こつこつ制作のホームページ内、ソーシャルに繋がれないマイクロブログシステム(cgiプログラム「てがろぐ」)を用いて、ひとり壁打ちつぶやきを残しています。
お手軽マイクロブログCGI「てがろぐ」:スキン式で複数ユーザ対応 - にししふぁくとりー
さすがに長文を上記マイクロブログで行うつもりはございません。
それから、ブログデザインを、むかしのはてなダイアリーみたいなものにしました。なつかしいですね。
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この記事は百合ゲーと言語学習についての断片的メモです。
なんでユリアーモなんつうエスペラント語を学ぶのかって?
「ルカがかわいいんだよ!」(凛
「ルカを推す凛もまたカプ萌えなんだよ!(ルカの部屋の観葉植物と化した百合ゲープレイヤー」
ところでこの「自分を普通だと思っている女の子(本質は攻」が「美の権化たる少女に夢中になって推す(本質は受」っていうアイドル推しみたいな「好き!」の表明少女な造形。
対象の美少女にも「好き!」を表明しつつ、
「どっかのだれか(プレイヤー)もわかって当然でしょこの美!いやわかるべきでしょこのかわいさ!」って表明していく「推し事(おしごと」的な愛の表明。世界の美のヒエラルキーの絶対頂点は、自分が推す少女にこそあり。自分(凛)はルカを推すために在る、というアイドル×ファン、みたいな構造。
これってどうやら百合文化にのみ特徴的な構造であり、テイスト(味わい)のようですね。ヘテロ恋愛ゲーマーから、こういう「推し事」な百合美学視点について「ついていけない」と聞かされたことがあります。テンションもそうですが、この「推す」というやり口に。
自分は百合ものが好きなので、この構造、テイスト、やり口を肯定するんです。その美少女が美であるのは当たり前、という世界観とか。美少女を推す少女の特質性から物語がどんどん進行していって、深みを増していくという醍醐味とか。やがて明かされるお互いのコンプレックスとか。いや、良いですね。。ちょっと雪子「ふたりべや」最新話(Comicブーストweb連載)まで一気に単行本(現在7巻)読み返してくるからちょっと待っててください。
……、ふう、同棲イチャラブ日常百合を堪能してきました。
ところで、この「ふたりべや」をこないだ知人に説明したのですが、「基本、桜子がかすみちゃん好き好きー、って言ってるだけの同棲4コマ」って説明したら、「非常にダメな、駄作の証明みたいに聞こえる」と言われました。
よく考えたらそれも然りかな、と。自分の説明が悪すぎた、っていうのもあるんですが、この「美のヒエラルキーの固定」や「推し、という感情の固定」からはじまる、百合関係の感情方向の固定性、っていうのは、確かに他人から見たら「固定しすぎでダイナミズムもないつまらなさ」って見えるかもです。
しかし、自分の愛好する百合は、このあたりを少しずつ揺らしていくのです。当たり前が当たり前である鉄板性を、こっちから見て、あっちから見て。美少女の美は鉄板であり、それが世界を照らす光である安定度こそが太陽(陽性な、ちょいギャルっぽい場合)、あるいは無慈悲な夜の女王としての月(クール、ダウナーの場合)。
それに対し、推していく少女の「美への隷属性」もまた絶対。
美少女の太陽に対する、ファンは月のようで。
しかし、仮にクール系だとしても、夜の女王たる月もまた、日中のおだやかな日差しをファン少女という太陽からいっぱい浴びて、輝きを秘めるわけです。
おお、ちょっち何を書いてるかわかんなくなってきたぞ
ようは、凛がルカを推すというやり口は、この世界観では絶対のものとなっていますが、それはノベルゲーや恋愛ものにおいて、絶対に普通で一般的か、といったら、それは違うわけです。そこはちょっと把握しておきたい。
そのうえで、このやり口に萌えてしまったら、もうこの「ルカ推し」の構造に疑問を挟んでも仕方がない、ということはありますね。
英語を母語としない国では、「国際社会で栄達するためには英語を学ぶべし!」というお題目のもと、「第一の」外国語として英語を学ぶこととなります。
しかし、英語に対する学習上の意味付けが、それくらいしっかりしているにも関わらず、日本人口の半数以上が「何がなんでも英語を学ばねばならない」という必死さ(モチベーション)を持ち合わせている状況、ではございません。
なぜ、英語学習のモチベが低いのか?
