残響の足りない部屋

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職業倫理としてのゴブリンスレイヤー

ゴブリンスレイヤーは辺境都市社会に必要な人材である。だが求められる形は、勇者でもなければ、英雄でもない。王でもなければ、騎士でもない。求められる形、それは実のところは冒険者ですら、ない。
この場合の冒険者、とは「富と名声、そして浪漫(ロマン)を対価として、荒事を解決する便利屋」といったものが、四方世界中世における役回りだ。
そしてゴブリンスレイヤーのやっていること、ゴブリン退治が、「冒険」の名に値しないのは、散々、作中にて妖精弓手が糾弾しているところのものなのだが、本考ではそこのとこをもっと話していきたいと思う。

この記事は、ゴブリン退治の汚濁についてと、ゴブリンスレイヤーを認める人たちを踏まえて、社会整備・職業倫理について語る。

ゴブリン退治に求められているのは、都市における社会インフラの整備である。
ゴブリンは定期的に沸いてくる。とくに訳もなく生まれ、善陣営(プレイヤー)側に迷惑をかける。ゴブリンを退治することは、けして不可能事ではない。レッドドラゴンを殺す(バスター)事に比べれば、ゴブリン退治単体の苦労など、非常に低レベルだ。
だがそれを継続して行っていくことは、これもまた難事であることは、小説本文中において、ゴブリンスレイヤーの数年の営みとして描かれている。
それにしても、「汚濁」に対峙し続けるということは、当たり前のことをここで言うが、とても疲弊するのだ。

どの社会でもゴミは出る。ゴミ処理業者の話をする。
ゴミを出すことは、一般人にとっては、特に問題なく毎週行われることだ。そして、回収業者は各家庭から出たゴミを、毎週2回は回収しなくてはならない。生ゴミは腐敗するからだ。そして、このようにゴミを処理することは、とくに大したことではない。物理的な仕事としての意味合いで。この、人がやりたがらない仕事であるゴミ処理。これを率先して行う者は、家庭でも、社会でも、ありがたい存在である。だが、社会的に「高い価値」のある仕事と、率先して称揚はされていない。下水道管理や浄水槽管理も同じようなものだ。
ゴブリン退治の本質はここにある。社会インフラの整備は誰にとっても大事で、誰もが重要性を訴える。にわか大学生のレポートから、ごみ処理業者に「もっと回収に来い」と促す町内会の議事録まで。だが、率先してゴミ処理業者になろう、という者は少ない。家庭で出る生ごみの処理すら、疎ましく思うのが大半である。


ゴブリン退治においても同じことだ。ゴブリン退治は雑魚狩り。誰にでも出来る。しかし、汚い。見返りは少ない。もっと実入りがあって、もっと「カッコいい」英雄譚がある。誰もが必要としている仕事ながら、汚濁ゆえに、誰もがしたがらない。ようは、汚い仕事の押し付けである。

ゴミが臭いと同じように、ゴブリンは臭い。獣の話をする。
賢明なる読者の方々は、獣が檻に入れられて、刃物や猟銃にて処理される時。とくに獣がいきり立って、泥まみれの上に糞まみれになって檻を体当たりでこじ開けようとしている時の、あの臭いをご存じだろうか。筆者はとある機会があり、こういう場面に出くわしたことがある。凄く意外なことに、ここまでの激臭だと、リアルに「甘い臭い」すら漂ってくるのである。泥、草の臭いと、糞の臭い、獣の臭い。そして死を前にした獣が放つ殺気とタブーのオーラ。それらが混じりあって、異様な「甘い臭い」を感じてしまう。ラディカルナチュラリストは「いのちをだいじに」と言うが、気を抜けばこちらもやられかねない、獣との対峙なのである。緊張は常に抜けない。そして、やがて、血は流れる。その臭いに蝿がたかる。忌まわしい虫が、自分たち人間の頬にも触れる。それを払い……

こういう「獣の処理」に、多少の対価はあれど、社会的意味付けはあれど、「率先して称揚」はされない、という話である。とくに、この臭いにまつわる場面は称揚はされない。

都市というものは、人工なる清潔を尊ぶ。「自然」から、あらゆる手段を用いて、「汚れ」「臭さ」を脱臭したものが、都市なのだ。

そういうあたりの「汚濁にまつわる身体性」という観点からしたら、ゴミ処理は、いつだって都市の中心たりえず、いつも周辺・周縁の位置にある。バッチいから、なるべく遠ざけたく、目に触れたくないのである。

