残響の足りない部屋

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何のためにブログを書くか、2014年上半期、物語読解編

●前回、エロゲを「なんでそこまで読みとかなければならないのか?」という論点で〆ました

何のためにブログを書くか、2014年上半期、音楽編 - 残響の足りない部屋

何のためにブログを書くか、2014年上半期、エロゲ編 - 残響の足りない部屋

 

所詮我々は、消費者です。ただ買って、ただおもすれーだの、駄作だ地雷だの、そんなことばっか言ってる人間です。

……わたしは、そこから、少し脱却したいのです。

いえ、上の「消費者メソッド」をヘイトするわけはなく……エロゲであったり、音楽であったり。あるいは小説であったり、ノンフィクション(ルポルタージュや、哲学書)であったり。

それらから、得られた知見、そしてそのテキスト/表現物でもって、わたしが何を考えたか、わたしがなにを学んだかーー今までクソだった「きのうまで」の自分から、少しでも「明日の自分」を、マシにしたい。

万物は、そういった意味で、わたしの教師です。

とりわけ、優れた文物ーーレコード(音源)、エロゲ(優れたノベルゲーム表現)、小説、哲学書、思想書などは、わたしの読み説きひとつで、そこから無限の滋養と哲学と、「明日の自分が、すこしでもマシになる知見」を、教えてくれます。

 

 

……いえ、もっと単純に、学びたいのです。研究したいのです。

それは、古代ギリシアの時代から、ずっと人間が「たのしみ」としてやってきたことです。

むろん、「楽しいだけでいいよ、娯楽なんか」という言説は、正しいです。そのメソッドで、世の中は動いていることは、重々承知しています。

でも、わたしは違うのです。レコードを、エロゲを、本を、自分のために、活かしたいのです。

 

 

前回、レビューを書いてるとき、自分の感想や結論が変わっていく、っていうことを書きました。

アレ、結構変な考えかたのようですね。よく言われます。

でも、皆さん、レビュー書いてて、「考えがまとまってきた」って感覚、ないですか? いままでぼんやりしたアトモスフィア的思考だったのが、言葉を与えることによって、急に輪郭をくっきりしてきた、みたいな。

 

 

例えばエロゲをやってるとき、皆さん考えるわけです。それはひとつの「経験」です。

ですがレビューをやって、エロゲをひとたび、さまざまなエレメントに分割して、それをレビューのかたちに再統合するとき、皆さん、頭の中が、ぎゅっぎゅっと、ストレッチする感覚ないですか?

それもまた、ひとつの「経験」だと思うのです。

 

もちろんわたしのように「レビュー書いてて考えが変わる」みたいなのは極端ですが、でも「あ、自分はこんなことも感じていたんだ」って、気づかされることはあると思うのですよ、レビュー書いてて。

エロゲは、プレイするだけが経験じゃない。こうして振り返ることも、また「経験」なのです。

 

 

じゃあ、経験が重要なのはどうしてか、というと、

「それがあなたの人生そのものだから」です。

……皆さん、今の自分から、変わりたくないですか? わたしはめっちゃ変わりたいです。自分クソですもん。

それには、さまざまな知見を学ぶ必要があります。ライフハック記事といえなくもないですが、これから先の人生にとって、有益である様々の知見を、自分の中にインストールしとくこと。あるいは逆に、これまで自分が躓いてきたことを、物語などが与えてくれる視座によって、浄化したり、追悼したりすること。

物語を読んで「あー、楽しい」で終わるのも素敵です(皮肉ぬきに)。

でも、物語には、こうした実効性というのがあります。……あるいは、こういう物語を読み説く人間には、こういう実効性を求めてやまないのです。

まるで薬のように。あるいは、よきオーガニック食物を喰って、人体のホメオスタシスを保つ、みたいな。

 

●物語に、全力で向き合うこと

 

あまりにも、創作物というものには、さまざまな人間の力(リキ)が入っているわけです。おぞましいほどに。それはスタッフロールの欄にどれだけの人間が関わっているかを見ればおわかりかと。

