残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

読書日記(ひまわりさん二巻)後編

業務報告


・「聞こえリライト」28109字/70枚(投稿先を変えるかもしれませんし、プロットも削っていきますので、最終文字数は未定に)
・投稿エッセイ「柿」:このブログ記事書いたら次に書きます。
・最近本読みすぎ。次回あたり写真upしてみましょうか。
・代わりに音楽をあんまり聞いてない。あ、ただオペラを前より聞くようになったかな。
・いくらガチ読解とはいえ長文すぎやしないか。
・そうそう、今月、中ごろから、仕事が非常に忙しくなってくるので(いわゆる年末進行)、多分ほとんど更新出来ないんじゃないかと思います。まああと一回くらいは更新したいと思ってますが……。


ひまわりさん二巻読解(後編)


第十三話
さて、この町は地方の小さな町、という印象があるのですが(そこまで田舎でもなく、都会でもなく)、その町に愛されているひまわりさん、というお話でした。
ここで話題にしたいのはその町並み――背景についてです。


……………………
余談。
つい最近読んだ吉田秀和氏の評論集「千年の文化 百年の文明」で、数十年前に「音楽批評のあり方」について語っていたところに、「技術論に終始するようでは真に芸術を論じたことにはならない。作品の哲学、精神、魂をこそ批評してこそ、批評というものは成り立つのである」という主旨のことが書かれていました。
いや、キッツい言葉でしたね。この読解なんて、「技術論に終始」の典型のような気がして。ただ、これで反省しましたので、「技術から見える作家の哲学」を追及していきたいと兜の緒を引き締めるところであります。
…………………………


閑話休題
前回の読解で「描き込みすぎ」とこの漫画の背景を評しましたし、一巻のときもそう思いました。
ですがもう、この二巻を読むと、慣れてきた……じゃないですが、「これもこれでアリかな」、と思うようになりました。「味」である、と。
何故ならば、1、単純に画力が高いこと。「歪んだ風景」を見せられてるのではないのです。パースは正確。「触感」もあります。
そして、2、画力が高いことは同時に、情報量の豊富さをも意味します。
両方の具体例としては、終わりの風呂場のタイルの描き方。湿り気と古さを簡単に描写する、この手際の確かさ!
つまりこれら二点から導き出されることは、菅野氏はこの町(=ひまわりさん世界)を丁寧に描こうという、ごく当たり前の結論です。当たり前の結論ですが、しかし、それはわたしにとって「押しつけがましい画面」という印象を今回は与えません。画力自体が向上しているのもありますし、そして菅野氏の描写における丁寧さから「誠実さ」が読みとれたからです。
具体的に言うと、ひまわりさんが町の人たちから色んな物をもらっていって、「嫌ではないかな」のセリフに至るまでの数ページ。描き込み過ぎ、と思います。けれど、「この町を描写しよう」という「町に対する責任感」といったら大げさですが、ある種の誠実さがそこに見え、結果、「嫌ではないかな」の絵の暖かさに繋がっていくのです。直線でガシガシ描いて行く風景、もらいものの細かなディテール、言わずもがな、ひまわりさんの(やや)晴れやかな表情、そして包み込むように夕焼けと宵闇が上下に。ここにおいて技術は、技術のための技術ではなく、哲学のための技術なのです。


第十四話
「本を読んでてもちっとも楽しそうじゃないよ」
「読書は楽しむものだ 自分が読みたいから読むものだ それなのに無理をしては楽しくないだろう」

どんな百万言の言葉よりもグサッときましたね。
わたし自身、「修行としての読書」をしばしばしがちであるので。純粋に、夢中に読書を楽しむなんて、思い返してやっと見つかるくらいですから大概。


…………………………
余談2
巻中四コマで菅野氏が担当氏に「男描くの下手」と言われている、とこぼしていましたが、「んなこたーない」と反論させていただきましょう(偉そうですいません)。
事例としては、作者ブログの落書きでしょうか。楽しそうに男キャラを描き、描き分けも出来ている。
……そう、描き分け。こと最近の漫画家さんにおいては「ハンコ萌え絵ひとつ用意しときゃいいんだろ」と言わんばかりの開き直りが見えます(あ、イラストレーターもだわ)。
まあ魅力的ならハンコでも構わん、というのがわたしの立場ですが、ですが、菅野氏の絵はハンコではないんですよね。
その一番の描き分けは「目」です。まつり・風子の姉妹を別として、この漫画に出てくるキャラはひとりとして同じ目をしていないことに今更ながらわたしは気付きました。今の萌え絵の常識だと、目をテンプレとして確立して、それを使い回す、というのが「正義」です。わたし自身もその正義に乗っかってキャーキャー言ってるわけですから、批判出来る立場にないのですが、ことこの菅野氏の描き分けという点を踏まえると、男も女もおっさんもおばさんもじーさんもばーさんも子供もキチンと責任もって描き切る、という姿勢に、頼もしさを感じてしまうのです。
………………………………
閑話休題2。


第十五話
連作です。この連作に至って、菅野氏の漫画家としての力量はまたワンランク上がりました。ここにはネーム力が三回爆発しています。
ですがその前に、この過去話での見開きで、旧ひまわり書房に佇む先代ひまわりさん(仮称)の風景を見たとき、わたしは一巻の感想で、「ひまわり書房にはカビ臭さ・埃っぽさが足りない」と書きましたが、それはやはり、意図してのものだったのです。描こうと思えば、このように完璧に「古びた本屋」を描けるのですから!
先代の姿は儚く、その風景は幻想的。誰もが印象に残るシーンでしょう。


