残響の足りない部屋

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熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想

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「うわキッつ、うわぁ、重きっつい」

サクサク読めません。身近なトピックばかりが並ぶのに、物理書籍のページを2,3枚たぐって「ホフ」とため息。そして自分の人生を思って、胸元あたりの臓腑がぢんわり重くなり、そこでページをたぐる手が止まってしまうのです。令和2年、本年度トップクラスのヘヴィメタルならぬヘヴィブックであります。むしろ感覚としてはヘヴィ以上にドゥーム。

著者の熊代氏は、精神科医として、現代人の「困った」心理や、オタク/サブカルから見える社会の諸相を描く著書を何冊も出していらっしゃいます。同時にブログ「シロクマの屑籠」で、現代人心理や現代社会のスケッチを何度も描きながら、考察を深めていて、その成果が著作です。

にしても、今回の新刊、今までの本(この文章の筆者は、熊代氏の著作をこれまで時系列順に全部読んでいます)よりも、「重い」のです。
その理由としては、

  1. 本の内容が、清潔すぎて秩序立てられすぎている現代社会が、いかに不自由かについて、実例を次々に出してくる
  2. そしてその「不自由さ」が現代に存在しちまっている、その前提や論理を、きちんと丁寧に分析して論述されている。そのため読者が思う「でもこーしたらいいんじゃない?」を先回りして、「いや前提を踏まえると、この不自由さにも理由はある。そもそもその「理由」から逃れるために、この不自由さが作られたのだ」とこちらに説明がすぐにスッとお出しされる。
  3. そして(2)の問題点、及び「模索、あがき」があるが故に、現代「不自由」社会に対する解決策をズパっと示すことが出来ない、著者の苦悩の姿が「暫定結論」となっている。社会の不自由さに対する「処方箋」がない。

なんだかひとむかs……いや、三(み)昔まえの純文学のような苦悩っぷりであります。暗夜行路か。なので、ソフトカバー314ページ(内、注釈、約30p!)という、今までの熊代氏の著作で一番厚い書籍のページを、繰る。うわキッツ。そしてまたページを繰る。うわぁ、キッツいわぁ。そんなこんなで、すごくのど越しの悪い本であります。ワインをたとえにするのもアレですが、フルボディ級のパンチ力をBKAM!BKAM!と毎ページ事に喰らって、爽快感が全然ない、っていう。
熊代氏、たびたびこの本が「難産だった」とブログやtwitterでこぼしていましたが、それも当然ですわ。

難産っぷりの話でいえば、上記(1)のところなのですが、この本は次々に現代社会の「実例(トピック)」を出してきます。そのトピックのお出しスピードだけを言えば、むしろ「次々」っていう感じで、テンポは良いのかもしれません。ただそれはヘヴィメタル/ドゥームメタルのフルボディ重みパンチがBKAM!と次々来る、っていう話なんですが。きっついわ。どれも事例が重すぎるねん。そしてそんな重い事例をコンパクトに纏めて、次々どん、どん、どんどこどん、と書いていく熊代氏も疲れただろうな、って思うのです。


また、それは現代社会の諸相の「スケッチ」でもあります。かつてZazen Boys向井秀徳は、「俺の目玉が見る景色」こと「冷凍都市」を、彼自身の語彙とリズム感覚でもって次々に活写していきました。

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今いうた、「実例(トピック)を次々にお出し」というのが、熊代氏における「現代社会スケッチ(素描)」です。それは熊代氏の「俺の目玉が見た景色」でありました。
駅構内の進行方向管理の矢印(12→、上野・秋葉原方面→、新宿駅↑→↓……)、
喫煙者の隔離小屋、
路上のガードレール、
空き地での市民ののんびり徘徊を赦さない「不審者注意!」……

どれも、都会を知る人には「あるある」ですし、同時に「こんなに管理は、忍び寄っていたのか」という話であります。

今、自分は田舎も田舎に住んでいるのですが、たまに同人即売会や、親戚の家に行くので東京に行くと、どんどん「監視社会の神経症」は進んでいっているな、と感じます。これは都会にずっと住んでいない人間だから、より感じてしまうところであると思います。そして、「昔の関東」をある程度知っていて、そのちょっとした「汚さ」をいまだに覚えているから、比較もできるのです。

