残響の足りない部屋

「ホームページオブ百合機械」の別館日記ブログ。毎日更新。今日も世界と逆向きに。

オミットと親切さ――物語作法の最大効率と倫理

辿町さんからのtwitterでのレスに御答しようとして、ずいぶん時間がたってしまいました。

 

辿町うたげ氏のブログ

転々し、酩酊

 

辿町さんのレスっていうのは、自分がエロスケ(エロゲー批評空間)に書いた、同人エロゲサークル「夜のひつじ」の傑作「幼馴染と十年、夏」のレビューに対する、辿町さんのご感想(ありがとうございます!)で、辿町さんが提起してくださったとある疑問――物語叙述(ストーリーテリング)における「どこまで物語のために【オミット】をすることが許されるのか?」という問題でした。

残響さんの「幼馴染と十年、夏」の感想

夜のひつじ

ちなみに、このレビュー、あまりの感動のゆえに、10000字あります(笑)

なので、これを読んだうえで、この論を……というのはあまりに乱暴なので、辿町さんが疑問に思われたところの、残響レビューの大意を示すとなると、

 

どうもこの物語にはオミットしている部分が多い。例えば主人公と幼馴染の馴れ初めとか、c学生になったときのはじめてのえちシーンのあとの恋人イチャラブだとか、k校生のときのラストえちシーンのあとの「物語」とかを、盛大にオミットしているのが、結構目につく。

自分はそれを文芸性と捉え一定の評価(かなり)をしているが、それでもこのオミットの多さはときとして「?」と想ったりする。だがこの作品は結果的にすごい名作なので、このオミット部分の「不在」があってこそ、この作品だといえる

 で、辿町さんは、残響レビューについて、次のようなコメントをありがたくも、twitterで送ってくださいました。

辿町うたげ (tadorimachi) on Twitter

 

馴れ初めすらもオミットする、という部分は僕もちょっとどうかな、と思います。要約的に語ってもいいんじゃないかと思います。もちろん、馴れ初めを描くとおもしろくて長くなる、という判断じゃないかと思うのですが、→

というのも、イギリスの小説家、英文学者のデイヴィッド・ロッジが『小説の技巧』という本で、要約の効用は、あまりおもしろくない、もしくは、おもしろすぎる部分を簡単にすませて、物語の進行を速くする、というのがある。と、とてもすばらしいことを言っていて→

おもしろすぎることを要約的に語る効果に僕は気づきました。これはたぶんすごく重要な手法で、オミットするより、要約のほうが読者は想像しやすいと思うんです。オミットは投げっぱなしと見られかねないので、ちょっと危ない手法だと思います。→

もちろん、この作品でのオミットの意味はたぶん、幼馴染ふたりの愛は、これだけ周りが見えなくなるほどのものだ、という暗示ではないか、と思いますけれど。あと、年齢による周りの見えてなさ、の暗示でもあるかもしれないです。→

幼馴染は、テンプレ的なただ受け止めてくれるだけのそんな浅い存在じゃないだろう、というのはすごく思います。「時間性」が幼馴染では重要になり、『幼馴染と十年、夏』の場合ではそれが傷や葛藤として出てくるのだと思います。→

最近僕がやった幼馴染モノは『LOVESICK PUPPIES』の有希ルートで、これは「再開型幼馴染」ではなく、「家族型幼馴染」なんですが、これは「時間性」から愛の惰性化、もしくは昇華を描くものとなっています。→

これもこれで王道だと思うんですが、「幼馴染」は王道を描けるのだと思います。だからきちんと愛を描かないと(テンプレだけで作ると)駄作が生まれるし、反対にしっかりと描くと『幼馴染と十年、夏』のような豊かなものが生まれると思いますね。→

 

 さてこの問題、非常にわたし、答えに悩んだわけです。というのも、いま自分、小説をまた書き出していて。今書いてるのはこちらなんですが、

何にもなれない勇者――時雨とエヴィルとワナビくん

「小説家になろう」で連載しております。残田響一(ざんだ・きょういち)というのがペンネームです。残響を広げました。わっかりやすっ!(笑)

