残響の足りない部屋

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アメリカ民謡研究会の研究

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(聞いて考えたことをそのまま打鍵しています)

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上記音楽ブログ管理人・カナリヤさんからのお勧めで聞いた。そんではじめてきいたこの人(Haniwa氏という個人。会ではない)の動画は、ファズをかませたベースをループさせた音源のオケに、ボイスロイド(音声朗読版ボーカロイド)のポエトリーリーディングを載せる、というものでした。

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あまりにガチガチに歪みきったサウンドに驚いた。この手の弦楽器の生演奏を、ループ・サンプラー(ルーパー)を使って重ねていくのは、マーク・マグワイアやダスティン・ウォンといった「エフェクター・マガジン」ループサンプラー特集号で出てきた面子だったりで存在は認識していました。インディーシーンで、機材オタ的な面子が、アンビエントだったりバキバキテクニカルフレーズ重ねを、ルーパーを使ってやる、っていうのは、2010年代以降の展開だなぁ、と、個人的には好感を持ってみていました。独りで演る、っていうのがよろしい。以前、この手の生演奏ループ音楽について語ったところ、「打ち込みでやったらええやん」と無情な批判コメントをもらったことがあった自分でして、その時、有用な反論をかませなかった情けなさです。

今、改めてこの手の生演奏ループを思うに、「独りで行う」ということが何より重要なのだと重いまする。確かに、演奏全体の総合構築性の整合性を目指すなら、打ち込みにしたほうがよいのは明白。でもこのループ系の場合、独りで演奏し、ジャズのようにアドリブを自由なタイミングでカマし。独りでその演奏レイヤー(重ね)を編集し、さながらクラシックのように指揮する。演奏レイヤーは重なっていく。その各レイヤーのテクスチャーやファサード(音の肌触り)を、重ねていく。独りで。たった独りで。それは要するに、自分の演奏を素材にした編集音楽である。何より、自分を分解してライヴで統合する、自分との対話に他ならない。

 

バキバキに乱打するドラムトラック、そのウワモノとして使うのはベースだけ。歪ませたベース。これについては、2000年代以降のフリクションDeath from above 1979、ロイヤルブラッド、などが、「歪ませたベースでのロックンロール、パンク」でもって追及してきました。スリーピースでの、ギター、ベース、ドラムという「いわゆる最小編成」での音像より、もっと少ない。ギターソロはない。ギターのコード感は、ベースで補う。ギターの「壁」的なコード・リフの音圧は、エフェクターでもって解決する。あるいはドラムのウワモノ(シンバル、スネア)とのコンビネーションでどうにかする。しかし問題は、ギターという「音階をメロディアスに奏でることができる音源」のなさで。上記バンドは、どれもそのあたりの流麗メロディアスさの歪みギターを、どこかで諦めることにより、リフ重視の、ループ系にも似たグルーヴ音楽を構築することとなった。ヴォーカルも、どちらかといえば「歌い上げる」よりも「グルーヴに沿う形」といったほうがいいだろうか。さらにいえば、ロック・デュオ最小編成はギター&ドラムの、ベースレスな、ホワイト・ストライプスがこの分野では一番成功を収めているが、やはりこちらもギターの流麗さよりも、もっと別のものを持ち込もうとしている音楽である。ジャック・ホワイトのシャウトとノイズギターは、何よりもブルースである。元来、電化ブルースの初期は、ベースがない場合がたびたびあった。マディ・ウォーターズのギター&ドラムの音源とか。


このアメリカ民謡研究会が、ループ&機材音楽や、ドラム&ベース音源のあたりの文脈を押さえてはいるだろうけど、サークル名の「アメリカ民謡」をちゃんと研究しようとしている、とは到底思えない。ライ・クーダーのようなアメリカ民謡・古楽・ワールド系復刻的な視点も、ボブ・ディランウディ・ガスリー以前をフォーク文脈からアメリカ民謡掘り起こしみたいな観点も、あるいはいわゆる「アメリカーナ」的なノスタルジア憧憬も、または南部ブルーグラス音楽をアイリッシュ移民ケルト音楽の文脈から、というような視点も…とにかく、ちゃんと「アメリカ民謡を研究しよう」という気構えが感じられないのは明白で。ようはVaparwave的というかパンク的な「さして意味のない、やる気のないタイトルの中の虚無性」でもって、逆説的にアティテュードを表明する、というものだと思う。


