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残響の足りない部屋

同人DTMとか模型庭園とかエロゲとかの日記

オイィ!?クソ長文魔・残響が、てめえの長文癖を後悔しだしたぞぉっ!?

ぼくの悪癖に、「ついつい長く引き延ばす」というのがあるっぽい(ニアリーイコールで、「余計なことを書く」)。これは創作小説でも、こういうブログでも、評論(レビュー)でも。
長くすればそれだけ、そのぶんだけ物語れるという保証があるんだゼ、と信じていたフシがある。
なぜだろう?別にそうだとは限らないのに。

 

文章によって、物事の、伝えるべき要素が、1、2、3、4、5、とあったとして。
「1~5」の伝えるべき要素を全部伝えきったら、基本「伝達」は終了である。
さて今ここでぼくは紙を広げ(比喩的な意味で)、ここから「1~5」を順番に伝えよう……としてないのが、ぼくの常だ。
ぼくは、思いついたままに書く。そりゃあ順番を決める構造構想とかがめんどいってのもある。他人のことをあんま考えてないってのもある。……それと、ぼくは「1~5」以上のことを書こうという高望みをしているのかもしれない。

 

なんというか。「伝えたいおっきなもの」っていう概念があって。
これは5つくらいじゃ収まんないぞ、という思いこみがあって。伝えたいことの事実っていうのは、だいたい5つくらいなんだけど、でもそれは個数であって、実際の質的なものは、10も20も面積でかいぞ、というか。
でも、それがそもそも錯覚なんだよね。

 

おっきなもの、を分割することから、論理的理性的な、構造でもって書くという営為がはじまる。
ぼくは、こういうことをあんまりしない
分割すると、夢が……おっきなものへの夢がなくなってしまうからか。でも、そんなんでなくなるような夢は、たいした夢じゃないことは確かで。

 

だいたい、ぼくの長文におけるウィークポイントはここだ。
整理すれば、
・残響はおっきなものを書きたがる
・残響は論理分割をめんどがる
・結果、よくわからないモノが書き上がる。読みにくい

ってとこだ。

 

長く引き延ばす。

あるいは、ぼくは自分が「分割し、論理でもって、結論を出す」という能力に、内心欠けていることを、見たくないからか?
それかもしくは、長文指向にしてれば、自分がいつかたいしたモノをかけるんじゃないか、っていうふうに、夢見がちな人間でいたいのか。
どちらにせよ、ロクなもんじゃない。

 

文章を他人のために書くひとだったら、はじめからこういうことはないのだ。わかりやすく書くから。
ぼくは、そういう親切心が足りない。人徳がないなぁ。自分の話ばっかりというか。そう、文章で、自分の話をしすぎてしまう。他人の話はよく聞くけれども、その実他人に向けた言葉で語らない。これがポイントだ。

これは、改善がきくのかな?わからないな。それなりに努力がいりそうな気がする。

 

そもそも、だいたい長い文章をひとは読んでくれないって時代に、どんどんなってる。
5000字で限界だってさ。そんなんじゃ、残響なんて書き手は、そりゃあ迷惑だろう。

たまーに、自分の文章を読んでくれた、ってひとがいるんだけど、そのひとがぼくの文章のどこに面白味を感じてくれたのか、っていうのは、結構知りたい。少なくとも、ぼくは、ぼくの文章があんまおもしろいとは思えないからだ。そして、最近とみにーー自分は、誰にも、価値あることを伝えてないんじゃないか、って思うからだ。

俺はすなわち飛び道具文章マン、ルルル卑怯攻撃、とまではいわないけどさ。

 

もうちょっと言えば、ぼくのこの、他者への配慮心のなさっていうか、人徳のなさ。
それを突き詰めていえば、「誰かに伝えたい」って気持ちが、そんなにないのかもしれない。自分で、自分を把握したい。その一念で、ぼくは文章を書く。

……うーん、自分って、やっぱ承認欲求の少ない人間だったかw しかし、創作の原点のひとつたる、「誰かに伝えたい」って気持ちすらない、っていうのは、これ書くまで思ってなかったんで、以外であった。

 

俺の俺に対する文章。
とはいえ、それを読むであろう未来の自分というのも、また他人であるから、未来の自分が最低限わかりやすく思える文章というのは大事、っていう理屈もあって。
でも、それは「自分メモ」としての体裁が整っていればいいのだから、ああ、よけいに自分が「他者を意識したわかりやすく、おもしろい文章」を書こうという努力からは遠ざかるのであった、とっぴんぱらりのぷう。

 

あと最後に、長文ということでいえば、自分は以前、長文すごいねー、と言われたことが何回かあって、それで得意になってたことがある、のは自白しよう。
ただ、自分の長文が、「とくに内容がないよう」って気づいたとき、ああ……恥ずかしい……って思ったのも事実ね。
とくに、自分は長文でもって「おっきなもの」を取り扱おうとしてたのだけど、実際の文章では、そのおっきさが、ちっとも現れていない、というふうに感じ取ってしまったとき。この無力感ね。

 

ぼくは、ぼく自身だけに固執した文章を書いてたからダメだった、というのは、ようやくわかってきたところだ。
他者、というのを、まず文章的に念頭におくことで。他者のために文章を練っていったり、長文を少なくしていくことによって、きっと、「おっきなもの」に対するより有益なアプローチを得ることができるんじゃないか、と。そうだ、きっとそうだ。
文章とは、やはり対話であるのだから。そして対話から、いろんな可能性は開けてくるものであるのだから。

しっかし、具体例のない抽象的な記事になってしまったな今回……。