残響の足りない部屋:HP百合機械別館

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「ノラと皇女と野良猫ハート」(ノラとと)の感想です

エロゲー批評空間に投げた「ノラと皇女と野良猫ハート」の感想文を、せっかくですのでこのブログにも置いておきます。他のレビューもちょくちょく置いていってみようと思います。しかし、

今まで書いた感想文はこれくらいあって

最近書き始めたエロゲソング感想はこれくらい

 

なんですね。まあ、ちょくちょくやっていきましょう。そのうち、あとがきみたいなものも書いちゃったりしてね。

 

で、昨日UPしたこの感想。23000字くらいあります。好きなように書いていますので、好きなように読んでいただいたらとっても喜ばしく。

●はじめに

 

 ファファーファ……よくぞここまでたどり着きました。寒いでしょう。ここはエロスケという物語とエロスの大通り……の中の修道院の懺悔室。わたくしとアナタの他は誰もこの懺悔室をのぞき込むモノはいません。デバガメ野次馬よ……百合神の名において去れ!
 さあさ、コップ一杯の密造ウォッカでも飲んで。この極東ロシアにおいて暖をとるは何よりの大事です。お体がだめになっては、あなたの大事なシコもできません……。聞いた話ですが、北方の路上で何を思ったか咥えてもらった御仁が居たそうで。そしたら中折れならぬ中凍傷にかかったらしくて、中折れ部分からボロリと腐れて落ちたそうで。わあこんな短小見たことない!っていう話、どこまで本気なのか宵闇眩燈草紙

 おっと、申し遅れました。わたくしはこの百合修道院で、なんか……なんて言うんだったっけロシア正教で。ええと、説教師を勤めております残響ともうします。信じなさい。
 あなたのいいたいことはわかります。今のエロゲに満足しつつも飽きてきているのでしょう? あいも変わらない学園キャッキャウフフ……せいぜいヘンテコ部活みたいなワンポイント、ワンイシューでもってしか変化のない物語構造。まるで今日も明日も同じパンを食べているかのよう。もちろんパンがなければ生きてられないように、エロゲマにとって毎日の萌えシコがなければ話にならない。でも、飽きは来ますねーとかいうのがアナタのようです。この占星術ではアルカナタロットで出ているのですよ。
 しかしまあ、実はわたくしは別にあなたと違って飽きはきていないのです。これが神に仕えるものの姿だ恐れ入ったか……!とは建前で、実際のところ、今のエロゲの「よくあるゲー」のアレコレを自分は嗜み味わい分けている、と豪語するつもりもありゃしません。自分にしたって、そこまで綿密な差異をばっちし見つけていないっちゅーことは、このノラとと感想の杜撰さを見ればわかると思います。見落としてる部分結構ありますしね。問題は、そもそもアナタが今のエロゲに愛を抱けているかどうかっちゅうことじゃないでしょうか。愛があれば売れ線エロゲの学園キャッキャうふふも良く見えるっちゅうもので。わたしはねー、意外とまだ愛は持ってるのだと思うのです、てめえで言うのもなんですが。エロゲをやりまくる本数は減りましたが、「大切にしたい」度合いは幾分かは増えたような気がする。故に自分のメインフィールドたる百合ゲーにますます精を出して、最近では「ことのはアムリラート」攻略のために、エスペラント語の教科書三冊も買っちまって計6000円、新作エロゲ買えなかったYO!(だいなし)
 そいから、同人ゲーも結構やるようになった。「小粒なピリリとしたエロゲ」っていうお題目を、たしかゼロ年代初頭のアリスソフトがDARK外伝やらランス5Dの低価格路線で言ってたのですが、今のエロゲにそれがない!っていってる人は、「じゃ同人ゲーあるよ」っていう話でもあります。これが結構ヘンテコな作品が多くて。フリゲーも併せれば、エロゲ、ノベルゲーの創作側の熱量ってものは、母数はともかくとして、熱はあると思う。この場合のエロゲ愛とは、結局このシーン全体の熱に対する、様々の作品に対する屈折せし味わい分けを「やっていくか」っていうことかと。全体のエロゲの動向がどうこう、っていう話じゃなくて。実地でエロゲマをやってくっていうこと。
 これに対してさ、わたし演劇とか映画に対してそんな愛はないんよ。なのに、今エロゲ、ノベルゲーに対して、わりと時間を注いでる。やっていってる。いつ終わるかはわかんねぇし、義務でエロゲやってるっちゅうことなんかない。それに、確かにまいにちヴァリヴァリとやれてるってことでもない。恥ずかしながら。でも、シーンを愛してる。シーン語りを愛してる、ってんじゃない、と思う。思いたい。でもTwitterでたしかに放言したくなるけどさ。しかしこの時間って結構アレですよ奥様。がりがり削り取っていきますよ旦那様。社会においてしっかり仕事したいっていう気持ちも、ガンってやれば体力奪われるしさぁ。それをこう、ブラック企業に搾取されてさぁ。あー話がズレてってる。
 小粒なゲームもいいけど、今までと同じ小粒さはちょっと、とかいうアナタ。あるいは、現代のシーンの真っただ中にあって、旧来の手法と別のところを掘っていってるゲームをやりたい、というアナタ。一応シーンの前線ではありながらも、誰に自慢することもできねえけど、「自分」のエロゲをしてみてえ、ってひと。なにか、ちょっと他のものをやりたい。それも、今までの萌えゲーを骨格としながらも、明確な個性のあるゲームがやりたい……なんというワガママさんでしょう。
うん……そうですよね。自分だって、ちょっと今でもエロゲやってるぜぃ!ってな口ぶりではいますけど、結局アナタよりも「老い」が少しばかり遅かっただけのオタクです。気持ちはわかります。そういうことをふと、「行く年来る年」みたいに考えてしまうことだってあるでしょう。
 しかし、キープ・オン・エロゲでございます。楽しさというのは、どこからやってくるかわかんない。自分にとって、このゲームは、きっかけがあってやってみたゲームですが、それがなかったら「普通の売れ線?」と思ってたことは白状しましょう。ですがこのノラとと……変なエロゲだったなぁ。そういう観点から、アナタにはちょっとした刺激を与えてくれるかもしんない。疲れと怠惰に身を浸してしまったアナタの眼(まなこ)に、強引にビネガーを注入するような勢いがある。
 あほになれ。とにかくあほになれ。あの空を駆け抜ける風のように……そう、このエロゲ懺悔室で自らのエロゲ人生を悔恨するアナタであっても、風というものは必要なのです。人生は絶えず風を必要とします。密封されつつあるこの世界において、まったく逆の「開けた世界」への道しるべである風ーー
 おっと話が先に進んでしまいました。
 
