残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

The Times They are A-changin’--仰木日向「作曲少女2」

(なるべくネタバレなしの感想)

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「作曲少女」「作詞少女」(作曲少女シリーズ)は「作曲入門ラノベ」と銘打ってるだけあって、「実際に作曲をしてみて初めて珠美の言ってる意味が肉体でわかる」という書物です。今ここまで打鍵してみたけど、なんかいやらしい響きがないですか。肉体でわかるって書いてるからあかんのですか。いけませんね。

そう、実際に「手を動かして、耳を澄ませて、実際に作曲」してみて初めてこの本は意味を為す類の本です。読んで「あーわかるわかる」とだけ言ってたら定価1600円プラス増税10%を自らの懐から出した意味はないのです。そればかりかいろはと珠美の会話の真摯さに対してゴロ寝屁するようなものです。だからわたしはやはりこの本を一度通読して、即座にギターを持ってスケール運指を今一度はじめましたさ、このクソ忙しい師走だというに!(とりあえずリフ(小さなメロディ反復)は2個くらい出来た)
なので今回は百合カプ観測の話はやめましょう。コンプレックスを抱える先輩後輩百合の話もやめましょう(したいんか……)。とにかく作曲少女2の話です。


しかし我ながらAmazon着弾と同時に昼休みに読んで、仕事終わって即座にこの文書を打鍵しているのもどうかと思う。が、それだけの熱のある物語で、それはひとえにうぐいす(新キャラ後輩)のコンプレックス……

創作において、人生において、自分の好きなものが無いという人はどうすればいいんですか

というものです。これが強烈です。え、うぐいすたんアナタ楽器吹けるやん、というツッコミには、万葉集1837読み人知らず「山の際にうぐいす鳴きてうち靡く春と思へど雪降りしきぬ」と返しましょう。(意:うぐいす鳴いちょるから春? まさか!あの子の心は降りしきる雪なのよっ!)(誤訳系超意訳)


うぐいすちゃんは相当音楽の知識と技能を持っているけど、オリジナルの発想と、創作物がない、ということがコンプレックスで、さらに「自分の好きなものは何なんだ……ひょっとしたら皆目無いのではないか!?そんな自分は世界に存在価値が……ッ!」と堂々巡りで思い悩んで、このままだと演ってるクラリネットもgo to hellな勢いになりかねない少女でありました。
そこで「その気持ちわかる」「ていうか自分もそうだった」という共感でもってのいろは先輩。しかし直接的に導くことも「嘘だっ!」とわかるだけのコンプレックスを今まで地味に抱えてきたいろはさん。音楽オリジナリティコンプレックスには作曲するしかない、とわかっていながらも、それは水嫌いチャイルドを海に叩き込んで浮かんでこい系のスパルタDVです。「効果がないとはいわんけどさ超リスキー、っていうか自分のメサイアコンプレックス(救ってあげたい症候群)のマスタベイションに近いぜ」ですね。
そこのところで、実際いろは先輩がうぐいす後輩にそっと寄り添ってあげた話は、ネタバレなしのこの感想なので、伏せます。でもこのくだりは、自分は「納得」しましたね。そして自分がこういう「寄り添い」のこころに非常に欠けている人間なのに今こうして打鍵していてほとほとうんざりしますね。人の心(後述)。

サブタイ「転調を知って世界が変わる私たちの話」ですが、本作のモチーフはそのままズバリ「転調による楽曲の色彩感覚の変化」ですし、「あの創作できずに息苦しかった私たちの世界が、作曲によって確かに変わったんだ」という話です。
作曲少女シリーズ……というか仰木日向という文章家は、どうにもこの「コンプレックスによる息苦しさ」というものから目をそむけません。それは仰木氏自身がまさに体験してきた負の経験があってからこそ言える説得力の血です。このあたり、「作詞少女」が作品全体でもって斬りつけてくるリアルさがあります。屈折していなければ書けない内容です。本作「2」にしても同じで、うぐいすちゃんの屈託、屈折は、「自分には何もないのではないか?」という痛切な疑念を抱いた人間にしか描けない感情があります。
超単細胞バカは、「その屈折、屈託があるから、素晴らしい芸術が描けるんだヨ!」とノータイムで放言しますが、一発My bloddy Valentineのユーメイドミーリアライズのライヴ轟音パートを耳栓せずに聞いてしんどけ。この虚無感、形がないのにこの「息苦しさ」。これが延々続くのか自分の人生。コンプレックスを抱え続けて苦しいというコンプレックスがずっと続くのか。報わることない労苦背負い日陰に佇むこの私が、天駆ける日は来るだろうか!しくじりばかりのこの私に、満ち足りる日は来るだろか!私の命に光を、私の明日に光を!シャバダバディア!シャバダバディア!シャバダバディア!ババッブッブー!

