残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

「なろう」とかのweb小説(異世界転生チーレム系)を自分の人生に生かすための読み方

自称書評家残響です。

こんかいのお話は「教訓的な物語」と「物語の教訓的な読み方」です。言葉遊びじゃないよ。

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●序 まおゆう以降

 

そこまで熱心にweb小説--とくになろう系の異世界チーレム系(平凡な人生を現世で送っている俺が、ふとしたことで異世界に転生し、なんやかんやで最初からすごい存在になってるから、俺Tueeeeeを異世界でやって、的なパターンの小説群)--を、むちゃくちゃ読んでるわけでもない、オレサマでも、この手の小説増えたなぁ、っていうのは、わかります。

 

で、オレは今回そのディスをするわけじゃないんだ。むしろその流れを積極的に肯定しようとしてるんだ。純作品的、というよりは、むしろ……なんつーかな、生き方的な。

ある意味でのライフハック記事かもね。オレこういう記事の呼び方イヤなんだけど。

 

えとね、オレがそんなにweb小説読んでない、ってのはほんと。書評系有名ブロガー……たとえば、物語三昧さんとか、ピアノ・ファイアさんとか、敷居さんとか、海燕さんとか、みたいには、ぜんぜん読んでない。それらの手慣れ書評ブロガーをダチみたいに語るなよオレ……(ごめんなさい)。

 

で、「まおゆう」以降、web小説の流れに、「現代知識でもって、中世あたりの異世界を改革しよう小説」がやたらと増えましたね。

それが「チーレムで俺TUEEEE」と合わさって……なんつーかな、「安易な設定だけど、著者結構勉強して、自分なりの【改革】を描こうとしてるな」って感じの小説が、かなりでてきてる。

ていうか、話題になる小説は、そのへんの「考証」が、どれもガチだ。

 

 

●破 「そんなんウィキペディアの丸写しじゃないか」的な批判

 

まーね、それは……まあ、確かに、そんなにおいがすんのは、確かなんよ。

 

全コピペ、っちゅうわけじゃないけど、「当該分野の、ざっとの見当つけるために、とりあえず的にウィキペディアよくみてる」って感じのオレのような人種からしてみれば、だいたい「ああ、この掘り下げ方の深度は、ウィキあたりからのお勉強だな」ってのは、わかる。

 

勘だけどね。ふんわりした。でも、……うーん、説明がすごくファジーになるんだけど、

「かなり細かい些末な知識」

「分類の分け方に融通がきかないとこ(振り回されてる感じ)」

「そうかと思いきや、異端のカテゴリのチョイスが極端」

「名前ばっかり出しすぎる」

「あるいは、構造ばっか出しすぎる」

「基本的に、「俺なにもかも知ってますよ」的な、青い……君青いよ……的な知識調理の態度」

 

こんなかんじかなぁ。

 

ディスっぽく書いてるけど、これはプロでもよくしてることで。

たとえば杉井光とか。「さよならピアノソナタ」にしても、「さくらファミリア!」にしても、よく勉強はしてるのだけど、どうにもその使い方が……こんなこといったら作者は激怒するんだろうが、やっぱウィキ使ってるように思えてならない。

情報だけで書いてるのではないことはわかるが、専門家じゃない。

当該知識の「屈託」とか「挫折」とかもしっかり盛り込んでるあたり、過去の若手よりはさんざっぱら上なのだが、しかし……それでも、どこか「上から処理してるな」的感覚がある。ある意味でのこじつけ感というか、「うまくパズルのピースはめたな」感というか。

 

 

えとね、それが悪いんじゃない。

杉井の本領は、「知識」のレベルにあるんじゃない。知識を前提とした、詩的精神の繊細なふるえにこそ、杉井の面目はある。

正直、杉井の小説知識アイテムの使い方には、「ドヤ感」とまではいわないまでも、「お勉強知識」を前提としたとこがある故に、いくらかの……堅苦しさというか、批判を許さない的な感じがある。正当も批判も異端も屈託も、全部情報として織り込んでるんだから、な、ポリティカリーコレクトっぽさというか。

 

しかし、そこに立脚した(理屈臭さを前提にしてるとはいえ)、人工的な少年少女の、透明な(いくらか背伸び感の)精神のふるえ、これは、本物なのだ。そしてそれを描ききっている筆致もまた。

 

 

●急 物語から学ぶということ

 

はなしがずれたけど、杉井の本質ってのは、「知識」じゃなくて、「詩的精神」ってのはわかってくれたかいな。

 

