残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

この戦争には勝てっこないってことを知る――艦隊これくしょん―艦これ―「いつか静かな海で」読解

ああ、眠ったんだ。そして、ずーっと昔のことを夢に見たんだ。

空に舞う、叛逆の軍を見るんだよ。

眠り、夢を見る。

俺はキャンプファイアーを見て、炎の中から、戦いの歌が出てくるのを見たんだよ。

叛逆者たちは、空でワルツを踊り続けてた。

 

the Clash「叛乱ワルツ」(訳:残響)

 


The Clash - Rebel Waltz - YouTube

 

事前情報

 

●残響は艦隊これくしょん(以下艦これ)をやってません

●せいぜい繋がりがあるとしたら、艦船模型を作るのが好きなくらいと、同人アレンジCDを集めてることくらいです

●でも、このコミカライズは大変にすばらしかったので

 

●いつか静かな海で、会いましょう

 

 

 

 

俺はワルツ・チューンを娘さんと踊った。

戦場で踊るために、書かれた曲だ。

娘さんの声と共に俺は踊る

声が聞こえる

「せめて俺たちは立っていよう、全ての少年兵が倒れるまでは」

と。

――「叛乱ワルツ」

 

この漫画は、webブラウザゲーム艦隊これくしょん艦これ―」の公式コミカライズです。

他の艦これアンソロ群雄割拠時代のなかで、この作品が他と違う点は、原作が、艦これのプロデューサー……いや「父」こと、田中謙介氏だということです。

他の艦これ漫画で、たしか田中氏がペンをとった例はないはず(これ以降あるのかは知らん)。

内容は、ブラウザゲーやってないのですが、

艦娘たちが日常を送って、その延長戦上で戦いがあり、また日常に戻る(決意を秘めて)」

という一連のシークエンスを、一話一艦娘、という形で進めていきます。

で、今回は、この作劇構造論で語ります。この小論。久しぶりに漫画読解やるな……。

 

ところで、ジャズの曲に、「いつか王子様が」という曲があります。

Someday my prince will come

これを訳したところが「いつか王子様が」なんですが、いい曲なんですが、今回はむしろクラッシュとの親和性について語りたく。

で、このタイトルの意味は、まあお分かりでしょうが、「いつかやってくる白馬の王子様を待っています。いつか会えたら、遊びましょう」みたいな感じなんですね。

もちろん、ひとによっては皮肉っぽく捉えるかもしれませんが。「ただ夢想してるだけやん」みたいに。

 

で、このコミカライズ「いつか静かな海で」。

同じ言葉の響きに聞こえるのです。

「静かな」というのは、平和な、というのと同義ですね。そう……大戦後の海。争いなんてない、平和な海。そんなのが、いつか来ることを(大々的ではないにせよ)望む、という。

 

響「もっと 色々な音が聞こえたら 戦いも 起こらなくなるんだろうか」

 

銀髪最高!……とかそういうことを言いたいんじゃなく(言いたい)、むしろこのクリミア情勢ただごとならぬなか、この作品が上梓されたことは、案外政治的な意味合いを田中氏は持たせているのかしら、と、ときおり思ったりします。

 

「この海」は、まあ、作中では爽快に描かれていますが(あとギャルたちのきゃぴきゃぴ感)、それでもやはり、戦争です。対人ではないものの、命の切った張ったです。

戦争を通じて、自分が何であるか、というのを、艦娘たちは、考えます。

あ、提督とのラブはないです。はい。

 

●構造1

俺たちが踊っていたとき、戦争は負けたと知らせが入る。

5つの軍が来てる。そりゃ、戦車と銃を持ってな。

このキャンプを通過して、戦線に知らせが伝わる

月に雲がかかる

子供は飢えを叫ぶ

俺たちは、この戦争に勝てっこないってことを知る

――「叛乱ワルツ」

 

日常→戦闘→決意(日常)

