残響の足りない部屋

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自己満足のごっこ遊び---報酬と互酬性、目的と行動、宇宙と臨終ぷるぷる、幸福と作品、そして王国

仔月さんのノベルゲーム/小説読解ブログ「雑記帳」を読んで、あるひとつの観点から、自分がここのところでようやく見出した話について、ちょっと書きたく思います。

submoon01.hatenablog.com

 

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●自己満足のごっこ遊び---報酬と互酬性、目的と行動、宇宙と臨終ぷるぷる、幸福と作品、そして王国

 


アリストテレスは人間の行動を、「目的を達成するための動作」と定義しました。卑近に例えれば、「切符を買う(行動)のは電車に乗るため(目的)」、というやつです。

では、一気に飛躍して、人間が抱く最終的な目的は何か? だって、こんなもん、行動に対する「目的」はどんどん妄想的に連想ゲームで辿れちゃうわけです。電車に乗るのは目的地に着くため、目的地に着くのは本を買うため、本を買うのは知識を得るため、知識を得るのは……以下ループ。
 例えば「知識を得るのが、読書する目的なんだ!」って定義したとして。でも、これ「知識を得ても、結局人生に役に立たなかったな……」という実人生からのカウンターパンチ食らえば、結局読書の価値が、その人においては無くなってしまう、ってのがあります。「本の虫の末路」ってやつで。


 どうすればいいのか。本を読まなければいいのか。違う。
 「ただ本を読むのが、たのしい(自己満足)。←それだけで良い」


 アリストテレスは、「それ自体が目的になっている行動」というものこそが、「何かの目的を達成するための行動」なんかよりも、すごい価値がある、としました。
 では、「それ自体が目的となっている行動」とは何か?というと、「とりたてて実生活には役に立たないけど、自分を幸福にする行動」です。作詩、作曲、絵画、舞踊、工作、etc...
 それを、あるひとは自己満足と揶揄し「趣味」と呼びます。しかしある人は自己満足を誇り高く「趣味!」と断言します。ウィトゲンシュタインは「幸福に生きよ!」と言い放ちました。仔月さんの読んだ「しろくまベルスターズ♪」のサンタとトナカイは、(互酬性※を放棄した)「他者の幸福を増進させる」ことをしました。そして「神聖にして侵すべからず」の「王国」は、幸福のリレーを「始めた」わけです。

※互酬性……お互いに報酬を与え合って、●●をしましょう!という契約。俗に言えば「なんかやってやるから、なんかよこせ」論理

 

 自己満足です。他者から、報われること(報酬)など期待はしない。すでに自分は「アレをしたんだから、自分はすでに受け取っているよ」と満足した態度です。まさに自己満足です。
 そうです、残響は、この境地に憧れています。つい、他者の反応を気にしてしまう自分。そんな自分という存在が、こうして言語化出来てるから、この意識そのものから引き剥がそうとして、さらに言葉を紡ぐ。意識を研ぎ澄まして、自己満足に浸ろうとする。甲斐あって、少しは出来るようにはなった。けれども、そんな時点でまだまだという(というか大差ない)。


 何かを残さないと意味はないのでしょうか。この世界に。社会に。世間に。Twitterのアカウント諸氏に(解像度のレベルを上げていっています)
 いえ、何を残したところで、結局「消え」ます。宇宙レベルでは。人間の文明が滅ぶのは100%です。わたくしポストアポカリプスものの物語の読み過ぎなのか、最近、自分が生きてる2000年代のいつかには、太陽がドカンといって、世界戦争以前に、地球がヤバめになるんじゃないか、っていう妄想をするようになってる自分です。そのためには、アウトドアスキルを磨かねばならない……!と、この春からソロキャンプを始めようとしています。寝袋とマットはすでに買った。ランタンも手に入れた。次はテントだ……キャンプ地もすでに4箇所見ている……!


 ともかく、宇宙レベルでは、すべての人間の行ったことは、100%無になります。宇宙は消滅しますし、その前に作品の観測者たる人類も滅びますし……。どんなに傑作をつくったところで、どんなに金を、いいね!を稼いだところで、すべて無くなります。科学的にこれは、100%です。それがラストな以上、あとは「早いか遅いか」しかないのです。
 宇宙はすぐには滅ばない? いえ、人間……個々人。これを読んでる貴方、何より「わたし」が滅びます。自殺という話ではなく、この100年以内に、自分の肉体は朽ちます。死にます。よしんば電子脳髄とかAIとかサイバネとかで延命できたとしても、それは宇宙レベルでは「早いか遅いか」でしかないことは、すでに言いました。作品の優劣や、金銭やいいね!の多寡を判断できる「わたし」という観測者(自我)が居なくなる、ということ。


