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残響の足りない部屋

同人DTMとか模型庭園とかエロゲとかの日記

おそらく、自分は小説を書きたくない

●小説家になりたいか、小説を書きたいか

 

このあたりで、世の作家志望のひとは、わかれると思います。

実は、このふたつ、イコールではないのです。「ワナビを巡る冒険」といいますか。

 

ざっくりいうと、小説家に「なりたい」ひとというのは、ギョーカイジンになりたいひとなんですよ。

作家友達と語りあったり、イラストレーターと友達づきあいしたり、作家的苦しみを味わったり。

 

それに対し、小説を書きたいひと、っていうのは、とくにそういったこだわりがなく。息をするかのように小説を書くのです。そうしなければ、文字通り生きていけないから、書く。

 

この「息をするかのように」というのは、さらにいえば、「妄想する暇もあんまなく」ということです。

ふつう、小説を書くとなると、

 

妄想→プロット→執筆

 

の順番になる、と思いがちですが、

この類のひとになると、

 

妄想&執筆→妄想&執筆→たまに寝たり、本を読む→妄想&執筆→エンドレス

 

なのです。

そんな人間いないよ! とお思いのかた。はいそうです。だから「天才」なのです。こういうひとは、だいたいにおいて、世と隔絶してます。

そして、スタバでノマドワークしてるようなアピり方もしません。とにかく目覚めたら小説、飯を食ったら小説、

という感じで、日産50枚がふつうです。

原稿用紙50枚ですよ。それで「あー、今日はあんま書けなかったなー」とほざくのです、彼らは。奴らは。いや、これは私の想像でなく、実際に栗本薫中島梓)はこんな書き方をしてたらしいです。晩年の闘病記「転移」を読んでて、病に侵されながらも、こんな調子でしたから。しかもこの上で、「もっとグインの世界に浸っていたい」とほざいてますから!

 

転移

転移

 

 

そういえば森博嗣も、「1時間1万文字」とかふつうに日記に書いてました。わけがわかりません。それもしらっと。さらっと。

 

別に速筆が、この世の善だというわけではないですが、「呼吸するかのように文章を紡ぐ」ひとは、このレベルだということです。

 

妄想をしてる暇が--寝っころがりながら、その世界でダラダラ遊んでいる暇があったら、原稿用紙/ワープロに、ガリガリ書き付けたらいいじゃない、ってのがその人たちです。

 

 

●わたし(残響)の場合

 

わたしは、「小説家になりたかった」のですねー。それで、日々小説を書こうとして、「あー、今日は4000字! がんばった!」みたいに、まるでスポーツのようにして、書いていたのです。

 

ところめが、よくよく考えてみると、わたしは「書きたいものが明確にあって」書いてたわけじゃないんです。

わたしの場合は、「なんとなくその世界に浸っているのが楽しい」という一点のみで、逆に、ストーリーの作劇術なんか、ぜんぜん考えていませんでした(それが新人賞にひっかからなかった最大の理由であることは明白ですね?)。

実は最近なんですよ、

「なんでこうも自分の小説はおもしろくならないんだろう……」

と考えて、

「あ、プロットたてて小説書いたことないからだわ!」

みたいに納得して。納得してどうする。

 

で、ですね。

自分は、「妄想&執筆」みたいに、「息を吐くようにして小説を書く」タイプじゃないみたいなんです。これにたどりつくまでに、およそ10作以上小説を書いて(おそらく、ざっくり100万字くらいだと思います)、やっと気づきました。

そして、自分が「小説を書きまくりたい」というよりは「小説家になって、ひとかたの人間になりたい」みたいに考えてるとこが強いことに。

ていうか、それに、そここそに、自分のレーゾンデートルをおいてるんですね。やっかいなことに。

ワナビやないかい!

