勝負師の星座観測

勝負師の思考に、以前から興味があります。

彼らが勝負にかける意気込み。一回の勝ちだけではなく、「勝ち続ける」ための持続法。大局観。拙速に走らず、己をセーブする方法。そして何より、彼らが見出した「勝ち・負け」の定義そのもの。

自分が良く読んでいるのは、梅原大吾ウメハラ)氏の本です。あるいは羽生善治氏の本やときど氏の本、スポーツ選手の自伝やインタビュー雑誌なども。というより、自分は作家のインタビュー本や自伝本、「作者、自作を語る」系の本をよく読むのですが、これもまた「勝負師」本の一環かもしれません。それから、ガンダムビルドファイターズが好きです(唐突)

その一方で、彼らが実際に行っている勝負ゲームそのもの(格闘ゲーム、将棋etc)には、さほど興味がありません。なぜかというと、自分はそもそも「勝負」というゲーム形式が「not for me」と思っているからです。例えば、自分がスポーツなり対戦ビデオゲームをして、だいたい負けますが、何とも思わない。しかしまぐれで勝っても、何とも思わない。というより、負けても勝っても「落ち着かない」。自分は、自分の世界(内的宇宙、こころの箱庭)の構築にしか興味がない、という傾向があるのです。なので、他人の勝負事にも興味がない。

これは自分の弱点だと、素直に思っています。勝負事に対するセンス、闘争心・競争心が「なさすぎる」。

でも、勝負師の思考に興味がある。「限界に挑む」っていうシチュエーションであったり、「バトルフィールドで交わされる選手同士の超越したコミュニケーション」などという、特殊状況での心理が面白い。そして日々戦い続ける勝負師という人生の形に、興味があるのです。

さて、まるまるさんのついったータイムラインのRTで拝見したこのはてな匿名ダイアリーの記事

anond.hatelabo.jp

例によって自分は将棋のルールについて詳しくはありません。将棋史に詳しくないのも当然です。ただ、勝負師の思考に興味がある。

自分のこの「思考」のみに興味がある、というスタンスは、勝負ゲームの見方として、邪道も良いとこだと思っています。勝負師の「思考」の本質は、その対戦試合(ゲーム)そのものにあるのだから、ちゃんと試合を見なさいよ!という指摘もごもっとも。一番良い上澄みだけを拾って味わってる、という指摘も成り立つ。ただ、それはとりあえず置くとして。

藤井新棋聖が勝利し、渡辺二冠が敗れた。事の次第はそういうことです。世間の盛り上がりもそういうことです。そして、将棋を、棋士を本当に愛しているファン層からは、もっと、とんでもなくたくさんのものが見えていた、ということに、いまさらながら思うのです。

将棋新世代が、例えばIT(コンピュータ、人工知能)を駆使した練習&研究を積んでいたり、さらには「IT世代の打ち筋も踏まえた将棋研究」「その上でアナログ的な従来の将棋のスタミナ持続力、大局観」が当たり前に研究されているのが、今の将棋だ、というのは、羽生氏の本であったり、あるいは鍋倉夫「リボーンの棋士」で言及されていたところでした。しかし自分が嫌になるなぁ、こういう些末な知識しか持っていなく、本場の盤上の世界を知らない、というのは。まぁ、上記のようにそこは置くとして。

自分は、このはてな匿名ダイアリーの記事の筆者さんにこそ、感動してしまったんですね。この筆者さんは、渡辺氏が「負けた」からこの記事を書いているんじゃなくて、渡辺明という棋士の生きざまに惚れたファンだから、この記事を書いている。渡辺氏がこれまで行ってきた打ち筋と、研究精神。そして勝負師として、勝負の流れと世間の流れに「なにくそ」と踏みとどまる足腰の強さと意気、意地に。

筆者さんは、将棋を本当に愛している。そして渡辺氏を愛している。将棋というゲームに魅せられている。将棋がこれまで作り出してきた名勝負や凡勝負の数々を記憶し、それを味わっている。その上で将棋という文化を愛している。というかこれが、ある文化を「愛する」ということなんだろうな、と思う。

筆者さんには、この将棋というバトルフィールドの本物の世界が、見えている。

 

藤井新棋聖の旋風が、将棋界に対する世間の注目を上げている。藤井氏が歩む道が王道になるのだ、みたいなムード。藤井の勝利を見ていれば将棋はわかるのだ、みたいなムード。そこまで勝ってなお、兜の緒を締めようと謙虚たる藤井氏はやはり才覚の深み、と思う。もちろんそこで浮かれるのでは、そこまでの才覚、という厳しさもあるとして。

しかし自分は、渡辺氏の敗北、渡辺氏もやはりすごかったのだ、みたいなことを書きたいのではない。

自分には見えない世界がやはりある、ということをここで書きたい。それは皮肉でも、卑屈でもなく、「やはりあったのだ……!」という喜びでもって書きたい。

はてな匿名ダイアリーの筆者さんが、ここまで見ることのできる世界(将棋)というのが、この世に確かにある。そして、そういうのは無数にこの世にあるのだろう、と思う。いや、あるのだ。間違いない。それはたまたま世間の耳目を引いていないだけで、「どこまでも味わい分けることの出来る世界」は、この世にいっぱいある。

将棋という世界は、今回のタイトル戦で、さらに耳目を引くだろう。「裾野が広がった」ということ。その「裾野」が広がって、いろんな少年少女が、勝負師の世界に入ろうとする。いろんな道がある。いろんな人生がある。英雄譚があり、量産型の物語がある。いぶし銀の職人技の世界があり、敗者の世界がある。

まるで星座のように。

おそらく、その星座の煌めきや、無名の星、あるいはダークマターの暗黒を、しかと見据えて、ずっと見ていくんだ、と愛し続ける、ゲーム上の天体観測。おれは見ているぞ、きみらの勝負の行方を見ているぞ、考え、考え、記憶し続けていくぞ、というゲームの天文学。カッと火花散った光年の煌めきを愛し、やがて那由他に消えようともその流星の切なさを愛する。勝負師も、ファンも、彼らは今まさに、そこにつくる。勝負文化がある。

それに比べれば、たかが勝った負けたでわいわい騒いで、あいつはもうダメだ式の評論をすることなど、天文学的に小さい話であります。

自分にしたって、渡辺氏の将棋世界を、こうしてはてな匿名ダイアリーの筆者の方に説明してもらわないと、ついぞわからなかった者です。小ささはさほど変わりゃしません。

 

それと同時に、この記事。筆者の方はこれまでいろいろな棋戦を見てきたのにも関わらず、「今回の試合のようなものは、これから見ることが出来るのだろうか」という驚愕でもって、試合を見ていらっしゃいます。

その、将棋ファンとしての「新鮮」な瞳、というのも、こちらが瞠目してしまいます。つい、過去の歴史と比較してあーだこーだと言いがちなのがマニアです。でも、筆者さんは、「今ここで伝説が生まれようとしているんだ!」というものをしかと見据えている。

 

わたしも、何かを愛したいものだ、と思う。この筆者さんのように、愛と屈託と、ファンとしてのたゆまぬ持続力と、新鮮な瞳を持ち続けたいと思う。やっぱり勝負試合(ゲーム)そのものには興味を示すことの出来ない(not for me)な自分だけれど、せめて自分の愛している分野では、地道に愛し続けようと思ったのが、この記事の感想でありました。

 

※似たことを前にも書いております

ビルドファイターズとオリンピック(1) - 残響の足りない部屋