残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

説教から思想へ

それがオレの目標であります。
ずいぶん高く設定してるな、と自分でも思うのですから、他人はよけいに思うでしょう


ずいぶん説教臭くなりました。すなわちオッサン化であります。ああやだやだ。
それでもしてしまうのは、……人格的成長なのか。それにはずいぶん怪しい面がありますが、ともかく説教しがちです。
もちろんひとのことはいえた義理ではないのです。むしろ自分に説教した方がいいというか。
ただ……わたしは、ある程度自分に対する説教を聞く気ではあります。それは救いです。ひとに対してもそうですが、「おまえそれブーメランやん」という突っ込みを、絶えず自分に問いかけます。


あとそれから、僕は妙に高みからものをみて、偉そうに発言するという傾向があります。このブログとか、ツイッターとかみていただいたらおわかりになられるとは思いますが。
はじめはそれを自分の芸風だと思っていて、
で、だんだん人から引かれるようになって、
で、ここ最近で「これが自分の嫌われる原因だな……」
と思うようになって。
だめじゃないか。
ただ、もうここまできたら、「偉そう思考」を止めることができないのです。
だったらこのままいこうじゃないかと。どうせ自分のこと好いてくれる人間いないんだし。
それだったら、偉そうだろうが、なんらかの益ある文書を、思考を、残しておいた方がいいんじゃないかと。


謙虚な文章が好まれることはしっています。
僕もそういった文章の方が人徳があって好きです。なごみます。
ただ……人間向き不向きがあって、自分がそれしようとすると、つっかれるんですよね。
偉そうに文章かくのは、キャラ定まってるかららく。らく。
だったらそれを押し進めていけば、なにがしかには……少なくとも、恐れて先に進めないよりは、まだなにかを生み出せるのではないか、と。


そこで僕は哲学・思想ということを考えます。
わずかなとっかかりや疑問からはじめて、だんだんと思考を先に先にと進めていき、一応の結論をつけ、そしてそれを土台にさらなる思考へ進んでいき、やがて大きな知の伽欄へと昇華できたら……
なんて考えるわけです。
おこがましいな……とは思いますが、道筋が見えてるぶんだけ、まだ努力のしようがあるということもいえなくはない。
説教から思想へ。
もしそれができたら、愚痴紛いのわたしの説教も、客観的・公共的価値を有する「知」に変わることができるのではないか。
ひとのためになる文章というのは、そういうとこから生まれるのではないか。