アルバムをターンテーブル(古語かしら)にのせて、スピーカーから聞こえてくる「フリーダム」の声。
なんという解放感でしょう。
思えば、J・マスキス(ダイナソーJR.のフロントマン。やる気のないvo。ギター仙人)がここまでポジ感情を放出したことはあっただろうか。
確かにダイナソーの持ち味は、轟音というアグレッシヴに、キャッチーなメロと、オーガニックめいた独特の染みるメロウネス・温かみを同居させるとこにあった。
しかしそれは轟音自体の「なぎ倒す!」の意志と、メロ自体の「気の抜けたキャッチー」、そして背後にある――これが一番重要かも――Jの、ある種の虚無めいた現実認識・センスあって、それらが多重に合わさり、ひとつのダイナソー・サウンドが生まれていた。
(このあたりの分析は大鷹俊一氏のライナーが詳しい)
エモーショナルな轟音の第一人者。それが「ポジ」に振れる、ということは、ひとつの大転換と受け取っていい。
が、あくまでこの、ダイナソー以降のソロプロジェクトが語られないのは、
1)Jのパブリックイメージ(「轟」+「ダル」)の表象が、マイルド
2)音楽的に新しいことをやってない
あたりに集約されると思う。
それは恐らく、再結成以後のダイナソーの「まあ悪くはないけれど……」の評価に繋がるものでもあろう。
だが音の「轟」なると、メロウネスにかけてはダイナソー時代と変わってはいない。
さらにいうなら、ダイナソーがメジャーに行って以降、ベーシスト・ルー・バーロウが、自身のバンド・セバドーにいって、ダイナソーから早々抜けてしまった以上、ダイナソーはもともと90s~2000年代初頭に至るまで、ほぼJのソロプロジェクトなのだ。
だから、正直、J+Fogは、ダイナソーと同じように扱われなくてはならない、というのが、わたしの主張です。
にもかかわらず、このプロジェクトが地味な評価なのは、
世の「ダイナソーかくあるべし」と、
「ソロプロジェクトは本隊(ダイナソーというレジェンド・バンド)に比べて、低く見てOK」
みたいな変な思いこみがあるのでしょう。
で、わたしは主張したい。
J関連――少なくともJが轟音ギターを弾くもんは、何であろうとJのギターと歌だけをまず聞いて、その上でアルバムの各々の好みを決めるべきではないかと。
「ダイナソーJR.」という名は、もうこの世においては、アイコンである。
だが、もっとアイコンとすべきは、「J・マスキス」という個人名だろう。
そこでこの盤であるが、Jのポジ面、ソングオリエンテッド面が「ふつー」に出たもの、と解釈しよう。
つまりは、ふつうにいい曲のグッドアルバム。
ダイナソーに戦慄を求める方向は、それを不服と思うでしょうが、長い視点で見たら、Jのソングライティングの幅広さ(と、ギターの幅広さ)を広くみたほうが、Jを無闇に神格化せず、まっとうに扱うことではないか?と思うのですが、いかがでしょう。