これはひとえに、英語を使わなくても、日々の生活が充分事足りるからです。
例えば、朝起きて、自分がクソ眠ぃってことをぼんやり思って、パンとピーナツバターの賞味期限が切れてることに気づき、大学なり職場なりに行く途中でコンビニに寄ってパパッと朝食を買って食らう、っていう状況があるとします。
ここで「クソ眠ぃ」という自己の状態と、それに対する感情を表す言葉は、日本語です。
そして、パンとピーナツバターの賞味期限が切れている事を示す文字記号は、日本語の文字と、漢字と、数字です。
もちろん、コンビニで一連の買い物の手続きを済ますときに使われる言語も、日本語です。
この一例が示すように、日本での日々の生活では、「常に外国語を意識する」必要は、ありません。
英語に対する学習モチベが上がらない理由は、まず、英語を「何がなんでも必要としていない」というのが、ひとつ。
つまり、「国際社会で栄達するため」の片道切符としての英語、と言いますが、どこかそれも「大人のお題目」であります。
「栄達」のレベルにもよりますが、英語がなければしんでしまう、というレベルでもない。現代日本においては。
それは、この状況そのものが、日本の現在保有している、経済的、並びに文化的・歴史的な「国力」の証明です。
現在、たまたま日本は、その程度の国力を有しています。
英語が話せなくても、とりたてて問題なく日々の生活を過ごせる国力。
なお、英語を用いなくても日本では生活ができますが、古来より豊秋津洲日本列島では、日本語それ自体の高度な運用や、「世間」という神経社会において常に「神対応」を求められます。
膠着語としての日本語が異様に発達させた、敬語法・謙譲表現。あるいは助数詞のバリエーションの異常さ(建物を一棟と数えたり、鳥を一羽と数えたり)。これらが日本語の「高度な運用」として、日本語学習者の超絶イライラポイントである事はよく知られています。
しかしこの豊秋津洲日本列島では、こういった言語運用・世間知の神対応をスムーズに行わないと、「外人(ガイジン)」として、日本人圏域(インナーサークル)の中から暗黙のうちに排除されることとなります。よく、バラエティ番組で外人タレントを「外人っぽい言葉遣い」として特別枠にしたりするじゃないですか。あのやり口です。
この、言語に内包する差別構造について、今は批判を、さて置きます。本当は相当批判したいですが、今はまだ。
さて、もうひとつの「英語学習のモチベが上がらない」理由といたしましては、「そもそも外国語学習はイライラする構造になっている」からです。
英語を含む外国語学習は、「語彙蒐集に始まり、語彙蒐集に終わる」と言っても過言ではありません。
わたしたちは、I am を覚え、thisとthatの違いを把握し、thatを使った関係代名詞の構文を覚えます。
子供のころから缶ジュースを飲みますが、英語でも缶はCanだったりします。しかしそれ以上にcanといったら「可能」であり、「出来ますか(can you~?)」であり、「Can I ~(オーイちょいと●●さしてもらってもよいかね?)」であり、May I構文との違いを把握したり、be able to表現をどういう場合で使い分けるのかを覚えたり、です。
このようにどんどん語彙は増えていきます。
そしてそれと同時に、「自分の限界」にブチ当たります。これはイライラします。「お前はもう死んでいる」って言われ続けるって構造です。
どんな語学学習者であろうとも、「この言葉知らないっ!」から逃れることは出来ません。
「どんな」語学学習者であろうともです。You are just only same students.