四方世界中世においても、おそらくそうだろう。中世都市とはいえど、その本質が都市の人工の清潔志向である以上、臭いは排斥されなくてはならない。そのレベルは現代の清潔レベルとは低いレベルで段違いといえど。臭さ、汚さ、野蛮、それは都市から排除されなくてはならない。だからこそ、再三ゴブリンスレイヤーの鎧のみすぼらしさは、文中において強調される。あの鎧の描写こそ、ゴブリンスレイヤーが都市において「異物」である証拠だ。


だがそれもおかしな話だ。誰にとっても必要な仕事をしているにも関わらず、ゴミ処理業者の制服や、ゴブリンスレイヤーの鎧が、率先して称揚されることはない。本当は、これは論理的に言っておかしな話なのである。人間にとって、衛生とは非常に大事な事柄だ。そしてその大事なことがらの処理を、わざわざ率先して行ってくれる者を、どうして「汚物として排斥」するような真似をするのだろうか。マルクス社会学的な疎外論に入るとややこしいのでここでは匂わせるに留めるが、しかし人間社会において、どう考えても「大事」な仕事を、その仕事の汚濁性ゆえに排斥する、というこの奇妙(と筆者には思える)構造。大衆社会が清潔志向をするということは、汚濁の存在を「忘れよう」と封殺することでもある。それは、ごみ処理業者やゴブリンスレイヤーのような存在に、汚濁を「押し付ける」ということだ。

かくして、ゴブリンスレイヤーは辺境都市社会に「必要」な存在である。だがそれは、辺境都市社会において「冒険者」としてすら称揚されず、「処理業者」として便利な存在である、という、仕事の押し付けなのである。

ゴブリンスレイヤーのゴブリン退治に、終わりはない。ごみ処理に終わりがないのと同じように。獣が田畑を荒らし、沸いてくるから狩る。その遺体を処理するのと同じだ。終わりがない、という営為は、簡単に人を殺す。持久戦こそが最も過酷な戦である。一時期ゲーミフィケーションという言葉が流行ったが、あれは仕事のタスク管理において「ゴール(達成)」を持ち込んだものだ。短期的であれ長期的であれ、ゲーミフィケーションを導入したならば、仕事のタスクは点数化され、数値化され、その果てにゴールがある。工夫を行い、競争をし、ゲームとして仕事を楽しんでいく。
そして、いわゆる冒険者の「仕事」もまた、非常にゲーム的だ。金やアイテム。それはまさにわかりやすい点数だ。
それに引き換え、ゴブリンスレイヤーの点数化とは、単にゴブリンの殺害数をカウントしているだけ。しかも、「討ちこぼし」がないか、という非常に消極的なものだ。ゴブリンを100匹殺しても、次の1匹がいる以上、その殺し(スレイ)にかからねばならない。

ときに、ブログやweb小説の更新において、ゴールを設定していなく、小説を延々と更新していって疲弊しきって、やめてしまう、というパターンをよく見る。
終わりのないゴブリン殺し、ゴブリンスレイヤーを支えているのは、狂気の妄執だ。彼は、それを昏い悦びとするまでに至ってしまった。ブログやweb小説の「目的なき、終わりなき更新」に疲れるのは、むしろ健全なのかもしれない。ブログやweb小説に取り憑かれ、ゴブリン殺しをするかのように更新していっては、誰も救われない。

役にはたっているが、ほとんどの人は彼に感謝をしなかった。彼はひたすら、己の妄執にのみしたがって、人生を費やそうとしていた。
ところが、彼を認めている人たちがいた。メインキャラたちのことを語ろう。

女神官(弟子と信仰者)

女神官はゴブリンスレイヤーの弟子である。

師匠と弟子、という関係性において、何にも増して重要なのは、弟子の自主性だ。師匠に「教えてもらう」ばかりのみだったら、弟子はあっさりとその後しんでしまう。弟子は自ら学び、発見し、己の道を進んでいかねばならない。将棋界において、師匠を負かすことを「恩返し」と呼ぶのも、そのあたりだ。

ゴブリンスレイヤーは、誰をも弟子にとるつもりはなかった。しかしたまたま、女神官が弟子になった。それは、女神官がゴブリンスレイヤーの「行っていること(営為)」すべてに、何らかの意味を見出し、そのスキルは絶対に必要なものだ、と判断したからだ。
もとよりゴブリンスレイヤーは、この終わりのないゴブリン退治(殺し)の修羅道に、女神官を誘うつもりなどない。終わりのなさは、彼自身がよくわかっているからだし、なにより女神官にゴブリンを殺す理由(妄執)など、基本的にはないからだ(恐怖こそあれ)

