残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

自分の詩についてのすごい今さらな話

最近

更新が滞っておりました。すみませぬ。理由はひとえに、仕事とか体調とか精神面とかで、最近ロクなことがなく、また余裕もなく……ってな具合でしたので……。本来なら、そんな中でも脈々と書き続けるというのがひとつの筋なのでしょうけど、言うは易し行うは難しとはまさにこのことで。

そんなわけで、在宅ワーク=家業の利点を生かして、絶賛引きこもり中です(苦笑)。すごいよ? 散歩(この習慣があるだけマシ?)や通院や日常品の買い出しで外出はするものの、それ以外ではホント通販ばっかしというか、ネット万歳というか。わーダメダメ!ここしばらく家族と主治医氏以外の人間と口きいてませんし。会話する気もないですし。mixiでマイミクさんの日記にコメントつけさせてもらったりはしてるんですが、他人との交流というとマジそんくらい。

鬱状態とか神経症とかそういうのもあるんでしょうけど、しかし第一に考えられるのは、「小説書きモード」に移行した故の「閉鎖状態」に自分があって、(不特定多数の)他人とコミュニケートする意思が減少し、そしてそのことを苦にも思っていない、ということなんでしょうね。

社会人というか、大人として見たら駄目駄目ですが、まあ仕事してるしー。貯金も順調だしー。あー、あれ? 結果良ければすべて良し?(駄目だと思う)

エロゲ

そんなわけで今日も逃避モードで絶賛エロゲ中です。只今は、つい昨日公開された『キッキングホース★ラプソディ』の体験版をぼちぼちと(それにしてもミラーの違いは何でここまでDL速度が異なるんだろう?改めて思うけど)。やー、このシリウス臭。このB級感、マイナー感。いいですねぇ。さすがにミヤス×保住コンビです。すごいしっくりきます。まだ最初ですけど。

あとそれから、Nagaleさんのサイト/掲示板で話題に挙がっていたPULLTOPの『恋神―ラブカミ―』の体験版をプレイしてみましたが、や、かなり丁寧な作りですね。自然な好感が持てます。しっかりと立ったキャラ、設定の解釈の仕方のポップさ、作品世界の陽性さ、いかにも愉快な萌えゲーといった感じで、このままのノリだったら楽しめるだろうな、と思いました。まあ、あれ、これどこの猫神や○よろず?と思ったのは内緒(笑)。……で、前述したように、最近ロクなことがなかったので、ついカッとなって予約してしまいました。これもまた逃避モードです。逃避モードでカウントダウン動画見てます。もうほんといろんなことから逃避したい一心です。

来年からは楽器増強のため、それから将来/有事のために、エロゲ購入をしばらく取りやめ、貯金に勤しもうと思うのですが、しかしアリスの『大帝国』がすごく面白そうで困る。うむむ。

詩について

先に書いたように、最近「小説書きモード」になっています。今二つの長編を同時進行で書いています。このブログで「第二文芸同好会」を試し書きしてみたのは正解でした。本編もすんなりと書きはじめることができましたから。

しかしそのように小説に深くコミットすればするほど、自分の中である感情が湧きおこってきます。

それは、「自分には詩を書く才能がないんじゃないか?」ということです。

まがりなりにも、このブログのメインコンテンツは詩です。詩の登録サイトにも登録してますし、高校時代からかれこれ7〜8年詩を書いてきた計算になります。なんだかんだでず〜っと詩を書いてきました。ですが最近、自分の詩を読み返したり、現代詩のアンソロジーを読んだりして、改めて、わたしには「詩を書くスキル」が決定的に不足しているのではないか、と思わざるを得なくなってきたのです。

詩とは韻文であります。韻文にはリズムが必要であります。自分の詩には、この「詩的リズム」が欠けているのです。いや、致命的に無い、といってもいいくらいです。わたしの詩は、どう足掻いても散文的調子から抜け出ていません。すなわち、本来なら散文にすべきところのものを、詩にしていることで生じる齟齬。自分なりの詩的精神をもって書いている詩ではあります。詩的イメージも、自分で気にいっているものはあります。しかしそこにはリズムがありません。韻文足りえていません。

韻文足り得ていない――それもあるのですが、より正確に言うと、自分で自分の詩に納得が出来ないのです。ひとつの詩として見て。不遜ではありますが、小説という入れ物なら(少なくとも自己評価に限るものでありますが)、納得はできるのです。悪作だとしても、どう悪作であるのかが理解出来、納得できるのです。が、詩でそこまでの達成感を覚えることはありませんでした。いくら書いても、自分の中の詩に対するイメージから乖離していってしまう。「詩かくあるべし」というものに近づいていけない。

ああ、自分には詩人としての才能――詩的リズム感――がないのだな、と悟るようになってきました。「小説的=散文的リズム感」なら、不遜ですが、まだ自分の中に可能性を見出すことができますが、詩に関しては、7・8年の経験の果てに、ようやくこう悟るようになりました。

悔しいとかいうよりも、すごく静かな気持ちです。ひとつのことを受け入れた感触。

詩を書いてきたことは無駄ではなかったです。詩を書くことによって得られるイメージの飛翔は、それがそのまま小説の詩的精神に生かせることができますし、詩を読んできたことによって感じることができた(しかし自分のものにはならなかった)「詩的リズム感」を、小説の文体のリズム感に参考することもできます。詩をひとつのモジュール(回路)として小説に組み込むこともできます。が、しかし、それはひとつのモジュールであって、独立した詩ではないのです――。

だから、詩的精神を捨て去るわけではないのですが(それはわたしの文筆活動にとって不可欠です)、しかし詩=韻文を書くよりは、散文を、何より物語=小説を書くことにシフトしていくでしょう。いや、もはやそのシフトは半ば決定的になっています。小説を書く。エッセイよりも、コラムよりも、小説を。これは最近、自分の中にあるものを、全部小説の中にぶち込んでしまえ、という考え方になってきたが故に、エッセイ・コラムの類を書きたがらなくなった、ということによるものです。それは、自分の主張をキャラに言わせるというよりは、むしろキャラがわたしの考えを、わたしの心の棚から借りていく、といった感触で、なんだかそれは「借り暮らしの登場人物」だな、と自分では思っているのですが、これについて書いていくと長くなるのでまた今度(テーマも違ってきますし)。

「第二文芸同好会」について

そろそろこの小説が、どういう小説のための小説であるか説明しなくちゃ、と思っております。結構なメタメタ(「めちゃくちゃ」じゃなくて「メタ×2」)構造になっているので。たまには最近書いている小説について書いてもバチはあたるまい(笑)。
それから、第三話も早いとこアップしなくちゃです。第三話は、かの名言「ホモが嫌いな女子なんていません!」から考える当代BL&百合考、といったところです。かみんぐすーん?

●本日のBGM:レッド・ツェッペリンBBCセッションズ』(「1」〜「4」の頃=初期ツェッペリンの名ライヴ盤です。二枚目の冒頭の「移民の歌」のグル―ヴィーさといったら何!?)