例えば、20年くらい前の上野駅の地下道で、道の両脇に、昔はきったねーーーッ小さい溝があったものでした。そこに無数のたばこの吸い殻がポイ捨てされていて、ニコチンや人の唾やもろもろの汚れがドロヘドロとなって、「絶対ここの水を吸いたくない」っていう水が、溝にたまっていました。餓鬼の時分のわたしはそういう景色を見ました。そしてこうも思いました。「なんでもっと清潔にならないんだろう」と。

清潔強迫神経症社会2020

清潔ということでいえば、自分は青春の貴重な時期を、「強迫神経症」で棒に振りました。どういう病か、っていうと、自分の場合は、
「清潔でなければならぬ」
「忘れ物など、愚かなふるまいをしてはならぬ」
「汚濁、愚かさは、罰せられるのだ」
「汚濁、愚かさを罰するのは当たり前なのだ」
「だから自分から、ミスを犯さないようにしなければならない」
「間違ってはいけない」「ミスってはいけない」
「何度も確認しなければならない」
「自分は絶対に間違えるのだから、何度も確認しなければならない」
「愚かであったら阻害されるのだ、汚かったら排除されるのだ」
「何度も確認、何度も清掃」

うひー、今思い出しても疲れます! 家の鍵を閉めたり、水道の蛇口を確認するので、いちいち15分は無駄に確認をしまくっていたあの頃! 
病理が極まり、精神病院に強制入院し、朝の洗顔で「顔を洗い、歯を磨く」という事実すらも認識できなくなって、確認のために1時間くらい顔や歯を洗い続け、顔面血だらけになって看護士に取り押さえられたあの頃!
今思うに、そんな自分がよく、この強迫神経症を治せたなぁ、と。今もアレが続いていたら、狂死してましたね。

ところで、清潔志向、「秩序」志向を進めていくと、いずれ強迫神経的なシステム傾向にたどり着くんだと思います。というか、現状のコロナ禍社会が、ずいぶんそんな感じに自分には見えています。自分のアレな過去が、己にそう見させているのかもしれませんが、まぁ。
しかし、「清潔、秩序」のレベルを上げていくということは、ロジック上、「撤退、後ずさり」が許されない、常に前進を求められるということです。上記の自分の強迫神経症が良い例ですが。つまり、「清潔、秩序、あるいは道徳」っていうものは、「よりよき清潔、よりよき秩序、よりよき道徳」のために、より前進せねばならない。

「まぁまぁ、いいじゃん」みたいな穏当なバランス感覚は「悪」「かつての汚濁に戻りたがる反動勢力」とされるのがオチです。「撤退、後ずさり」が赦されないのです。さあ、これのどこに「寛容」というゆるやかな精神が存在するでしょうか?

つまり、「秩序」というシステム化は、このような硬直化……「より良き」を義務化する、「前進方向性の固定化」を求めます。前進、それ以外を許さない。自分は以前より、システムを巡るおはなしや、「システム化、官僚化」していくラディカルな人たちを巡るお話で、しばしば言われる「硬直化(の進行)」は、このあたりにもあるのではないか、と常々思っていました。というか、コロナ禍の今、いや増してそう思います。

一度、そのようにレベルを上げてしまったら、なかなかレベルを下げることは出来ません。下げたら、それは負けであり、「あの汚濁なやつら」に自分が仲間入りしてしまう、って話です。上野駅のきったねぇタバコ汚水のような人間になってしまう、っていう。
これでは、先鋭化していく「清潔、秩序、システム」を、寛容でもって「和らげる」ことが、どれだけ無理筋の無理ゲーなのか、と思わされます。

念のカタマリ

熊代氏の本書「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」……このタイトルからして、その文字面、響きに「余裕」なんてものがありゃしないじゃないですか。だからキッツいなー、と。そして本書が描く「重さ」、「不自由さ」。でもその不自由さの前提たる「清潔、秩序、システム」っていうのは、自分たちがそもそも求めてきたものでありまして。ようは「楽になりたい」っていう。喧嘩や汚濁や、そういった野蛮から逃れたかった。弱い人でも、安全に暮らしたかった。そのためのシステムを作ってきた。ところが、「システム化」は、このように「硬直化、先鋭化(ラディカル)」への方向性を、そもそも内包していた。

この本が描いているのは、その実例(トピック)です。熊代氏の目玉には、これだけの「不自由」が実際に映っていて、確かにその「不自由」で息苦しい思いを感じたんだぞ、と。いわば不自由の息苦しさの言語化であり、まさにスケッチであります。
「重さ」ということでいえば、なんだかこの本、読んでいて、本書自体の物理的重さ(314ページの厚み)だけでなく……マス(Mass=塊、質量、総体)として、わたしの脳みそと心に、ドン! とカタマリが鎮座まします感じがあります。