女神官が、ゴブリンスレイヤーの営為に見出しているものは、ただひとつではない。慎重さ、装備を整えること、撤退の見極め、決断力、情報収集、及び知識に対価を払うこと、風土への知識、裏社会の作法、持久力の配分、などなどなど……あまりにも多い。

それは、ゴブリン殺しを経てでないと、得られないものか? いや、レンジャー職を志せば、それは得られるものだ。
だが、彼女には「信仰」がある。彼女の地母神信仰は、ゴブリンスレイヤーの「知」と「力」を求めるべきだ、と判断した。ゴブリンスレイヤーの行っていることは、汚濁ではない。汚濁を処理しているが、汚濁ではない。見せかけの汚さなど、地母神の教えにおいてはメッキに他ならない。「本質を観よ」それは地母神的であり、まさにそれこそ「信仰」生活そのものなのだ。

この視座は、牛飼娘では持ちにくいものだ。彼女は、「彼」であるが故に彼を肯定する。だが、彼の仕事そのものへの知識はまだ、薄い(当然、ゴブリンスレイヤー自身が、牛飼娘を「汚濁」の存在から遠ざけ、なるべく知らせることのないように努めているからである)

ゴブリンスレイヤーの仕事の「本質」を、女神官は把握し、了解し、尊敬している。そしてゴブリンスレイヤーの行っていることを肯定し、職業は違えど、本質を継承しようとしている。自分なりに。それは、巡りまわって、ゴブリンスレイヤーの存在の肯定であるのだ。師匠は弟子をとるのではない。弟子が、師匠を師にしてくれたのだ。人間に、してくれたのだ。

受付嬢(職業評価)

上記で、「職業倫理」という観点からゴブリン退治を語った。この職業倫理を、最大限に肯定しているのが、この受付嬢である。個人的な好感もあるけれど、それ以上に彼がここまでゴブリン退治という職業を、誠実に行ってきたからこそ、彼女の「ストイック」の評はある。
職業、仕事は、相手(評価する者)がいないと、成り立たない。人間社会のなかで在る以上、それは当たり前のことだ。そして、上記でさんざん、このゴブリン退治の仕事が「評価されにくい」ものであるのは語った。
それでも見てくれる人は見てくれるのだ。彼は社会において、公正に扱われてはいないだろうが、しかし最も公正に扱うべき職業人(ギルド)は、、きちんと彼を認めている。というか、社会そのものが、彼に感謝をしている、というのは言い過ぎだろうか。いや言い過ぎであっても、それは構造上、彼には伝わりにくいものであることは、秋祭りの時の受付嬢の「伝わってほしい」という願いに表れている。だからこそ、受付嬢は常に、ゴブリンスレイヤーに声をかける。諦めないで、と。

牛飼娘(存在肯定)

しかし仕事のみが人生ではないことは明白である。それ以前に、人は、一個の人間として、その存在をどうにかして肯定せねばならない。自分自身で、時には人の存在を借りて。

ゴブリンスレイヤーこそ、牛飼娘という幼馴染の存在に救われている者だ。全て無くなってしまった(虐殺された)過去。しかし、幼馴染は生きていたのである。同時に、彼女は彼女なりに、あの虐殺された日々から立ち直り、自分を肯定しようとしている。そして、その肯定度合いは、「自分ひとりで精一杯」な彼よりも上手をいっている。なにせ、彼をも肯定してしまっているのだ。

「わたしには君が必要なんだ」と何のてらいもなく言ってくれる人がいるということ。これは奇跡だろうか。「君が生きてくれることがうれしいんだ」と言ってくれる人。
彼の姉は死んだ。だから彼は、もう二度とこの言葉をかけてくれる人は、この世には存在しないと思っていた。ところが生きていた。だからこそ大事にしたいと思う。

ところが、すべてを牛飼娘に捧げ切ってよし、とするには、彼の人生は虐殺されているのである。どう生きていったらいいか、彼にはまだわかっていない。
そこのところで、ゴブリンスレイヤーの、「先生」や、牛飼娘の伯父に対する、報われない尊敬、というのが筆者には痛ましく映る。ゴブリンスレイヤーは、亡き「父性」の代替えの存在を求めている。「こう生きていけばいいんだ」というロールモデルを。だが、これは非常に難しい。この父性は、即座にマッチョ思想に結び付く。そして、そのマッチョ思想のもっとも悪しき形が、ゴブリンによる凌辱なのであるから。あまりにも、このマッチョの抜き差しならない問題に、彼は骨まで漬かってしまっているのだ。


