ああ、眠ったんだ。そして、ずーっと昔のことを夢に見たんだ。
空に舞う、叛逆の軍を見るんだよ。
眠り、夢を見る。
俺はキャンプファイアーを見て、炎の中から、戦いの歌が出てくるのを見たんだよ。
叛逆者たちは、空でワルツを踊り続けてた。
the Clash「叛乱ワルツ」(訳:残響)
The Clash - Rebel Waltz - YouTube
事前情報
●せいぜい繋がりがあるとしたら、艦船模型を作るのが好きなくらいと、同人アレンジCDを集めてることくらいです
●でも、このコミカライズは大変にすばらしかったので
●いつか静かな海で、会いましょう
艦隊これくしょん -艦これ- いつか静かな海で 1 (MFコミックス アライブシリーズ)
- 作者: さいとー栄,田中謙介,C2機関
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/メディアファクトリー
- 発売日: 2014/03/22
- メディア: コミック
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俺はワルツ・チューンを娘さんと踊った。
戦場で踊るために、書かれた曲だ。
娘さんの声と共に俺は踊る
声が聞こえる
「せめて俺たちは立っていよう、全ての少年兵が倒れるまでは」
と。
――「叛乱ワルツ」
この漫画は、webブラウザゲーム「艦隊これくしょん―艦これ―」の公式コミカライズです。
他の艦これアンソロ群雄割拠時代のなかで、この作品が他と違う点は、原作が、艦これのプロデューサー……いや「父」こと、田中謙介氏だということです。
他の艦これ漫画で、たしか田中氏がペンをとった例はないはず(これ以降あるのかは知らん)。
内容は、ブラウザゲーやってないのですが、
「艦娘たちが日常を送って、その延長戦上で戦いがあり、また日常に戻る(決意を秘めて)」
という一連のシークエンスを、一話一艦娘、という形で進めていきます。
で、今回は、この作劇構造論で語ります。この小論。久しぶりに漫画読解やるな……。
ところで、ジャズの曲に、「いつか王子様が」という曲があります。
Someday my prince will come
これを訳したところが「いつか王子様が」なんですが、いい曲なんですが、今回はむしろクラッシュとの親和性について語りたく。
で、このタイトルの意味は、まあお分かりでしょうが、「いつかやってくる白馬の王子様を待っています。いつか会えたら、遊びましょう」みたいな感じなんですね。
もちろん、ひとによっては皮肉っぽく捉えるかもしれませんが。「ただ夢想してるだけやん」みたいに。
で、このコミカライズ「いつか静かな海で」。
同じ言葉の響きに聞こえるのです。
「静かな」というのは、平和な、というのと同義ですね。そう……大戦後の海。争いなんてない、平和な海。そんなのが、いつか来ることを(大々的ではないにせよ)望む、という。
響「もっと 色々な音が聞こえたら 戦いも 起こらなくなるんだろうか」
銀髪最高!……とかそういうことを言いたいんじゃなく(言いたい)、むしろこのクリミア情勢ただごとならぬなか、この作品が上梓されたことは、案外政治的な意味合いを田中氏は持たせているのかしら、と、ときおり思ったりします。
「この海」は、まあ、作中では爽快に描かれていますが(あとギャルたちのきゃぴきゃぴ感)、それでもやはり、戦争です。対人ではないものの、命の切った張ったです。
戦争を通じて、自分が何であるか、というのを、艦娘たちは、考えます。
あ、提督とのラブはないです。はい。
●構造1
俺たちが踊っていたとき、戦争は負けたと知らせが入る。
5つの軍が来てる。そりゃ、戦車と銃を持ってな。
このキャンプを通過して、戦線に知らせが伝わる
月に雲がかかる
子供は飢えを叫ぶ
俺たちは、この戦争に勝てっこないってことを知る
――「叛乱ワルツ」
日常→戦闘→決意(日常)
→現在「○○型」はどういう生を現実で送っているか
この漫画の構造は、どれもこういった形です。
艦娘たちのきゃっきゃうふふした、輝かしい日常(みんな仲いいですね)、
漫画読みの友人たちから「何が書いてるか、非提督だとあんまわからない」と言われた戦闘シーン。
そして、その戦闘を踏まえたうえで、これからどう生きていくか(ひとりの人間として、一介の兵器として(?))、についての「思い」。
ここまでだったら、普通のコミカライズ……いえ、それはどれも非常に高水準で行われているので、普通、と言いきることもアレなのですが。
しかしここから、このコミカライズは離れ技を繰り出します。
「決意」から、ラスト1pの「現在○○型(たとえばひびき型、たとえばこんごう型)は、どういう意味合いで、海上自衛隊で動いてるか」
という「後日談」を描きます。
もちろん、これは「大日本帝国の軍艦」ではなく、自衛隊の軍艦、です。
(一応たてまえ上は、防備のための)平和時における、かつての軍艦が現代にリファインされた形。
さて、不思議ではないでしょうか。
艦娘の軍艦性を言祝ぐだけだったら、「軍艦かっけー」だけの描写だけで事足りるはずなのです。
なのに、「現代の軍艦/巡洋艦」に、あえて言及する。
……これはわたしの解釈ですが、そもそも、艦娘=大日本帝国軍艦、は、史実において「いずれ負けたもの」だからです。
つまり、この漫画で描かれているのは、たしかにきゃっきゃうふふもありますが、彼女らの戦いが、いつ終わるか、というのが、いまいち見えないのです。
もちろんゲームは、いつまでも続くでしょう。ただ、艦これの上層部は、どこかで「終戦」を描く、みたいなことを書いていましたように記憶しています。