仮に英和辞書をすべて暗記した人でも、東南アジア系のピジン・クレオール英語(現地語との混合英語)まで行ったらどうなのか。そこまですべて把握しているのはもはや人間ではなくアカシックレコードの領域です。
では「スマホがあるから、知らない言葉は検索すれば大丈夫よ」という向きに対しては、二つの反論があります。
ひとつ。「即レスが求められる状況において検索なんぞ出来るのか」。
例えば、海外でひったくり盗難に会った場合…この場合正しいのはどういう言葉でしょうかね?"Hey stop!"で止まりゃしませんよね。じゃあふぁっきゅーを言えばよいのか、っていうと、それを聞いて他の人が「この哀れな東洋人を助けてやろうかいな」ってなるかも微妙です。"You must stop;because ofナンタラかんたら"って言ってる場合じゃないのも明白です。"I'll kill you!" X JAPANを出す場合じゃない。正解は、むしろ日本語で「だあああーっ、どチクショウが!」って叫ぶのが関の山では。むしろそこから現場に居る人たちを何とか味方につけるべく努力するとか、警察で冷静に事情を説明し、何とか警察を味方につけるべく努力するとか(ここは外国であります。警官が親身になってくれるというナイーヴな考えを捨てよう)。結局何が言いたいのか、っていうと、こういう状況でもスマホって言えますかね、っていうことです。そして、口頭コミュニケーションでの言語運用は、だいたい即レスが求められます。(もっとも、口頭コミュニケーションが「外国語の本質にして全て」かどうかは、非常に疑問があります。世の中はここを思い違いしていると思います)
もうひとつは、「それが知らない言葉である以上、スマホ検索で出た答えがマジで正しいと断言できるのか」っていうのがあります。
たとえば、自分がフィンランド語の市民講座に行った時の事なんですけど、構文をアレンジして「ケーキ2個ください」って言ってみたんですよ。ところがそれはフィンランド語で「うんこ2個ください」になってしまっていたんですね。講師氏(フィンランド人の女性)に平謝りでしたよ、言語初心者のあたくし。マジでアンテークシ、パリョンパリョン(ほんとにほんとに)Anteeksi......(平謝り
「お前はもう死んでいる」
この構造においてなお、外国語を楽しむには……そう、答えは、このイライラを楽しむしかありません。つまり「(この言葉)知らないッ」という感情をそのまま「知らない言葉を知ることが出来てうれしいなぁ」と自然に思うようになること。
どんなマゾか、って話ですが、自分も言語学習を進めるようになって、こう思うようになってから、急速に外国語学習が楽しくなったのですよ。自分の限界でもがく事、それが自分の外国語を鍛え上げ、生きた外国語の中で言語してる、っていう。それは、外国に居るとか日本にいるとか関係なくて。
(メモなので続く)
しばしばSNSで「知的下層階級の家には本棚が無い」という物言いがされている。
その例え話を扱う手つき・視線に、ときたま
「自分の家はそうではなかった」「そして今の自分は、昔に増して自己をアップデートしている」
と言わんばかりの自負を感じる、時がある。
ここに人々の断絶を見る。
昔は自分も、「本棚が無い」類の人を「えーっ」と眺める類であった。
だが今は、「本棚が無い」に成るに至った人達・家族たちの、記述されにくい物語、人生というものを、純粋に考えるようになった。
少なくとも、いまの自分にとっては、世間にある小説より、そういった「記述されにくい人生の物語」に重みを感じるようになった。
なぜなら、「記述されにくい人生の物語」の無数の集積の上に、自分が成り立っている、と、痛切に思う34歳の今だからだ。
だからこそ、記述されにくいそいつらの人生物語は「重みもなく意味もない」、と暗黙のうちに持っている手つき・視線に対して、妙なむずむずを感じてしまう。
自分が今、本を読んでいるのは、たまたま中学生の時に「暗殺者 村雨龍」という現代チャンバラバトル大衆小説を「なんとなく」読んで、「活字情報から脳内映像を立ち上げることが出来るのだ」という事を、「たまたま」覚えたから、というだけに過ぎない、と思っている。
父母の仕事関連の書類棚と、大衆小説の文庫本棚以外の本棚には、埃が溜っていた少年時代を思い出す。
たまたま生まれ、たまたま出逢い、たまたま勝って負けて、必ず死んでいくのである。
どこぞの誰かが、「そのように成った」ことに対し、確固たる強靭な理由がバチコン屹立存在している、と思いすぎるのはどうかしら。むしろその「たまたま」というサイコロダイス・ローリング的偶然性そのものこそが「確固で強靭」である、と考えた方が、まだ優しくなれるのではないかと思う。
だから「知的下層階級の家には本棚がない」というリツイート(RT)が流れてくるのも「たまたま」であれば、その知的下層階級を目にした人々が「えーっ」と嘆き、何らかの留飲を下げるのも「たまたま」であろう。
しかしどの「たまたま」にも、優しさというものはない。
つまり優しさとは作るものなのである。そりゃあ人間、本日「たまたま」気分が良いから、少し優しくしてやっても良い、っていう状況のが多いってことは知っている。
