以前から某所で……というかほとんど物ごころついたときから、
「お前の興味がわからない」
「お前の思想がわからない」
と言われたので、このブログでのレビューや考察の傾向を説明するために、申し訳ありませんが、自分の興味範囲、思考の形(心の形)について、雑文を書かせていただきます。
あまり面白くない話ですが、お付き合いいただければ幸いです。長くはしないつもりです。
●構造主義(比較表象文化論)
いわゆる構造主義者です。
要するに「物事をそれ自体で判断するというよりは、各物事を比較し、共通の本質を見い出す(逆に、各物事の本質を最初にざっくり見い出し、それでもって各物事を比較する、というパターンもあり)」です。
なので、残響の思考/文章は、すごい「比較」が多いです。
この考え方は、そもそも大学/大学院(こっちは中退)で、
和漢比較文学
を研究していたところからきています。
この学問分野は、わたしがやってたとこでは、平安期の日本古典文学と、同時代~それより前の中国文学(漢文)とを比較し、それぞれを精査しながら、「引用」という行為を元にしながら、対象となるテキストの奥深くにある本質をえぐり出す、というスタイルでした。
本質を、突撃的に、そのまま真っ向から抉りだす、というのも素敵ですが、自分はこうやって、他のものと比較しながら、その「ズレ」というか「類似点/相似点」を探りながら、本質(のようなもの)に辿りつきたい、と常々考えています。
●芸術至上主義
これは芥川龍之介に植えつけられた考え方ですが、
「生活よりも、芸術のほうが上である」
という考え方です。
「人生」「人の営み」「生活」を越えて、高みにある芸術……人間の作りだした高み、に、憧憬・称賛・無類のリスペクトを捧げる、という考えです。
その原点にあるのは、芸術に全身全霊で触れたときの「浄化されるような感覚」です。それは、性的オーガズムを遥か越え、まさに神に直接触れているかのような感覚です。否、神より、わたしは芸術のほうが上位に来ています。
ある意味で、人間に対するリスペクトであります。昨今では、「科学」もこの領域に含めてもいいな、と思っています。つまり、「思考」に対するリスペクトと興味。……人間が嫌いな残響ですが、そこを通じて、人間と触れあいたい、と考えているようです。
芸術の対象は、「世間で芸術と決められているもの」を軽々と無視します。どれが芸術で、どれがそうでないかは、自分が決めます。エロゲだろうが漫画だろうが、ロックだろうがサブカルだろうが……自分が決めます。
●自分の人生に、文物を活かす
これは最近辿りついた考えなのですが。
いろいろと文物(書物やレコード)を蒐集してきたけど、これをただ楽しむだけじゃなくて、
「それに触れて、自分を高めていく」
「それでもって救われた、ということを、どんどん書きのこしていく」
ということをしないと、失礼にあたるんじゃないか、って考えるように、なったのですよすごく。
自分の最終目標は、ヴィトゲンシュタインが言ったように「幸福に生きよ!」です。
それはある程度自分勝手な生き方/解釈も含まれますが、自分が幸福になれなかったら、何万の書、何万のレコードに触れても、無意味だと。
●アドリブ主義
記事を書くときは、ほとんどアドリブでいきます。
つまり、これは自分がジャズ者だからだという理屈です。
このあたりに関しては、以下の記事をご覧ください。
何のためにブログを書くか、2014年上半期、エロゲ編 - 残響の足りない部屋
●病気/悲観主義
あまりこれを語るのは好きではないのですが……
自分は、いくつかの病気を抱えています。伝染するものではないので安心してください。
ざっくり言えば、統合失調症、強迫神経症(これはだいぶ治った)、アスペルガー障害、鬱病……それから、投薬に伴う、各種副作用の猛烈な苦しみです。
いえ、それで「かわいそう」だとか、「よし、そんだけビョーキしてるのなら、レビュー読むのに手心加えてやるか」とか、言ってほしくないのです。だから好きじゃないのです。むしろツッコミカミング!
自分は主治医に言わせると、「これだけの病気で文章を書けていること自体が奇跡」と言われています。
そりゃそうですよね。統合失調症なんか、一番この手のことが出来ませんもの。
……さて、これがどう思考に影響してるかと言うと……
一番のところは「この世は地獄である」「自分は屑である」ということですね。
自分に自身が持てないどころか、すぐ破滅的な思考にいきます。
だからこそ、上の三つの考え方でもって、クンフーを日々積み重ねることが、重要なのです。
そう、悲観主義。これと、生涯、抗っていく所存です。
●クンフーと祈り
(現在執筆中)
●理論主義
音楽を語る際、自分はよく理論……理屈でしょうか。それを援用します。
ひとからしたら、すごい堅苦しく思われるようです。
ですが、自分にとっては、「そのように世界を捉えているから仕方ないではないか」というほかないです。
例えば、みかんというものには、「みかん」という概念、言葉が当てはまりますね。ポンカンやオレンジではないですね。
同じように、音楽を聞いて、それが理論や理屈と当てはまれば、わたしはその音楽を表現/書きあらわしたり、賛辞するときに、理論でもって語ります。
それは「音楽を聞けば、ただ喜べばいいのだ、いぇーい、みたいに!」という考えと、真っ向からぶつかります。
ですが、自分は、それ以外の方法で(理屈以外の方法で)賛辞することを、知らんのです。
これはただ単に、頭が悪いんだと思います。感情を、理屈でしか説明することができないという。
●自分が創作をやっていたから、言えること
芸術至上主義と関連して。
たいしてモノにはなりませんでしたが、自分は小説を書いてました(現在は詩や、「短編詩小説」)。
そのことから、いくばくは「創作の不思議、真髄」みたいなものを、肌で、体で感じとっていると認識しています。えらそーですが。
それは「物語(芸術)を生みだすのは、センスであり、身体的勘、動物的勘、というものが非常に大きいのだ」という感覚です。
これは、創作をやっていて、どうしたって思わざるを得ない事実でした。創作には、魔物が潜んでいます。
これは実際に楽器を弾くからこそ、ある程度言えることでもあります。
こんなとこでしょうか。何かの参考になれば幸いです。