→現在「○○型」はどういう生を現実で送っているか

 

この漫画の構造は、どれもこういった形です。

艦娘たちのきゃっきゃうふふした、輝かしい日常(みんな仲いいですね)、

漫画読みの友人たちから「何が書いてるか、非提督だとあんまわからない」と言われた戦闘シーン。

そして、その戦闘を踏まえたうえで、これからどう生きていくか(ひとりの人間として、一介の兵器として(?))、についての「思い」。

 

ここまでだったら、普通のコミカライズ……いえ、それはどれも非常に高水準で行われているので、普通、と言いきることもアレなのですが。

しかしここから、このコミカライズは離れ技を繰り出します。

「決意」から、ラスト1pの「現在○○型(たとえばひびき型、たとえばこんごう型)は、どういう意味合いで、海上自衛隊で動いてるか」

という「後日談」を描きます。

もちろん、これは「大日本帝国の軍艦」ではなく、自衛隊の軍艦、です。

(一応たてまえ上は、防備のための)平和時における、かつての軍艦が現代にリファインされた形。

 

さて、不思議ではないでしょうか。

艦娘の軍艦性を言祝ぐだけだったら、「軍艦かっけー」だけの描写だけで事足りるはずなのです。

なのに、「現代の軍艦/巡洋艦」に、あえて言及する。

……これはわたしの解釈ですが、そもそも、艦娘大日本帝国軍艦、は、史実において「いずれ負けたもの」だからです。

つまり、この漫画で描かれているのは、たしかにきゃっきゃうふふもありますが、彼女らの戦いが、いつ終わるか、というのが、いまいち見えないのです。

もちろんゲームは、いつまでも続くでしょう。ただ、艦これの上層部は、どこかで「終戦」を描く、みたいなことを書いていましたように記憶しています。

 

ときに、兵器というものは、さまざまな平和論者によって、ヘイトされてきました。

ヒトゴロシの道具だと。

でも、彼女(艦娘)たちは、各々の信念でもって、戦います。何のために、を、戦いながら、模索します。

戦う、とは、なにか、を。

この漫画を、きゃっきゃうふふだけで描くことは、容易だったと思います。ですが、それは序盤でほとんど終わりにし、中盤からは、戦闘に入ります。

そして、彼女らは知っているのです。この戦いで、自分たちの役割は十全に果たしているものの、それでも、心からの「安らぎ」は得られないのだということを。戦闘が、日常になってる(ダークな描写じゃないですが)。

 

この戦争には、勝てっこない。

いや、艦娘たちは勝とうと思っていますが、「いつ終わるか」ということが、いまいち見えない。

みんな必死にやっていることはわかります。でも問題はそこではなく……「今」を鮮烈な戦いぶりによって、自己規定しているのですね、艦娘たちは。

 

メタ的な視点でいえば、WW2は日本の負けでした。この艦これワールドでは、それをどこまで遵守するかはわかりませんが、でも艦隊が「悲劇性」をバックボーンとして持ってる以上、どこかで「艦隊の悲劇」というのが通奏低音になってると思うのです。轟沈システムがその証左でしょう。

なんぼいうても、これは戦争なのです。 

 

そのなかで、艦娘たちは、自分の戦う意義、自分の存在する意義を模索します。それは……艦娘たちは「大雑把な設定で二次創作を促す」という昨今のコンテンツ戦略の雛型ですが、それであっても、艦娘個人個人の「哲学」を掘り下げます。

それをキャラ萌えの深化、ということも可能ですが。

 

●構造2

そうだよ、俺たちはライフルと踊る、銃音のリズムに乗って。

大きな樹の後ろに、俺だけのいとしい人が立ってるのを見る。

そのとき、この星は太陽のように焼ける……地獄みたいだ

兵士たちは死んでいく

そこにあるのは歌の響き

この歌は、古い叛逆者の歌

――「叛乱ワルツ」

 