知識を得るだけだったら、ウィキみるだけですむけど、しかし杉井の小説が熱心に読まれるのは、「詩的精神」を得たいがゆえなんだよね。同時代的なボーイミーツガール、ジュブナイルとして。

 

 

というわけで、たぶん「なろう」で一世を風靡してる「俺TUEEEEお勉強小説」の大半が、ブレイクスルーできない、というのは、設定の奇抜さというよりも、そしてお勉強の少なさというよりも(知識の少なさというよりも)、このあたりの

「個人哲学」

「詩的精神」

「知識の掘り下げ」

によるものかなぁ。

哲学・詩人の心なくして、小説家が知識を収集したとして、それはやっぱり、ある一定以上の掘り下げまでにはいかんから。高性能なエンジンと、ドライビンテクがなかったら、車はやっぱ、走らんよ。燃料と地図があっても。

 

 

……でな、また話ずれたけど、オレはそこをディスりたいわけですら、ないんだ。

 

 

そういう小説が、増えたこと……歴史とか、人間とか、科学とか、お勉強とはいえ、その手の小説が増えたこと。絶対数の問題。

 

 

それを、オレは喜ばしく思う。個々の小説の出来とはまた別個の次元で。

 

どういうことかというと、彼ら--お勉強チーレム系(コロコロ名前が変わるな……)の作者や読者は、いずれその手の小説を、読まなかったり、書かなかったりするかもしれない。

一過性のブームにすぎないのかもしれない。

 

けど、その小説に熱狂して、いささかなりとも、世界に対する見方が変わること。

これが重要なんだ。

 

世界は相変わらずクソである。だが、先人が生み出してきた人類の遺産--たとえば、郵便システム。たとえば、天然痘に対する勝利。農業改革。これらは「まおゆう」でも書かれてたし、今のお勉強チーレムでは、もうありふれたネタだろう。

 

オレは、これらのネタが「ありふれた」までに、書かれていることを喜ぶ。

 

世界は相変わらずクソである。そのクソ性を少しでもなくすためには、ひとりひとりが「よく考えて、行動」しなくてはならない。

 

一個一個の考えは、ときに間違っているかもしれない。でも、作者や読者が、「この手の小説」で、歴史(事実や名前や年号よりも、縦軸と横軸の構造)や科学(事実や名前や公式よりも、論理展開と、構造の類似点と、数式の見方)に対するリスペクトの精神が芽生えたら……それを絶やすことなく続けられたら(具体的には、それに根ざした個々のきちんとした考えで、大学いったり就職したり。ほんとうにやりたい、強い意志でもって)、間違いなく、世界は変わる。

 

そりゃ、週末に世界は変わる、みたいな速攻性は、ないさ。

でも……な。「知」って……そういうもんだんだよ。この「将来世代に対する期待」なくして……はな。

 

もちろん、それ以前に、いま社会でいろいろやってるオレらが、まずこのWEB小説から、学ばなきゃ、嘘だ。

少なくともまおゆう読んで、各部門が「経済」を軸にしながら、同時代的に広域スパン・ビジョンでもって、世界を改革していく、という思いを熱く抱いて、今日も明日も働かなくては、嘘だ。

 

 

そういうふうにして、娯楽(そのほとんどの作者は、アマチュアだ)で、お勉強するなんて、「知」じゃない、「芸術」じゃない、かっこよくない、批評的じゃない、とかいう奴らはいるだろう。

 

勝手にいってろ。どうせそんなブンゲーヒヒョーカたちは、これらの小説から、なにも学ばないまま、次のエモノに浮気して、これらの作品を忘れ去るのだろう。

 

そんな奴らよりも、学んで、世界を変えようとする奴らのほうが、本当の「知」だ。遊びじゃない、「知」だ。勇者だ。

 

 

甘い考えと笑うなら、まず、おまえさんが、どれだけの読み込みをできるかどうか、示してくれよ。

オレは、この「お勉強」ムーブメントは、「結果的には」間違った方向にはいかない、と思っている。まあ、しばらくは、似たような小説ばっかりがWEB小説には溢れるんだろうが、でも、それを読み込んだ次の世代は、オレら今の世代よりは(日がな萌え萌えブヒブヒいってたり、ゲハ論争にあけくれたり、ネトウヨになったり、あと……ああもういい、涙でてくる)、広いスパン・ビジョンで、しっかりした考えを持った奴らがでてくると思うぜ? 

そういう世代に、負けないようにしようや。

 

 

●物語の教訓的読み込み、おしまい