残響の足りない部屋

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読書日記:原作版『けいおん!』について

読書日記


お久しぶりの読書日記です。今回は、先日発売され、アニメも大団円を迎え、ついには劇場版制作にまで至った、かきふらいけいおん!』第四巻について、ものすごく個人的な話をしたいと思います。
まずはじめに断らせてください。今回の読書日記に限っては、わたしと日ごろけいおん百合妄想談義に花を咲かせていただき、そして、熱く漫画論を交わさせていただいている親愛なる友人、義実たかさんにとりわけ読んでいただきたく、こうして書いています。もちろん、いつもの読書日記のように、ネット上で自分の思いを吐露し、いろんな人に読んでほしいからこそ、こうしてブログでアップするわけです。が、今回の読書日記は、まず義実さんにお読みいただきたいのです。それは、けいおんを共に愛好してきて、そして、「漫画読み」として義実さんと語り合ってきたからこそ、吐露せざるを……白状せざるを得ないからなのです。


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一言で結論を言えば、わたしは、『けいおん!』原作漫画版を愛していると常日頃から言っておきながら、実際は、完結してはじめて自分の中でその重さが分かったという大馬鹿者だった、ということです。


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以下、極めて個人的な、わたしと『けいおん!』との関わりです。
わたしは2009年の初頭にかけて、自分が書きはじめた音楽小説(それがやっとこないだ完成したんだから、どんだけ時間がかかってるんだよ……)の参考資料にと、様々な「音楽を題材とした作品」を調べ、興味の赴くままに読んでいました。例えば『さよならピアノソナタ』(この作品が自分のとネタや発想がかぶってないかビクビクものでした。幸いそれは回避されましたが)。例えば『S線上のテナ』(読んでみて、「音楽を題材とした作品」というよりは「音をモチーフとした作品」であることに気づきました。とても面白かったですが)。そして、この『けいおん!』でした。2巻発売直後、そしてアニメ化決定ということがあって、ちょっと注目された時期でした。
一読した感想は、「まったり系でもらき☆すたや、ましてやあずまんがほどコンセプチュアルでもないし、トリコロきゆづき作品ほど革新的でもない。普通にきらら系萌え4コマだなぁ。」でした。らき☆すたひだまりスケッチ以降この流れは確定したようなもんだなぁ、とか思いながら。でも、読後感は、「嫌いじゃないな」でした。漫画として拙いとはいえ、扱っている題材がもともとわたしの好きなものでしたし、キャラ立ちや舞台設定、作品の雰囲気も好感が持てました。
その後、この漫画を読みながら、ぼんやりとエレクトリック・ギターを弾いていました。わたしはこの漫画を読む以前からギターをやっていました。そういうわけなので、わたしのギターはけいおんがきっかけというわけではないです。今オタがバンドやってるっていうと、十中八九けいおんの影響だろって言われますけど。絶望先生ですでにネタにされてますけど。まあそれはともかく、ピックアップやアンプで音を作って(その頃はまだエフェクターの冥府魔道に足を踏み入れてなかった)――高音域を削り、中〜低音重視のまろやかな音像にしてブルースを自分流に演っていい気分に浸っていたのです。
そうして、ちょっと演奏して、ちょっとけいおん読んで、またちょっと演奏して、またちょっとけいおん読んで、ってなことを繰り返しているうちに、段々妙なグル―ヴが生まれてきて……というか、けいおんとわたし(の演奏)との間に不思議と共振作用のようなものが生まれてきたのです。どういうことか? 今考えると、これは軽音部がもともと「そんなに上手くない連中がのんびり楽しそうにゆるゆると演奏活動している」というものであって(梓加入以後の「HTT」となっても、原作では基本的にこのノリは変わりませんでした。具体例:第一期アニメ最終回時とは異なる、文化祭ライヴの大失敗)その在り様に、一向にギターの腕が上手くならない自分でも、自分なりに演奏を楽しんでいいんだ、と励まされ、勇気づけられたからなのでしょう。きっと。
そうしたら、段々、このけいおんという作品が愛おしくなってきたのです。少なくとも、ギターを演奏することにゆとりを持って楽しむようになりましたし、また、演奏経験者だからこそ、このけいおんという作品をより立体的・具体的に、詳細に把握できたので、この作品の世界により「入って」いくことが出来ました。けいおんは演奏者としての自分を励まし、演奏者としての自分は漫画読みとしての自分に、けいおんを見る目の補正をかけました。
そんなわけで、わたしはけいおんを、世間の評価とは無関係に、至って極個人的、超私的に愛好するようになりました。それはわたしとけいおんとの親密な時間であり、空間でありました。他の人がどう思おうと(そしてそれが容易に想像できようと)、わたしは構わない、何故ならそれは「わたしの思い出」だからだ、と思っておりました。