 

もともとわたしは小説を書きたい奴でして、で、たびたびこのブログでも「書きたい!」と「でもやっぱ才能ない……」の繰り返しをうだうだと語ってきました。

でもやっぱり書きたい! 義実さんのブログでもコメントさせていただいたのですが、自分はやっぱり「つくりたい」人間だ、と。つくっていなけりゃ、精神のホメオスタシス(ときにはからだのも)が崩れていく。第一つくらずに、死ねねえ!(笑)

 

でもですね。

自分、小説書きはじめて10年になりますが、一向に芽が出ないのです。ようは、なろうでも大して反応がないし、新人賞にもひっかからないし……

その理由はどこにある? どこにある?と思って、最近まで「才能がないのかなぁ」と思っていましたが、しかし「書きたい! 自分の世界をつくりたい!」の前だったら、そもそも才能論とか言う前に、自分に足りてないとこを研鑽したほうがずっといい、と気付きまして(おせえ!)

で、最近児童文学者のかたが開いている創作塾に足を運んで、教えを請うたわけです。もうプライドとかいってられねえ! 自分の足りないとこを教えてもらって、いちから――文章力とか、感性とか、キャラメイキングとか、学びなおそう! だって芽が出てねえんだから! ということで、教えて先生! ってな感じで、行きましたよ。

そこで、非常に大切な言葉をもらいまして。

「君の小説は、具体的な説明が足りない」

ええええええええーーーーーーーー!と思いました。

だって、この理屈魔残響さんですよ? もっと描写とか削って、シンプルにしていったほうがいいのか、ってずっと想ってましたよ! それがいま求められる「リーダビリティ」なんじゃないか、って。

でも、その先生いわく。

「君の物語には、物語や思考の間に飛躍があって、その飛躍部分がわかりにくい。読者に考えさせるのもいいけど、どうもそのあたりで具体性が足りない(説明力がたりない)ので、読んでてかなり「?」になる」

 

といった具合のことを言われました。

 

そこで思い返したのが、結城浩氏の言ってたことを、重ね合わせるようにして思い返して。「数学文章作法」で書いてあったことなんですが、

 

数学文章作法 基礎編 (ちくま学芸文庫)

数学文章作法 基礎編 (ちくま学芸文庫)

 

 いや、この本も、自分のわっかりにくい文章を改善しようと思って買ったわけで、非常に役立ってる本なのですが、そこで書かれている、一番のテーゼ

「読者のことを考える」

 

媚びるっちゅう話じゃないですよ。

読み手あっての文章ですから、こっちが「伝えたい!」ことを伝えるためには、最大限読者に対して「親切」にならないといけない。

それが文芸であっても。

大体文芸っていうと「芸術のためには、わかりにくい文でもいいのだ」的な考えがあって、自分もその手だったわけですが……しかし、それは、芥川龍之介がいったように「内容に即した表現であってはじめてなりたつもの」であるわけです。

つまり、複雑なことを描く(芸術的に)だったら、複雑な文でいいわけですけど、それでも、読者のことを考える必要がある。

だって、基本的にも絶対的にも、読者なんて、自分の文を「読んでくれる」ありがたい存在で、「べつに自分(書き手)に格別の配慮を抱いていない」存在でもありますからね。別に文なんて、俺(作者)の文でもなくていいわけです。

文章は、わかってもらえてナンボです。もちろん、読者に疑問=「???」を与える文章っていうのもありますけど、それでも、読者に「疑問が伝わるように」しないといけない、という構造でもあります。

言い換えれば「伝わらない疑問は、疑問じゃない」ということです。

疑問(謎)は、うまく伝える必要がある。

だって、読者は、よりにもよって、その疑問(謎)を深く考えなければいけないのだから。

疑問(謎)……というか、設問っていったほうがいいですかね、まあ疑問、といいますが、それはとびっきり親切に提示してあげる必要がある。

必要がある、ってさんざっぱら言いましたけど、要するにマストなわけです。この「親切心」というのは。

こだわり系ラーメン屋の親父と違いますからねー。ラーメンは「食べればわかる」ですけど(臭いをかいだだけでもわかる)、文章は、「最後まで読んでいただけないと、こっちとしては困る」わけです。

