末井昭「自殺」に、次のような文言がかかれていました。
「自殺まで考えている人は書くことがいっぱいあるはずです。自殺することを決意するまでの経過や、考えている自殺の方法や、死ぬことの恐怖や、自分の頭の中にあるものをすべてさらけだしてみることです」
それを読んで、「ああそうか」と素直に納得して、今こうしてペンを走らせています(リアルにペンを。最近残響は万年筆で文を書くようになりました)
もっともこれを読んでいたのは、わたしではなく、マーマン(母君)なのですが。その時点で我が家というか、わたしと親御様との関係が破綻しているのが、手に取るようにわかるかと思います。
別に病んでないひとが、「自殺」を読んでたっていいわけなんですが、この書。
ただし
「自殺」
ですからね。
「完全自殺マニュアル」
とは違う。
そこには、自意識(ナルシスティック)もなければ、中2病もない。
ただひたすらに、リアルな「負の現象」としての……。
ああ。Suicide
自殺を「憧れ」としてとらえるか、「リアルな出来事」としてとらえるか、で、日本人は二極化されそうな気がします。
西欧圏においては、「タブー」としての宗教感覚があるので、また変わってくるのでしょう。
閑話休題。
中2、とか、メンヘラ、とよくいわれ、ヤンデレだ云々とりざたされるのは、「憧れ」の自殺でしょう。
それに対し、「リアル」云々というのは、すでに自分や家族が、死を対象にいれた自傷行為に手を染め、「抗」自殺の手だてなり、治療なりを実行にうつしている「のっぴきならない」事態です。
わたし(のウチ)は後者です。クランケはわたし。
前者(あこがれ)を一文字で表すれば「闇」でしょうが。
後者(リアル)は、どこまでもリアルに「焦」です。
このウチは、四六時中休まりません。あるのは永遠の神経戦です。
なんてったって、わたし、今年ぶん(28歳)の誕生日に、ありがたくもプレゼントをいただいたのですが、そこに「生きていてくれてありがとう」とかかれていたのですから。ええ。なさけなや。
いま、わたしは死にたいか?
場合によってはそうですし、いい感じなときは「まあよかろう」と考えます。
一応、この先の十年、ソ連じゃないですけど「10カ年計画」をたててまして、それまでの半生(クソみたいな)でできんかったことを、この10年後のーーそうさな、5年くらいで遊び倒して、悔いなく生きてやろうじゃないか、みたいな。
そのために10年間、金を稼ぎまくろう、と。
そんなことを考えています。
ーー「生」を思えるときは。
ところめが、「奴」はいつも突然やってくる
回数は、都会にすんでるひとが、突然「新聞とってくれませんかねえ……」と自宅に来訪してくるくらい。
こない……いまのうちは……と、いえます。いまのうちは。
しかし、いつきてもおかしくはなく(ウツがきたときに、リアルに新聞勧誘がきたときの絶望感!)。
「奴」は……この不確定さは、ひとの生、希望、生への確信というものを、ガンガン削り取っていきます。
どっかの実験で、
いつも決まった時間にライトなりでストレスを与えられるラット(Mr.ドブネズーミ)と、
不確定な時間に以下略なラットを比較したとき、
明らかに後者がウツになっていき、ヤバくなっていったという。
「明日もいい日だ」の確信がもてれば……もっといえば「明日も今日と変わらんだろう」がもてれば、ひとは、生きていけます。
これが、自殺者はもてんのだから、ヤバいのです。
明日、「苦」がやってくるだろう。もっと生々しくやってくるだろう。
こないかもしれんが、くるかもしれない。
たとい楽しい時間があっても、その30分後には……?
自殺者は、人も、己も、信じてません。
「世界が滞りなくすぎていく」事すらも信じていません。世界は万華鏡のように千変万化……ただし、血と苦しみの重圧の歯車。というか、嫌がらせの歯車。
もし明日が、今の再生産だったらーーそれは「まどろみの平和」がいつまでも続くような「退屈」です。多くは、世の多くは、その平凡なるを唾棄しますが……が……我らにとっては……。