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で、アニメ化です。当然のように見ました。見て、「おお、ちゃんと面白いアニメに仕上がっている。よかったよかった」と、ほっと胸をなでおろしたものでした。
……ところがぎっちょん、皆様ご存じのあの大ヒットです。これにはわたしもたまげました。
澪モデルの「レフティベース購入騒動」……おいおい嘘だろ?
同人界で湧きおこる百合妄想……その夏のコミケけいおんというジャンルが突如現れ、一斉に盛り上がりました。
「うんたん」「モエモエキュン」「澪は俺の嫁」……けいおんはオタ文化で炸裂し、果ては社会現象にまでなりました。
社会現象!
誰がここまでなることを予測できたでしょうか? あるいは、出来た人もいたのでしょう。しかしわたしは無理でした。あのけいおんがここまでの怪物的コンテンツになるとは、本当にわたしの予測の範囲外でした。
まあ何だかんだでわたしもアニメをしっかり見ました。同人には手を出しませんでしたが、作中の「ムギビジョン」に後押しされ、律×澪百合妄想に想いを馳せるようになりました。けいおんがヒットしたことはよかったです。自分の好きな作品が適当に扱われて、その後まるでなかったかのごとくポイ捨てされる、なんて状況にならなかったことは素直に喜ばしいことです。
ですが……わたしはファナティック(狂熱的)なけいおんファンの暴走――わたしから見たらそれは事実上の暴走に映りました――に「ついていけない」と思うようになりました。東方でも同じことがありました。最初は個人的に楽しんでいたのが、段々まわりが狂熱的になっていって、やがてそれは奔流となり、自分の手の届かないところで猛烈に暴走する、という。
その内段々、わたしは東方と同じように、けいおんを「原作だけ楽しんでいよう」と思うようになりました。アニメは留保なく優れていました。その結果は結果として喜んで――事実、わたしはアニメのいくつかのシーンで深く感じ入りました――、一方で、「けいおん現象」の情報を取り入れるのは止めよう、と思いました。よってけいおんといったらわたしは、原作を読む「原作派」になりました。それは、わたしとけいおんとの親密な思い出を失いたくなかったからのことでした。


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そして年末、けいおん第三巻発売になりました。書店には、1巻2巻、それからアニメ公式本と合わせて平積みになっていました。
わたしは三巻を読んで、とても嬉しくなりました。かきふらい氏が、漫画家として「上手く」なっているのです!ちょうどその頃義実さんが「三巻はアニメの良いところを逆輸入している」と書いていらっしゃったのを読んで、それは漫画にとって良いことだ、と思いました。そして、表現技法も、1・2巻の頃には「硬さ」がいくつも目立ちましたが、3巻ではスムーズなものとなっていました。漫画として普通に面白い。僭越ながら、かきふらい氏の漫画家としての成長がとてもとても嬉しかったのです。正直、「社会現象」になったことより、そっちの方がずっと、わたしにとっては嬉しかったです。「漫画読み」としての自分には。