ときに、兵器というものは、さまざまな平和論者によって、ヘイトされてきました。
ヒトゴロシの道具だと。
でも、彼女(艦娘)たちは、各々の信念でもって、戦います。何のために、を、戦いながら、模索します。
戦う、とは、なにか、を。
この漫画を、きゃっきゃうふふだけで描くことは、容易だったと思います。ですが、それは序盤でほとんど終わりにし、中盤からは、戦闘に入ります。
そして、彼女らは知っているのです。この戦いで、自分たちの役割は十全に果たしているものの、それでも、心からの「安らぎ」は得られないのだということを。戦闘が、日常になってる(ダークな描写じゃないですが)。
この戦争には、勝てっこない。
いや、艦娘たちは勝とうと思っていますが、「いつ終わるか」ということが、いまいち見えない。
みんな必死にやっていることはわかります。でも問題はそこではなく……「今」を鮮烈な戦いぶりによって、自己規定しているのですね、艦娘たちは。
メタ的な視点でいえば、WW2は日本の負けでした。この艦これワールドでは、それをどこまで遵守するかはわかりませんが、でも艦隊が「悲劇性」をバックボーンとして持ってる以上、どこかで「艦隊の悲劇」というのが通奏低音になってると思うのです。轟沈システムがその証左でしょう。
なんぼいうても、これは戦争なのです。
そのなかで、艦娘たちは、自分の戦う意義、自分の存在する意義を模索します。それは……艦娘たちは「大雑把な設定で二次創作を促す」という昨今のコンテンツ戦略の雛型ですが、それであっても、艦娘個人個人の「哲学」を掘り下げます。
それをキャラ萌えの深化、ということも可能ですが。
●構造2
そうだよ、俺たちはライフルと踊る、銃音のリズムに乗って。
大きな樹の後ろに、俺だけのいとしい人が立ってるのを見る。
そのとき、この星は太陽のように焼ける……地獄みたいだ
兵士たちは死んでいく
そこにあるのは歌の響き
この歌は、古い叛逆者の歌
――「叛乱ワルツ」
何のために戦うのか、がブレていたら、戦って勝つことはできません。
だから、彼女たちは悩むのです。事実、どの話にも、一回は挫折があります。
それでもって、艦娘たちの深みを描くのでしょう。
そして、彼女たちは、戦いの意義を、見出していきます。
でも。
それは、裏返せば「戦いに殉じる」と言うことと同義です。
戦って、戦って……もちろん、彼女たちは軍艦として生を受けました。戦うことが、彼女たちの生きる意味です。ケッコンカッコカリ? うーむ。
この「戦いに殉じる」と言う点で、わたしはある種の悲壮さを感じてしまいます。彼女たちは、守ろうとします。提督を、人民を、国を。――自分を、ある程度犠牲にしてでも。
その戦いは、いつおわるのでしょうか。
少なくとも――この海(戦のなかの海)は、荒れています。うるさい海です。そこに、彼女たちは、留保ない幸せを得ることは出来るのでしょうか。いや、だからこそ、提督ラブなのでしょうか。
戦う意義とは、なにか。それを、彼女たちは、模索するのです。この漫画の意味は、そこにあります。
●今は、まだその時ではないけれど、いつか
俺らの望みの煙が、高く戦場に昇ったとき
月と森を通して、欺かれた、ってことを知るんだ。
眠り、俺は軍が勝つ夢を見る
声が聞こえはじめる
倒れるまでは、立ち続けるんだ、と
これは古い叛逆の歌
――「叛乱ワルツ」
信念在る限り、彼女らは戦い続けます。
ですが、世の平和論者は、武器というものをヘイトします。自分たちがそれで守られているのを知らんという面構えで。
「イクサのものは、いつまでたってもイクサのもの」
そんなふうに、兵器をヘイトします。
それは、彼女たちが「軍艦」であるがゆえに、いつまでも付きまとうものです。
だから、田中氏は、最後に「戦争状態でない、彼女ら(の未来の姿)」を、後日談で、海上自衛隊での活躍をさっと描写して、彼女らの沽券のようなものを、守ります。
それは、田中氏が、本当に軍艦を、艦船を愛しているからこそ。
ときに、自分、モデルガンが好きなのですが、こういう趣味(ミリタリー系)してると、「ひとごろしの道具で遊ぶなんて!」という、クソみたいな暴言にさらされます。
ええかげんにせいや、と思うのですが、でも、艦隊これくしょんみたいなものが、市民権を得るならば、「道具(兵器)に隠された悲劇」を通して、ひとの悲しみ、というものにコミットできる、とわたしは思うのです。もちろん娯楽を通して。
彼女らは、叛乱ワルツのように、「倒れるまで立ちつくす」でしょう。
「この戦には、本当に勝てるんだろうか」と思う夜もあるでしょう。
潰えていった仲間の艦娘たちのことを、思いだすことも。
それが戦いなんだと。だからこそ、日常シーンが、温かい。戦いを前提としてるだけに、彼女たちの日常は、絆に満ちている。
戦争は、人間らしい、か、というのは、わかりません。
そして、この戦争には勝てっこない……いつかヲ級とかの敵を撃滅しても、彼女たちは戦闘機械であることを理由に、平和論者によって排斥されるかもしれません。
だからこそ、最後の「転生」が、胸をうつのです。
彼女たちは、かつての誓いのまま、現代において、「護る」ことを続けています。誓いを、忘れることなく。
我々は、いつまでたっても、戦争を続けています。リアル生活で、どうしようもないまま、戦というもをエンドレスに続けています。
けど、彼女らが「いつか静かな海で」転生するように、わたしたちも、いずれわたしたちの静かな海で、かつて戦っていたものたちと、再会できたら――人間として――、そのとき、我々は平和に一歩近づくのではないでしょうか。
なんか今回、解りづらくてすいません。