残響の足りない部屋

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Krik/Krak「たそがれ道化師」

http://www.krik-krak.net/tdouke/banam.jpg

 

 

公式ページ

Krik/Krak Official Web Site | 同人音楽サークルKrik/Krak

webコンテンツページ

たそがれ道化師

前に書いたKrik/Krakに関する試論についてはこちら

Krik/Krak試論(1) - 残響の足りない部屋

Krik/Krak試論(2、後編) - 残響の足りない部屋

 

幻想/トラッド系同人音楽サークル、Krik/Krak。

彼女たちは実に旺盛に、webコンテンツとして、コンセプトアルバムめいた各々の、味わい深い掌編を、公式HPにアップしています。しかも無料!

そしてそこでスケッチしたものを、後にフルアルバムとして(サンホラの「地平線」のような「通しナンバー」としてではなく、独立した短~中編として)、盤(CD)に仕立て、再び世に問う、みたいな形式で行っているようです。

(このコンテンツの場合だったらこの盤)

http://krik-krak.net/nr2tasogare.html

自分正直に申しますと、Krik/KrakのCD、まだ一枚も持ってなくて、いまはHPの試聴音源や、webコンテンツの音源をむさぼるように聞いてるだけのリスナーなんですが、それでも、この豊潤かつ「甘美なる密室劇」の毒に、ずぶずぶとハマっているようです。

 

 

この「たそがれ道化師」も、そのようなwebコンテンツのひとつで、先日から「1コンセプトwebコンテンツを数日かけて」じっくり味わっています。

で、そろそろこの音絵巻に対する自分なりの解釈が出てきたので、ここに書き記して……次の絵巻をむさぼることとします。

 

スケッチしたもの、とわたしは言いましたが、通りがよい説明としてこう申したまでで、実際にはここで描かれている世界は、すでに充分に完結しています。

複数の人物や物語を配しながら、まずは一視点からの物語。フルアルバムではそれをさらに複合化、錯綜化、長編化さして……というように見受けられます(曲タイトル見ただけでそれは見てとれます)。ああ、盤よ!

だからスケッチではなく……そうですね、長大絵巻に対して、ひとりのモデルを中心に描く人物画の連作のような。そのような親密さが、Krik/Krakのこのサイズの「物語音楽」にはあります。言わずもがな、室内楽を好みまくるわたしからしたら、御馳走以外のなにものでもありません。

 

あと、日頃わたしは歌詞をあんま読まないのです。

「いまは」音だけを聞いていたい。歌詞を読みながらの複合的な世界把握は、老後の楽しみにとっておきたい、という感じです(そいと、世間の「歌詞押し」の風潮につむじをまげているところも)

しかしKrik/Krakに限っては、その禁を破りたくてしかたがない、豊潤な……そう、英国の毒のある童話の正当後継者たる、本物の教養を兼ね備えた、風格と洒脱と毒をもった、一流の「文学」を展開するものですから。この豊潤さの前には、聞かざるをえないじゃないですか。

 

さて、前書きが長くなりました。本題に入りましょう。

 

●うさんくさい物語

じまんぐが出たぞー!!

いや、嘘うそ(笑)

物語の主人公? いや、語り部ですな。彼は「キロプテラ」と名乗るピエロ。

実に昔ながらの……講談師?さあさ皆様よってらっしゃい見てらっしゃい、そこな坊ちゃん嬢ちゃん鵜の目鷹の目天眼通の……いやいやどこの江戸やねんw

でも、それくらい「口のまわる」男が、語り部として、言葉を紡ぎます。そう、webコンテンツページをご覧になられればおわかりになるように、三曲と、荘厳なタッチの絵画と、あとは小説で成り立っています。

じゃあヴィジュアルノベルか? いえいえ……例えるなら、音楽付き絵本。それも、オルゴールがそばで鳴っているかのような……実際、最初の音はオルゴールじみたピアノで、場面にもオルゴールが登場するのです。時代背景と、web閲覧環境が、奇妙にリンクしています……まるで、騙し絵というか、そもそもこの形式自体がアートたる的な。

 

 

そう、これは「統合されたアート」。

昔のプログレが追及した、統合芸術としてのアート。古道具屋や骨董屋、画廊や古い喫茶店が実によく似合う……。

じゃあ高踏的で難解か? いえ、「キロプテラ」の語り口を聞けば、それは雲散霧消するでしょう。なんといっても、粋と毒、道化のなかに様々なる諸相を見せる彼の語り口は、万華鏡。

 

……じゃあ、きれいなだけか?

Krik/Krakが、まさか、ね。この吟遊詩人少女楽団は、そのような「単純さ」を尊ばない(あるいは尊んだ場合、オルゴール曲のように、思弁が入りこまない純粋表現に成り得るのかもしれません……とするならば、彼女たちの詩情の透徹さよ!)。

 

そこにあるのは……「何が本当かわからない」ということ。

いえ、各曲のエピソードは本当なのですが、語り手・キロプテラの真意がわからない。

それなのに、曲はどこまでも……美しく、儚く、勇ましく、繊細で。その表現における真正は本物だけに、語り手のうさんくささが、それと対比せられて、「いったいこの絵巻はなんなのだ?」と思わせるのです。

曲目は、

1.「亡き乙女への追想曲」

2.「妖精狩りの皇帝」

3.「Misericorde」

 

まず1.ですが、なんとこのメロディーは……先に述べた、わたしがKrik/Krakにはまるきっかけとなった、「オフィーリアの涙」!! のピアノアレンジ!