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で、「レッツゴ―!」で、第二期アニメ化決定。そして、第二期開始。加熱は、留まるところを知りませんでした。社会現象「けいおん!!」は、わたしの手の届かないところにありました。第二期のアニメもしっかりと見ました。とても面白かったです。先日(当方二週遅れで放送されます)の卒業式なんか、本当に良かった回でした。
ただこの四月からの状況の過熱ぶり――いわゆる「けいおんは生きがい」――に、わたしはやはり、とてもついていけませんでした。とても。
けいおんファンたちの思考が理解できなかったわけではありません。むしろ冷静に、「なるほど、今のオタはこういう反応をするのか」と見ていました。自分たちが萌えて萌えて仕方がないコンテンツが、出すもの出すものすべて良作で、次々にヒットしていったら、この反応もなるほど、と思います。何かに夢中になるということは、掛け値なしに素敵なことです。
ただ時折聞こえてくる、ファナティックなファンたちの暴力的なまでの偏執ぶりに、「それは……」と思ってしまったことも事実です。そしてけいおんが、かきふらい氏の手を離れて、ひとり歩きしていっているように思えてならなかったのです。それは今にはじまったことではありませんが、劇場版決定の報が飛び交った先日のネットを見て、いよいよそれが極点にまで達したように思いました。去年のコミケから、けいおんは何度も同人イナゴに食い荒らされました。過度の貶しも多ければ、過度の絶賛も多いです。
いつしかわたしは、あのけいおんと、ギターを弾いていたわたしが親密だった時期を懐かしく思うようになりました。――懐かしく! おいおい勘弁してくれよ、たった一年前のことじゃないか? けれど、状況は一年前とあまりにも様変わりしていました。
「わたしのけいおんはどこに行ってしまったのだろう?」
アニメを留保なく楽しみながらも、律×澪百合妄想を考えながらも、頭の小さな片隅で、そうふと思ってしまうことがありました。


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そして先日、『けいおん!』第4巻を読みました。先にわたしはアニメを見ていました。よって比較して、原作の方がゆいあず分が多いな、とか、「感動」の一点で語るなら原作は確かにアニメに劣るな、と思いました。『きらら』本誌を読んでなかったので、エピソードはアニメの方で先に見てしまった、という現象が起きていたので、「かきふらい氏はアニメ映えするエピソードを書くな、そこからアニメスタッフが膨らませていったのか」とも思いました。つまり、改めてかきふらい氏の「ネタ供給作家」(これは福嶋亮大氏の議論に則るならば「神話作家」と同一であります。例えば、ZUN氏のような)としての才覚を認識した次第であります。
表現技法の点でも、3巻で磨いた腕をさらにバージョンアップさせて、スムーズなストーリーテリング、ノリの良い掛け合い、そして単純に、表情の描き方そのものが豊かになっています。
で、一読して思った感想は、「アニメに比べてゆるゆるだなぁ〜」でした。かきふらい氏に失礼ですが、アニメで感動した人は、このゆるさに拍子抜けするのではないか、と思ったくらい。
しかし、はっと気付きました。
「そのゆるゆるさこそがけいおんじゃないか!」と。
かきふらい氏は、そのノリのまま、下手にシリアスなんか入れることなく、感動を狙うわけでもなく、1〜2巻のノリのまま、最後まで描き切ってくれたということにわたしは気付きました。
そして読み返して、つくづくこう思いました。
けいおんはどこにも行ってやしなかった。わたしが状況の過熱っぷりを知らず知らずの間に意識しすぎていただけだった」
と。
……わたしは、自分が情けなくってしょうがなくなりました。何が「原作派」、何が「漫画読み」だ。何をもってわたしはそう自称していたんだ。原作を虚心坦懐に読めば、「原作」けいおんの本質が変わっていないことがわかるじゃないか。そのことに、漫画が完結したことによってはじめて気付くなんて、わたしは大馬鹿野郎じゃないか!!……本当に、本当に、自分が情けなかったです。わたしは余りに、「他のこと」に気を取られっぱなしであったのです。状況から離れると決めておきながら、知らず知らずのうちにわたしは状況を気にしていました。わたしは、「わたしにとってのけいおんの本質」を見失いかけていました。
そして、けいおんという漫画はもう終わってしまったわけです……潔い終わり方でした。物語的にも、メディアミックス上の同期的にも、これ以上ないくらい「引き際」を見定めた終わり方でした。そしてわたしは、4コマ漫画『けいおん!』と時を同じくできる機会が失われた事実を、失ってはじめて気がつきました。確かに、今手元に四冊のけいおんの単行本はあります。また、あの「親密な感情」を抱くことができます。今なら、昔のように。いや昔以上に。けれど、けいおんの物語は終わってしまい、エピソードはこれ以上増えることはないのです。
義実さんは、10月でけいおんのアニメが終わることを恐れていらっしゃいました。なるほどこの方にとってはこのコンテンツはそれほどまでに魂を込めて熱を入れておられるコンテンツなのだな、と前々から思っていました。その喪失感を早い時期から予期されていた、という義実さんがいかに聡明であったかを、今更ですが、改めて理解します。
それに比べてわたしは真に大馬鹿野郎です。周りの喧騒と暴走に気を取られて、「親密な感情を抱ける漫画」が終わってしまうという事実に今の今まで気づかなかったのですから。漫画版が終わって、「その時点で」漫画版の価値の重さを気付き直すなんて!
何が「原作派」だ! 何が「漫画読み」だ!!