皆、「何か」に向かって努力しています。

それは……文学的理想であったり、美に対するあくなき挑戦であったり、エンターテイメントの職人たる決死の覚悟であったり。

それに対し、我々は……先にも述べたように、どれだけ「力(リキ)」を入れて相対してるでしょうか。

わたしは、最初に、このブログの更新理念として、三つのことを書きました。

 

●原則その1:自分が買ったもので、何か考えたことを書き残さないと、それらの文物に申し訳がたたない

 

●原則その2:これから先の自分の人生(あるとしたら)を、きょうの自分よりマシなものにするために、得られた知見を書く。もしくは得ようと努力する。

 

●原則その3:完全に備忘録。

 

そう、彼らにたいして、申し訳がたたない。

それは自分自身が、別名義でですが、創作活動をしている人間だっちゅうのもありますが、娯楽産業が社会営為(商売)である、ということを、最近とみに感じている立場としては、彼らが決死の努力で作ってるものを、てけとーな扱いで「流し」たく、ないのです。

自分は、全力で相対したい。

それはなぜか。なぜ、そこまでして、全力で相対したいか。

……きっと、それは、また上のことと同じことをいいますが、自分を変えてくれることを、無意識で期待しているからでしょう。

……ただ。

ここがちょっとわたしの違うとこかもしれませんが、「その作品が与えてくれるものをただ享受する」だけで、おさめたくないのです。

むしろ、どこまでもどこまでも、自分勝手な解釈をしたい、と

 

●読みとき

 

たとえ、クソゲであっても、自分の読み説き(ポジティヴな)ひとつで、かなり、いろんなものが引き出せるのです。

例えば、わたしは旧しとろんソフト/現まかろんソフトのゲーム(B級)が好きなのですが、このソフトメーカが、しとろん末期時代、ちょっと嫌なドタバタして、ある駄作を作ってしまったことがあったのです(それはもともとのスタッフの技量というよりは、むしろビジネス上の問題だったみたいですが……)

それが、このブログのエロゲ関係の記事でも、トップのアクセスを誇る、「初恋タイムカプセル」関連の記事です。

初恋タイムカプセル体験版感想(mixi日記転載) - 残響の足りない部屋

初恋タイムカプセル延期発表(2/2分mixi日記転載) - 残響の足りない部屋

初恋タイムカプセルプレイ日記(1) - 残響の足りない部屋

初恋タイムカプセルプレイ日記(2) - 残響の足りない部屋

初恋タイムカプセルプレイ日記(3) - 残響の足りない部屋

初恋タイムカプセルプレイ日記(4) - 残響の足りない部屋

初恋タイムカプセルプレイ日記(5) - 残響の足りない部屋

 

……それだけ、この(旧)しとろんソフトというメーカが好きだった!

それが、こんなクソゲを作「らされて」、没するとは! その嘆きからこんなに何回もテキストを書きましたが、

こういうネガ記事のなかでも、ポジ的な側面を拾いだすことができたのです。

それは、もともとのスタッフが、どれだけの(異常な、キッチュな)才覚を持っていたか、ということ。

それを、「このもともとのスタッフにちゃんと任せていればー!」的な嘆きから、逆に、これらのスタッフの才覚が再確認(ダジャレじゃなく)できた、という、変なポジ「ギフト」なのです。

……だから、たとい、クソゲであっても、読み説きひとつで、そのひとのQOLの向上になるのです。

作品の面白さの客観的なレビューじゃなく(わたしの場合)、わたしがその作品に面白みをみつけて(見つけるように努力して)、自分を整理したり、変えていくことの、楽しさといいましょうか。

 

だって、そのほうが、自分にとっては、楽しいんですもの。

ヘイト記事を書きまくって、カルマを溜めるよりは、たとえ凡作でも、その中に「なんか面白いこと」があったら、それを記事にすることで、自分にポジティヴな観念のひとつでも残しておきたい。

 

 

それは、非常にプラグマティズムな見方だと思います。

で、この根底にあるのは、自分がキライ、という、憎悪感です。嫌いだからこそ、自分を少しでも、よくしたい。自分がクソだからこそ、クンフーを積みたい。だから、物語を、プラグマティズムでもって「利用」するのですね。明日の自分を、マシなものにするために。

 

