残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

無題(ショートショート? エッセイ?)

○「第二文芸同好会」番外編(時間軸は十数年後、つまりは本編の一環)、あるいは自分(と、このブログ)のための覚え書き

「何のためにお前は書くんだ? 糸杉浩太?」
「それが分かれば苦労はしねえよ。ひとつは食うためだ。そして、自分の中にあるどうにもならないものを「出す」ためだ」
「何だ、わかっているじゃないか」
「いや、俺はわかっていない。俺がわかっているのは己の行う行動だけだ。「する」という「動詞」の範疇において俺はわかっている。「目的語」が俺にはわかっていない。そしてその前に「動詞=行動」ですら、暗中にあり捉えどころがない混沌としたものだ。いわんや「主語」においておや」
「擬古典な文体は流行らないぞ」
「それは俺も承知している。しかし俺は自らの手持ちの武器を鍛え上げる以外に道はない」
「自己肯定を進めるわけだな」
「結局自己否定からは何ひとつとして生み出てくるものがないことを俺は知った。少なくとも、俺はそれくらいは賢くなった」
「やっとポジティブシンキングになったのか」
「違う、俺は計算高くなっただけだ。利益にならないことを切ることを覚えたまでだ」
「……やはりお前は自己肯定を進めた方がいいのではないか?」

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「何のためにお前は書くんだ? 糸杉浩太?」
「俺が生きるため、としか言いようがない。俺はそのようにしてしか生きられない。俺は「形にしたい」んだ。死によって終ってしまうまでに」
「しかし表現されるところの「それ」はお前のただの妄想にすぎないぞ?」
「結構。が、俺はこの妄想が誰かのためになればいいなと思って、誰かの役に立つように形を拵える。俺はそれを苦にしないし恥ともしない。これが俺の仕事だ」
「例え虚業と罵られても」
「そうだ、例え虚業と罵られても」
「お前は何を、誰を任じているんだ?」
「俺は俺だ」
「嘘をつけ」
「いや、本当だ。その証拠に、俺は半分においてはやはり俺なのだから。集合論的には真だ」
「じゃあもう片割れ、もしくはもう半分以上の「固まり」は何だ?」
「ひとつは似非造物者気どり、ひとつは道化、ひとつは芸術家、ひとつは偽善者だ。他にもまだいるし、あるいはこれらは重複している面もあるだろう」
「それを誇りに思えるのか?」
「少なくとも、子供のうちは自己完結・自己満足で事が足りた。大人になったら、それを自己正当化という手段でもって取り戻さねばならない。あるいはエゴイストと呼ばれようとも……そうしないと、幸せにはなれない」

……………………………………………………

「何のためにお前は書くんだ? 糸杉浩太?」
「やはり文章が好きだからだろうな」
「そんなに好きか?」
「その力を、正当性を何度も疑った。一面では無力だとわかっている。が、また一面ではけして無力に尽きないとも確信している……が、俺が好きなのは実はそこではない」
「ほう?」
「俺は、自分が文章を書いているときが、一番自然なんだよ。スピーチとか、ディスカッションとかでは、どうにも俺は俺の言葉に満足できない。大地に四肢を投げ出してバタバタしているようだ。けれど、ペンを持ったら俺は背中に、飛ぶための羽を生やすことが出来る……ような気がする」
「そこは断定しとけよ」
「いや、いいんだ。こう思えるだけでも幸せだから」
「ずいぶん謙虚じゃないか」
「書けないんだ」
「は?」
「なかなか思うように書けない。頭の中にはイメージがしっかりしているのに、画面にタイプして文章を読み返すと、何か大切なものを書き忘れているような気がする。「ほんとうのこと」を書けていないんじゃないかって気がどうしようもなくする」
「じゃあ何でお前は書くのが好きだなんていうんだ? マゾか?」
「一面においてはそうかもしれない。が、一面においては逆かもしれない。時たま、何かに手が届きそうになる。微かに、イメージの断片に手が触れる。あるいは、全体をふと見渡せる幻視をすることがある。もちろんまだ掴みきれない。けれど、とても嬉しい。それだけで、書き続けていこうと思える」
「幸せな奴だな」
「そうだ、俺は幸せな奴だ。これは反語でもなければ、皮肉でもない」

……………………………………………………

「何のためにお前は書くんだ? 糸杉浩太?」
「誰かのためになればいいなと思っている」
「その価値はお前の書くものにあるのか?」
「ある、と錯覚することもあるし、ない、と絶望することもある。けれど俺は希望と言う名の幻想にすがっていたいんだよ」
「お前一人のためだけに文章を書けばいいじゃないか」
「いや、俺はそれに我慢が出来ないんだ」
「文章を書くことはセルフ・カウンセリングだとこの前の小説だったかエッセイだったかで書いたのはお前じゃないか?」
「一面においてはそうだ。しかしもう片方では、誰かに「俺のもの」を見てもらいたいというどうしようもない貪欲な欲望がある」
「お前は「一面において」とか言いすぎる。もっとはっきりした物の言い方をしろ」
「だが人生はうんざりするほど多面的なんだよ。ひとりの人生ですらそうなんだ、それらの総体であるところの社会は、余計に多面的だ」
「だからお前の小説は多面的なんだな、悪い意味で。つまり、はっきりしない、という」
「まあな……それはただ、俺が下手だから、というのに尽きる。上手い人が書けば、それは「多義的な深み」と評される。結局、俺はただ迷っているだけなんだと思う」
「そんな奴の小説を誰が読みたいと思う! いい加減にしろ! 読者はお前の人生相談を読みたがっているわけではないんだぞ」
「わかっている!……だから俺は上手くならなくちゃならないんだと思う。仮に、ただ迷っているだけの小説であったとしても、上手く書かれていればそれは一作品だ。俺もお前もそういう作品をいくつも知っている。ある種の絵や音楽は、演奏者が上手くなければ成り立たない。小説も同じだ。ある種の小説は、上手くなければ存在そのものが成り立たない。逆に、「熱」「初期衝動」だけの小説が一見成り立っているように見えたとしても、それは根底に一定の技巧があるからなんだ。俺も、それくらいは理解できるようになった」
「そうか。ならいい」
「それをわかっていながらも、不完全だと知りながらも、俺は書かざるを得ないんだよ。出さなくちゃならないんだよ。そして俺はそれを見てもらいたいんだよ」
「恥さらしめ」
「重々承知の上だ」
「そこまでわかっているのなら、あとは何とする?」
「書くだけだ。馬車馬のようにまっしぐらに書くだけだ。こんな話をする暇もないほど、な」


おしまい(とりあえずは)


本日のBGM:ダイナソーJr.『ファーム』(一年前アホみたいに聞きまくっていた盤をもう一度聞き返しています。初心に戻る意味でも……しかし一年前のあの時点が「初心」だったかどうかはともかく……まあ、成長している、という幻想/希望的観測は持たせてくださいよ)