残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

新年の抱負、死、禅寺、垂直尾翼

こんなことをいうのも愚かしいとわかっているのだけど。それでもここをチラ裏と称して書く。文法なんて知らない。ただ書く。浄化を求めて書く。

 

人生あと5年説

 
あけましておめでたくない話をする。そんな心持ちではない。
やっぱりあと五年くらいでぼくは死ぬだろうと思う。人生から、世間からさよならだ。
そのこと自体は別に前から覚悟を決めてたこと……だと思っていたが、覚悟の決め、なんていうのは、フェーズを追って更新されていくものらしい。完全無欠の「天からの召命」めいた誓いなんて、そもそもあんまり凡人の生には起こらん。パスカルの「火」や、マザーテレサの「コーリング」というのが特別なのだ。あるいは、そのような宗教的感激を受けた者(英語でいうとこの「ギフテッド」にこれも相当するのだろうか)が、すなわち天才なのだろう。それは、透明な鎖に縛られた人生かもしれない。ただ、鎖に縛られること自体一点を論ずるならば、ぼくもそれにいよいよ同じになってきていると思う。
 
鎖に縛られることは、唯一の慰めとして、その鎖がどれほど透明で、どれほど美しいか、というのがある。ぼくのイメージとしては、キリスト教の鎖は、蔓草の巻き付いた透明なクリスタルの鎖で、、そんなファンタジーあり得ないとしりながらも、でも所詮妄想ってのは、宗教的妄想ってのはファンタジーの幻想を求めるのであって。超越とは人間(じんかん)のアレコレをアウフヘーベンしつつも、ファンタジーの要素を絶えず求める。
 
鎖が「役にたつか」の次元では、鎖はすぐに糞尿がこびりついた腐り鎖になるだろう(このダジャレがいいたかっただけか)。功利主義はひとをむしばむ。もっとも功利主義にクリスタルの蔓草を見つけたひとは幸せだろう。が、ぼくはそこにクリスタルの蔓草を不幸にも見つけることができなかった
 
ぼくが求めるのは、どうしても創作でしかありえないと知った。人間世間での栄達も、適応も、どうも自分には「そんなにいらんもの」だとやっと悟ることができたかもしれない。それを考えるならば、やはり自意識ゲーム/承認欲求ゲームは、やはり「自分にとっては」、おろかしいものだろう。
 

適応

 
さっき禅寺に行った。ハツモウデというジャパニーズ儀式だそうだ。その是非はおく。ただ自分としては、キリスト教と、仏教(禅宗)というものに、自分でも意外なほど親しみを抱いているのだとわかった。
その儀式やアイテムのデザインとか。あるいは雰囲気とか。それは、自分のなかに取り入れても悪くない。自分というものと、コンフリクトを起こすものではない。
 
そこで、禅寺の和尚の子供たちがいた。三人の娘だった。まだ幼い。笑っていた。ガキが笑っていた……というと、まさにZazen Boysの「自問自答」の世界なのだけど。
 
 
ガキが……あ、いや子供が笑うこと自体、やはりぜんぜん悪いことではなく、これを悪いことだと断じたら、やはりこの世は冷凍地獄であって。
どうしてもガキに好かれる自分ではないが、そりゃ自分からして好かれる努力をしていないし、好かれたところでねぇ。じゃあリスペクトを求める? それもいらんと思う。自分という人間は……そっち方面の努力が、すなわち「世間で生きる」「人間として生きる」ことならば……
 
ただ子供はすくすく育っているらしい。そしてはしゃいでいる。それは釈尊の教えと合致するのだろう。「」をどーにかしよう、と釈尊はいう。それが、どうも個人的により最近は……この一年あまり、「もっともすぎるくらいもっともだ」と思うようになった。
人生なんて苦界の苦しみである。所詮は苦しみのバリエーションにすぎない。ならば苦しみを減じるほかはない。
子供は子供であるだけで苦しみから逃れているのならば、子供に返るべきか?そうであるような気がして、この数年「オトナオトナしてはあかん」と思って、でもこの一年、「やっぱりオトナオトナしよう」として人間(じんかん)適応しようとして。
 
でもまあ、それも無理だったのかな。無理というか、ふたつの概念。
 
・適応は、創作のための、自分の身の回りの便宜である
・適応で自分が高まっても、それは自分の求める自分としての高まりではない。
 
やはりこう割り切るほうが自分らしい。それはエゴイストだ。だがどう考えても、どう感じ入っても、このエゴイストの考えこそが、自分なのだ。血液型をかえることはできないように。
 
誰かに自分というモノの価値を認めてもらおうと思ったら、やはり「適応してる自分」の価値よりは、「ひとり考え、創作してる自分」のほうの価値を認めてもらったほうがいい。
媚びるこびらないの話でなく。評価軸が人間世間には複数あるのだとしたら、ある一方の評価軸を選んだら、もう一方の評価軸は地に打ち捨てたほうがまだいいのかもしれない話。ラディカルなことをいってるけど、八方美人こそが人間として醜い所作である
 