だけど、「気分が良い」状態に自分をセッティングしていこう、となるべく努力することは、出来ないわけでもない。そしてそのセッティング努力こそが、「優しさを作る」ことそのものなのである。
たまたま自分が本を読んでいる、ただそれだけのことで驕るようなら、活字を活かすことがついぞ無かったわけで。
そういう読書にはたして、文字数ほどの意味があるのかどうか怪しい。
少なくとも、その読書のあと、ポーッと忘れられてるものがかなりありそうな気がしている。
最近、自分の日本語読書が異様に早くなってきている。とくに新書はひどい。45分以内に1冊読めてしまっているのが酷い。何が酷いって、ジュースのごとくゴクゴク飲むようにして「あーっ知的に気分ええわぁ」と思って、独り静かにその本の内容を熟考していない、っていうファッキン・イージーゴーイング態度こそが問題なのだ。
むしろ今、模型をいじっている時、ヤスリをかけたり、塗装をしている時の方が、遥かに「読書をしている」感覚を覚えている妙さである。正確にいえば、手を動かしている時、独り静かに熟考している。自分との対話をしている。そうか、模型工作とは読書だったのか。
もうひとつ、本について言えば、最近、日本語の小説(物語)がとみに読めなくなった。日本語の文字列からイメージされる「画」が爆裂しすぎるのである。ジュブナイルポルノ(ライトエロラノベ)の冒頭部分で、
「午後の光差し込む校舎で生徒たちがざわついている」
たったそれだけの場面を、脳内CADソフトをフル稼働させて校舎や生徒たちを脳内3Dモデリング・デザインして、動かす必要がある。光の加減を脳内フォトショップでレイヤーかける必要がある。そんな風に「画」が爆裂しすぎて、小説が読めない。このあたり、むしろ「むつかしい思考を述べるのみ」の純文学の方がまだ読める可能性はワンチャンあるほどなのが酷い。
小説という、「文」のみの「芸」術の極みに対して、敗北感すら覚えている昨今。これはマズいなー、と思っている。
その一方で、外国語で小説をたまに読むようにしているのだけど、こっちの方がストレスが少ない。なにせ、どうせ読めない外国語なのだから、ゆっくり読まざるを得ない。意味の解らない単語に出会うなんて毎ページ単位である。
しかし、少なくともこの外国語読みは、本に対して「優しい」読み方である、と自己認識している。
どんな表現分野でも、表現ジャンルでも、その時代ごとに「トレンド」とか「ブーム」とか「今イケてる奴ら」とか、そこから派生して「次来るのはこいつらだッ!」っていうのがあるじゃないですか。トレンド競争っていうか●●を好きな俺スゲー的な。差異化ゲームっていうむつかしい言葉もありましたね。
自分は十代後半のあたりから音楽を聞き出して、なんだかんだで15年余り、いまだに音楽が好きなので、この文章では「音楽」で各種の例示をしますが、もちろんこれは読者の皆さんのお好きな表現分野、表現ジャンルで当てはめてみてくださいね。少なくともこの文章を読もうと思われた方は、それくらいの読み取りはできるくらいの屈託は持ってるはずだ。
例えば2018~2020年あたりの音楽の超大雑把な流れとして、
・音圧競争がひと段落したかと思ったら、欧米EDMやトラップ系の超低音志向の影響を受けて、まだまだハイファイに磨き上げる方向の音作り
・ロックは「超絶技巧テクニカル」がもう通常になって、その上にまたも異種混合になっていって、ブラックミュージックのリズムとフロウの感じを歌謡曲性と矛盾しないように導入
・リスナーに対する歌詞やバンドのアティチュードの「煽り方」も「露悪自意識」一辺倒は終わった
・ボカロが古典
・凛として時雨以降の変拍子バキバキプログレちっくなのは、むしろアニソンの方に伸びていったか
・シティポップとディスコ再解釈は完全に定着した。
・ナンバーガールが古典
・コライトが通常になったけど、じゃあ音楽業界界隈以外で「これがコライトの典型的代表曲だッ」と言えるものってあるんかいな
参考音源としてなんとなくこれを貼ってみます
【まちカドまぞく】オープニングテーマ「町かどタンジェント」&エンディングテーマ「よいまちカンターレ」試聴動画
などなど簡単に概観してみて、まとめて簡単に言うと
「音の詰め込みや超絶技巧、普通になったよね」=「全体的に今の音楽、難しいのが当たり前になった」
→「だからカウンターとして時代の雰囲気をうまく取り込みつつのシンプルなリフ重視歌謡ロックが出てきてる」
っていう風に「自分には」みえています。このあたり概観な上に、偏見的な音楽史観によるものなので、ツッコミ大歓迎。とくにメタルのオリエンタル和要素の取り入れっていうのはGYZEの4thあたりで、ほーうなるほどそっちに進んでいってるなぁ、というのは把握していますが、まだバリエーションを追いきれていなくて。
で、自分はこのちょっと前の超絶技巧派(UNISON SQUARE GARDENを想像してみてください)の方向も、2020年のカウンター的シンプル派(ザ・リーサルウェポンズを想像してみてください)の、どっち側に着くんだ、って話ですが……
UNISON SQUARE GARDEN「Phantom Joke」ショートver.