本書には、わかりやすい思想的な「処方箋」がない、と書きました。「こうしたら良いんだよ」という安易な解決策は述べられていません。そういう意味でも、キャッチーな本ではないです。「ドン!」とシロクマ先生の念のカタマリがここにあります。

せめて処方箋らしき解決への希望として、最後に「これを土台のひとつとして、じゃあ、考えていきましょうか」というあたりで、とりあえず終わっているように自分には思えます。いや、これもこれで自分の読み解きが浅いという自覚はあります。もっともっとヒントはこの本にある。なにせ、現代社会の言語化であり、スケッチなのですから。
ですが、基本的方向性……この本の念のカタマリをまず自分の中に入れて、自分で考えて、そしてこの社会とどう付き合っていくか、っていうことを、自分で考えていく、っていう方向性そのものは、間違っていない、と自分では思います。そういう意味で、読んでいて「知的爽快感」よりも「知的にしんどいなぁ、重いなぁ」って本でありますが、しかしそれ故に確かに「読んでよかった」と思いますし、自分自身「まだ読みが足りない」と痛感しています。

労作ですよ……ってこう言うと、だいぶ偉そうですが。でも、熊代氏はこの本から逃げなかったわけです。同時に、この本にはかなり文学や漫画、哲学・思想書などから、引用が重ねられています。それは、先行するいろんな「人たち」の目玉の見た、社会、世界苦、娑婆に対する見方、ことばを、熊代氏も受け継いだ、ということです。
そんなわけで、自分もまた、この本をこれからも「うわキッツ、あーきっついわぁ」と思いながら読んでいくんだろうな、っていう気がしています。少なくとも、明日からこの社会がラクになることは、さらさらないわけであって。自分もたいがい非-社会的な人間でありますが、それでも一応はそこそこに、しょうがなしに、付き合っていかざるを得ないのが、現代社会です。


ときに自分の立ち位置は、「反社会」ではないのです。「非社会的人間」だと思いますし、それを改善しようともあんまり思っていません。もともと自分の中には、あまり社会に対する親和性が無い、という意味での「非」です。
それでも、安全であるとか、安心の確保であるとか。あるいは世の中にひそかに存在している楽し気なこととか(樫木拓人「ハクメイとミコチ」とか、panpanya先生の漫画とか)。そういったものと上手く付き合っていくことも、それはそれで無為とも言い切れない、というあたりです。暴力や災害に対するある程度の安全・安心があって、趣味も楽しめるわけですから。だからこんな神経社会を壊してやるぅ!な話にも与しませんが、しかし神経社会に自分がヤラれまくって、またびょうきになるのも、これまた勘弁なわけです。

 

人間、最終的には、この世で出来るたのしげな事で、自分を満足させてやれれば良い、と思うんですよ、ほんとに。
しかし、他人に迷惑をかけまくって趣味しまくる、っていうのもこれまたちょっとどうよ、ってぐらいには、一応の社会性は自分にもあります。一気に話の解像度が単細胞脳筋になりましたな!w
でもまあ。他人に忖度される形での、「秩序」を個人の内面にインストールしまくる、っていうのも、もうこの時点で相当ラディカルだ、っていう、ねぇ。難しく書きましたが、世間の奴隷、っていうの、よくない!っていう話です。

強迫神経症にまでなった、変な人生を歩んできていますが、なんだかんだで一応職にもつけて、趣味の創作活動をやれて、時々この神経社会からいち抜けしてキャンプをして、星空のもと自分自身と対話して、さーどうするかこれから、って考えたりしてます。秋や冬になってきたら、またソロキャンをするんでしょうが、夜、焚火をしながら、いろいろ考えるんだと思うんです。ていうかそのためにキャンプしてますし。星月夜更け、自分はどうしたいか。世の中とどう付き合っていきたいか、って、また考えると思います。そのときに、熊代氏の本が今回残した「念のカタマリ」が、何らかの材料となって、自分の心の静かなほむらに薪をくべるんじゃないかな、って思うのですが、ちょっとかっこよく書きすぎですかね。まぁこれくらいはゆるしてくださいな。

(この本についてはまた何か書くかもです)

 

「「若作りうつ」社会」の感想と個人的重い思い - 残響の足りない部屋

(過去に書いた熊代氏の本についての記事)