 

ようは、自分はアーティストを気取っていたかったわけです。

いえ、確かに、自分は小説を書いていたときは、「生きている実感」がありました。

それが、小説を抜きにした生活を少々送ってみたとき--案外、生活できたんですな。

もちろん、かつてのような、小説を軸にした生活--それは、ヒリヒリした、生の実感のある生活でした――それとは、抜け出てしまいました。

新人賞に追われ、ワナビ的ビクビク感(ネットで新人賞的ウワサ話を収集、賞の傾向を探る)に追われ……ああ、みじめ。

でも、そんなヒリヒリしたライフから、抜け出て、なんか抜け殻のようになってる自分もいます。

 

また小説を書くか? わかりません。気が向いたときに、自分のような人間は、書いたほうがいいんでしょう。

 

●しかし、こないだ書いた妄想レビューは楽しかった

 

昨日と一昨日かいた、HTT妄想レビューなんですけどね。

放課後ティータイム・妄想ライヴレビュー - 残響の足りない部屋

放課後ティータイム・妄想ライヴレビュー(2) - 残響の足りない部屋

これは、わたしが「レビュアー」であると同時に、「小説家」であったからこそ、書けたものなんだと思います。

 

世界を設定し、そこに自分の知識を盛り込む。

それが「小説」でなかったのは、ただ単に「自分のキャラ」をいちから確立しなくてすんだだけの話です。

まあ、この「いちから確立しなくてすむ」ってとこ、オリジナルキャラ/ストーリー作家にとっては、非常に「イヤ~」な感じがすると思います。つまりは、自分の物語、というものでもって勝負してないわけですから。

 

ですが、まあ、書けた書けた。非常に筆がのって書けた。

……とすると、小説家的技術は……まあ、10作くらい書いたのですから、ないわけではない。

むしろ、足りないのは、パン生地めいた、「小説のもと」……どうしても書きたい、という、「世界」「キャラ」「世界の空気」「人間たち」……そういった、もろもろの「世界観」ってのが、わたしの中には、そんななかった、ってことなんでしょうか。

 

いえ、自分自身のオリジナル世界観、というものはあります。

それを、わたしは「黒歴史」と呼びたくはないです。それは「わたしがつくったもの」なんですから!

でも。

ふと気付くんです。

わたしは、これらのキャラや世界を、マスターベーション的に愛でてるだけなんじゃないか、って。

それのなにが悪い? いえ、ぜんぜん悪くないです。ただ、それでプロに……お金をもらうことはできねーなー、って。

 

なにより。

自分のキャラの、明確な哲学が、見えない。

自分のキャラに、艱難辛苦を与えることができない。かわいそうだから。

だから……

自分のキャラに……ああ、これ、書くの相当キツいな……でも書こう……自分のキャラから、あんま「学べない」んです。なにか、わたし自身の人生を変えるような、教師的な意味で。反面教師という意味でも、学べない。

とすると。

わたしはただ、お人形遊びをやっていただけ。

それだけの、鮮烈なエネルギーというものを、感じることができない。

 

そう。

彼ら--速筆作家は、おそらく、自分のキャラに、自分を変えてもらうことこそを望んでいたんじゃないか、って今では思います。っていうか今思いました。

そういう欲望があるから、書ける。

それだけの熱をもったキャラが、自分を先導してくれるから、書ける。

 

 

じゃあ、そういうキャラや、世界が自分にない場合は……?

 

「キャラ」や、「世界」を書かなければいい。

この世にある、たとえば、音楽や、模型や。

あるいはほかの人によるキャラ。(エロゲとかね)そういうキャラを、人物論的に論じていく、とか。

その際において、自分の小説スキル、というのは、「ノンフィクション」を書く上で役にたつ……そう最近、思いはじめてきてます。

 

ノンフィクションとは? それは、現実のフィクショナイズ(空想化)です。

ゲンジツ、という「そこにあるもの」「マテリアル」の裏側に潜むものを、フィクションという「想像力」によって、再構築するという。

 

再構築する意味は?

それは、やはり自分のためですが、どうもわたしは「そこにある」ということに、たびたび疑問をはさんでしまう哲学的思考をするようです。

自分のなかには、わき出る物語というものはなくても、物語を感じ取るセンスまでは、ないわけじゃないです。

ゲンジツは、ただゲンジツとしてあるわけじゃない。

ゲンジツ(マテリアル)は、自分の経験とともに合わさって、一つのものになるのです。

そのためには、どこまでがただの事実で、どこまでが自分の経験か、を腑分けする必要がありますし、現実マテリアルが、「そもそもなんであるか」の腑分けも必要です。さらに、自分の感情の腑分けも。

 

 

村上春樹はいいます。

「自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少なくとも文章における自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。」

--回転木馬のデッド・ヒート

 

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

 

 

そう、おそらく、この様々の腑分けも、それだけでは意味がないことを、わたしは内々で悟っています。

ではなんのために?

きっと「自殺しないために」

そして「なんのためにか、を知るために」

ああ、ひどい論理の飛躍。