかったのである。
どこへ歩いていくのか、
難しい道を歩いていったあと、さらにどこに歩いていくのか、
彼は考えていなかった。
この先の荒野が、こんなに薄ら寒いほど広いとは思っていなかった。
――誰か教えておくれよ。
だがその問いは荒野のほこり風の中に吸い込まれていく。
誰も教えてくれない。
この先延々とみじめに学びながら、選択しながら歩いていくしかない。
この道こそが、フレデリックにとっての、真のナイフエッジだった。

全世界のフレデリックたちよ、
荒野はうんざりするほど長丁場だ。
健闘を祈る。

(おしまい)