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読書日記:『らき☆すた』8巻について

読書日記

美水かがみらき☆すた』8巻

率直に言いまして、原作漫画版のらき☆すたに関しては、今が一番面白いとわたしは感じております。
これは、前回の読書日記での「私的けいおん問題」が尾を引いて、いささか神経質に「世間の評価は気にすまい」として、自分で持ち上げている? いや、たとえそうだとして、それを考慮した上でも、素直に「漫画として面白い」と断言できる、そう思っています。
具体的に言及していきましょう。まず、「ネタの切れ味」が、かつてよりもぐんと「上手いとこ突いてくるな」と思ったものでした。というか毒・皮肉が鋭く差し込むようになっています。以前ならば「一般的ヌル萌えオタ」に配慮して、ゆるゆるな空気感を壊さない程度の穏当なところにとどめていたオタ皮肉(自虐)ネタが、近刊になって、より「身に迫る」ものになってきました。いささか酷な例えで申し訳ないのですが、「月並み俳諧」が「鋭い川柳」になったかのような感すらあります。
例えば、恒例の表紙4コマですが、これだけとってみても、ずいぶん思い切った自虐に走ったな、と言えます。また、本巻最初の話の、いずみがひよりを「隠れオタ」ゆえに弁護出来なかったネタ(P6・「キャラクター」)からして、こうまでオタとしての悲愴感・人間模様について突っ込んだ描写をするのも、以前ではなかったことです。
――人間模様? それはらき☆すたというコンテンツから縁遠いものでありました。こなたたちらき☆すたキャラの関係性を考えると、初期〜中期に至るまでは、それは萌え的記号性・様式性の枠を出ていなかった、と言わざるを得ないでしょう。これは貶しているわけではなく、「だからこそ」らき☆すたは一世を風靡した萌えコンテンツとなったのです。その記号性・様式性のヌルい関係性(が理由のひとつとして)ゆえ。
しかしここで描かれているのは、「萌えキャラの思考の類型的シミュレート」ではなく、ひとつの「思考の綾」です(基礎となっている存在が萌えキャラだとしても)。言い換えれば、美水氏はそれだけのものを、従来の極めて優れたキャラ立ちの上に成り立たせているのです。思考が生みだす「空気感」を描くこと込みで。それは7巻のひかる先生がふゆき先生をねぎらう場面でも見られましたし、何より今回の描き下ろしである、いずみがひよりを弁護出来なかったことを謝り、それをひよりが(あえて自覚的に)「いい話」で解消させる、というエピソード。確かにギミック的な面に走っているかな?と思ったところもありますが、しかし「キャラも、ネタも、ネームも練られたものだな」と思いました。そこには確かに味があり、ある種の深みがあり、それは美水氏の漫画家としての脂の乗り具合を感じさせました。
――味? 深み? 脂の乗り具合? ……それは「円熟」でありますが、従来らき☆すたにおいて「円熟」といえば、「これまでの芸風のマンネリ」を指すものでした。残酷に言えば。そしてらき☆すたファンは、そのマンネリ自体を楽しむ、という、傍から見ればいささか倒錯した楽しみ方をしていました。が、そもそもらき☆すたの魅力の一端はそこにありました。四人組のいつまでも終わらないゆるゆるな高校生活。それが卒業→新キャラ導入という、7巻以降で変化したことにより、ファンはらき☆すたに対して、自らのスタンスを考え直さねばならないようになりました。
わたしのスタンスは、一年前に書いた以下の記事のようなものでした。
http://d.hatena.ne.jp/modern-clothes/20091017/1255769495
このように、わたしはこの変化を肯定的に捉えました。……が、よく考えてみたら、「らき☆すたの円熟」とは? そもそもらき☆すたは、その内容に味や深みのないところが、「逆に」独自の味を生んでいるというものでありました。小難しく言えば「ポストモダン的文芸性」といったところでしょうか。物語のないところの物語。それは 文芸界において、しばらく不可避的な筆頭のテーマであったところでありますが……脱線するので割愛。
しかしらき☆すたは、上に書いたように、いよいよその内容において、「人間的陰影」を持つようになったというか、「記号の戯れ」に留まらない「内容」を持つようになったというか。わたしはそれを肯定的に捉えますが、しかし否定する人も多いでしょう。それは想像がつきます。が、残酷に言ってしまえば、これは後にも触れますが、美水氏は「みんなのための消費コンテンツ:『らき☆すた』」を描くことから、別のフェーズへと移行した、と言えるでしょう。言い換えれば、美水氏がいよいよもって自らの固有的な「作家性」を獲得した(取り戻した)、ということです。わたしは漫画読みとしてそれを喜ばしく思いますが、コンテンツ産業=オタク業界的にはどう映るでしょうかね……結局今のオタが求めているのは、「ネタ供給作家」なのですから。