 さて、ここにひょい、っとアナタの眼前にパッケージを出してみます。

つ ノラととメインビジュアル

 どうですか?一見してみて。ふむふむなるほど。勃起すなよ。ええそうですね、まともな学園もの萌えゲーっぽい。

 このメインビジュアルで良いのは、パトリシア嬢の横目ですね。横顔がたまらない高貴なセクスィを放っています。妖しさと甘美……イッツ・ミステリアス・ロマンス……。どことなくSっ気を感じさせるのが、アナタの性癖である足コキM精神をヴィンヴィンさせますね。……え?なんでバレたのかって? 懺悔室に入りしモノがその程度隠せるとでも思っていたのですか?
 しかしなんというかずいぶん「ガワ(外側)」のデザインのキレイキレイなゲームですね。まるでリッチコンテンツ。高級感すらある。タイトルロゴのフォントにしても、UI(ユーザインターフェイス)の細やかさにしても。当然のようにHARUKAZEはこれらをなしていますが、それだけお金もかかったことでしょう。
 このセチガラ現代では、たいていのクオリティアップは金と交換できます。中身がどんなんであれ、ガワに金をかけたら、それなりな見栄えのデザインになります。問題は、ノラとととこのガワの上品がフィットしているか、というところですが、プレイしてみて、いわずもがな、ある程度は乖離していることはアナタにもわかると思います。
 ですが、ガワと中身のそれは不幸な結婚ではありません。デザインのガワにおける上品さ、これが作品を手に取る一見さんに「良質のラブコメなのだな」とミスリードは十分になされます。このミスリードは大事。かつ、上品なデザインがかもしだす「この作品は丁寧に作られてるのだな」の予感。それも、十分に果たされることとなります。なにせ、両方においてHARUKAZEはそれを裏切っていない。まともに相手してるとも思わないが。「良質のラブコメ」をかなり脱臼させて、このシナリオ……というか各シーンは作られている。そのいちいちにおいてデザインは丁寧であって、同人っぽい安っぽさはない。だけれども、それははとのギャグとメタファーと言語を丁寧に包み込んだ……ってものか、というと、ちょっとちがう。大胆に生身のままに置いてるようで、その置き方には実に繊細な神経が張り巡らされてる。禅のように。
 ようは、確信犯的にこのガワのデザインを決めたと、わたくしは思うのですよ。ただまあ、そんなことをいちいち考えナックても、「わあ春っぽいゲームだ、イチャラブだ、ギャグだ!」っていう導入から、「なんか変だぞ」を何回も通過して、やがて様々の入り巡った隠喩の詩に「ほおーう」と感心してしまう。そんな一連の流れの導入として、このパッケのデザインは結構よかったんじゃないか、と。最初からアニメ版ノラととのようなデフォルメかつB級な感じでいく方策を選ばず、まず最初にこのリッチデザインからいかせる。エロゲ神学において、「中身さえよければええのだ」式の考えがありますが、こういうひとは同時に「パッケを保持するのがやっぱいいよねー」という矛盾人であります。モノコンテンツの愛好がすなわちオタクだー、みたいな。そういう人にもこういうデザインって訴求するんだなぁ、っていう話です。

 話がずれました。まあここまで深読みせずとも、ともかくも、このリッチなガワ・デザインは、この作品を「王道のラブコメ」に見せかけている。ですが、このノラととは、そういう量産型萌えゲーとは明らかに異なるクセを、どうしたって持っています。で、他の量産型萌えゲーと同じフィールドで戦う以上、最低限のガワの整いは整えとかなきゃ、すぐにdisがくらうこの世の中です。世知辛いですね。そんなわけで、このノラととは、見かけ上はなんだかリッチ萌えゲーとなっているのでしょう。


 世知辛さ。


 アナタがここに来たのも、なんとなくは理由がわかります。疲れた。それはそうでしょう。でもそれを囲い込むようにブーストさせたのは、ある一つの世知辛さにも似た、「閉じつつある世界」の閉塞感ではないでしょうか。
 世界はどんどん閉塞を増しています。アメリカ同時多発テロ以降、なんだか世界は様変わりしてしまいました。そして日本においても、震災以降、歩んでいく中心軸がぐぐっと変化してしまいました。
 震災を越えてなお、新しい希望を見出していこう、という気概もあります。わたくしはそれに万雷の敬礼をしたいですが、その一方で、この世間に「寛容さ」がなくなっている傾向にあります。複雑さに耐え切れないのでしょう。日本の皇后陛下は「私たちは複雑さに耐えていかねばならない」ということを仰った、と聞きます。潔癖なまでに他人の落ち度を弾劾し、自分が上の方で安全圏でいられる、怠惰なる幸せを享受する……そういう人が、どんどん増えていって、SNS社会だけでなく、この世の中ーーリアルとネットがぴったんこしてる世の中ーーの、複雑さはどんどん「世知辛い潔癖」という方向になっていっています。すぐネット炎上、すぐ極論。それは何も生まないのに……一億総批評家とはうまくいったものです。
「閉じつつある世界」に対抗するには、「開けたこの世界で」いかに皆が生きていくか、の実例を、少しでも見ていくことに意義があります。ある意味で、物語というものは、そういう仮想体験をさせることによって、我々を救うのです。
 ですが物語の、人間の「開けた」感じ、というのは、正義の成就と同じくらい、現実においては難しいものです。調律された物語内においてすら難しいのですから。なぜなら、人間の「開けた」感じを常に続けていくには、その人がどれだけ自分の中に善性ーーセンス・オブ・ワンダー、心からのやさしさ、人間愛ーーを保ち続けれられるか、によります。……ああ!おかしなものです。それらをより強固に保つためには、余計に世界観を「閉じる」必要があります。黒木ママのように。世界観を閉じれば、ある限定された想念・思想は強固になります。カルト? ……「君みたいに察しのいいガキは嫌いだよ」。そう、黒木ママを見ていてどうにも拭い去れない奇妙なイヤらしさを覚えたのは、その匂いがありました。

 さて、では、ノラさんたちがいかに生きていたか。開けたこの世界で、何を求め、どんなくっだらない会話を繰り返し、何を信じていたか。その信じているもののすべてに、わたくしはOKを出すわけではありません。一部の世界観、一部の処理の仕方が、結構わたくしの好みでないとこがありましたから。
 それでも……なんでしょう、この世界の豊饒というか。自然の豊かさに対する信頼性、自分はこのゲームから、ある意味明け透けなほどそういうのを受け取っています。もちろん次々現前せしおっぱいの豊饒も含めてですが、それ以上にキャラが生き生きとしていて、箱庭の独自性は薄くとも、その箱庭の中で皆がきゃいきゃいしている。「生きている」。野良猫のように、自由に。

 


●ノラさんという主人公に対して

 

 尾田栄一郎ONE PIECE」の主人公、ルフィは、モノローグ=独白の類をしません。ここでいうモノローグとは、実際のセリフではなくて、脳内や地の文で展開されるキャラの、独白めいた自己言及的心理描写、のことです。尾田は、ルフィにはモノローグはいらない、と考えています。それが尾田の一つの主人公哲学であるようです。思弁で語るのでなく、行動で語らせる。同じことが、われらがノラさんにも言えないでしょうか?
ノラさんは愉快なひとです。爆発的な言葉のキレとアクションで奇矯をするSMEE主人公ではありませんが、言葉の節々に感じるのどかさと人の好さ。「~なんだよっ」という元気のいいツッコミ。それがなんとも朴訥さを感じさせます。
 知的ではありません。ですがエロゲの神……少なくともHARUKAZEの神、はとは、この主人公の造形に結構苦心したと思うのです。あまり自分のことを語らない。叙述トリックとか抜きにして、あまりべらべらこのレビューのように語らないこと。それは、一般的に「古き良き時代のエロゲ主人公」と言えるのかもしれません。ゼロ年代ゲーよりももっと昔の。しかし、わたくしがノラさんを見ていて、どこかほっとするのはなんででしょう。ノラさんは裏切らないから? ツッコミが面白いから?

