残響の足りない部屋

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滝川幸司「天皇と文壇」における<公宴>と、平安ヒエラルキーのマクロ構造

 

前回記事

滝川幸司「天皇と文壇」の宮廷詩宴考察から見る、平安期政治力学のダイナミクス - 実験秋雨前線青本(書評ブログ)

 

 

天皇と文壇―平安前期の公的文学 (研究叢書)

天皇と文壇―平安前期の公的文学 (研究叢書)

 

 

今回ちょっと図書館までいって、予約注文かけてた菅原道真と、アリストテレス関連の本借りてきます。……にしても、わたし、学生時代は奈良にいたのですが、大学図書館にせよ図書情報館にせよ、とかく資料はほんとこと欠かなかったのですが……現状(僻地住まい)はまったく……(ぶつぶつ)

 

ということで、平安漢詩文のアイコンたる道真を掘りつつ、滝川先生(前回、「氏」表記を恐れ多くもしてましたが、やっぱり先生はわたしにとって、いつまでも先生なので、「先生」表記で。当然っちゅう話ですが……)の御論に基づく、妄想曲解文芸論/哲学を今回も。

なお、滝川先生は、道真研究が御専門のひとつでもあり、今年あたり、道真研究のアクション(ひとまとめ的な)が行われるご予定、と、某所で伺いました。ああ、またお会いしてお話したいですね。

(【御報告】四月の深海600mライヴ&M3合わせで大阪→東京いきますので、残響、そのあいだはブログ更新とまります。そのとき、滝川先生とお話してくる予定です)

 

恒例に行われる儀式とは、天皇を頂点とした身分秩序を視覚的にも確認させ、天皇との結びつきを強める場としてある。身分秩序を視覚的に確認させるというのは、儀式における役割や座などが、身分・官職によって決まっているからであるが、内宴などもそうした儀式の一環としてある。だから、そのような詩宴で個人的な不遇を詠めば、極端にいえば、天皇以下の身分秩序への不満になってしまうのである。だからこそ、個人的な不遇が詠まれることは原則としてあり得ないのである。

――滝川幸司「天皇と文壇」第一編 天皇の文壇 四、七月七日宴をめぐって

 

 

前回ちらっと書いたように、先生の御論によれば、<公宴>はヒエラルキーの再確認です。

このことは先生の御論のなかで何度も言及され、ときに、それをひとことで

「王者私無し」

の詩宴である、と評します。英語で簡単に言えば、

「King has no PRIVATE」

ってとこでしょうか。

 

もっとも、時を経るごとに、公宴のイディオムが密宴のイディオムに侵食されてくる(村上朝)ということにもなってきて……まあ、「公」と「密」、制度としてバキっと分かたれてはいても、前回の記事で

「詩人は社会のアトモスフィアを読む」

ことが役割、と書きましたが、逆いえば、詩人がどう動き、文壇がどう動くか、というのも、結局はアトモスフィアなのだろうと。

先生はこの意見に反発反論されるかもしれませんが……データ(証拠)をあげてみよ、的な。ああ、先生らしい……(苦笑)(←笑ってる場合じゃない)

 

しかし、「アトモスフィアの解析」は、妄想に近いですが、詩や歌の表現・解釈論のときに「いかなる時代アトモスフィア」に、詩人・歌人が支配されていたか(さらには、その当時の文壇、文芸社会にとっても)を探ることは重要でしょう。

先生が古今集研究をされつつ、こういったシステム論を同時にされるのは、そのあたりに端を発しているのでは、と推察します。

 

そもそも儀式とは、「君臣上限の秩序と上奏、下達の形式とを、空間的位置と参列者の行動とに表現するように仕組んだ一種の演技であって、儀式に規定してあるその次第書きの通りに、毎年繰り返して、参列者を行動せしめ、彼らをして、目と耳と再拝等の行動等によって、君臣上下の秩序と自己の地位分限とを覚らしめる」機能を有するものである。先にも触れたが、内宴とよばれる<公宴>は、毎年正月二十日辺に仁寿殿で行われてこそ、<公宴>としての機能を果たすのである。 

 ――滝川幸司「天皇と文壇」第二編 宮廷詩宴考証 五、清涼殿儀意外での花宴

 

で、今回は<公宴>についての曲解記事です(苦笑)。

<公宴>とは何か。いやそれを語るのがこの先生の御本なのですが、その宴の性質は、先生が語られておられるので、わたしはさらにその起源論というか。前回の記事の続きというか。

 

儀礼論として<公宴>を考えます。

 