第十六話
いやあ、先代絶好調ですね!(いきなり何)
この飄々とした「年齢不詳の老女的」な在り方が、ひまわりさんにいろいろな影響を与えていくのがひとつづつ確かに伝わってきます。
……で、これは本を最後まで読み終えた後での感想なのですが、これで「登場すべきキャラ」は一通り出そろったことになります。あとはいかに掘り下げていくか、で、今回出番がやや少なめだった黒井里先生も、そして新キャラである、みなみ、立花、先代も、これからどんどんキャラを絡ませ、時間軸を自由に動かし、掘り下げていけるのです。まさにこれからが楽しみではありませんか! ちなみにすでにわたしと義実さんと青井さんの間では先代と現ひまわりさんをこの先どう絡ませたらいいかtwitterで議論してます。


閑話休題3。
さて、最初のネーム力爆発を見てみましょう。
ひまわりさんが「泣かなかった」、母が出ていく際のモノローグです。直角のコマを重ねていきます。心情と、黒と、言葉によって成り立っているこの画面、技法的に見ていくと、直角のコンクリートを次々に「あまりに正確に」配置していくことによって、ひまわりさん(少女時代)の心情がどんどん追い詰められていくかのように思わせます(少なくとも僕には) 。このあたりの切迫感と重さは「う〜ん、上手い!」と感心しましたし、その辛さがひしひしと伝わってきます。しかもこれが前フリだというのだから恐ろしい。


ところで、話が進むにつれて、先代と少女時代ひまわりさんの姿が、現ひまわりさんとまつりとの関係にダブって見えてきます。
「ああ、過去と現在が重なっている」と思いました。それだけに、この二人(新旧どちらも指します)の関係性というのは、大切なものなのだ、と裏打ちをもらったような感じです。
しかしそんな先代は突然消えてしまいます。そんなところでこの第十六話は終わってしまいます。絶妙の引きです。


第十七話
驚くべきことに、画面が前回終わった立ち切れから続いています。全部ひとつの絵だったのです。ネーム力爆発その2。何と言うネーム力、画面表現でしょう。もはやこれは技法という以前に、菅野氏が完全に話に入りこんでいる証拠です。指揮者がオーケストラを前に、自分の音楽に入りこんでいるかのように。
絶望は深く、あらゆるささいな行為が「こうなることを予期して」の行動だと悟り、余計に深みに嵌っていく少女時代ひまわりさん
ただもう、先代の話については「読んでくれ」としか言いようがない見事さなので、ここで言葉を尽くすのも滑稽なような気がしますが、これだけは言っておきたい。
第三のネーム力爆発です。


先代の記憶を呼び起こす→涙→泣き顔アップ


繰り返しましょう。技法は、技法のための技法ではなく、哲学のための技法だと。菅野氏の技法とは、そのようなところに到達しています。
顔の構成についていささかのデッサンの狂いがあるのは認めましょう。だがそれがどうした。この画面を構成したこと――ひまわりさんとの思い出が刻まれた本を読み、一気に感情が吹き出し、瞬間、この場にある「本」というモノの数々が我々の視界に、そしてひまわりさんの心に入ってきます。ここにおいてはじめてひまわりさんは「ひまわりさん」を理解し、同時に喪失を得るのです。ああ、むしろ”She could got a void-nothing”と英語で言った方が分かりやすいでしょう。「無い物を得る」というのを表すには”There is no〜”構文を自然とする英語の方が、日本語より有利です。
(ところでこれこそ余談ですがひまわり書房に洋書はあるのでしょうか?)
つまるところ、「はじめて彼女は泣いたのだ」と言えるのです、このシーン。恐らく今までの話で一番「情けない泣き顔」をひまわりさんは晒しています。ですが、泣く、って、こういうことなんですよね。この十年、泣きたくても涙腺がぶっ壊れてて泣けなかったわたしのような人間に語る資格はないと思いますが。


そして話は現在に戻ります。
義実さんが極めて深刻な指摘をしておられました。
「イケメンさんの口調が「ですます」→「だなだろう」へ継承されている事にも注目。彼女は失った思いを叶えるため、失った彼女になろうとしたのだ。」
膝を打ちましたね。この御指摘には。彼女は彼女なりに継承をし、それが第一巻でのラストにも繋がっていて、そして「今」に繋がっています。
もうこうなるとカプの進展なんて、盤石もいいとこじゃないですか。深みに嵌っていくだけ、と書くとやらしいですが、二人が紡ぐ物語はこれからなのです(付け加えるならば我々が繰り広げる妄想も)。
そして、第四のネームの爆発……ではないです。ネームの「静かなる収斂」です。上三つと分けて、しかも三つの中にこれを数えなかったのは、これは技法云々を論ずるものではないからです。
そうです、ラストシーンの「在りし日の先代と少女」のことです。これまでの話を読めば、二人の関係性に、何らの説明が必要でないことなど明白でしょう。
言葉はどんどん無くなっていきます。しかし、それはその先のカタストロフへの伏線ではありません。二人の関係性/信頼が確かなものである、ということを伝えるために、セリフを「使わず」、「絵で語り」ます。
そこには確かに幸せがあった、と。


ひまわりさん第二集読解・おしまい(こんな長文すぎる長文にお付き合いいただきありがとうございました。何かの参考になることを淡く希望して)


●本日のBGM:ないっす。