その読み説きは、世論からしたら、間違っているかもしれません。

でも、間違ってても、わたしが成長するきっかけになったら、それ以上の意味(物語の)は、わたしにとってはありません。

ようするに、すげえ、わがままなんです、わたし。自分さえよければそれでいい、的な。

……周りに、迷惑かけ続けてきちまいましたからね。だから、クンフーを積みたい。様々な本やレコードやエロゲを読むのも大切ですが、そこから「読み説く」ことなしには、自分にとって、栄養にならない。

栄養になぜしなければならないか? もうさんざっぱら書きましたが、それこそがクンフーです。今日の自分を乗り越えることです。

 

だから、自分のレビューというのは、あんまり客観性を尊びません。

自分がどう思って、どう学んだか、それが第一です。(じゃあ、前回書いた効率性フォーマットは、いらんじゃないか、といわれるかもですが、まあ、それでもやっぱり、これまで学んできたものを、なるべく多く形にしたいので……)

 

減点法で、語りたくないんですよ。

それよりも、自分がどう学んだか、どう学べるかを、頑張って探っていきたい。

それが、わたしがレビューをする、意味なんです。

 

プラトンイデア論よりも、わたしはアリストテレス的実際的哲学をとります。

 

 

 

ツチヤ教授の哲学講義

ツチヤ教授の哲学講義

 

 

 

ここで一気に哲学にいきます。

プラトンイデアーーざっくりこの記事に即していえば、

「物語の面白さや美の本質は、その物語自身にはない。物語を通して、面白さや美の本質(イデア)に辿りつくのだ」

というものです。間違ってるかもですが、わたしはそう解釈しています。

つまりは、面白さや美は、エロゲや本自身にあるのではなく、それを通じて、どっか遠いところに「本当の美」があるのだ、という考え。芸術的真理があるんじゃないか、と。

10年くらい、この考えで、わたしもきました。作品の本質は、どこか……天上だったり、人知を越えたとこにあるんじゃないか、と。

 

ですが、先ほどから言ってる「自分の読みときに基づいた、自分なりの解釈でもって、自分のQOLを高めることのほうが大事」

という観点からだと、急にアリストテレス哲学(実際的哲学)が面白く思えてきたのです。というか、これ、非常に自分にフィットするな、と。

ようするに、

イデア=「本当の美」、の存在はどこにあるか、よりも、

自分が感じた感動や読みとき、から自分onlyの、引き出した哲学のほうが大事だ、と。

 

つまりイデアというのは、ひたすら客観的なもので、遠くにあるものなんですが、

アリストテレスの立場を(自分なりに)とると、「俺解釈で、俺は幸せになる。それで文句あっか?」という、すげえ傲慢な理屈に繋がります。

客観的な美よりも、主観的な美。主観的な真理。主観的な喜び。

 

すげえ傲慢です。

でも、自分は、これをとります。

なぜなら……

自分の人生だから、

です。

 

わたしは、わたしが幸せになるために生まれました。それ以外の目的は、知ったことではありません。

例えば、奉仕のために生きよ、という考えもあるでしょう。でもわたしからしたら、それは当人にとって奉仕が「快」であれば、それ充分にやるがよろし、みたいな考えを持ちます。

自分は……死ぬことが100パーな人間です。人間の致死率は100パーです。

いずれ死にます。

だったら、自分の人生、後悔したくない。

最近、持病がひどくて、今現在すらロクに認識できてない状況ですが(最初にいった、記憶喪失の進行)、それでも、死ぬとき、

「誰かに強制された、【いわゆる喜び】【いわゆる真理】【常識】」

で人生を終えるよりも、

「自分で選択しした【自分の喜び】【自分の哲学によって生きたという実感】」

を得たいのです。

とにかく、自分の人生のQOLをあげること。だって、死ぬんですから。

 

人生に、物語を、エロゲを、音楽を活かす、というのは、そういうことです。

だから、わたしは、ブログを書くのです。

要するに、ひょっとしたら、わたしは、わたしの哲学/思想をやりたいのかもですね。レビューで客観的な評価するよりも。読みときによって、自分の人生を考えて、活かしたい。

 

 

長々とした文章でした。お読みいただいて、ありがとうございました。

(2014年上半期、ブログ論おしまい)