残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

エロゲーマー諸子百家(7)highcampusさん

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twitter@highcampus

twitter出没度:高

ブログ:

「詩になるもの」

みなよん―みなとそふと4ever―

えろすけ出没度:ブログをもとに

highcampusさんのサマリー ErogameScape-エロゲー批評空間-

 

※エロゲーマー諸子百家シリーズについてはこちらをどうぞ

 

【傾向】

観測はやがて詩に

 

 

もしhighcampusさんがこの数年間のエロゲソーシャル言説空間にいなかったら、今のこの言説空間の「感じ」は、相当異なっていたでしょう。それは恐らく、衆目の一致するところだと思います。

 

highcampusさん。通称ハイキャンさん。

この方の活動は多岐に渡っています。ブログ・えろすけでのレビュー活動。みなとそふとファンとしてのディープなご活動。ニコ生でのトーク活動。はてなブックマーカーとしてのご活動。twitterを使いこなすご活動(センスのいいRTは、皆さんが「ああ、highcampusさんのRTだな」とお思いでしょう)……

 

仮にtwitterのご活動だけに話を限定しても、highcampusさんは常にネット上を「観測」しておられる方だという印象がわたしにはあります。様々なネット上の出来事を見て、記録し、フォロワーに「あとはご判断はお任せしますよ」的に紹介する……観測者。

それでは機械ではないか? ――いや、違う。少なくとも残響がもう一段階、highcampusさんのご活動に踏み込んで読んでみたとき、そこから見えてくるものは、機械的(マシーナリー)なそれとは違う。

なぜhighcampusさんは観測をなさるか。それは……この「諸子百家」のいつもの癖ですが、あくまで仮説として、highcampusさんは、観測を通して――

いつか「詩(うた)」となるであろう萌芽

を探していらっしゃるのではないか、と思うのです。

 

 

「詩」とはなにか。

もちろんこのワードを取り出したのは、highcampusさんのブログタイトルからなのですが、highcampusさんのご活動からは、「いわゆるネットブックマーカー」の佇まいたる「機械的に、欲望消化的にネット上の事件を追及する」佇まいとは、別のものを感じさせる。

それを安易に「やさしさ」「慈しみ」みたいなもの……と記述するのも、また安直ですが、highcampusさんの文章であったり、ネット観測からは、人間の不思議さを救い上げるようなものを感じさせる。

不思議さ? いや、むしろ呼ぶとしたら「意味」か……

 

夜が歌う
意味を 意味を 意味を

――「夜が歌う」 

 

 これはhighcampusさんが2008年に詠んだ詩の一節ですが、この一節は、highcampusさんが追い求めておられる何物か、もしくはhighcampusさんご自身のお姿を示唆しているような気がしてやまないのです。

 

おっと、抽象的な方面にいってしまいました。これはわたしの悪い癖だ。

では、highcampusさんの最も大きな活動、みなとそふとファン活動/評論活動から、導いてみましょう。

いつか「詩」になるもの。highcampusさんは、みなとそふとが紡ぐ「明るく楽しい」ゲームを、とことんまで追及されました。それはあの「恋愛ゲームシナリオライタ論集」シリーズで、highcampusさんが長大な論文でもって語ったところです。

(今はネットで公開されてます。以下リンク)

d.hatena.ne.jp

d.hatena.ne.jp

この論は、自分が読んできた「エロゲ論」のなかでも、「すげぇ……」と思ったもののひとつです。

highcampusさんは、タカヒロ作品を様々に分割しながら――バイタリティ、主体性、コミュニティ/セーフティネット、そして「憧れ」――、タカヒロ作品/みなとそふと作品の「明るく楽しい」が、結果として「何をもたらすか」を、追求されてきました。

論を細かく分析……したいですが、字数がアレなので、ざっくり(残響なりの)この論がもたらすものの結論をいうと、

 

――「明るく楽しい」、は、ただの慰撫する娯楽ではなく、人にこうありたい「憧れ」まで導いてくれるものなのだ。輝く者たちが発する光源(詩)にやがてたどり着きたい、という、道半ばの者の光への希求。それもまた「詩」なのだ……

 

残響はこのように、この論を……「人間賛歌」「光への道筋の賛歌」として捉えています。つまるところそれは、highcampusさんの「詩」の探求とは、人間が持つ「光」への探求であり、highcampusさん流観測は、光へいずれ辿りつくものの萌芽を、少しでも見たい、というものなのではないか、というのが、残響の仮説です。

そして、highcampusさんが「詩」を求める、ということは、「光」を、「生」を求め続ける営みだということは、もういうまでもない。……だからこそ、残響は、highcampusさんの佇まいを、文章を、静かに眺め続けるのです。

 

最後に。

残響が、どうしてこの「諸子百家」を書いているのか、について、偶然なんですが……highcampusさんの、2011年初頭に書かれたこの文言が、非常に……いや「どうしようもないほどの」親近性を感じるのです。

 

 「証」についてもう少し違う角度から話をしよう。僕はこれまで数え切れないほどの作品*2と出会い、それらに心を動かされ、現在を生きる活力を得てきた。そして、ある作品の素晴らしさを広く世の中に伝えたいと思った時、僕はインターネットを使って言葉を発信することが可能な世界に生きているし、実際にそうしてきた。


けれど、自分の言葉にどれだけの力があるだろうか。誰かに伝える言葉を磨く一方で、その言葉を発する僕は未だ何者でもない、という無力感がつきまとう。現在を生きる活力を得た。それは確かだ。では、そんな力を得た僕はこの世界で何を成し、それをどのように他者から、社会から、世界から認識された? 何も成してなどいないし、認識もされていないのではないか?


僕は心が弱い人間だから、もしも満たされないまま死ぬようなことがあれば、こう思ってしまうかもしれない。「あれだけ多くの素晴らしい作品に触れてきたことは、無意味だったんじゃないか。だって、今僕はこんなに惨めに死んでいく」。


違う。そうではない。そうではないんだ。僕がこれまで出会ってきた全ての作品には意味があるんだ。僕の世界に在る何もかもが詩になるものなんだ。僕はそれを証明しなくてはならない。「あの作品のあの言葉があったから、これを成し遂げることができた」。そんなささやかな誤魔化しでいい。弱い心を持った僕が安らかに眠るためには、きっとそうする他ない。そのために、僕はこの世界で何かを成さずにはいられない。それが証を立てるということだ。――年始挨拶と2011年の抱負

 

(事実誤認、記事取り下げ要求ありましたら、残響まで!)