本棚の無い家、優しさの無い読書人

●本棚の無い家の知的レベルとかいう話のむずむず

しばしばSNSで「知的下層階級の家には本棚が無い」という物言いがされている。
その例え話を扱う手つき・視線に、ときたま
「自分の家はそうではなかった」「そして今の自分は、昔に増して自己をアップデートしている」
と言わんばかりの自負を感じる、時がある。

ここに人々の断絶を見る。

昔は自分も、「本棚が無い」類の人を「えーっ」と眺める類であった。
だが今は、「本棚が無い」に成るに至った人達・家族たちの、記述されにくい物語、人生というものを、純粋に考えるようになった。
少なくとも、いまの自分にとっては、世間にある小説より、そういった「記述されにくい人生の物語」に重みを感じるようになった。
なぜなら、「記述されにくい人生の物語」の無数の集積の上に、自分が成り立っている、と、痛切に思う34歳の今だからだ。
だからこそ、記述されにくいそいつらの人生物語は「重みもなく意味もない」、と暗黙のうちに持っている手つき・視線に対して、妙なむずむずを感じてしまう。

 

●たまたま(偶然)

自分が今、本を読んでいるのは、たまたま中学生の時に「暗殺者 村雨龍」という現代チャンバラバトル大衆小説を「なんとなく」読んで、「活字情報から脳内映像を立ち上げることが出来るのだ」という事を、「たまたま」覚えたから、というだけに過ぎない、と思っている。
父母の仕事関連の書類棚と、大衆小説の文庫本棚以外の本棚には、埃が溜っていた少年時代を思い出す。

たまたま生まれ、たまたま出逢い、たまたま勝って負けて、必ず死んでいくのである。
どこぞの誰かが、「そのように成った」ことに対し、確固たる強靭な理由がバチコン屹立存在している、と思いすぎるのはどうかしら。むしろその「たまたま」というサイコロダイス・ローリング的偶然性そのものこそが「確固で強靭」である、と考えた方が、まだ優しくなれるのではないかと思う。

だから「知的下層階級の家には本棚がない」というリツイート(RT)が流れてくるのも「たまたま」であれば、その知的下層階級を目にした人々が「えーっ」と嘆き、何らかの留飲を下げるのも「たまたま」であろう。
しかしどの「たまたま」にも、優しさというものはない。

つまり優しさとは作るものなのである。そりゃあ人間、本日「たまたま」気分が良いから、少し優しくしてやっても良い、っていう状況のが多いってことは知っている。
だけど、「気分が良い」状態に自分をセッティングしていこう、となるべく努力することは、出来ないわけでもない。そしてそのセッティング努力こそが、「優しさを作る」ことそのものなのである。

たまたま自分が本を読んでいる、ただそれだけのことで驕るようなら、活字を活かすことがついぞ無かったわけで。
そういう読書にはたして、文字数ほどの意味があるのかどうか怪しい。
少なくとも、その読書のあと、ポーッと忘れられてるものがかなりありそうな気がしている。

 

●愚かな速読

最近、自分の日本語読書が異様に早くなってきている。とくに新書はひどい。45分以内に1冊読めてしまっているのが酷い。何が酷いって、ジュースのごとくゴクゴク飲むようにして「あーっ知的に気分ええわぁ」と思って、独り静かにその本の内容を熟考していない、っていうファッキン・イージーゴーイング態度こそが問題なのだ。
むしろ今、模型をいじっている時、ヤスリをかけたり、塗装をしている時の方が、遥かに「読書をしている」感覚を覚えている妙さである。正確にいえば、手を動かしている時、独り静かに熟考している。自分との対話をしている。そうか、模型工作とは読書だったのか。

 

●小説を読むのが苦痛なのと、外国語読書の遅さの優しさめいたもの

もうひとつ、本について言えば、最近、日本語の小説(物語)がとみに読めなくなった。日本語の文字列からイメージされる「画」が爆裂しすぎるのである。ジュブナイルポルノ(ライトエロラノベ)の冒頭部分で、

「午後の光差し込む校舎で生徒たちがざわついている」

たったそれだけの場面を、脳内CADソフトをフル稼働させて校舎や生徒たちを脳内3Dモデリング・デザインして、動かす必要がある。光の加減を脳内フォトショップでレイヤーかける必要がある。そんな風に「画」が爆裂しすぎて、小説が読めない。このあたり、むしろ「むつかしい思考を述べるのみ」の純文学の方がまだ読める可能性はワンチャンあるほどなのが酷い。

小説という、「文」のみの「芸」術の極みに対して、敗北感すら覚えている昨今。これはマズいなー、と思っている。
その一方で、外国語で小説をたまに読むようにしているのだけど、こっちの方がストレスが少ない。なにせ、どうせ読めない外国語なのだから、ゆっくり読まざるを得ない。意味の解らない単語に出会うなんて毎ページ単位である。
しかし、少なくともこの外国語読みは、本に対して「優しい」読み方である、と自己認識している。