我々書き手(このブログ書いてるような連中)は、みな「俺の文章、読者は全部読んでくれてるよ! この記事の最後まで当然だよ!」と思いがちですが、しかし、そうではないですよね、俺らが読者のときは。たとえばいま3500文字ここまで書きましたが、だいたいこれくらいダラダラ書いてると、もう途中でなげだしてますよ!(笑)(笑いごっちゃない)

そこで、読者のことを考える必要がある。どうしたって。そして、親切心。

 

 

で、自分の小説の事を言うと、自分にとって……この「時雨とエヴィル」というシリーズものは、非常に「自明」なものなんです。なんてったって、10年まえからいるキャラたちなんだからな俺のなかで!(笑)

じゃあ、読者にそれが伝わるか? 伝わってなかったんだよいままでこの二人がどういうキャラだっていうのかが!(笑)

どういうことかというと、このキャラたちの思想とか、行動理論がどこに立脚しているかとか、過去とか……そういったバックグラウンド……いやそれ以前に、このキャラたちの詳細な描写とか、会話のクセとか、思考の飛躍のクセとか……もろもろですな。それを、読者に詳細に、今までのシリーズで説明していなかった。

これは痛い!

だって、あまりにこの二人は、自明だったわけです。辛いときも楽しいときも、自分のなかに居たキャラですから。それがあだとなった。自分にとってアタリマエだから、こいつらのことを知らないひと(僕以外の世の中の人)は、全然こいつらのことを知らないわけです。

まして、「これからどんどん説明していきますよー楽しみに!」といっても、ひとからしたら「知らんがな! 俺らは今もってまず知らんのだから、今説明しろよ!」ってな具合ですよね。

 

 

さて、辿町さんが仰ったことが、自分にとって非常にウィークポイントだった、というのは、ここにきます。

自分は「幼馴染と十年、夏」について語りました。しかし辿町さんは、この物語をひろくストーリーテリング論にしてくださいました。そこでわたしは気づいたわけです。あ、これ自分に足りないとこだわ、と。

いやー今までわたし散々批評してきましたけど、批評するって楽ですなー。いやー、自分でそれを創作物に活かすって、しんどいですなー(笑)

 

 

どこまでオミットするか。どこまで語るか。

これは、いまの残響(残田響一)にとって、創作者として、非常に思い悩むところです。

打開策としては、結城浩氏のメソッド「読者のことを考える」です。……しかし……これを物語に適応させるには、そう、辿町さんがさらに仰った「グル―ヴ」の問題……読者をぐいぐいと引っ張ってって、面白い物語にする、という問題がさらに重なってきます。

全部説明してったら、「たるい」物語になる。しかし足りなかったら、「イミフ」な物語になる。そう、自分は「余計な情報ばっかり入れる」から「たるい」物語になりがちで、必要な情報を足りない感じにしてたから「イミフ」な物語になってた、ということに今更気付いたのです。

じゃー、どうすっべか。

辿町さんは、それに対して「要約」の秘儀を語ります。上のtwitter参照。

これはレベルが高い! 確かに要約は「語ってはいる」が、作者が語りたいほど「語りきってはいない」ものだからです。まして、「語りきっていない」というのは、読者にとって不全感を抱くものではないか……と考えます。わたしは。

しかし。

本当に面白いものだったら、少々語ってないくらいのほうが、よけいに想像力/創造力を膨らませることができる! と、ヒヒョーカのわたしは言います。うーん、その通りだよチクショウッ!

つまり、要約的に語る、とは、「おもしろさ」「わかりやすさ」をそのままに、必要最小限の……禅的な境地でもって語るということです。

いやーーーーー、バランス感覚が最大級にもとめられるっ!そして今までの残響の小説で、ここまでのバランス感覚をしたことがあったか! いやないっ!