<公宴>は場の賛美です。どう賛美するかについての詳細データは、「天皇と文壇」の「第ニ編 宮廷詩宴考証」に、滝川先生の御苦心・御苦労・労作としてのデータ蒐集が、わかりやすく解説されています。

 

で、それを読むと――まー、儀式ってお堅いですね(ひどい感想)。

何もかも決まっている。現代のリアルな感覚でいえば、紅白歌合戦をつつがなく行なうための、厳密に決められたNHKの裏プログラムシキタリみたいな。(そういうのがあるらしいのです)

「そういう儀式」なんです。<公宴>は。そこには丁々発止もなければ、詩人同士の「推敲」議論もない。文壇プロレスもない(笑) すべてはつつがなく。

 

あ、そいえば、こないだ家族の病院の付添いで、待合室で待ってたとき、TVで新年歌会始が流れてたのです。それつらつら見てたのですが、これ、歌を詠んだひと(一般人)が、詩吟するんじゃないんですね。

きちんと「歌を吟ずる」役目のひとがいて、朗々と「なんとーーーかーーーーーのーーーー、なんとかーーーー」みたいな感じで五七五七七を、ゆったり吟じます。平安時代と変わってない……(当然か?)

で、歌の作り手は、もんのすげー、緊張した感じで立っていましたね、詠まれてるとき。そりゃそうだ……

 

 

で、ですね。このようなTVにも(「皇室」的な)映ってるようなのは、<公宴>か<密宴>か――?

いやそこまでは正直ぜんぜんわかりません(あるいは、「平成の世」の宴とは、<公密宴>的な、儀式でありながら、ノーブルなエンターテイメントの場に近いのでしょうか)

ただ、すんごい緊張感に満ち満ちた場である、と。

 

 

ーーーーー

 

本題は(長かったですね!)なぜ「そのような場(詩宴)が求められたか」。

その一端を、前回「世のアトモスフィアの感得」と表しましたが、今回は、「ヒエラルキー意識」の観点から。

それにしても、こういう研究は全共闘・学生紛争・大学運動のトキは絶対「反動」っていわれたでしょうね……(よけいな発言)。

 

 

ヒエラルキーとはなにか?

うーん……すごい問が大きすぎる(笑)

じゃ、論理学に従って「対偶」とってみませう。

ヒエラルキー」の対偶は、

いわば「下剋上があるかもしんないけど、皆が頑張れる世界」

だと、わたしは思ってます。

 

えと、これどういう論理式かというと、

http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/modern-clothes/20140209/20140209185418.jpg?1391939703

 

うん、学問的裏付け、論理の正当性は勘弁して!(笑)

全部「勘」でいってますから!(先生には「それが君の持ち味だけど、もっとテキストを論理的につきつめなさい」と言われ続けてきました……変わってなくてごめんなさい)

 

もちろん、鎌倉幕府武家政権)の台頭、院政への変化、とかを見るに、ヒエラルキーは、「非ヒエラルキー=動乱」と対になる、とわたしは考えています。

 

で、もうひとつの評価軸として、

ヒエラルキーの安定率(%)」というのも。

なんでこれ分ける必要あんの? と言われるかもですが、まあ、迂遠な分け方かもしれませんが、「ヒエラルキー」の対偶をより明確に正確にするとこうなるのです(と思います)。

 

平安びと――ここまでして「硬い」儀式を希求するのは、「ヒエラルキーの完全化」「完全性」です。

世はすべてこともなし――

もちろんそれは保守の硬直化なんですが、しかし「天皇の国体」とは、「実験」を尊びませんし、それはどの地域(世界)の「王」も同じです。

 

さて、ではそのヒエラルキーが完全でなく、「揺れた」場合。

 

女魔法使い「かたや、永遠の世界。それは永久を過ごす微睡みの世界。もちろん完全な平和ではない。戦争もあるし、人間と魔族は互いに滅ぼし合おうとする。それでもそこはある意味理想郷。無数の魔王と無数の勇者が現れて互いに戦い、争いは常に伝説となる。でも、それは世界の背景。普通の村人までもが戦で命を落とすことは少ない。昔見た、小さなあの村は、いつまでもそのままに人々は変わらぬ日々を送る」

 

勇者「変わらない……」

 

女魔法使い「人間は新しい技術を開発もせず、王は王のまま、農奴農奴のまま。それが当たり前。”当然ゆえの幸福”。その永遠。苦しみと不幸はそのままに、喜びと幸せもそのままに……。決して破滅することのない日常が寄せては返す波のように。彼女がかつて愛したその世界のそのままに、何度も繰り返される」

 