ザ・リーサルウェポンズ『プータロー』 THE LETHAL WEAPONS - Pooh The Law [EngSub]
はっきり言いまして「その、どっち?! っていう図式そのものに乗りたくない」っていうのがあります。ユニゾンもポンズもどちらも今自分はヘビロテしています。ポンズの「E.P.」は聴けば聞くほどハマりが激しいですし、ユニゾンが先日発表した8thなんて、音楽性の情報がほとんどないにも関わらず、今から「これが出るまでしねん!」と思っていますよ
例えばビリー・アイリッシュがどうこうとか、King Gnuがどうこうとか、ヒゲダンがどうこうとか、ミュージシャン個別の「音楽解釈」については、やはり聞き込んで、自分の中で「なるほど」と思いたいです。というわけでこれからKing Gnuの「CEREMONY」をPCにインポートしたので聞くわけなんです。そのチョイスの理由ですが、「うーん、【飛行艇】のリフはイケてますよ」「勢喜遊のドラムのグルーヴのドタドタさってやっぱ独特ですよ」ってあたりの小さいものですが、そういう小さいきっかけを大事にしていきたいと思っています。
その一方でいわゆる「時代のアイコン」みたいな、時流ありき、トレンドありきの聞き方っていうのを、もう本当に「切っていいや」と確信してしまったというのがあります。
なぜ時流を切っていいや、と思えるようになったかというと、まぁそんだけ歳を重ねてしまったんですね。とくに自分の音楽の聴き方が、かなり「時代を遡って、その時代の総体を想像しながら」の聴き方だったんですね。5~60年代のハードバップ、モード系のジャズ(そして70年代のフュージョン以降で分裂)というのとか、80年代のニューウェイブに対する「オルタナ」勃興、とか。NRG系、ユーロビートの日本歌謡融合からトランスに移る過程とか、まあそういう風に「時代を概観しながら聞いてきた」というのはあります。
だから今、の時代においても「時流(シーンのトレンド)」をある程度は意識していました。少なくとも、トレンドに浮かんだからといって、「ただそれだけで嫌ッ!」というあまりにスカンピンな脆弱な理由で、自分の音楽の可能性を封じたくなかったですし、老害にもなりたくはなかった。
で、その結果、努力してシーンを多少は見よう、としましたが……その「シーン概観」単位では、自分としては実りの率が少なかった、と言わざるを得なく。
自分のやり方がマズい、っていうのはあるんですよ。
「あ、このバンドいい!」→「仲良しのこのバンドもいいっ!」→「うわ、そうかと思ってたらこんなところにもマブいバンドが!」→「このシーン最高ッッ!」
っていうのが健全で自然な流れです。「そういう流れ」が自分のなかで自然に起こらない限り、やっぱそれは無理してるんですよ。
実際、自分が知ってる音楽ファンでも、
「ここしばらく新しいミュージシャン発掘していないな……」→「なんとなく最近のとあるバンドを聞いてみる」→「ウォーッ!ウォーッ!うぉーーーっ!(再燃)」
っていうパターンをよく見るようになりました。
おお、自分も最近の音楽についていけないようになったオッサンになったか、と思うのですが、どうなのだろう?ちょっとそれを断じるにはまだ早いような気がする。なぜなら、
なぜなら、
アーッこりゃ確かに国内や英米の新しいシーンに本腰入れるばかりなことは出来ないゾーッ、と。
つまり、これまでは「若さゆえに、今を知らなかった」というのがありましたが、ある程度歳を重ねて「これまで」の音楽世界樹の幹や枝がどんどん伸びてきて。そして他のいろんな国・過去の時代の音楽世界樹も視ようとしていて。その上で自作曲の創作までしようとして。これまでの蓄積が、どんどん爆発していってる。そりゃ「今(時流)の流行歌」にまで手を伸ばせない、っていう話です。