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美水氏の円熟。それは一年前の記事にも書きましたが、「ネタの強度」に表れています。そして「ネーム力」。例えば33P「ガス兵器」。これはネタをカメラワークの移動によって成立させている、いわば「静」のネタですが、4コマとして見て、これは「上手い」です。時間の経過と緊張感を同一方向のカメラワークの「絞り」で表現し、最後に一言でオトして締める。「緊張と緩和」……とまでいうのが言いすぎだとしても、これは確かな「時間・空間・空気の把握」=「漫画的実力」によるものです。
また、細かく見ていけば、美水氏がこの漫画を描くにあたって、細かい機微にまで注意を払っている「丁寧な作品作り」をしていることに気づきます。例えば登場キャラのファッションにしてもそうです。こなた、かがみ、つかさの1巻と8巻の私服の違いをご覧ください。初期においては、かがみだったらシャツにネクタイ、つかさだったらオーバーオールでした。大体において。ところが近作になると、格段にバリエーションが豊富になっています。もちろんそれは彼女たちが大学生になったから、というのもありますが、近刊の描き下ろしキャライラストを見ても、美水氏の服装に対するこだわりは見てとれます。細部へのこだわり。これもまた「円熟」のひとつです。
絵柄に関して言えば、カラー(塗り)はそれほど変化がないものの(細かく言えば、表紙絵などの塗りは、やや柔らかく、そしてコントラストが少し鮮やかになった傾向がありますが)、上の一年前の記事でも書いた「絵柄の硬さ」は、現在ほぼなくなったと言えるでしょう。具体例を見るならば、やはりこれもまた描き下ろしキャライラストをご覧ください、と言えます。
あるいは、世間は美水氏に円熟など求めていないのかもしれません。何となくそんな気がします。萌えるネタだけ供給してくれればそれでいいよ、と。それは、現代のオタの率直な声なのでしょう。ネタ・コミュニケーションを第一とする世代……別にとやかく申し立てする気もないですし、好きな方は御随意に、としか言いようがありません。ただわたしは、オタと漫画読み(漫画愛好家)のどちらのスタンスを取るか、と言われたら、迷わず「漫画読み」と答える人間でありますから(この二者が分かてるものかは今しばらく置きます)、わたしは美水氏の円熟を素直に喜びます。漫画読みとして。