女魔法使い「かたや、解放された世界。闇の帳のなか、明かりを持たぬ旅人のように、心細く未知の旅を強要される世界。そこでは激しい戦が起きる。新しい技術が開発され、世界は拡大し、変化を遂げ続ける。産業や経済発展はおびただしい数の人間を幸せにするだろうけれど、同時におびただしい数の不幸な人々を作り出しもする。わたしは伝承学者だから詳しくは分からないけれど、すべてが滅びる可能性も少なくはない。それはあるいは破滅へ続く回廊なのかもしれない」

 

魔王「破滅へ……」

 

女魔法使い「すべての美しいものは消え去り、すべての優しかった思い出は壊れ、勇者も魔王も生まれず、戦いは歴史となり、決して”伝説”になってはくれない。なぜならば、もはや救済はないのだから。でも、それはありとあらゆる可能性の萌芽。人々は幸せになりたいという願いを胸に旅をする。不安と引き換えに手に入れるのが、その胸に灯る希望。そして、未来がわからないゆえに、誰もが全力で生きる。昨日とは違う今日。今日とは違う明日を求めて。それは彼女がかつて愛した世界ではない。誰も見たことのない新しい世界。……新しい、明日」

 

 ――橙乃ままれまおゆう魔王勇者 5 あの丘の向こうに」

 

 

まおゆう魔王勇者 5あの丘の向こうに 特装版

まおゆう魔王勇者 5あの丘の向こうに 特装版

 

 またまおゆうです。すごい難しい比喩ですが、物語のラストにおいて主人公(勇者・魔王)は二つの世界の選択を迫られます。

ヒエラルキー100%」は、「まどろみの世界」と言い換えていいです。

「下剋上あるかもだけど、がんばる社会」は、女魔法使いの議論だと、後者。

では……

「完全な切った張ったの戦国下剋上」は、上記比喩の後者のヤバい版。

ヒエラルキー45%くらいヤバい」は……逆言えば、体制に守られつつも、しかし体制を活かして、国体の強化、文化の発展を可能にできなくもない、「背筋の通ったまどろみ」です。

 

正直わたしは、平安時代で「聖代」があるとすれば、この「45%」のトキだと思うのです。

しかし――そうは思わなかったのが平安びと(女魔法使いの比喩の「メリット」を考えてみましょう……ああ、なんという貴族趣味に都合がいい!)。

彼らは「何かが生みでる」「変えていく」――社会を、人倫を。その方向を、あんま選ばなかった。

それゆえ、平安時代は「まどろみ」が続きます。ヒエラルキー儀礼によって固定化さした、というのは、こういうダイナミクスが背後に働いていたから、だと、わたしは思いました。

 

 

……もちろん、「だからこそ」このあたりの力学を卓越した政治センスで察知し、「ヒエラルキー45%ヤバイ」状況の「揺れ」を最大限利用した政治家こそが――藤原道長です。

そして、それを理解しつつも、詩人/哲人/君子、として、立ち向かって敗北してしまったのが、菅原道真なのです。

 

(まだまだ「天皇と文壇」の曲解記事、続きます。滝川先生ごめんなさい)

 

※追記

この記事書いたあと、図書館でいろいろ借りてきました。

メモ的に、そして読書予定的にかいときます

 

 

菅原道真 (日本漢詩人選集)

菅原道真 (日本漢詩人選集)

 

 

 

 

菅原道真―詩人の運命 (ウェッジ選書)

菅原道真―詩人の運命 (ウェッジ選書)

 

 

 

 

菅原道真 (人物叢書)

菅原道真 (人物叢書)

 

 

 

 

引用する精神

引用する精神

 

 

 

 

日本文学史序説〈上〉 (1975年)

日本文学史序説〈上〉 (1975年)

 

 

 

 

 

 

 

ちくま哲学の森 1 生きる技術

ちくま哲学の森 1 生きる技術

 

 

これらをざっと読みといてから、次は文壇内の「詩人」「詩人性」とはなんだったのか、を、主に道真、及び道真周辺のひとたち(これも滝川先生の研究をもとにさせていただきます。そのあたりの滝川先生の研究内容は、twitterで紹介されてるそうです)

ちょっと資料よみときに時間かかるかもしれませんので……失礼します。これお読みにいただいてるかたには、ごめんなさい。

また、アリスとテレスに関しては「なんで?」と思われるかもですが、これは自分の物事の考え方が、非常にプラトンイデア思考から、アリストテレス的「自分の認識で満足してればそれでいいじゃねえか」的実際思考に変わってきているからです。これ、むかしのわたしを知るひとからしたら、信じがたいことかもしれませんが……!