 神は善性というものを、コメディにも似た面白いやり口でその人に付与します。
 例えば、知的でキレる主人公は、基本的にアホには「なれません」し、蛮勇にもなかなか「なれません」。これは知的でキレる、という要素を持ったから、コインの裏として「出来ないこと」がセッティングされた、ということです。まいてつの双鉄君のように(付け加えると、わたくしは昨今のエロゲ主人公のなかで、双鉄君が最大級に萌え萌えであるということを付記します)
Every cloud has a silver lining.(あまねく曇天の雲にも銀の裏地がついている)という英語のことわざがあるように、銀の裏地というすばらしさがあれば、どうしたって曇天の雲もあるのです。ヴァイス・ヴァサ(逆もまた真なり)。
 そしてこれをさらにひっくり返せば、知的でキレる主人公がアホの蛮勇になって女の子の為に戦い立ち上げるところに燃えるわけです。それがキャラの善性というものです。
ノラさんの場合はどうでしょう。ノラさんは知的ではありません。そればかりか「何を考えているのかよくわからない」ということがあります。それはミステリアスではない。本人の朴訥さが常にあるから、彼はナイスな好漢として、作中キャラ(ゆかいな仲間たち)からも、そしてモニタの前の我々にとっても、信頼でき、安心できる主人公であります。わたしゃ井田が、ノラさんが休んでるときにいつもノラさんの話をする、っていう描写がことのほか好きでねぇ。
 
 このノラさんの、己に対する思弁性のなさ、というのは、ある意味でこの物語の「深み」を最初からオミットしている、ということでもあります。正確にいえば「物語を思弁性でもって深く展開していく」のを取りやめている、ちうことでもありますが。
 ですが、その考え。それは最初から違うのです。ノラととは、キャラの怒涛の思弁性でもって語るゲームではない。どこまでもキャラが生き生きと「行動でもって語る」ゲームです。

 ノラさんの行動基準のひとつに、「死んだ母親」というのがあります。マザコンということではないですが、行動基準にはしっかりと刻印されている。ある意味で、完璧な母親でした。欠点も含めて。マリアというよりはキリストその人というか。(マリアはどちらかといえばシャチでしょう)
 母親の意思を継いでいかなくちゃならない、というのを思弁性抜きにノラさんは実行し続けます。だからこそのノラさんの朴訥さ、善性でありますが、知性のいくらかの抜きということは、ノラさんから「知的にクールに立ち回る」ということをオミットさせてしまいます。よくも悪くも。
 
 とにかくノラさんは行動でもって示し続けます。自分の心情なんてものはナレーションにまかせて。そういう意味では、ノラさんはプレイアブルキャラ(憑依対象主人公)、というよりは、むしろ「メインキャラの一人」という観測対象ではないのか、と思います。まあこれは百合者としての自分のひいき目かもしれませんが。
プレイヤーの皆さんは、「完全にノラさんに憑依しきる」ことが難しいのではないか?と思うのです。もちろん、それはあまねくエロゲ主人公全員に完璧に憑依することが難しい、とは言えますが。ノラさんへの憑依は、簡単なようで難しい。
 死んだ母親、というのは、もう戻らない存在です。だから後悔するような生き方をこれ以上重ねたくない。……ええ、私事で恐縮ですが、わたくしも(死者の対象は別であれ)同じことを思っていきています。それが死者に対する誠意であると信じ。そして自らの生の有限性を、せめても活かすための閃光のような生き方/思想です。
 この、もう後悔したくないから全力で生きる、とにかく行動でいく!というのは、行動力でもって善性となりますが、同時に「考えなしに行動してしまって、あとで周囲を混乱させる」というアドホック(その場しのぎ)な悪性もあります。自分の生き方でも、こういうことは結構ありました。

 それでも、ノラさんは行動をし続けます。「そうすれば女の子たちは救われるのだ」とかいう打算とかは全然ありません。彼自身の知性の欠如ゆえに、自分はあほなのだから、とにかく行動していかなきゃならない、という。
 ーーその姿に、人は引き付けられるのです。ノラさんは語りません。迷います。しょっぱいうだつのあがらないことも言います。ヘタれます。でも、行動をしっかりします。その姿しか、我々には見えません。彼の絶望とか、逡巡とかは、よくわかりません。でも、なんかノラさんって、「かわいく」ないですか? 最近の俺TUEEEE主人公とは違って、自分を飾らず、言い訳もせず、予防線も引かず、ただあほになっているところ。そこが、なんともかわいい。そして、HARUKAZEの神は、「神の子」としたのが、このノラさんなのです。


●シャチルート

 

 あなたはこのシャチさんに対して、授乳手コキCGがあったから即バブみ発見!とするあほでしょうか。いやまあ、シャチさんにはある程度のバブみがありますが、しかしバブみとはそもそも明らかにロリ度の高いロリが母性を見せるのに萌えるワードだったはず。それが授乳手コキや母性チックな萌え表現だけで即バブみとするのは、この言葉が人口に膾炙された証ですが。一般化の証ですが。
 まああなたのあほなシャチバブみをある程度検討してみましょう。上でも書いたように、シャチはこの物語においての完璧存在(マリア)であることをよしとしています。欠点のないことを瀟洒に嫌味なく優しくたたずまいよろしくしているのです。それがシャチ。
 でもそれは、周りのキャラがアクの高いひとたちで、このシャチが「癒しの避雷針」的存在である、ということではありません。ある種の強キャラといいますか、「シャチが出てきたら安心」という物語上の安全弁というか、キーポイントというか、やさしきデウスエクスマキナというか。パーティの良心という以上に、どんなに場が混沌となっても、シャチがいれば皆が瓦解することはない、という安心感。どんなボケにも対応できて、あのノブチのツッコミがミスったりであっても、シャチはそれを暖かくフォローするという。

