残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

暴虐、慟哭、そして救いの来光――Thousand Eyes「Endless Nightmare」

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来光……それも旧約のモーゼ的な感じ。

イメージ的には……険しく切り立った崖、その道細く細くして。眼下には打ち付ける大荒れの海、しかれどももはや音は聞こえない……なぜなら、その崖を登っている「そいつ」の心ン中のほうがよっぽど大荒れで、唸り声をあげ、うるせえ、やかましい、辛い、苦しい……!

テメエが救われないことだって重々承知していながら、それでも崖の向こうの天に向かって祈ることをやめられねェ。救い主はたったひとつ、アソコにいるアレしかねえのだから。

すべて嵐の崖のなかの出来事……己という嵐のなかの出来事。

そこに、あの空から来光が射してくるのだ……。遍くすべての人を救うのではなく、俺ただ独りを救ってくれる、あの光が。

 

●Thousand Eyes久しぶりの新譜。


Thousand Eyes"Endless Nigthmare" Trailer - YouTube

方向性としては前回と変わらない暴虐的なデスラッシュ、慟哭のギター、スクリーム。ズタズタ殺人リズム。

ところが、俺はだが……このサウンドに、光を感じるののはなぜだろう。

まあぶっちゃけ、最初の「ビヤーーーーーー!」なギター、オルガンシンセ、スクリームが一体となったウォール・オブ・サウンドにその解の一端があるっちゃある。前作になかった、オルガンシンセ。これがまるで雅楽における笙のように、天の来光じみた繊細な音を奏でているのだ……デスメタルで繊細! だがそれは「ナヨっちい」という意味ではない……我らがThousand Eyesに「ナヨっちい」など!

輝いている、このオルガンサウンドが。だがそのオルガンシンセは、あくまで「従属」である。この光のオルガンを導いているのは、あきらかにスクリームとギターである。そう、鉄壁のギターバンド、デスメタルバンドとしての矜持はそのままに……暴虐のなかに、慟哭のなかに、救いの来光がある……それも、いたって個人的な来光が。

 

どの曲も(ラスト一個まえのアコギインスト以外)、今回もまた見事に疾走である。もちろんそれでいいのだ。だがそこに、エモーションの質がやや違ったものを魅せつつある。

それを楽理面でいえば、この新譜によく言われている「楽曲ごとの個性(バリエーション)が見られるようになった」なのだろうが、俺はこのバリエーションの変容を、「バラエティ」というよりは、「エモーションの様々な面が具音化、結晶化したもの」と捉えたい。まあ、これはただ、技法論を感情論に言い換えただけなのだけれど。

正直、Vo.道元の喉の不調からの「病後の一作」的な見方をしてもしょうがないと思う。それはもちろん、このデスヴォイスの魁がシーンに復活してきたのを喜ばないわけがない。……が、この作品の鬼気からは、病気のイメージなんてない。あるのはただ、全開で……前回以上の(シャレじゃねえっつのw)慟哭とエモーションと殺気を感じる。

んで、そこんとこを引き継いで「道元やKouta(Gt.)が人格的に成長したからうんぬん」という批評をしてもしょうがないのだ、そんなクソ批評。音を聞けといいたい。「成長したからエライね」の領域じゃないのだこれは。ただ聞き手は、圧倒的な質量をもったデスサウンドの慟哭に打ち震えるのみ。成長の度合いをリスニンしてるのではない。その先の「表現」ってやつを俺らはリスニンしてるのである。

この楽曲群は、「ジャンル表現内での同じスタイル」はしているかもしれない。だが、その各々で、突くからだの、こころのポイントは違う。

 

●翻る来光のギター

 

たとえば、1曲目のギターを聞いて見よう。圧倒的にトリル奏法でもって駆け抜ける……そのキワミで、突然「ギュオン!」と翻る。そこからまたメロディが駆け抜ける……哀しみをセンチメンタリズム抜きで誇り高く! この時点で体は打ち震え、心はKOUTAのギターとともに泣く、呻く、「GO!」である。

6曲めの、「ドゥンドゥクドン」というリズミカルながらエモーションを感じるリフから、サビでの天を仰ぎながらも地を這うしかなく、それでも天への慟哭を止めるわけにはいかないというギター(この2つのパートでのベースの支え具合よ!)、そしてそこから、降りつける豪雨に打たれながらも、空を懸命に飛ぼうとするギターソロ!