何のために戦うのか、がブレていたら、戦って勝つことはできません。

だから、彼女たちは悩むのです。事実、どの話にも、一回は挫折があります。

それでもって、艦娘たちの深みを描くのでしょう。

そして、彼女たちは、戦いの意義を、見出していきます。

 

でも。

それは、裏返せば「戦いに殉じる」と言うことと同義です。

戦って、戦って……もちろん、彼女たちは軍艦として生を受けました。戦うことが、彼女たちの生きる意味です。ケッコンカッコカリ? うーむ。

この「戦いに殉じる」と言う点で、わたしはある種の悲壮さを感じてしまいます。彼女たちは、守ろうとします。提督を、人民を、国を。――自分を、ある程度犠牲にしてでも。

その戦いは、いつおわるのでしょうか。

少なくとも――この海(戦のなかの海)は、荒れています。うるさい海です。そこに、彼女たちは、留保ない幸せを得ることは出来るのでしょうか。いや、だからこそ、提督ラブなのでしょうか。

戦う意義とは、なにか。それを、彼女たちは、模索するのです。この漫画の意味は、そこにあります。

 

●今は、まだその時ではないけれど、いつか

俺らの望みの煙が、高く戦場に昇ったとき

月と森を通して、欺かれた、ってことを知るんだ。

眠り、俺は軍が勝つ夢を見る

声が聞こえはじめる

倒れるまでは、立ち続けるんだ、と

これは古い叛逆の歌

――「叛乱ワルツ」

 

信念在る限り、彼女らは戦い続けます。

ですが、世の平和論者は、武器というものをヘイトします。自分たちがそれで守られているのを知らんという面構えで。

「イクサのものは、いつまでたってもイクサのもの」

そんなふうに、兵器をヘイトします。

 

それは、彼女たちが「軍艦」であるがゆえに、いつまでも付きまとうものです。

だから、田中氏は、最後に「戦争状態でない、彼女ら(の未来の姿)」を、後日談で、海上自衛隊での活躍をさっと描写して、彼女らの沽券のようなものを、守ります。

それは、田中氏が、本当に軍艦を、艦船を愛しているからこそ。

 

ときに、自分、モデルガンが好きなのですが、こういう趣味(ミリタリー系)してると、「ひとごろしの道具で遊ぶなんて!」という、クソみたいな暴言にさらされます。

ええかげんにせいや、と思うのですが、でも、艦隊これくしょんみたいなものが、市民権を得るならば、「道具(兵器)に隠された悲劇」を通して、ひとの悲しみ、というものにコミットできる、とわたしは思うのです。もちろん娯楽を通して。

 

彼女らは、叛乱ワルツのように、「倒れるまで立ちつくす」でしょう。

「この戦には、本当に勝てるんだろうか」と思う夜もあるでしょう。

潰えていった仲間の艦娘たちのことを、思いだすことも。

それが戦いなんだと。だからこそ、日常シーンが、温かい。戦いを前提としてるだけに、彼女たちの日常は、絆に満ちている。

 

戦争は、人間らしい、か、というのは、わかりません。

そして、この戦争には勝てっこない……いつかヲ級とかの敵を撃滅しても、彼女たちは戦闘機械であることを理由に、平和論者によって排斥されるかもしれません。

 

だからこそ、最後の「転生」が、胸をうつのです。

彼女たちは、かつての誓いのまま、現代において、「護る」ことを続けています。誓いを、忘れることなく。

 

我々は、いつまでたっても、戦争を続けています。リアル生活で、どうしようもないまま、戦というもをエンドレスに続けています。

けど、彼女らが「いつか静かな海で」転生するように、わたしたちも、いずれわたしたちの静かな海で、かつて戦っていたものたちと、再会できたら――人間として――、そのとき、我々は平和に一歩近づくのではないでしょうか。

 

なんか今回、解りづらくてすいません。