 さて、一番ノラさんとの付き合いが長いシャチですが、シャチはバブみを最初から持ち合わせていたわけではありません。テン年代のマザコン表現は一味違う。シャチは「家族」を常にバージョンアップさせていこう、という意思がありました。ルート前半までのシャチはそうです。
 愉快な反田家において、ノラのサポートをするのがシャチというマリアです。ではそこに常に底流のように熱いラブがあるか? これはシナリオ上ではちょっと疑問かもです。まずデフォルトとしてシャチは「家族愛」があります。それを常に保ち、バージョンアップさせていくまどろみを指向します。ようはシャチは、ノラと一緒にいられればそれでいい、というのが前半部。それもそれで、彼女はゆかいな反田家に拾われなかったら、「ひと」としての生を歩むことなどできなかったのですから。ノラ母の意思というものはここに宿っています。ノラ母はシャチを人にしました。その恩をシャチは常に返そうとしています。家族の成就でもって。
 ここにおいて、シャチは自らを封殺しようとはしていません。反田家の一員としてあること、それはイコールでひとであること。人として家族をバージョンアップさせていくこと、それはノラ母の望みであったし(その延長で塾をしてたようなものです)、その結果として「恋愛でもってノラと共にいること、恋愛欲望を成就させること」は、最優先ではない。でもまあ、いざ自分も恋愛をできる、というふうに覚醒したら。そしてノラさんのほうもほとんど同じように覚醒したら。「春の目覚め」というのは第二次性徴の暗喩ですが、ようはシャチもまた成長をしていったのです。おっぱいだけの話じゃなく。

 どうもこの物語の野良猫キャラたちは、成長の速度が遅いです。いつまでも子供のままでいる、というか。その最も典型的な例がわれらがノラさんですが。
それは彼らの善性の証で、彼らが開けた世界故の暴力性から身を守るために得た、奇妙な老成ぶりにもよるのですが。その老成の反対として、野良猫たちは、自分たちの子供性を保とうと無意識にイノセンス性を保とうとしています。ノブチですら、ひねくれているやり方であろうと、そうなのです。そのへん、ノラとと2ではどーなるんでしょうね。
 しかしまあ、それにしてもシャチは「そっと寄り添い、サポートするやさしさ」であります。そこに忍従の苦しみはなく、持ってるハイスペックで、皆をやさしくサポートします。一見一番大人です。でも、それは「自分のエゴを家族調和にゆだねてる」という意味での他者貢献であり、自分のエゴを爆発させてはいないのです。
 後半、恋を知るようになってから、そのあたりのエゴを少しずつ覚醒させていくシャチですが、ここにおいて彼女はさらに「人になった」と言えるのでしょう。この恋故の独占欲、暴走性、まさに……これこそイチャラブ!であります。
 
 さてバブみは、エッチシーンにおいて開花します。まるでごく自然であるかのようにノラさんに授乳手コキをします。母乳は出ませんが。
 この自然っぷり、そしてそこからの甘々イチャラブ淫語爆発のエッチシーンにはまいりました。日ごろ、襟元の正しい、清らかな言葉使いをするシャチがこんなに淫語ばっかりバーストしたら、ナパーム弾のガトリング連射を食らっているようなものですよっ!剛腕の右腕に装着せしカスタムグレネードランチャー

 このバブみ覚醒はあまりに突然で、あまりに自然だった。しかし考えてみれば、彼女のマリア性(サポートする母性的愛情)は、こういう方面にいったとしても、全然問題はないのですね。なにせ彼女は何でもできるハイスペック。そして家族とは、なんでもありの関係性。そこに恋愛のエゴが加わったら、したいことなんでもしたっていいじゃない!ということになります。エピローグの唐突な水着えちもその文脈で考えましょう。なんという嫁!(エロゲ人生夢我夢中!)
 あと、これは説教師残響の個人的な趣味なのですが、どうも自分は小宮裕太「沢渡さん」シリーズのエロ漫画を聖典としているものですから、「儚げなツリ目まなざしの、白/銀髪のスレンダー丁寧語少女」に大変弱くてですね。そしてシャチのような家庭的存在、そして甘々イチャラブ、という満漢全席を食らったら、個人的趣味からして、魂がドライオーガズムするかってくらいやばい状態になりまして。あほになれ、とことんあほになれ。そう、おれもおれでシャチはやばかった……。

 ただ、別に陥没乳首がダメってわけではありませんが、シャチの場合、「ちょっと豊満すぎたかなぁ」というきらいがあり、そこが「スレンダー折れそうなほど!」が好きな自分の趣味とは少し乖離するわけですが。しかしHarvest(豊饒)の比喩は、聖書にもあるように、イエスが最初の弟子を海岸で拾ったように、常に海の豊饒とリンクします。シャチは一番、海と近しい存在で、こういうメタファー上のリンクが、このノラととには何べんも出ます。
 そう考えれば、シャチの豊満なダイナミックバディは、しかるべき存在であった、と言えます。考えれば庭でのえちで、シャチの胸に愛液が降り注ぐ描写なんか、まさに海の豊饒を描いてやまないスプラッシュだといえます。
 考えてみればそのメタファー上、シャチの豊満さは、椰子の木の南国豊満さとリンクしてもいいような気がしますが、しかしシャチは常に涼やかです。でも北欧のそれにちょっと近いようでありながら、土着性があんまりない涼やかです。豊満でありながら涼やか。この独特の個性は、得難いものであります。
 なんだかあなた授乳手こきのあほなバブみが、結構深いところまで話すこととなってしまいました。あなたのあほなバブみも、一面の真理をついていたのかもしれません。もちろんあなたはあほですから、「シャチたんの母乳FDキボンヌ!」とおっしゃるかもしれません。ですがよく考えてください。学園ものエロゲで母乳、というののそれ自体が、結構な危険区域になってきているのですよ、エロゲリアリティ上でいったら……!おとなしく抜きゲーをしたらどうですか。それぞれのクラスタの美意識の侵犯は、たまにであるからこそ、刺激が強いのでありますよ。やりゃあいいってもんじゃない。

 

●明日原ルート


 子猫ですねぇ。このゲームで一番猫っぽい存在です。でも、淫猥ビッチ、というキャラ立てですが、うまく機能していなかったように思えます。
というのも、この修道院において「ギャルエロの哲学」を話すのは大変心苦しいのですが、基本ギャルエロって、暗がりの世界というか……「ギャルのビッチ的性的奔放性と、こちらの常識的世界の非エロ性との相克」っていうことじゃないですか。もっと詳しくいうと、「日ごろ真面目にしているぼくらだけど、ギャルだったらエロエロを叶えてくれそう……でもアッチのダーティ・ギャル世界観に浸りきるっていうのも怖いし……」っていうオトコゴコロかと。あーいやらしい。
 この「ギャル性への侵犯性」というものは、双方向的です。ギャル(ビッチ)はこっちをひっかけてきます。誘導です。でもすぐには開きません。それも、向こうが楽しんでいるからです。こちらマトモな男たちは、それに憤りつつも、あのニヤけた余裕な瞳にドギマギするのです。あーいやらしい。あほめ。だがここはエロゲ……冷厳なる北方イースト・ワイルド・フロンティアなるこの極東ロシアよりももっと自由な世界……。あなたは心のちんこを解放なさっていい。性病にはかからない……。神は赦しをあたえています。あほになれ、精液を放て、と。萌えよ、地に満たすオナンの精は罪にあらず、と。
 で、このギャル性ってものが、上のような一般的「侵犯性」を大本とした展開なら、自分も「?」とはいわなかったです。でもこの明日原って、ギャルギャルというわりには、それは「風味ギャル」ですよね。もちろん「ガチギャルとして夜遊びしまくりーの」というキャラ付けをしたら、ゆかいなノラさんたちとの接点がなくなりますが。
 -ーーその「暗がりの世界」との接点を切れていないのが、明日原という少女の弱さであり。これは人間の付き合い、という、非常にやっかいなもので。その「暗がりの世界」に身を寄せていても、心根の健やかさ、やさしさが全然消えていない……いや、それを経て、より強くなっていこうとするのが明日原という少女です。
 ああ、ここにおいても、また「成長」というタームが出てきましたね。このゲームの4人の少女たちは、みなどこかで「成長」するのです。作風がいつも、千日いつもあほばっかり言っている調子ですから、いつまでたっても成長はないのかと思われそうですが、さにあらず。

