残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

twitter以後とで変わっちまったネットコミュニケーションとぼく

いやtwitter使ってるわけなんですけど、これやってて、或る程度のひとと疎遠になったかなーって思うことがあるんですよね。
なんでそう思ってしまうのか、というとぼくの人格の弱さだっちゅう話しだと思いますが。まあ自意識過剰というか。
もっと個人対個人、でSNS抜きにしてやってたときの付き合いのほうが、平和だったよな、と。そのころに付き合ってた方々とも、今付き合ってるわけですが、今の自分(ぼく)を見て、「あああいつ変わっちまった」「あいつとはちょっと距離置こう」と思われてるんじゃないか、っていうことです。

どーにもtwitterが使いやすくてこまる。こういうふうにブログで書いたほうがいいよなことも、ヴァンヴァンtwitterで書くもんだから、余計にtwitterの中毒アデクションとなってしまって、もう抜け出せないアヘンアヘン。
最初はこんなんじゃなかったと思います……ってtwilogで振り返ってみたら(だいたいtwitter使い始めのころから、twitterログとってあるのでこういう形で)、まあ最初のほうからtwitterで長文で誰にも読まれないようなことをガガガーと書いているのですからまあ俺の世話はない。
ただ、どこかで「TLの話題に即して話す」ようになりましたな、長文で。

それを所属クラスタの変化と読んでもいいのでしょうが、まあぼく自体は変わってない……とはいえず。ある程度変わっていってるわけです。それをぼくのほうを向いて「お前は変わったよ!」といわれるのが怖いって側面はありますな。
どの道自分が変わってってることは、多少織り込んでもらいたい、っていう点はあります。まあ自分と付き合いが長いひとに対しては、とくにそう思うっていうか、そう思うひとと「より、よりこれからも長く深く」付き合っていきたいなぁ、と。即ち「自分を理解してくれている」ってひとですね。そういうひとには、おりこんで話を聞いてもらいたい。

でも、そういう人(自分を理解してくれている人)って、twitterをやりはじめて、twitterのフォロワー的なほうで増えたかっていうと、これはtwitterのなかで完結していると思うのです。

そもそもネットで、自分を理解してほしい、っていうほうが間違っている、といわれたら、そう。
趣味の話しをするにしても、趣味に対する自分の好悪と深度を語るのみで、お互いが依存しあうような感じになるのは絶対に違うと思うし。
そもそもテキストだけですからね。

それが、時折ふっと、深い交流になってしまう。なってしまう、というか、そういうふうにしたのも自分だろ、というか。
テキストだけだから、そもそもがディスコミュニケーション的な文筆交流、っていう話は成り立つと思いますが、そのテキストを操っているひとは自分ですからね。人間です。だから、時折、深い方向にふっといっていまう。

これが、人間の心として、弱い方向、っていうふうに言うことも可能なのかもしれません。というか自分自身がそういうもんだし。
ええと、何の話してたんだっけな。そう、ネットで友達をつくることのそもそも的無理性、というか。twitterだと余計無理性、というか。

手段はなんであれ、ふっと「深く/弱く」の方向にふっといってしまう、っていうのがネットだと思います。ただそれはあまりに衆人環視の場、ではなく、或る程度クローズドの場でね。個人サイト・ブログの掲示板/コメ欄とか(常連さん、ってやつ)、twitterだったらDMとか。あるいはメールとか。

そういうことをかさねていても、一向に「こいつわかんねえよ……」があるでしょうし、「あれ?こころが重なった?」ってことがあるかもしれない。でも、基本は「ネットコミュニケーションは無理ゲー」と思っておいたほうが、ダメージは少ない。そもそもダメージの過多で人生を語ろうとするひとは、ネットなんざするんじゃねえ。

まあ自分のダメージならいいんですけど(よくはないけど)、問題は村上春樹もいうたように「他人にダメージ与えてしまったらどうすんか」ってとこですね。これはキツい。自責の傾向にあるひとにとってはこれもきつい。ていうか自分のことばっかりだなこのブログ記事……。

そうそうtwitterとコミュニケーション、ネットとコミュニケーション、の話し。
シロクマせんせid:p_shirokuma)が「いくらネットでコミュニケとってても、或る程度リアルでコミュニケとってないと危険」ってことをどっかで書いてたように思うのですが、それに対して「テキストは超えるのだ!」っていうふうにイキがって反論したく思いながら著書とかブログを読んでたのですね。でも今になって、「ネットって限界があるよなぁ」と改めて思うようになったのは、それだけネット・ナマキズが増えたからか。

なんつうか「ネットで険悪ぎみなことになっても、リアル、もしくは或る程度クローズドな場で話しこめば、多少の議論の険悪なアラは見逃してくれるだろ」っていう、ダメな信頼があって。
おいそこに信頼おくべきじゃないだろ、信頼ってそういう、低きに流れるっていうもんだったか?っていう疑問があって。でもそういう疑問も、どっかにいつの間にか流れていってしまって。
もっと「あいつだったら、もっと高みに上っていけるぜ!」っていうことをぼくだって語りたいし、語ってほしいですよ。馴れ合いとかじゃなくて!

そうか、twitterっていうのは基本馴れ合いだったな、っていまになったら思うわけで。
ひとつの話題と無数のレス/RTでもって世間が構成され、気の利いたことひとついえればポジショニング、みたいな。
それが原則だったね。そこから「真のコミュニケ!」ってやつを求めるほうがなんかトチ狂ってるというか。というか真のコミュニケってなんだ……。

こんなに自分、ネットに固執する人間だったかなぁ。コミュニケーションに期待したり固執する人間だったかなぁ。模型だけ作っていればOKだった少年時代はどこにいったよ。それをコミュニケーション人間的成長、っていえようか。いえないなぁ。ハードボイルド成分が足りんよ。

弱くなったな、自分も。それだけ自分のなかに他者を入れるようになったか。
固形的だった自分というのは、そうやってジブンが希釈されていくのだ。
果ては、「みんな」の目を気にして、自分では何もせんほうがいい、みたいな哲学をつまびらかにしてね、そんで過去の自分が大笑いして侮蔑してるのにも気づかず、日常に埋没していってね、そんで何も出来なくなっていくわけさ。当然世間の奴らはそういう俺を笑う。

あー、なんだろう。
なんだろう。まとまらないので、ここで記事終わり。

twitter小説のこととかも書こうと思ったけど、疲れたので。