「そんなのはいやだ!」とする人が多いからこそ、今の世の中がこのような仕組みで回ってるのだ、と思うのです。保険とか老人ホームとか。
 一方自分は、人生のラストでは(自殺じゃなく)、

 どこぞでキャンプして、夜の星空を見ながら「ああ、綺麗だなぁ。でも自分の妄想世界もなかなか良いなぁ」とぼんやり思いながら、誰にも褒められることなく、いいね!ももらうことなく、ひとりぼっちで三途の川に佇みながら、静かに完全なる野垂れ死にをすること

が、こころからの目標です。素晴らしい死に方だと、今から待ち遠しいです(本気)

 何も残さなくても、残せなくても、良い。死ぬのが……明日あさって、っていうのはちょっと困るけど……例えば2年後だとされても、まあ取り立てて狂うほどオカシくなったりはしない。むしろ臨終の時が判ってるのだったら、今言った三途の川キャンプに向けて準備を整えていく。これが、自分の考えです。ていうか、今リアルソロキャンの準備をしてるのも、完全にやがてくる臨終のための一環そのものですw 楽しんでいくぜ!


 ですが、多くの人はここで思考のバグが起こるのだと思います。残さない(don't)、残せない(can't)。そんなのはイヤだ、と。いやまあ、三途の川キャンプはあくまで「自分にとってすげぇ良い臨終」というのであって、誰もに勧められるものではないですし。
 それでも、皆さん、死にますからね。宇宙レベルで言えば誤差で。


 「世界に対して刻み込むべき、人生をかけて創った作品」がないと「世界に対して恥ずかしいっ!自分は何者でもなかった……」という思考そのものが、オカシい、と自分は思うようになりました。いまは。
 じゃあ例え、才能あるあなたにそんな作品があったとして。世界最高の高みに立った作品を創ったとして。いいね!ランキングの世界頂点に立ったとして。
 でもこれ、そんな他者評価、「更新」されませんか?
 死ぬ間際になって、臨終間際の老衰で手や足がプルプルしてロクに動かせなくなって、全身に管をブッ刺されて。そんな時に「もっとすごい世界最高の高みにたった作品」が出たり、いいね!ランキングが貴方よりも15ポインツくらい多いいいね!をカウントして、貴方が二番になった、ってなったら。そのとき、あなた老衰で手や足がプルプルしている状態で、何が出来ますか?
 逆に言えば、手や足がプルプルして「作品を、世界に対して形作れなくなって」も、それでも自分が幸せで居られるのは、何か。


 やっと話が戻ってこれます。
 これこそ、「互酬性(報酬の期待)の放棄」です。他人から何かをもらうこと……承認欲求であったり、いいね!であったり、他人の笑顔であったり。あるいは、自分が他人に期待するなんやかやであったり。それを、放棄する。
 たとえ自分が、指先ひとつなかなか動かせなくて、ぼやけた目と、なかなか聞こえない耳しか持っていなくて。外部出力がとことん、しにくくて。それでも幸せと思えるのは。
 世界は、こういう風になった自分に、とくに報酬は与えてくれません。指が動かない、目が見えないのだったら、モノは作れない。モノが作れないというのは、世界に対して自分を刻むことが出来ない。つまり人類の歴史に対して……社会に対して…………ぐぁぁ…………

 


 ああ、もう。
 だから、もう、いいんですって。
 例え、そういう風になったとしても、あなたが生きていれば、貴方の心は死んでないじゃないですか。
 とくにモノが(物理的に)作れなくなっても、いいじゃないですか。これ、へっぽこモデラたるこの残響が言ってるんですからね。


 死に際で、夜空に星空を見ることが出来た幸運と、
 死に際であったも在るであろう、内的世界の豊潤があれば。
 それで良いのではないか、と自分では思っています。
 とくに後者ですね。「ただ自分が、掘り下げていけば、それだけでたのしい、自分の内的世界」。死ぬまで妄想しましょうぜ!

 


 それでいい、と思う。妄想するのが、人間だ、と。で、こういうところを基準点にすれば、互酬性(報酬の期待)っていうのは、「別に放棄してもいいな」って自分は思えるんですけど、どうでしょうか。どうせ、社会や世界の「いいね!」は、こういう風になったら、認識も出来なくなるんです。だったら。


 でも、ひとつ問題を置き去りにしてます。互酬性を放棄するメリットはわかった。そんで、自己満足のループをすればいいのもわかった。でも、そんな自己満足の最初(発端)には、どうやってたどりつけばいいのだ?
  