 でもあんまり語ることがないですね、この明日原ルートにおいては。そもそものギャル属性が、表層的な「〇〇じゃないっすかー」的な語法を完全としながらも、しかし本質的には真面目というかハメを外さない堅実さがあり、シナリオ展開もフリーダムに無軌道中田氏せっくすよりも……いやまあ、いつでもフルアーマーコンドーム体現真面目少女みたいな未知パイな感じでもないのですが、それでも大筋、「薄暗がりの世界が近くても、きちんと真面目にやってく」的な非ギャル性のルートでしたんで……

とはいいつつも、どことなくこのルートのヤンキーっぽさにはちょい閉口した自分でもあります。マイルドヤンキーなどという一時期はやったネットワードを繰り出すのは好みでありませんし、そもそもノラさんたちのある種のヤンキー性は……

 うん、そこ語ってみましょうか。どうもこのゲームをやってて、どことなく感じたのが、オタク的無菌な世界ではなくて、リアルとどこか地続きのヤンキー性であったのですね。それは明日原ルートと、未知パイルートにおいて個人的には顕著でありました。
 フレイバー(香り)程度のものなんですけどね。ただ、メメントモリ的「現実を忘れるな」というか「うっとおしい現実」というか。このゲームがどこまでもメタファーを重視する以上、その母体たるリアルというものを丹念に描く必要はどこまでもあって、それがない限り、隠喩で隠喩を表現するっちゅう、この物語全体が世界から遊離してしまう「二重メタファーの戯れ」になってまうから、リアルへの漸近はもちろん必須です。リアルとメタファーは必ず一対一の連理な距離感でないと。
 ただなぁ……それでも、個人的にヤンキー性を云々するのは、自分の屈託なのでしょう。リア充性、というと、近くはあるのですが、それでもなんというかこう……もやもやしてますね。言語化が非常に難しく、デリケートで、自分もヤンキーとかいうことばで片づけるのはどうかとも思います。

 こーいうことを言うと、おまいは学歴至上主義者とか、リアルな反逆ロック(パンク)を愛好してるわりには安全圏からかよっ的なというか、ヤンキー差別かよとか、いろいろ反発はくらうわけですが。Tha blue herbのストリート日本語ラップがひしひしと好きとか言えないよなぁ。
 そもそも、この地べた感覚というものは、このライタ・はとの場合とことんまでするのであって、それはノラさんが猫そのものになって、猫コミュのワイルドネスに同化することが、ルート中ほどまで結構尺を割いてることからも。

 ヤンキー性ってなんでしょうね。それが半分くらい同じことを指してるのが、このゲームいうとこの「野良猫ハート」なんでしょうけど。野良であること。自由であること、束縛されないこと、弱き立場からいつもいること……うーん、ほとんど自分が愛するパンク・ロック(パンクス)の主張である。the clashはこの百合者残響の青春のヒーローでした。考えたらこのパンクロッカーというものは、自分が「えらくなるのを拒否」する傾向がありました。それを失ってはおれはおれでなくなる。

 だから、この「ヤンキーっぽさが嫌い」っていうのは、過去のおれに対するある程度の背信なんですよね。そして、はと氏は開けた世界……「ヤンキーっぽさも含めた、こっちの自由な世界」を選んでいるわけです。
だから……

 

●黒木ルート

(つづき)わたしもわたしで、黒木ママンが大っ嫌いですが、それもそれで同族嫌悪なのかなぁとか思ったり。学歴至上主義、学歴/知性あらざるモノは人にあらず、あれは人の形をした野蛮人であり、カテゴリーが違うのよ未知ちゃん、目をそらしなさい、あんな世界にいちゃだめなのよ……
でも、考えてみれば、これほど意識するのも、黒木ママンがすっげえこっちの開けた世界というものの輝きに目をそらせないってことでもあります。ラストのところで、……これで黒木ママンを許すことも出来ないですが、それでも反田家の輝きに嫉妬していたことを認めます。

黒木ママンって、最後に至っても「完璧な主人公マンセーな形での和解」ってしてませんよね。ノラさんにもいいところがあって、それを認めて、自分も一歩一歩成長していこうという意思が芽生え。ただ、それでもって黒木ママンもまた、「開けた世界」で大人として……まだ大人じゃねえな。でも、一人の人間として生きていこうとしてるわけです。
知らん世界を拒絶すれば、楽ではありますけどねー。この世界がとことんまで閉塞が増しているのは、ひとつにはこの「決めつけ」っていうのがあります。アレはもう堕ちた存在なのだからばっちいのだから、触れたらだめよ未知ちゃん。あなたは「未知」であり、それはいろんな善き可能性に対する「未知(まっしろ)」であるのだから、キレイキレイなものだけを見ていればいいのよ未知ちゃん、あなたは「未知(いまだしらず)」であるのだから、栄養になるものだけを摂取していればいいのよ未知ちゃん……ああ、息苦しいぞオイ

母性はひとつの病であると誰か心理学者がいったような。ましてや一人っ子というものも一つの病であり、マザコン共依存的病理と重なったら……そしてヒステリーやいい子シンドロームやクソ真面目とかと重なったら、もう数え役満じゃないっすかもう逃げ出したいよおれ。
でもこういう家庭、どんどん増えてるんですよねー。上で書いたヤンキー/開けた世界、的ワイルドネスな反田家ライクな家庭でも、それも一歩間違えれば、悲惨な運命になります。それがいわゆる「堕ちたヤンキーの文化資本のなさ、貧困スパイラル」みたいなものであり、「クズどもの悪しき連帯」というふうに、権威側(エスタブリッシュメント)からは見えるのでしょう。一歩間違えなかったのは、反田母の抜群のバランス感覚ですが、このバランス感覚というのは、黒木ママンに一番欠けてるもんであり、この閉塞しつつある世界に一番欠けてるものです。これほど、得難いものはありません。