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ただ、もうらき☆すたを「同時代的コンテンツ産業」として祭り上げてやろう、なんてことはしなくていいんじゃないかなぁ、と思うのです。8巻に挟まれた大量の広告を見て。
らき☆すたは時代遅れ、としたり顔で言う人、結構いるでしょうね。数年前はあんなに盛り上がっておきながら。こなたはかがみはつかさは俺の嫁とか言っておきながら。ホント最近のオタは数カ月ごとに嫁が変わるよ。
しかし8巻を読んで、らき☆すた本編のポテンシャルは落ちていない、としみじみ思いました。だって漫画として面白くなっているんだもの! そして、キャラの立て方、動かし方も、往時の煌めきを失っていません。少なくともわたしはそう感じます。
……飽きた? みんな、飽きてしまったのでしょうか? 鷲宮町も、聞くところによれば往時の賑わいが衰退していっているようです。
しかし角川によるらき☆すたのメディア展開はまだ止まりません。やれることは全部やろう、という意気……というよりある種の意固地さがあります。化学参考書って何? 何で料理用品に? カメラに? しょーじき、稼げるだけ稼ごう、とする「メディア展開」に見えて仕方がありません。
「あの時代(=ブレイク期)」をもう一度……それはらき☆すた関係者皆が思っていることかもしれませんが、もう、美水氏をその呪縛から解き放ってもいいのではないでしょうか? むしろ、美水氏の漫画家としてのチャレンジャブルな試みをバックアップする方へとシフトすれば、と思います。
あるいは、「あの時代」がもう一度到来するには、京アニによる第二期アニメ化が必須なのでしょう。そしてそれは、上手くいけば成功するかもしれません(その場合には、かなり周到な計算が必要とされますが、角川=京アニはそれをやってのけるでしょう)。ひょっとしたら、第二の黄金時代を迎えるかもしれません。しかし……しかしわたしが問題としたいのは、その輝きが真にナチュラルなものであるかどうか、ということなのです。
少なくとも今原作版は、ナチュラルな輝きを放っています。それが、漫画を虚心坦懐に読んでわたしが思ったことでした。
第二のらき☆すた黄金時代が到来したとして、またオタは盛り上がるのでしょう。そして……また飽きるのでしょう。そんなものか、と半ば傍観します。
ですが、らき☆すたを真に愛している人は今でも熱烈に愛しています。例えば三上小又氏。数か月前に発刊された『破顔四笑』、これは本当にらき☆すた愛に満ち溢れた同人誌でした。
そしてわたしもまた、らき☆すたを愛しています。昔は、「あーまったり出来るなー、キャラもいいし」という癒され感と、「この先こんな硬い絵柄&漫画的拙さでやってけるんだろうか?」というアレな興味本位でらき☆すたを追ってきましたが、今となっては、素直に、普通に「漫画として」楽しんで読むことが出来ます。そのことが、わたしにとってらき☆すたを読む、何よりの楽しみなのです。世間一般のオタのように「ネタとして」楽しむのではなく、「漫画としての面白さ」をこそ。それは、「漫画読み」として、とても嬉しいことなのです……ま、正直、けいおんで犯した失態を、らき☆すたでは犯すまい、と思って神経質になっている面はありますが。
だから……美水氏を物理的・精神的オーバーワークから、そろそろ解き放ってもいいのでは?と思います。だって、角川HotLineの連載にしたって、地域起こしのための尽力にしたって、かなりの労力を使うものです。物理的にも、精神的にも。確かにその際において編集者氏のプロデュース力のかなりな実力が窺えます。そして、それに応えてきた美水氏の能力の高さもまた、かなりな「職人的」実力です。このような「広報物」で、しっかり宣伝しながら、なおかつ読み物として読ませる、という芸当は、そこらの人間には出来ませんし、それを延々と継続する、というのもまたかなりの苦労です。この職人的努力には、頭を下げないわけにはいきません。現在どれだけの萌え4コマ漫画家がこれだけの職人的仕事を成し遂げられるか? 正直わたしはこれらの器用さ・融通さを思うと、ほんとすごいと思います。それは、とらのあなのフリーペーパーで広報漫画を描き続けてきたむっく氏に対する思いと同一です。……その努力は正当に評価されているか? わたしは正直、疑問に思います。
美水氏は、美水氏は……漫画家として、新たな道を歩もうとしています。そこに感じられるのは、プロフェッショナルな漫画家として生きていこうという意志であり、自らの漫画的可能性を掘っていこうという意志であります。「ネタ供給作家」としての「美水かがみ」はもう終わったのでしょう。それを「裏切り」と見なすか否か? わたしは……そう見るのは酷すぎると思うのですよ。というか、それ、あまり好きになれません。美水氏の漫画家としての可能性に賭けている、可能性を信じているわたしとしては。

本日のBGM:モーツァルト「フルートとハープのための協奏曲 KV299」(モーツァルトってフルートがあまり好きではなかったらしいですけど、それでもこれだけのキュートな旋律を書くのですから、まったくもう、ですよね)