残響の足りない部屋

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読書日記:ひまわりさん

●最近自覚してはいたのですが

まずい、文章力が落ちてきている。もともと無い筆力なのは確かなのですが、自分で自覚出来るようになってる時点でかなりアレです。なんというか、綿々と書き続けていく持久力の低下というか、「とりあえず内容が伝わればいいや」的な感じになって文章が練れてないというか、文章の内的緊張が失われてきているというか。ようするに全体的にハリがない。
まあ……自覚出来てるだけでもまだマシなのかもです。精進しましょう。
というわけで、前回の青井さんに対しての返答・考察に引き続き、今度は義実さんに対しての返答となる、読書日記:菅野マナミ『ひまわりさん』感想です。

読書日記:ひまわりさん

著者:菅野マナミ MFコミックスアライブシリーズ 
ところで、メディアファクトリー系って結構層が厚くなってきた感があるのですが。オタ(萌え)系統はアライブ&MF文庫J、漫画マニアにはフラッパー、また本読み全般にはいわずもがな「ダ・ヴィンチ」。まあ情報収集を怠っていたので、識者からしてみたら「今更〜」ってな具合なのでしょうが。
それはともかく本作ですが、義実さんにわたし狙い撃ちの漫画だと聞かされてはいまして、いや確かにその通りの内容でした。ただそのような主観を差し引いても、この漫画が興味深くも質の高い漫画であることは疑いようのないところです。
昔ながらの本屋さんを舞台にして、クールな女性の店主「ひまわりさん」の、彼女を慕う元気な(本を読まない)少女との穏やかな日常を描く、というものなのですが、主観的に述べて言ったらひまわりさんのデザインが確かにわたしの属性狙い撃ちだったとか(黒髪ロング&ロングスカート)、「古き良き本屋」のビジュアル的描写が本好きとしてこれまたツボだったとか。が、ここでは一歩引いて主観を交えながらも、作品の傾向をちょっと分析的にいってみたいと思います。最近思うのですが、分析の真髄は、知的ゲームではなく、よりその作品に近づいていきたい、という思いの表れなのだと信じています。そういうポイント・オブ・ビューから以下の考察をお読みいただければ幸いです。
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「古きよき本屋」のビジュアル的描写と書きましたが、とにかく「雰囲気込み」で「ひまわり書房」を描くその画力はべらぼうに高い。書き込みは確かなもので、若手にしてすでに「自分の背景」を描いています。萌え系云々といったカテゴライズは不要でしょう。木造の建物の木目などもそうですが、影ひとつとってもガシガシと線で書きこんでいきます。そのバーティカル(垂直的)な筆致は硬質さと清冽さを感じさせます。逆に言えば本屋の「古さ」は描写しても「汚さ」(たとえば埃臭さとか)については省いているので、本屋(というか古本屋)の「よどんだ空気」を愛好するビブリオマニアには、視覚的には一定の満足を得ても、「触覚的」には不満が残る、と言われるかもしれません。
が、わたしは弁護したいのですが、この本屋はひまわりさんの本屋なのです。彼女の凛とした姿の体現、それでいて親しみやすい姿の体現なのです。それを合わせて考えると、ひまわり書房には「カビ臭さ」はちと似合わない……まあこれらの指摘は重箱の隅をつつくものなので、ページをめくった時に皆さんが思うであろう「ああ、懐かしい本屋!」のファーストインプレッションこそが大事にすべきものだと思います。そしてそれら一切を踏まえても、菅野氏の画力は本屋のアナログ的雰囲気を、線の細さ、カケアミ、そしてベタを使いこなして、直線を主体として描きこんでいきます(それらの手法を選択したことにより画面効果は「筋が良い」ものとなっています)。そこに描かれた本屋の空気は優しく、時間を忘れさせてくれます。……と、風景について語りすぎてしまいました。人物もまた、細い線で魅力的に描いていきます。とくにひまわりさんの黒髪(以下略)
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ネームの切り方についての考察をはじめる前に、まずわたしの「漫画家」菅野氏についてのインプレッションを書くとすれば、一読して思ったのは、「このような作家を同時代的に読めるというのは幸せだな」ということです。素直に。菅野氏はこの一冊の中で、表現的にステップを着々と登っています。回を重ねるごとに、キャラは練られ、ネームは練られていきます。この作品はもともと読み切りで、少しずつ溜まっていって、この巻が発刊されてようやく連載、というところです。ファンの地道な応援と、それに答えてきた良き循環がここにはあります。
さて、肝心のネーム力に関してですが、ずいぶんと思い切ったネームの切り方、コマの構成をするな、と思いました。ある意味極端、と言ってもいいかもしれません。心理描写で、ふと人物が思い至るときに、かなり大きくコマを取ったり――や、大きくとるのは漫画表現上普通なんですけど、菅野氏の場合、それが1・5倍くらい大きい。また、第五話で「ひまわりさん!」というフキダシに画面を立ち切らせている、という大胆さ(もちろんこれはギミックであります)。通常の漫画作法から考えるとやや破格……きちんと内容は正確に伝わってくるだけに邪道ではないのですが、「全体の構成上のバランス」という一点で考えると、時に「ええっ?」と思わせるような描写になります。
一面においては、まだそれだけ洗練の途上なのだ、と言えるでしょう。背景のところで言いましたが、とにかく画力……というか画風は端正なのです。そして、その画力を「漫画力」にしていくにおいて、思考錯誤している点が見受けられます。極端なネームの切り方、というのは、裏を返せば「漫画的ダイナミクスを豊かに描くことにより物語を『漫画』として読ませようとする」意気込みの表れであります。
ダイナミックにコマ割りをとっていくこと、それを人によっては「漫画として稚拙」と評する向きもあるかもしれませんが、わたしはこのような意気込みこそ、この作家さんが「漫画家」としてやっていこうとする心意気がビシビシと感じられるのですが。菅野氏を「同時代作家」として享受できる幸せ、というのはそういう意味です。菅野氏は漫画に対して情熱を持っています。
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そりゃ、欠点を言うことは容易です。例えば、前述の素晴らしい背景にしたって、漫画全体で見たときに、人物との調和=漫画的調和がいささか欠けている、ということ。これもいちゃもんに近いものではありますが、あまりに背景を「きちんと」描いていることにより、やや息苦しさを感じてしまうのも事実です。もちろん、背景に手を抜く漫画家よりも数段褒められてしかるべきなのですが。が、それもまた「途上」です。第一二作目の単行本を上梓した作家にどこまで求めるのだ、ってな話です。それよりも漫画読みが見るべきは、「可能性」でしょう。
少なくとも、「同人あがりのイラストレーターが漫画を書いてみました〜」みたいな代物ではないのです。「漫画として面白い漫画」、漫画の可能性を掘っていっている漫画家、氏はそうであるとわたしは思っています。だからこそ漫画読みとして、漫画を愛する者として、菅野氏を、『ひまわりさん』を応援したいのです。単行本のアンケ結果によって次の単行本が出されるかどうか決まるそうです(……と、その後調べてみたら重版かかったことにより第二巻以降の続刊も決定! ヒャホーイ! いいぞいいぞ)。というわけで、『ひまわりさん』、凄く楽しみましたし、漫画の未来にまたひとつ灯火がともりました。作品世界の暖かさと、漫画精神の熱は、確かにわたしを温めてくれます。