この曲に関しては、もううざったいくらい、冒頭のリンクのところで語ったので、言を重ねるのはよしますが(ご興味があればどうぞ……超理屈の分析まがいです)、それでもここから伝わってくるのは……「思い出」「出来事」「悲劇」が、結晶化されて、もう誰の手も触れられない、そういう現象というか、ある種の冷徹さ(でもそこには、不思議な安らぎも内包し)。

 

 

2.ですが、ロシアチューン。民族音楽のエッセンスを大々的に取り入れ、アクの強さもそのままに(「ポップスチューン」に安易にしない手腕)、ひとつの妖精絵巻を現出させます。

バックのダンスっぽい打ち込みが、逆にロシアっぽさ(大ロシア的うさんくささ)を表しながら、こくのある流麗なvoが朗々と歌います。

どことなく「みんなのうた」的なエキゾチックさがあります。もちろん「うさんくさい美」という。

全体的に拍子は3拍子だったり、4拍子だったり、変拍子だったり。結構めまぐるしいです。バックのころころした音と、アコーディオンが、ミドルテンポでぐるぐると。

 

そこからサビの「ぐわっと」感……ぐわっと押し寄せるのですね。メロディーが。さすが黄金のメロディーメイカー!

ロシア系トラッドや、正統クラシック曲にさえある「ロシア的管弦楽のイディオム」……ようするに「ぶんちゃっちゃ」なフレーズなんですが、この「煽る煽る煽る!」感が醸し出す独特の音世界……これを、コンポーザー・鳥島氏のめくるめく手腕であります。

 

3.ですが、なんと悲しい曲でしょう。

語りに至るまで、テンションが落ちることも、緩むこともありません。すべては青い結晶として、そこに在るのみ。

どこか、俯瞰的に見てしまう自分がいます。それは臨場感が足りない……いえ、これは意図的。

時間の流れも、出来事の流れも、直線を描いていないのですから。

……孤独。助けはない。救いは……しかし安易な救いなら、笑って捨てる方向を選ぶことは言うまでもない、世界観。

硝子よりも繊細に、もろく。水よりも透明に、凍りつく世界。そして詩が入ってくる、心に! だから繭木氏の詩は読みこむ価値があるのだ!

 

 

そして三曲は終わります。

考察については、わたしはあんまりお役にたてないというか……ある意味で、筋書きはそれほど混迷しているわけではありません。

むしろ不思議というか、「どこをとっていいのかわからない」のは、キロプテラの語りなのです。

曲が終わったあと、また小説パートに入ります。これはじっくり読んでいただきたい!

これまで張られてきた伏線で、我々オタク(笑)はその後の伏線として、さまざまなフラグとして読みとくわけなんですが、最後の小説パートになって、我々が回収してきた「フラグ」は、どれがどれだかわかんなくなるのです。

この道化師は、語り部なのか、主人公なのか? 当事者なのか、語り部なのか?

ここにいる「旦那」は誰なんだ? 物語の中の人物? 本当にただの無関係のひと?

あるいは……「旦那」は、キロプテラの語る物語の中に、旦那自身の抱える問題の、なんらかのアーキタイプ(心理/真理の原形)を不幸にも読みとってしまった人? 

……むしろ「旦那」こそがアーキタイプ(物語の原形)? 物語を綴ってしまった、登場人物としての人間?

その旦那も、まだ幸せとは縁遠い人間にて。妖精に「あれ」食らわされるし。

……で、この寸劇を見守っている「我々」はなんなのだ? この寸劇は遠い異国のものなのか? いや、例えばこの国の文明開化せし100年前にも、この道化師はいなかったか? いや、現代の都心にも、姿かたちを変えたこの道化師はいるんじゃないのか?

 

どの道、「我々にんげん」の心根など、変わりもしないのだから。

幻想と狂気の「あっち」に、ふいと足を飛び越えてしまう我々は。

 

 

……そこまで考えると、怖くなってきます。

Krik/Krakというアーティストは、どこまで考えていたのだろう、と。

この絵巻はすべて万華鏡のように、くるくるくるくると。虚実……虚実が、その境を失っていく。

だからこそ、わたしはこれを「文学」と呼んだのです。

 

ですが、そのような仕掛けたっぷりにも関わらず、3.を過ぎたあとの小説パートの、実に「静か」たることよ!

筆致も、webコンテンツの構造も、この静けさをもたらすため、と計算しつくされて、構成されているようにすら思えます。そしてそれは杞憂ではないでしょう。

 

一音すら、巧みに配列して。静寂すら、語られざる語りを語らせて。

これが、アートです。