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中野サンプラザでのyoutubeライヴ配信全部リアタイ見ましたよ。めちゃくちゃよかった……)

 

 

自由になりたい。
このコンプレックスから。手足塞がれたよなこの芋虫みたいな無創作のこの生から。違った世界を見たいのだ、命に灯りをともしたいのだ。自由に表現活動をしたいのだ。
それは「楽に」表現したい、というのではない。
この自分の屈託、屈折、欠落、欠損から目を離さず、あの日の自分を見捨てず裏切らず、その上で自分という人間存在を救ってやりたいのだ。
その答えは自分の中にしかない。人間椅子の和嶋も「深淵」で言っているではないか--「私の喜びがあるのは苦しみのゆえ」と。そしてその意味は自分で苦しんで自分で喜びを掴んで初めて意味がある幸せなんだと。

珠美「あたしの言うことをすべては真に受けるなよ、いろは。あたしの言ってることは、あたしにしか意味がなかったりするんだ。あたしにとってあたしの言葉は全部真に迫るものだけど、実はこれはいろはにとってもそうというわけではない。(中略)それはね、『体験』の有無なんだ。あたしは全部のことを体験してきて、ひしひしと思い知ってきたから、今までみたいなことを頭の中でまとめてきたし、いろはにも言ってきた。けど、体験がない人にとってそれは単なる「よく出来た理屈」であって、自分で使える哲学ではないんだ」(※作曲少女「1」より)

だから珠美は「自ら手を動かして作曲した」いろはに言い、読者にも「自ら手を動かして作曲する」ことを迫る。そうでない読者にとっては、このラノベは「ナイスな楽理×ラノベフュージョンだね」って話です。そんなものが何になる。地上波バラエティ番組のあとの22:55天気予報BGM商業フュージョンか。そうじゃない。「自分の息苦しい世界を変えたい」んだ。他人の世界を変えうるかどうかなんて考えちゃいない。まず自分を救いたいんだ。

必要なのは変えたいという意志、そして「音楽にとって本質でない義務じみた小手先の努力」を回避し、「自分が作曲出来るにあたって必要なちょっとした技術」を最低限学ぶ。その上で、何か表現したいものがあったらラッキーだし、なくてもその「ちょっとした技術」をいじくったり。そしたら何かメロディが生まれるかもしれない。自分がメロディを生むという作業に拒否感がなかったら。(そう、「小手先の義務」を排すのはこのためである。自分もMIDIを書くのを作曲入門初期段階から今まで拒否ったのは……まぁそれで同人CD5枚作れたけど、やっぱMIDI完全なしはキツいかなぁ(汗))
実際、うぐいすは吹奏楽で学んだ知識を、見事に援用してみせた。でもそれも、自分がメロディを作れたんだ!という心からの喜び、心からの自分だけのメロディあってのことです。こうなるとあとは早い。世界にはいろんな「素材」が転がっている。
「お勉強(の強制)」では見えてこなかった、いろんな音の素材……世界は素材だらけだ……
自然の音(アンビエント・フィールドレコーディング)、
工場の音(インダストリアル・メタル)。
肉体の音(声、ダンス、ハンドクラップ)、
楽器の音(あらゆるクラシック楽器、民族楽器、エレキ楽器……)、
パソコンから出る音(MIDIDAWプラグイン)、
生活の音(目覚ましアラームのサンプリング、電子レンジの以下略)、
そして魂そのものが放っている意志……(屈託、屈折、欠落、欠損の叫び……スクリーム、轟音ノイズ、シャウト!)

 

詩文「……本当は、お前と話したいことはまだまだいっぱいあるんだけどな。星の話、海の話、貝殻の話、音楽の話、絵の話。歴史の話。踊りの話、人間の話。神様の話。自然の話。宇宙の話。……けど、ここが潮時だ」

悠「もっと聞かせてよ、そういう話」

詩文「ん?……あはは、それはさ、いつかお前がアタシに聞かせてくれよ。どんな話でもいいからさ」
(作詞少女より)

 


ああ……そうだよなぁ。聞いてくれる人がいるっていうのは奇跡でありありがたいことだよなぁ。この文章は、自分に作曲少女を勧めてくれた人に書いてるものだし、そんな人に対し、ちょっと前に自分は冷めた態度をとってしまったと思っている。そして、その人の友達にもこないだ、自分はバツの悪いタイミングでメサイアコンプレックスのひどいメールを書いているのだ。
時たま、自分が「創作する価値なんてない創作者」だと思うときがある。ふいに差し込んでくる冷や水はまるで冬の空気のように。
自分がやるべきは、まず謝ることなのだ。創作することではない……だから珠美も、最初にまず「自分の制作机を自分の好きなもので埋めるんだ」という極めて「人間として正しい」……「楽しさ」の話をしていたではないか。
そこに天才も凡人もない。少女たちは喫茶店「バードランド」で楽しき作曲を語る。「バード」ことチャーリー・パーカーは天才的に吹きまくって、自分のあだ名がジャズの聖地的なライヴハウスになってしまった(N.Yマンハッタンの「バードランド」)。バードの人生が美しすぎる……なんてこたぁないのは、奴が静脈にテメェで打った麻薬劇薬鎮痛剤覚醒剤の量を勘定するだけでたくさんだ。でも、奴が即興--アドリブ--で刹那に作曲しまくったあまりの輝きは、バード自身をも救っていた。でなければ、チャーリー・パーカーのダイヤル盤の、あの自然で闊達で天を地を高速で飛天滑空する「アレ」はなんだというのだ。


そう、作曲そのものに、天才も凡人もない。「良い作曲で、良い人生を」。アンタの作曲は誰かの人生に奉仕するためにあるんじゃない。思い上がるな。でも、自分が作曲して自分を楽しませることには意味がある。わたしが意味があるっていったらわたしには意味があるんだったら。

そうしてこの小説の中で、少女たちの世界は確かに変わったわけです。よかったね、と言うのだったら、次は自分を良くしてみよう。彼女たちが望むことがあるとしたら、多分そういうことだから、と思うのでありました。さぁ、Reason立ち上げてギター弾いてみよう。Reasonに課金バージョンアップするのはもっと後あと……(ぉぃ)。

 

いろは「こんな風に、気持ちをかたちにして、それを伝える方法がわかった今、もう足りないものなんて何もないから。(中略)今この瞬間だけでも、もう私には出来すぎだって思うから。」(作曲少女2より)