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あとこれは余談ですが、あるいは余談ではないのかもしれません。この作品を百合とカテゴライズするかについては個人的には異論がなきにしもあらずですが、まあそのようになっても……とは思います。仮に百合として、だとしても、この作品のまつりとひまわりさんの関係性・想いは「恋愛」か、となったら「いやそれはちょっと違うんじゃ……」でしょう。「慕う」が基本のはず。
ですが、百合というジャンルの中に、このような「好意であるのは間違いないんだけど恋ではなく……」的な感情を描いた作品が増えてきていることにわたしはいささかの、いや、かなりの興味を持って眺めています。というのも、わたし自身がそのような感情にやたらと興味を示す者だからです。描きにくい心情であるのは理解しています。何と言っても名前、というかカテゴリーがないのですから。微妙な心情の綾。
が、そのような心情を百合というジャンルが盛れるようになったというのは、百合の「メディア=容れ物」としての可能性の発展&深化ではないかと思う訳です。前に義実さんにお勧めをいただいた水谷フーカ氏の「この靴しりませんか?」でも思っていたことですが、ここにきてそれが確信になってきました。これは百合の、漫画の、ひいては物語の、ある種の可能性――今まで取りこぼしていた物語の形の落ち穂拾いがあるのではないか、と、ふとわたしはそんな夢想をするのです。
………………
最後に。
「でも本当にすごい数の本ですね さすが「本の商店街」です 一生掛けても読みきれそうにありません」
「新しい本も次々に出るからな」
「一生の間に出会う本なんて世界中にある本のほんの一部なんですね」
「そうだな でも それがその人にとって 大切な本になってくれたらと思う」
                              ――第四話
現在の出版状況は「本の洪水」です。今日出た本が明日には忘れられる。いくら本が好きでも、読み切れはしない。でも、誰かにとって大切な本は、その人が求め続ける限り、いつかは出会うものだと、そうわたしは信じています。『ひまわりさん』という作品は、本を取り扱うわりには、本についての蘊蓄を並べたりしません。むしろ、本という存在に対する人間の在り方、本と人間との関わり方というものを、声高に言い立てるのではないけれど、そっとささやくようにひっそりと述べているように感じられます。第一、まつりという少女は本を読まない少女なのです。そのようなキャラを、慕ってくる相手役に持ってくること自体、面白いじゃありませんか。本との関わり方はいろいろある。そのことは、わたしを反省させるものでもあります。
心の内を打ち明けられる本と出会うことは、孤独じゃなくなる、ってことです。最近そのように思うことが強くなりました。その一環として「ひまわりさん」があったことは事実です。

本日のBGM:ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス『アクシス:ボールド・アズ・ラヴ』(いいものはいいんだ。ひまわりさんにしても、このアルバムにしても、と思います)