 

ただ、そのままに慟哭を叩きつけるのではない。そこには、きちんとした「物語」がある。物語の中に、上に、スクリームがあって、ギターがある。コレもいわれていることだが、道元お得意の高音スクリームが、今回そこまでない。前なら1曲に必ず一回はあったのに。しかし、それは「楽曲が、物語が求めている表現を丁寧にする」というように見よう。

エモーションの側面、「物語」……今回のThousand Eyesは音を押し付けるのではない。暴虐の中に、物語を提示する。俺が最初に、「俺個人だけを救う」と言ったのはそこだ。

……かといって、サンホラとかプログレとかのように、「読み解き必至」な音じゃないよ。ただ聞けばよろしい。そして自分の中で妄想すればよろしい。それだけの度量のある音である……ああ、傑作って褒めるのがラクだなぁw

 

●Messiah

 

それでもいくら傑作を褒めるのがラクだといっても、最後の曲「One thousand eyes」について触れないのは嘘だろう。

正直、千眼界隈の語りで、みんなが「デスラッシュメサイアがバーンザスカーイ」とかってネタ化さしているのが、あんま好きでなかった俺である。

……それでも、このサビで「Deathrash-Messiah will burn the sky!!!」という「死と使途のうた」には唸ってしまう。浄化されるこころ。

ただのヒーローソングなわけがない。それは空を駆けようとする地上の漢である。飛んだとしても永遠には飛べないことを知っている漢の叫びである。それでも、来光を……来光を求める漢である。サビ前の「わっきない…」(というふうに聞こえる)というところで、道元が一気にデスヴォイスというよりは、地声っぽくなるのが聞こえるだろうか。初め、俺はここがチョイなさけなく思った。だが……聞き込むにつれて、ここが「地上からの飛翔」の前の、悩める一個人としての弱さから飛翔する前の姿なのだ、と思うよになった。弱さ……慟哭慟哭いってるわりには、弱さってディスってない? ディスってない! ここから一気にバンドは飛翔するのだ! そのために一回鎧を脱いで……ということである。虚飾の鎧などここからの飛翔にはイラン!

そして……最後のツインリード。2分以上もあるぜこれ。だが……このツインリードが「長げえよ」と思うやつなんているのだろうか?正直もっと、もっと、もっと、と聞いていたい!(だからこのバンドのライヴ参戦したひとってのが俺すげえ羨ましいのね)。

このツインリードで語られるのは、まさに物語であり、慟哭であり、涙であり、誇りであり……。ていうかそもそも、最終サビのところで、Koutaは道元のデスヴォイスのうたにユニゾンってる。この時点でデスラッシュイチャラブである!(黙れよ)

そしてそこからKoutaとToruはそれぞれの物語を紡ぐ……翻りのメロから入るこの瞬間の感動よ。ときにエモーショナルに、ときにテクニカルに。最後は同音形のリフを延々と紡ぐ。その紡ぎは、メサイアの飛翔である。メサイアであっても……すべてを救うことはできない。それは知っている。メサイアを望む俺だって知っている。だが、KoutaとToruは突き抜ける! 彼方まで、暗黒の宇宙まで! もはや物語である。

 

気づけば、何か少し、俺のなかの闇が抜けている。世界観としては闇疾走な盤なのに。自分の乾いたこころに、何か潤ったものの感触がある。そんな、盤です。とてもよかった。これからも、とってもよいであろう。

 

(今回からしばらく、たぶん2年以上くらい、分析オンリーのレビューを封印します)