ただまあ。釈尊は世間での栄達をこそ説いてはいないが、自分をどうにかする、のことはエラク説く。そりゃそうだ。以上の自分の創作さえよければいい話は、自分の「苦」を昇華させ、自分の「くるしみ」を減じることが「できて」はじめて意味があることであって。その生き方が結果的に苦しみを抱くことだったら(そして苦しみの付加が義務だと結論することだったら)やはり違う、と断じなければならないのが釈尊の立場だろう
 
じゃあ自分はどうすればいいのか。たいして世間適応は求めない。じゃあ創作をバリっとやるか。ここで、自分というものを「どれだけ見つめ、どれだけ忘れるか」ということになる。
 
あんまりジブンジブンしてるのも、それはそれで違うだろう。ただ他人他人してるのは論外であるが。
自分というものを、ひとつのモノとしてとらえることができたら、そのとき創作は完成するのか? きっとすると思う。創作とは、自分と他人のバリエーションであって。そして自分のなかの「なにか」と他人のなかの「なにか」の相互スペクトラムのバリエーションであって。
ただそのためには、自分、も、他人、も、ぜんぶ「対象」としてみることができて初めて創作できる。
そのためには、我慢する、適応のため我慢する、というのとは別のベクトルの「我慢2.0」が必要なのだろう。
 
その「我慢2.0」とは、たとえば禅寺の集まりで、世間の皆々様と話があわなくてウズウズしてる自分、というものにふれたとき、「ああイヤだなぁ」と「自分」で思うより、もっと別の形で「生きる」ことなのだと思う。
 
それがなんなのかはよくわからない。イメージとしては、超然としてればいい、というのがあるけど、それが具体的にどんな行動をしてればいいのかというのはわかんない。ただ、迷惑をかける行動というのは違うとおもう。また、年不相応の行動というのも違うと思う。それは適応の問題ではなくて、自分が「どうも理想とする自分とちがうよな」であり、「これは創作に結びつく自分でもないよな」の観点である。
 

垂直尾翼

 
でもイヤは消えないけど、適当にすることはできなくもない。まえはこの適当にする、のこともできなかったけど。
バランス感覚。垂直尾翼。たぶんそこだ。そこを鍛えればいいのだ。
体幹(たいかん)を鍛える、というトレーニングメソッドがある。インナーマッスルを、というやつ。たぶんこれだ。適応は技法
あるが、同時に精神と肉体の垂直尾翼が保たれていれば、、それでいいのだ。あとはそれがどうにかしてくれる。
 
ただそれが一番ムズい、というのも事実。それよりは適応の技術でもってどーにかゴマカシをしてればいい、というのが楽ではある。
だって、それができないから精神病になり、精神病が垂直尾翼を失わせていった、という経歴がある俺。
 
でも、自分自分してるのは、もういいだろう。あんまり、これ、成果がなかった。
じぶんじぶん、というふうに追いつめて考えていって、結果なんか益があったかというと、たいして作品ひとつできなかった。
 
それよりは、精神と肉体のバランス/垂直尾翼を、なんかして整えることが、一番の近道なんだろう。
ひとを見て、自分をみて。で、自分を見続けないで、ひとも見続けないで。ただ、自分の垂直尾翼の感覚を信じる。そのうえで……というか、垂直尾翼のことを、書けばいいのか。作曲すればいいのか。
そうか、創作のバランスとは、そこか。
そうか……


死ぬ話、アゲイン。

 
たぶん、どうにかして、死ぬだろうな、とやはり思う。そのサインも、やはり肉体のバランスが崩れている今だからこそ思う。それをまともにする、とする意義は「生き続けること」の意志の前提なのだけど、そこに見切りを奇妙につけてしまった自分がいる。
その自分を、忘れろ! が、禅宗的考えなのかもしれない。釈尊のいうこともそこらへんなのかもしれない。
 
死ぬことを前提にした勢い、っていうのはある。ただしそれは、前提にしている以上、すり減っていう課程でもあるだろう
すり減っていく課程ならば、「いまある自分」を放出していくことで、創作が苦しいのはそこだ。
 
じゃあ、死ぬまでの5年間で、自分の垂直尾翼を今一度、「ありもの」だけでも思い返して、そこから創作をはじめていく、という考えこそが、自分にとってもっとも手頃かなぁと。
それには、、まず書くべきは、この「5年説」だろう。これがあって、逆説的にいま生きれてる自分だけど、この感覚をまだ創作にまでしきれてない。それもそれでどうか。
 
ちょい疲れたので、きょうはここまで。垂直尾翼の考えが得られた時点で、よかった。これ書いて。