 これは、自分も今、必死こいて考えているとこです。
 ただ言えるのは、こういう自己満足の満ち足りた光は、たぶん「作れる間、毎日自己満足して作っている」ことで、自信の光を「作っていく」ほかは、本当になくて。
 

 自分も期待してるんですけどね、もっとすごい「自信の光」が、どこかからピャーっとスポットライト的に来て、自分をごそっと変えてくれる、っていうの。
 でも、それ、3~4年くらい期待して頑張ったんだけど、来なかったっすね。ていうか、この時点ですでに自分自身が「世界」に光な報酬を「期待」してんじゃねえか、とw ギャフン
 本当に、「自分は自分がつくる」以外にないんだなぁ、と。だから禅では、それを毎日の修行、と位置づけたんでしょうし。人生は作品だ、と。誰かが、一気に変えてはくんない。自分が、少しずつ作って、自分で変えていく他はない。本当にない。
 

 でも、その発端はどこにあるのよっ!?
 そこで、「幸福のリレー/王国はどのようにして広がるのか」について。
 
 仔月さんは、王国が広がるのは、「ごっこ遊び」に支えられているからだ、とします。
 そして、具体的な形を持たないからこそ、遠くに広がりうるのだ、と。
 人々の心。信仰
 
 そうです、以上で自分が述べてきたのは、結局残響という人間の信仰なんです。信仰だから、一気に宇宙レベルの話(極論)や、臨終プルプル世界断絶(極論)を持ち出しました。そして信仰だから、「まあ実際に以上のようになっても、自分に関していえば大丈夫なんじゃなかろうか」っていう話をしています。自分の信仰だから、他人に対して強制は絶対にしません。ていうか自分がこの世で一番嫌いなのは、宗教信仰の強制なんだ……。
 
 信仰していれば、その人は救われるのか? 
 うーん、それはどうでしょうね。それこそ「●●をやれば、あなたは救われる」「●●をやんなかったから救われなかった!●●のせいだ!」っていうの、完全に互酬性に囚われてるやん?って話です。

 
 個人の信仰は、見返りを期待しない。
 それを、表現によっては「妄執」と呼ぶのかもしれません。

 でも、「ヤバイくらい他人に迷惑をかけていない」前提なら、個人が信仰により幸福である自己満足は、それでいいんじゃないか?と。
 というか、それくらい満たされている人だったら、「すいません、あなたの信仰、我々にとっては迷惑なんです……」と言われたら、すぐに「あっすいません、じゃあ一人になります。これまでごめんなさいでした」って言って、どこぞへ消えると思うんですよ。わたくしだって同じように言われたら、絶対同じようにスーパーカブにキャンプ道具詰めて、どっかに行くな……。

 

 で、「ごっこ遊び」
 ここで書いているようなことは、いきなり全部極められるようなもんでもないですし、出来るはずもなく、今自分も四苦八苦してるんです。
 だからこそ、何を指針とするかっていうと、「すでに自己満足が出来てる人」を参考にしてみる、っていうか。それこそ、「王国(なるもの)」を、自分に即して、ごっこ遊びですよ。
 というか、それほど素晴らしい自己満足の王国っていうのは、ついつい真似して、ごっこ遊びしてみたくなるもんですし。少なくとも、ごっこ遊びの亜流でも、「王国のごっこ遊び(臣民)をしてみた記憶」っていうのは、臨終のときに、きっと自分を支えてくれる記憶になる、って思うのですよ。

 

 王国とは。
 「ごっこ」が出来る、ってことは、ひとつの「王国のかたち」「王国的ななにか」「王国なるもの」があるわけです。それはちょこっとの具体的な証と、深い精神性。うまく具現化は出来ないけど、臣民であれば「アレだ!」と即座に判断できる、アレ。
 それがあれば、臨終のときでも、笑っていられる。
 でも、王国は、日々不断の努力でつくっていかねば……あ、違う。やばい。この時点で、まだまだですわー。王国を日々つくっていくのも、また自己満足のたのしみであるのです。王国を臣民している、それだけでたのしい。それが、境地かと思います。
 そんな人間であれたらなぁ、と思うのですよ。
 そうすれば、きっと死ぬときも後悔せんで済む。

 

 この数年、「死ぬ時に後悔せんでおこう」という基準を設けて、いろいろ活動してまいりました。でもそんな「死よりの思考」、並びに「勝手なポジ善意の押しつけ」によって、いろんな人に迷惑をかけたのも事実。
 ならば、やはり、
 まず自分の「王国」……妄想世界を、日々たのしく自己満足していくことが、大事だ、という、とーーっても当たり前の結論になりましたがw 

 

 しかし、結局、自分は数年かけて、ようやくここまで考えました。亀の歩みな思考ですが、それでも、この考えにたどり着けてよかった。そんなわけで、春M3に向けてレコーディングしています!新作同人音楽アルバムを!

 

 

※追記

 

ていうか数年前にも自分は同じこと書いてるな……しかし、いまの方が、より深度の確信は深いと思っています

 

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