一党…妖精弓手、鉱人道士、蜥蜴僧侶(余裕、誇り、可能性)

そこから救うのは、余裕(ユーモア)である。この三人がとにかくユーモアの達人であることは言うまでもない。まして、男二人は、初見でゴブリンスレイヤーの特質と美点を見抜いた。人間社会=都市社会、とはいささか異なる「職人」あるいは「蛮族」の流儀社会では、ゴブリンスレイヤーの美点は、明確に見いだせる。

鉱人導士から話そう。一党の中で鉱人は、ゴブリンスレイヤーに「余裕」を持つことを進める。ゴブリンスレイヤーがそれを素直に聞くのは、相手が職人であるが故だ。それも「物を作る」職人であると同時に、「術士」という、理に長けた者であるという、モノづくりと理屈の両方の説得力があるのだ。その両面から「余裕」を諭されては、ゴブリンスレイヤーに返せる言葉のあろうものか。

ましてや、鉱人は人生を楽しもう、という享楽的な面を持っている。それは「善し」としてよし、なのだと。これこそがロールモデルのひとつである。父性にはなれないけれども、先達として、ゴブリンスレイヤーが人生を正当に楽しむのは、肯定して良いものなのだ、と。

蜥蜴僧侶はもっとわかりやすい。あの堂々として、知性豊かな僧侶こそ、見事に「信仰生活」を行っている「大人」なのだ。自分を安定させているという余裕である。ブレていない。すでに彼の「悩むべき物語」は、ゴブリンスレイヤー本編では終わっている(だからこそ、蝸牛くも氏は、蜥蜴僧侶の裏設定がやたらにある、と言っているのだ)
その存在そのものの重みが、彼に「余裕」と「信念」の大事さを教える。自分が持っているもの(ポケットの中には何がある!?)を大事にし、感謝をする。そして、たとえ死ぬことがあっても、自分が納得しているのであれば、それでいい。蛮族式になる、ということではなく、己が立つ誇りこそが重要なのだと。ゴブリン殺しに誇りなぞ求めるべくもないが、だが女神官、受付嬢、牛飼娘と、ゴブリンスレイヤーを「誇り」と思う人たちはいる。なら、そこからまた考えられることはあるだろう、というのが、蜥蜴僧侶の存在そのものの重みである。蜥蜴は背中で語っている。

最期に、妖精弓手
ゴブリンスレイヤーの生き様は、ゴブリンの巣穴に似ている。「それ以外の世界(可能性)」が実に見えないのだ。なにせ、ゴブリンを殺すばかりの生活。ほかの土地、世界に行ったこともないのが、彼だ。
というか、場所というより、精神的な立ち位置の問題なのだ。なにせ、ゴブリンしか見えていないから。

そんな狭い視界から、強引に彼を引きずりだそうとしてくれる「光」が、まさに妖精弓手なのだ。冒険!冒険!とうるさい金床であるが、放っておいたらどこまでもダメな意味で先鋭化(つまり袋小路)に陥ってしまうのが、小鬼殺しの生き様なのである。

賢明なる読者諸賢においては、社会人になって、突然「なーなー、あれやってみようぜ!あそこ行ってみようぜ!」と誘ってくれる友人の存在が、自らの閉塞しつつある生活に、新鮮な風を吹き込んできてくれた経験はないだろうか? あの理屈である。

ゴブリンスレイヤーは、牛飼娘が秋祭りで云ったように「小鬼殺しだけの男じゃないんだよ」ということ。妖精弓手もそれを理解している。もっと楽しいことがこの世にはあるんだよ、ということを、この偏屈な若者に教える2000歳なのである。

と同時に、この一党に居るということは、言うまでもなく、ゴブリン退治の重要性を、骨身にしみてわかっている妖精弓手である。彼女もまた、社会の中で生きている。
だが、その反面、どこまでも彼女は自然児だ。自然は汚濁で、汚くて、臭いかもしれない。でも、光輝いている面も確かにある。彼女がいつも天真爛漫に美しいということは、自然が美しいということを証明していることでもあるのだ。

だからゴブリンスレイヤーもいつか、世界を見続ければ、虐殺された自分であっても、この世界と和解できるかもしれない。そんな途上の路上で、今日も彼はゴブリンを殺す。自分に出来ることを着実にこなしていく、それが小鬼殺しの職業倫理だ。