なんだか暗くなってきたので、黒木未知ちゃんそのものについて語ります。っていうかここまでママンのことしか語ってねーじゃねえかっ!w

 黒木ですが、クソ真面目ですよね。でも、彼女自身その真面目さにどこか自分自身胡散臭いものを感じていたのは、この真面目さが「何にも接続してない」ってことを自覚してたからでしょう。接続とは? ありていに言えば、「自分の学力、真面目さはなにを得るためか」っていうのを精査してない……もっと簡単に、そしてクリティカルにいえば「夢がない」ってことです。
 夢を持っていない。黒木にとって、勉強は「しなければならない」ものでしたが、その「せねば」的感覚とは、結局のところ、奥底には「ヤンキー的悲惨になってはいけない」ということの刷り込みがあって、これはママンの呪いといってもいいでしょう。黒木自身は、ヤンキー的な自由さを愛していますが、それでもヤンキー的自由さに身を投じることが出来ません。
そこから「いついつ出やる」が黒木にとっての成長なのですが……。

勉強というか、勉学というか。これって、「夢」が最初にありき、なんですよね。勉強して得るものっていったら、基本的には「この世の成り立ち」なんですけど。語学、文学、社会学、数学、自然科学……。例えば、創作とか書くようになると、この「学校で得る知識」っていうのは、無限のネタの宝庫なんですよね。数学がうまく出来なくても、論理展開とか、もっといえば数学そのものを知らんでも、「いくぞ……決闘術式展開【エヴァリスト・ガロアの見た夢】!ーー僕にはもう時間がないんだ!」とかいう具合に、いらん数学史の小ネタでも、無限に中2妄想のネタにできるじゃないですかー。そいから、大学でドイツ語を第二外国語として専攻しようとしたひとたちの半数はやっぱり中二病だろう。実際。

これも、創作展開、というひとつの「夢」があったならば、無味乾燥といわれる勉強も、そのひと個人と、そのひとが紡いでいく世界に、無限に接続できるっていう証です。くだらない、と笑うならば、やはり「自分から進んで勉強していった」ひとたちも、同じようにくだらなかったのでしょう。

 

●パトルート

そういう意味で、勉強とは……いま、「夢に接続するため」って書きましたが、でもその夢も、もとをただせば、何かを知っていくこと、それを自分流に表現していくこと、創作していくこと、が楽しいからでした。ただ楽しい。世界に自分が存在してるだけで楽しい、幼年期の喜び。世界における二義性をいちいち考えるまでもなく、「ああそういうものなんだな」って率直に享受して、知って表現して創作していたあのころ。

パトルートの最大の美点は、パトがこの世を勉強していくことの、
「真っ白な感性が世界の豊饒を知っていくこと」
「一流の、しかしうちらのとはまた違ったタイプの知性が、比較文化人類学的にこの世を理解していくこと」
「それによって表現される、この生きた世界がどれだけ開けた世界であるか」
 レヴィ・ストロースの方面から語るのは、しばらくおいておいて、ここはパトにならって、自分の考えた思考で持って話をしましょう。

 メタファーとは何でしょうか。万物は、「そこにあるもの」だけで語りつくせないものなのでしょうか。少なくとも、類比(アナロジー)でもって、「〇〇は××としても語れるんじゃないか?」と推察していき、この世のいろんなつながりを理解していく。それが「知的活動」です。初歩、と書きそうになりましたが、しかしこの知的な類比は、高等な領域においても同じです。例えば最近自分がプレイしているエスペラント語百合ゲーにおいても……(皆さん、ことのはアムリラートのユリアーモ勉強攻略、進んでますか?)

 メタファーは、意外なところで意外なものと突き当ったりします。この作品のノラさんたちの世界では、万物がメタファーとなります。食卓のきゅうりであっても、そこにあけすけの感謝を見ます。豊饒なる海であっても、砂であっても、それが即座に生死になります。桜が咲いていることの生命性であったり。

 それに比してみれば、死者の世界、冥界は、なんだか世界が一義的に見えます。あまり深みがない、というか。もちろん、これは我らが生の世界との対比で、この生の世界(キャラたちがキャッキャする世界)がどれだけ美しいか。キャラのキャッキャウフフがどれだけ生の魅力にあふれているか、の対比であります。時間性が止まった冥界と、時間性が移り行くからこそ美しく騒がしい生の世界。

 この二つの分たれた世界で、それぞれの常識は違います。言葉……言葉の意味性も違う。エロ本がエロ本として通じない世界ですからねぇ。二つの世界をつなげるのが、言葉でありました。正確には言葉の伝達機能(コンスタティヴ)と、うまく言葉の意味が伝達出来なかったけどメタファーが通じているということと。(これはパフォーマティヴに収まるものなのだろうか? むしろシニフィアンが通じている、としたほうが正しいと思う)
 我々の世界はいやに複雑になってしまってます。社畜という言葉が隠喩でなくてなんだか直喩な自虐になって、おれたちは本当に家畜なんじゃないかってマジ省察してるあたり、結構ヤバいです。
 しかしパトの見る世界は、常に豊潤で、豊かです。幼さ、とはある意味で能力なのでしょう。パトは冥界で一番の魔法の使い手でしたが、その根幹にあるのは、幼児的呑み込み(吸収)の速さ。そして世界に対するセンスのまっしろさ。

 我々はパトの見方を、とりあえずはギャグ的、もしくはユーモア的に新鮮なもの、として視ます。ところが、その新鮮で珍奇、と思っていたパトの見方のほうが、やがてとんでもなくこの世の真実を言い当てていて、自分たちのほうがどんだけ日常の大愚なる眼鏡でもって世界を見ていたのか、ってことに気づきます。それを気づかせてくれるのが、パトの見るこの世の姿と、我々の日常の常識がずれてるとこにある、メタファー的機能です。

 例えば、黒木の名前は「未知」ですが、これは黒木が全編通して、「未知への探求」をする、ということと、あっけなく繋がっています。あっけらかんとしてるほど。そんな結びつきしていいの?っちゅうくらい作為を感じる以前に、あまりにあっけらかんとした名づけ。でも、これくらいあっけらかんと暴力的なまでに「繋がってる」のがメタファーです。意味性というものです。
信じるものだけがメタファーの後ろ側の真実を見るのです。それを笑わないものだけが。

 後ろ側の真実を知る……というのが、この作品のどこまでテーマなのかといったら怪しいです。結局、この世界の設定を、設定資料集、静的テキストな学究的に知られることってないですから。でも、その学究的に知ることがbe able to可能だったら、「知る」ことになるのだ、というのも、また一面の偏狭な見方でしょう。
 むしろ、知る、ということの古代的意味……しる、の「手に入れる」とか「相手を思う」とか「理解しよう」「支配しよう」「関係をもとう」という、より今のknowledgeの意味より、深く多義的な意味でもって、「しる」ことのほうが大事でしょう。そう、ノラととは、こういう古語の引用が多いばかりか、その世界認識の哲学的下地は、古語・古代のセンスにとても近しい。というかそのまんまであります。