ただし、何かを「研究」しようとしている態度はとてもよくわかる。どの音源も、実験性にあふれている。音楽機材…ファズ系エフェクターとループ系エフェクター、ドラム音源のビート系PAD、パソコンによるDAW編集、そしてボイスロイド。機材の研究のなかにインスピレーションを求めている。アメリカの中には求めていない。もっとも、現在のアメリカが表明する「米国ファースト」に対するアンチ視線をナチュラルに持ち合わせているくらいの反骨的な魂は当然持ち合わせているだろうと思う。
そんな詩人だ。この詩人は反骨と屈折、屈託と、綺麗で透明な風景に対する憧憬と、穢れていく人間の精神へのまなざしと、それでいて「やっぱり何かを諦めきれない」詩を書く。それをメロディ(歌)にしようとしない。ポエトリーリーディングで行う。ベースとドラム音源の轟音リフにのせて。それが、非常に、クる。

 

以上のことを端的に述べれば、カナリヤさんのこのツイートになる。自分はこんなに文量を稼いで何をやってるというのか。コントラスト。それも、ぢゅくぢゅくしている傷口から放たれる、折れそうな精神の、それゆえの強靭なメッセージというか。何を自分は書いているのか。意味がわからない。でも、「もうぼくは…消えてしまいたい…」という方向性じゃないんですよ。しっかり考えているっていうことがわかる詩。こちらのリスナーをアジテート(煽り)しながらも、煽って終わり、という下衆な感じはぜんぜんない。いつもこの人の音源は、冷徹な語り口で、完結していて、ドライで、だからこそどうしようもなくエモーションなコントラストなんです。この人の語りには、襟を正して耳を傾けたくなる何かがある。ボイスロイドなんだけど。

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最近の音源では、お手の物だった轟音ベース&ドラムよりも、落ち着いたエレクトロニカ的なバック音源に乗せて、やはり冷徹で、完結していて、どうしようもなくエモーショナルなボイスロイドのポエトリーリーディングを載せている。だから、ベース歪みだけの実験音楽なだけではないのだ。この人の本質はこの報われないエモーションなのだ。誰かに自分の声を聞いてもらえる(そしてヤンヤと共感喝采される)ことをハナから期待してはいないけど、こっち(リスナー)はこっちで、この人の言葉に耳を傾けてしまう。向井だ、わたしたちが向井秀徳の「自問自答」を夜中延々歌詞カードを読みながら自分の人生を投影していたあの感覚だ。

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どうしてもベース歪みでないといけないのか? 
おれら機材マニアは、こだわりっていうものからインスピレーションを得る。そして楽曲を作る。その意気っていう。自分も、歪みベースについてはさんざんやりました。ベースから音をパラって片方をファズにつないで、片方のドライ音をベースアンプにつないで、ミキサーを使ってローカットして…。「そこまでして」っていわれようが、こうして機材をいじることがとにかく楽しいんだから仕方がない。ある程度それが逃避めいたことであるのも自覚はしているんだけど。

しかし、この人の動画(写真と文字を多用)を見るのは楽しいですね。機材トークももちろんですが、この人は音楽を作ることを、日常の中に取り入れている。地獄の日常から詩をひねり出す、っていうのよりも、冷凍都市であるけども、時たま透き通って見える風景であったりの日常ってものを、見捨てきれないというか、やっぱりこの日常だって美しく見えて、そして機材をいじってるのが楽しい、っていうのが伝わってしまう。機材をいじることは、やっぱり楽しいんですよ。そして、音楽を作るっていうことも、楽しいんですよ。研究するのが楽しいんですよ。この人の音世界の透明な殺伐なのに、現時点での結論それ?と思いますが、この人の作品、音源から見えてくるのが、そういった「音と共にある生活」のささやかな愛しさみたいなものなんですね。まるでルインズ(日本のプログレデュオ。変態変拍子ドラムと歪ベース。この人の音源に一番近い音像かもしれない)みたいな音ですが、どこかに生活日常への目線が紛れ込み、絶望をこの人は日常的に感じながらも、「孤独に音を楽しむ生活」っていうスタイルに、なんか良いなぁ、と勝手に感じているんです。だから「誰をも幸せにしない実験」な音だけをやってるわけでなく、この人はこの人で、音楽を楽しんでいるんだぁ、という風通しのよさがあるわけなんですね。そんなことをまず思っております(たぶん続く)