じゃあ「これまでの音楽世界樹」をあっさり見限って捨てるか、っていうとんでもない話にどうして耳を傾けることが出来るでしょうか。そんなの小理屈にすぎませんよ。そんな安い音楽人生を送ってきてないぞ。
ていうかこれ、アレですね。贅沢な話ですね。すでに自分は豊穣に実り育った音楽世界樹を所有してるっていうのに、まだ新しい何か、見知らぬ何かを見たい、って願っていて。しかも音楽世界樹から得られる滋養は年々ますます爆発してる。贅沢すぎる。暇してる場合じゃねえ。
だから、いまこの自分の音楽世界樹の爆発に身をゆだねるだけでいいかな、っていうのはあります。それが自然な結論。少なくとも上記「あ、あのバンドもこのバンドもいいっ!→シーン最高っ!」の図式のように、「うひょーっ、この国のアレおもろい、昔のこの音源これおもろい!」っていうのが、自分は上記の項目列挙のように、いろいろあります。「時流」をいつしか自然にオミットするほど。
つまり、日本・米国・英国の流行歌は、多分今のまんまでも、まあ自然に、いつかは入ってくるだろう、っていう据え置き感ですね。米津玄師も自分の中に、6,7年くらい遅れましたが、しかし入りつつあります。面白みを少しわかるようになってきた、というか。米津さん。
そんなわけで、相対的に「時流(トレンド)」の重みが自分の中で薄れて、弱くなっていった。そして、以前はコンプレックスだった時流の追い切れなさも(ほら、ビレバンでのPOPにちょっと忸怩たる思いをするアレです)、自然と「切る」ことが出来た次第です。
それよりもやっぱり「知らない国、知らない心象風景」の方が、自分にとって重きがあるんですね。他人が「えーっ、まだ2020年に来る、コレを知らないの~っ?」って差異化ゲームで煽ってきたとしても、冷静に考えれば、だいたいそういう手合いは1940年代のチャーリー・パーカーのノイズだらけの音源(天をハイスピードで駆けるペガサスのような天才)を出せば蜘蛛の子を散らしてピャーッと逃げる雑魚だというのは論じるまでもなく明白ですし。はっきり言いましょう2020年に来るソレをしらないよ。しらないから選り好みも、拙速な判断もしないよ。君ら「教えたい」のか「マウント取りたい」のかどっちかにしてくれよ。そんで「教えたい」のだとしたら、明らかに手法間違ってんからなKIDS、ってな話ですよ。
最近「考現学」というジャンルに目を向けるようになりました。路上の標識とか、道路の様相であるとか、「当時よくあった、普通のイラスト」であるとか、そういう「近いむかしの、みんなが見向きもしないささやかな現実アイテム」をやたら楽しみたがる、っていうジャンルです。Vaporwaveと近い。
つまり「楽しみたがろう」と思うその気持ちが、やたら「音素材」に向いていれば、そこで音楽趣味は成立する、って話です。すごい大雑把すぎる括りですが、まあいいじゃないですか。我々の何らかの達成であったり、時代であったりも、いずれ消え失せます。でも今日、音楽を聴いてなかなか良い感じになって、自分で納得いく音楽史観で、音楽世界樹を伸ばすことが出来たら、それでいいじゃないですか。自己満足こそが趣味の王道です。そしてそれ以外の王道はありません。
まあここまでお話しても、やっぱりKIDSからは自分は、老害おっさんということになるのかなぁ。グフフそれならばおっさんの音楽的手練手管のウネウネにいつしか飲み込まれるのがKIDSよグフフ! シーンの移り変わりと、幾多の「またかよ」をこっちは味わってきてなお、強靭に鍛えられた音楽世界樹よ。
あなたの知らない世界へ、光へ輝く世界へ!(人間椅子っていう50歳代のEUツアー大成功させた70年代風ハードロック/プログレバンドをロールモデルとしています)
【EU TOUR 2020】NINGEN ISU/ Heartless Scat (The Underworld Camden)