そういう古代語と現代メタファーでもって見る、この世の後ろ側の真実とは、一義的に決められないものであります。むしろキャラたちの「行動」でもって見るしかない。物語を生きるしかないんだ!
我々はパトのおっぱいでもって何かを考えてしまいます。シャチの豊満なおっぱいに精液が降りかかることですでにスプラッシュの海、潮騒的意味さえ考えてしまうように。そう、我々はつねにあほなので、余計なことを考えてしまいます。
その余計なことがそれだけで万歳なんだ!とするのが幼いパトです。もちろんそこにつねに上品さがあるから、「うんこー!」という餓鬼とはまた違ったところです。
そういうふうにして、余計な道草をいっぱいしながら、ノラととは我々を考えさせてしまいます。そのやりかたがあんまり率直で、シンプルで、「はいどーぞ、どう思う?」ってな感じでひょいひょい、っと簡単に投げかけるから、こっちは得てして「あほか!」と思ってしまうのですが、しかし本質とはそれくらいあほなものだったりするのかもしれません。社畜談義にしてもね。

ということで、いろいろ書きましたが、このノラととにおける「はいどーぞ」をいちいち並べ立てていって、それに対して「こう思ったよ!」をするのも楽しくはあるのですが、ここまででもう17000字書いちゃってるからねえ。ということで、残りちょっとだけ、「月と大地」についてちょいと。

 月は孤独である。野良猫もある程度孤独といったら同じだろう。そしてこのヒロインズが野良猫である以上、孤独の美しさを保っているのである。少なくともヒロインズは「このままでよくはない」と、安寧なる日常に自分を浸し切ることをどっかでNOといっとる。パンクである。そして、それ以上に「抗う」っていう精神性だけじゃなく、ただ端的にイノセンスのゆえに美しいのである。
そして月は美しいのである。パトは月を象徴しているヒロインであり(BGMを見てみよう)、月は美しく、怜悧で、冷ややかで、優しい光を放っている。はて、ノラさんは太陽だったのだろうか。上のノラさん論で言ったら、結果的にはそうなる。パトはノラを太陽として視ている。
 ……でも、個人的にはそんなにギラギラした奴だったかいなノラさんは?と思う。むしろ、大地のほうに近くないだろうか。豊饒なる世界を育む大地……「大地」なる言葉が男性的なイメージをたたえているのは、わたしはいつもは「えー」と思いガチではあるが、ここではOKだ。結局、パトはノラさんに暖かく抱き留められた。同時に、ノラさんの「野良猫的に飢えた心の一部」は、地上ととくに関係のない月の光によって、癒されて再構築できた。ノラさんがネ!コ!になれたのは再構築の一端でしかない。ちゅうか、この作品のキャラたちはイノセンスであると同時にやたら老成してる(ちょい諦め気味である=それ故に抗いたくなる)っていうのは上で書いたけど、この「それ故に抗いたくなる」というのも、また「生まれ変わり」である。黒木の母親殺しであると同時に、冥界探訪であるのと同じように。
 ノラさんは太陽というよりは……その太陽っていうのは、もはやこの世にいないノラ母のことだったのだと思う。その恵みを受けて、その子として不器用に生きたのがノラさんであります。太陽の恵みは大地の健やかさとイコールで結んでしまえ。そういう「この世」のあったかさをノラさんは体現しています。そーして、ノラさんは孤独ではありませんでした。ノラさんも苦労しましたが、愉快なノラさん家族を得ることが出来たのです。
 パトは孤独でありました。もちろん姉さんやユウラシアちゃんを愛しておりましたが、孤独っちゅう言葉がアレなら「孤高」でありました。なんでしょうね、冴えた人の「この先ずーっとこれだろうな」っていう諦めをにっこり受け入れるってのは。ところが、こうしてすべてが違う世界にポーんとbornしてしまったら。すべての価値観がポーんとPONしてしまったら。そう、大地=ノラさんは生まれ変わることを良しとする。大地はどこまでも開けていて、死すらもあっさりとユーモアにしてしまうんだよ、という世界。

 さて。
 黒木ママのことをしつこく言いますが、
 開けた世界とは。
ようするに月の孤独であっても、あるいは明日原や黒木の屈託であっても、ぽーんとそこに存在していて、全部ひっくるめていて、「存在しちまってる」世界であります。そして黒木ママのようなひともいちまってる世界です。あーめんどくせえ。
 もし閉じた世界であったら、わりとすぐ話ってものは終わってしまいます。一番最初にエロゲ業界論で云ったことも、全ては数値化されて、偏差値化させられて、エロスケ偏差値だのTwitterRT数値だので決められる世界です。単略、効率、短絡、時間を短縮! 生産性! 
 やですね。でも、何もかもを良しと……黒木ママでさえも有り、とするというよりは、黒木ママでさえも癒される世界の深さと豊饒さが。いや、自分だいっきらいだよ、黒木ママと明日原昔馴染みのDQN! それでも、そうなる可能性があったとしても、なんかのボタンの掛け違いで、まったく別になりうるってことを。
 まあそれでさえも、自分にとって都合のよい豊饒さを選んでるだけって可能性もあるけどさぁ。しかし、もう許す/許さない、断罪、とかいうリアル世界観とは別のものが欲しいよ。まっとう過ぎる人たちの作る世界だと、自分(残響)が居れてもらえねえ、って思うから、こっちから社会をnot for meしちまうんだっての。そして方丈記のような庵で暮らすのさメーン……。うーん、でも、もうちょっと別のがあるんじゃないのかなぁ、って思うのですよ。
 もっと、束縛のない世界がほしい。それが、何かでちょっとでも例示されていたら……たとえ話(メタファー)されていたら……。ノラととの世界で自分が幻視したのは、それに通じる可能性ってやつでした。
 と同時に、自分は世界とやらと、接続したいし、和解したい。これまで、自分は結構イヤなことがあって、創作の世界=この世の否定、自分だけの幻想世界に閉じこもる、っていう傾向があり、今もあります。この世ってやつが、自分のイヤな意味でカオスで、自分を攻撃する意味で束縛る、っていうのだから嫌なんですよ。
 それでも、野良猫は自分にとっての良い場所を探します。たぶんそこなんだろなー、と思ったりします。最初のエロゲ業界論で「愛」とか「熱」っていいましたが、

>結局このシーン全体の熱に対する、様々の作品に対する屈折せし味わい分けを「やっていくか」っていうことかと。全体のエロゲの動向がどうこう、っていう話じゃなくて。実地でエロゲマをやってくっていうこと。
 
まー大したことない結論ですが結局これかいっっていう感じ。この世には結構(このノラととやエロスケレビューを含め)熱ってものはあるし、そんで、逆算してどっかでこの世に対する「愛」ってものを芽生えさせるには、全体がどーこーっていうスコラ神学じゃなくて、実地で生きてって、時に月をしっかり見て、メタファーを感じ取って……それはじぶんだけのものでもいいや。自分を生かすことが出来たらいいんや。そんでもってどっかで熱だの愛だのを灯らせて、生きていって。いつかは自分でも、熱とは愛だのを自然に作り出すことが出来たらいいなぁ、って話。うぉーっ!やったぜーっ!おれはこの極東ロシアの修道院を出ていくんやーっ! あ、今週の生ゴミ出してからねっ!