というか、「した【ふり】」になってたとこはあったのです。しかしそれはアーティスト気どりでやったこと。読者への親切心に基づいたものではない。

 

 

じゃあ「必要なもの」とはなにか?

ここでまた、求められるものは二つに分割できます。

・読者の未知

・物語のスピード(グル―ヴ)

 読者にとっての未知は語られないといけないわけです。かといって、物語を面白く「読ませる技術」であるところの、グルーヴィーなスピーディーなストーリーテリングってもんも必要なわけです。

未知は未知であるから未知なんです。知らないことを、伝えなければなりません。ここのところを勘違いしていた馬鹿野郎がわたしで、

読者は「何ひとつ知らん、からこそ知りたい」であり、

かつ「それが面白く伝わる、だからこそ知りたくなる」であります。

どちらを欠かしてもいけないわけで……でも、どっちかといえば、前者の「未知」が魅力的であればあるほど、ささいな問題(語り口のへたさ)とかは解決できるもんだと思います。弁解じゃないですが。

じゃあ、何を俺はすべきかというと、

読者にとっての未知を、せめて自分はこの世で一番理解していなくちゃいけない。

 

ってことです。

論文書きと同じなんですよ。その論文が認められるからには、「世界ではじめてその知見が表された」ってことが条件です。じゃあ、それのために必要なものは、明らかにその研究者が、その理論を「世界で一番理解している」ことが必要です。あたりまえですね。

でも、自分の場合は、そうじゃなかったのです。

なにせ、「小説を書いてけば、書きたいことが見えてくるだろう」という、アドリブ方式で書いていったのですから!

 これがまずかった!

いやアドリブ方式を非難するというよりは、「まったくのノープランで書きだす」というのがまずい!

まずは「己の未知、疑問、主張」を最大限煮詰める(いい意味で)ことが必要!

これ、当たり前なんですけど、少なくともわたしにとっては当たり前じゃなかった。

それじゃあ、未知を説明できるわけもなく、書くのが煮詰まる(悪い意味で)のも当然。ましてや、読者のことを考えるのも二の次三の次。だって自分が書きたいことを探るのが精いっぱいだったから。

 

 

もっとも。

アドリブ方式=書きたいことを探りながら書いてくひとたち、は、恐らく……書きながら、常に読者と対話しているようなひとたちなのでしょう。読者だったら、このように想うのだろうな、このような疑問を持つだろうな、みたいな。

あるいはそのような書き方にシフトしてもいいんでしょうが、でも……それは、まず基本ができてからのこと。

少なくとも、今の自分……書きたいことが明確に定まっていない自分は、まず定めなくてはいけない。

 

当然ながら。

オミットの基準なんてものも、この「未知」に立脚します。逆説的ながら。

未知をきっかり把握していれば、オミットの基準……どこまで削る(オミット)していっても、読者の理解は大丈夫だろう、みたいに把握できるものです。 

 

例えば、それは辿町さんが仰った幼馴染論のように(上のtwitter参照)。ここまで、キーワードを自己のなかに設定できてれば、少なくとも小文は書けるってものです。それができてなかった俺っていったい……

 

そして「物語のオミット」というのは……ああ、ああ、なんと難しいことか!

物語とは、有機的で、ぐねぐねしていて、非論理的で……だからこそ、ロジカルな文章と比べて、どれだけ「どこを抜かしていいのかわからんちん」なものです。だからこそ、高度!

それをアドリブでやろうってしていたのですからね……自分は。

 

これをどうやって自分に身に付けていけばいいかっていうと……いや、鍛錬のほかにはないのですが、何より基礎……それは「自己の思想・哲学といった思考の煮詰めの基礎」でありますし、「ひとに文章をわかりやすく提示する基礎」を、繰り返し、繰り返し……こういった(この記事のような)理屈でなしに、実作で鍛錬していくほかないって話ですね……

 

 

というか。

この記事、自分(と辿町さん)のために書いてるのであって、親切心が足りないし、オミット精神も足りないっちゅうねん! この文章にしてそれかよ! せめて辿町さんに解りやすくするようにくらいしろよ!

ごめんなさい辿町さん!

 

(おしまいっ!)