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今自分の愚かさの次にけいおんに関して気になっていることは、劇場版よりも、かきふらい氏の今後の漫画家人生です。
わたしは恐れています。かきふらい氏が「けいおんの次作」というプレッシャーに潰されてしまうことを。
否、あるいは、よほどの漫画を描かないと、けいおんと比較され、おそらくは低く評価されてしまうでしょう。それほどまでにけいおんは怪物的コンテンツになってしまいました。
種を蒔いて若葉が芽吹くまではけいおんかきふらい氏の作品でした。「肥料」が与えられて、さんさんと日の光が当たる場所に出されてから、けいおんかきふらい氏の手を半ば離れて成長していきました。そして大輪の花を咲かせたけいおんという「コンテンツ」は、本当に巨大になりました。「これ」を越えるためには、並大抵の努力では……いや、「一介の漫画作品ひとつ」で対抗できるかどうか。もちろんわたしは漫画を愛していますし、漫画の力を信じています。ですが、このポストモダン資本主義社会が生み出した「コンテンツ産業」という化物を相手取るのはさすがに分が悪いです。
相手取らなくてもいい、との意見は確かに正論ですが、しかし、「けいおんの次作」を描くということはそういうことなのです。出版社からの、アニメ会社からの、「けいおんが切り開いた」社会からの、そして何より無数のオタクたちのプレッシャーを受けながら描くということ。
かきふらい氏の才能――けいおんがそもそもアニメ会社に「発掘」されるに至ったのは、やはり氏のキャラ立てとゆるゆるな雰囲気作りの才能にあると思います。そして氏には、けいおん連載で得た次世代萌え4コマ漫画家としてのスキルもあります。だから、次作もきっと面白い漫画を描いてくれるだろうと信じています。
ただけいおんファンは……いや、もう彼らファンのことをわたしは気にするのを止めにしましょう。それでは前と同じです。だから、わたしはただかきふらい氏の次作を期待します。じっと待ちます。
しかし……問題はかきふらい氏が次作を描こうとする意志があるかどうかです。けいおんでいくら儲かったかとかそんな無粋なことを考える以前に、けいおんで味わったプレッシャーを(あるいはそれ以上のプレッシャーを)また抱く生活を送るくらいなら、と思っていたとしたら……。
プレッシャーに潰される方が弱いと言う人がいるなら、それは「ヒットした作家が潰される瞬間」を真に見たことがない人だと思います。今のオタは、「裏切られた」と思ったらすぐに潰しにかかります。それはそれは恐ろしいものです。年々「潰され方」は悲惨になっていきます。そしてオタは潰すことにためらいをもちません。「火事と喧嘩は江戸の華」と言いますが、それが何十倍にも膨れ上がったのが今のオタ社会です。あの麻枝准氏ですら『智代アフター』のアンチ感想に「心が折れかけた」と言わしめるほどだったのです。あるいは、それを「恐ろしい」と思う感覚が麻痺しているのが今のオタ社会なのかもしれません。
だから今は、かきふらい氏には鋭気を養ってもらうための休養が必要だと思います。
そして次作が発表されたら、今度こそ、「漫画読みとして『漫画自体』を読む」ことを心がけます。
願わくば、またあのように親密な気持ちになれる漫画を描いてくれますよう。
今はただ、氏に静かな安らぎがもたらされることを祈って……。
長文にお付き合いいただきありがとうございました。以上がわたしの『けいおん!』第四巻を読み終わっての感想です。
――けいおんを語るとなると、どうしたってこの狂騒の状況を語らずにはいられませんでしたから。


本日のBGM:この記事を書くにあたってはあえてかけませんでした。