 


●以下余談なメモ、自分が「月と大地」以外でなんかいいなー、と思ったメタファーメモ


メタファーはなんのために→直喩では伝えられない/恥ずかしい/直喩では逆に難しい……→母子のように、愛のように、恋いのように、セックスの魔法のように、世界のように、未知の世界のように


その結びつきは変。変なところで意味が通じる隘路→そう、黒木「未知」というヒロインがいて、テーマがほかのルートで「未知への探求」だったりするように。
それはバタフライエフェクト? 信じるものだけがメタファーの後ろの真実をみる


メタファーはいやにやたら「具体的」だ。なぜならその表現じたいが本質であり、具体であり、創作である。個人がみたものをそのまま表現するっちゅうそれは森羅万象の真名であり、ひとがみる世界の真相なのである。


パトは何も知らないからこの物語で一番幼い。幼さという立場は、野良猫たちの童心をいやまして補足する形での対立比喩である
光輝かせる……童心を、補足させる、童心を。そしてヒネタ童心を、こうあるべきだと諭してすらいる


知るということがテーマ
知る、ということは、手に入れるということであり、相手を思うことであり。理解しようという心であり、それは尊いのであり、それゆえに……
……などなど、こうした「おれはこう思った」の多義性がメタファーである……がゆえに、評価がブレる
確定的でない
いやむしろ、このメタファーというものはそもそも論的に「考えさせる」ことと目する


万物はメタファーだ
でも恋そのものは、本質のどきどき(ハート)は、パラフレーズできない。したとしても結局ハートそのものをいってるだけにすぎない
こうして、旗からみたら恋のノロケ、本人には大真面目な探求、という構図が成り立つ。しかし周りは恋の本質をどれだけ知っているのだろうか。大まじめにしていても、どれだけ本質から軽やかにズレていて愛しいのだろうか


音楽(BGM)
あるいはこのレトロジャズっぽさとクラシックぽさは、どこかで「時間軸と崇高性の転倒」ではないだろうか。そして様々に各BGMでパラフレーズするメロ(アレンジ)はメタファー(世界の豊穣=同じメロディが、しかしこんだけいっぱいあるよ)ではないだろうか


世界の豊穣、とはシャチでいったが、より世界そのものをまなざしているのはパト
シャチは世界を観測して、その豊穣を数字で表す。パトはぶつかっていって世界の豊穣を「しる」「みる」「知覚する」
知覚するは地核が近くあることを知覚し、地核を包む地殻は大変近くて……という程度のつながりでしかないのだけど、一つ近くみればそれは結構本質的であり。愛という言葉なんぞを持ち出したらそれは言葉遊びだけでは足りないことは和歌が証明している。


和歌の歴史
恋を表すのは和歌であった。万葉集。その前には催馬楽。これから引いてみれば、古代人にとってメタファーとは万象そのものであった。
この物語のどことなく知的さの欠如は、ある意味で「万葉ぶり」といえないだろうか。そう、ノラととは構造的にクレバーなのかあほなのかわからない。

「ところで、王朝貴族が、催馬楽を歌うようなのどかな気分を喪失し、声の伝承が途絶えて文字と譜ばかりで伝えられるものとなって程なく、催馬楽は、その雅俗混合あるいは京(みやこ)の洗練と鄙(ひな)の古拙とが綯(な)い混ざり、性愛を開放した歌垣歌謡風のものも多い不思議な歌詞の世界に、解釈が施される時代に入った。」
木村紀子『催馬楽』より


文学とはなんだろうか。楽しむだけではだめなのだろうか。
それは営みとして、言葉にならないものを言葉で表す営為である。鋭意とはいえない。あほかもしれない。でも言葉はなんらかの手がかりを残す。言葉はこの世のすべてを表してはいないまでも、一部は確かに鮮烈に表しているのだから。母親が子供を理解するように。どこかでマザコンの呪い的にゆがみがぶちこまれてクレイジーになるように。これは隠喩なのか?直喩なのか?


世界の豊穣をうたはうたう。文学はうたう。滅びの世界が、滅びの世界として色鮮やかに事細かく描かれなかったノラととは、はと氏の限界だろうか。そうかもしれない。でも、はと氏はとにかく世界の鮮やかさと恋の鮮やかさと、約束の神聖さを描きたかったんだ


パトのかわいさとは、一生懸命さである。はじめは知識、そしてそれは知恵へと至り、恋を経て愛に至る。きっとノラとと2では子供が出来るに違いない(どうなることやら
高貴さの墜ちる、ということはその魅力をたたえたままで(ある意味でくっころの要素は姉さんがもってる)、甘く墜ちる。幼児化にも意味がある。


姉さんとユウのせっくす墜ちるは必須だったのだろうか。別にこれはなくてもよかった。あまりにメタファー処理がたくみだから、ついいらんものも引き寄せて描いてしまった。これは作品を、物質的(エロゲ的)には豊穣にしても、パト×ノラさんの物語としては、一本筋をバラけさせてしまうと思わせてしまうおれはね。百合おただからね。


シャチ。ツリ眼と余裕と豊満。シャチの豊満はそのままであるが、パトの豊満は、命につながるものではないのだろうか。ここもメタファー処理のエロゲ的ええかげんである。パトがよりスレンダーで弱々しい外見だったら……アリだな(おい!


こんな読み解きも、おれのおれによるおれメモであるにすぎない。でもそれでいい。おれはこのゲームが結構好きだ。ゆかいなこいつらが好きだ。イチャは一級品だが、それ以上にメタファーが好きだ。こんなもん純文学的深読みにすぎない。でもそれに耐えうるテキスト/テクストというものがこの世にあって、よく思えたのだからそれはそれでええではないか。


月。
太陽は、あまりに熱い。暴力的にそのもの、はやく。傷つける。だから太陽は光となって、ノラととワールドを照らす。母が太陽だとしたら、そんなふうに照らしてくれることこそがありがたい、というふうにもとれる。ノラ母は、それをした。クソ黒木ママはそれができん。冥界の母もいまいちだ。

対し、月とは孤独である。
このヒロインズも皆……。そして美しいのである。
パトは月のヒロインであり、月は美しく、怜悧で、冷ややかで、優しい。
ノラは太陽だったのだろうか。上のノラさん論でいったら、けっかてきにはそうなる。パトはそれに寄り添う心を決めている。
月といったらシャチもだ。外見もキャラ立ちもまさにだ。銀髪バンザイ
黒木は?どうしようもなくしょっぱく、けれどまじめなとこもまさに。
明日原もそういう路線で考えるのだろうか(メモはここで途切れている