残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

「グロック以降のプラフレームハンドガンなんて玩具だぜ」みたいなことを抜かす老害で終わるよりも、純粋趣味道の弾丸を放とうって話

 

キャッチアップ、レイテンシー

怖い話ですね。非常に思い当たるフシがあるというのがまた怖い。自分が銃器知識を丹念に蒐集していたのが十代の頃で、あの頃は毎日銃器本や銃器雑誌やモデルガンに触れておりました。ベレッタのM92とM93Rの違いが判らないなんて「ア・リ・エ・ナ・イ」状態でした。

だが今はどうだというのか。わたしは新しい銃器知識をキャッチアップしているというのか。いやしていない。ちょっと前に久々に買った銃器雑誌で、いわゆる「modernized AK」スタイルのアサルトライフルを知って、あー時代が確実に変わった、と今さらながら思いました。AKと聞いてあの木製ストックと剛健性を第一に挙げるのはもうロートルなんだなと。共産圏の銃っていうイメージも、もう今を生きるヤングにとってリアリティのない「?」であるのでしょう。

むかしのことを思い返してみる。
わたしが十代の頃、銃器業界のトップはベレッタ、グロックH&Kというあたりが席巻していました。コルトのガバメント式ハンドガンのライセンスが切れる直前直後あたりで、各メーカがいわゆる「ガバコピー」に勤しんでいた頃。S&WのM500リボルバーが「S&W最強伝説未だ健在なりし!」という話題はありましたが、これにしたって今思えば「古き良きアメリカ」追慕の回顧であったなぁと。すでにこの頃、ハンドガンのハイパワー競争っていうのはとっくに終わっていて、マン・ストッピングを云々するのはサブマシンガンをいかに運用するか、って議論になっていました。というか話はすでに銃器の「威力」よりも「コストと安定性」に移っていました。

すでにこの時代(90年代)でさえ、ガバやS&Wが「古典」になっている時代でした。モーゼル?それは骨董愛好の領域でした。

じゃあ今の銃器業界はどうなのか。自分がツイッターをやっていた頃(この10年です)、RT(リツイート)でコルトやレミントンが倒産!とかいうのが入ってきて、コルトとかレミントンとかの名前を知ってるガンマニア寄りゲーマーは「えーっ」と騒いでいました。

でも自分はもうちょっと冷静に「まぁ前々からのアメリカ銃器メーカ業界の商売まわりから考えると、それもそうなるだろうなぁ」と、正直「ほーぅ、そうかい」くらいではありました。

その程度には、アメリカ銃器メーカのしんどさっていうのは伝え聞くくらいには、一応情報をキャッチアップはしていたことになるのかしらん。でもそれは例えば世界情勢でいうところの「北欧の福祉モデルは優秀だったけど近年はやっぱりリソース不足でしんどそう」みたいな雑な把握でしかなく、それくらいは銃器マニア業界の経験があれば誰だってわかる。

だいぶ話はズレましたが、確かに新しい銃器、兵器の型番、覚えられなくなったなーっ。もちろん当該ツイートのユーリィ・イズムィコ先生こと小泉悠氏はロシア&極東の軍事の専門家ですから、自分のようなニワカミリオタまがいとは知識レベルもコミット度合いも天とミトコンドリアほど違うというのは大大前提として。ましてイズムィコ先生はそれ(軍事アナリスト)で専門的にごはんを食べているのだから、軍事知識をキャッチアップ「する・しない」「したい・したくない」の話ではないんですよ。

そう、要するに、他でもないわたくし自身が、ミリ(軍事、武器)関連に対して、かつてほど熱が失われている……あー、この表現するのキツい……「老害」になってきてる、っていう話なんです。

 

自意識を間違えた奴が自爆しそうだよな

その「老い」を認めるのは……耐えがたいものだな!

しかし実際、自分は「もう知ってる」と思い込んでいるわけです。ていうか実際知ってるわけです。日本刀の打刀と太刀の違いを。撃鉄のシングルアクションとダブルアクションの違いを。キングタイガー王虎もといケーニヒスティーガーIIヘンシェル砲塔を。スピットファイアの栄光のスーパーマリンエンジンを(youtubeさえあればレストアされた実機のエンジン音を聞ける時代なんだぜ)。十代からこつこつと雑誌や本を読み、模型を作り、妄想たくましくしていたわけです。その熱は嘘じゃない。そして妄想と分かちがたい知識、そのこびりつき度も嘘じゃない。

問題は、「いま」の武器・兵器界隈の現場にコミットしていない。ようはマニアとして「熱」が燃えておらず、かつての熱の残滓で動いているようなもの。今自分はついったーをやっていないので、「かつての知識」で老害マウントとることもないのですが、しかし、例えば創作でミリ(軍事)知識を使うとなると、「古いよそれ」となりそうな感がある。歳をめされた女性が、例えば少女趣味小説を書くとして、しかし現代のガールズ知識のディテールがコレジャナイ感になっているのと、構図は全く同じである。

「現代の●●知識のディテールがコレジャナイ感」というのは、見る人が見れば一発でわかってしまうことで。これはどんなに言いつくろっても、その取り乱し方と補填補足の仕方にすでに加齢臭がにじんでしまっているようなもので。こういう状況下に自分も足を踏み入れたとすると……ふと、かつて若者だったわたしたちの前で、あたふたして取り繕っていたおじさんおばさんの痛みが、やっとリアルにビビッドにわかってくるのです。

 

純粋さは隠すだけ損だろう?

マニアであったことは嘘じゃない。でも、「今、マニアじゃない」ことも、悔しいながら嘘じゃない。そして、軍事知識に代わるものに今夢中になっているのも嘘じゃない。さらには、今だって決してミリ(軍事)、武器が好きなことも嘘じゃない。嘘だったらどうして未だに中2妄想箱庭で遊んでいるんだ。模型をやっているんだ。

「自然であれ」と自分の中のマニアの古き血が告げる。
「そして驕るな、在野の趣味人たれ」と古き血が静かに告げる声を聴く。

自らの現在の限界を知るということは、むしろ在野の趣味人として喜ばしいことです(研究者的態度、とも言います)

わたしは確かに、いまは武器、銃器、兵器などの軍事のマニアではない。「昔好きだった」程度のものです。でも、全くの未経験者からしたら、結構知識は持っているのです。ならばそれはやはりアドバンテージでしょう。知識は古いかもしれませんが、「銃器の基本構造」は熟知している。タマを飛ばすのが銃器なら、その基本は。それを今からイチから覚えなおすのとはわけが違うのです。勘所は承知している。

そんならあとは知識と熱の問題で。以上を一言でいえば「いかに純粋でいられるか」ってことです。この「純粋(なマニア的態度)」っていうのは、「いかなる場合でもマウントをとろうとしない」っていうことです。純粋さとマウントって水と油以下どファッキンじゃないですか(まじで)。それくらいの自制をせねば、「古参マニア」とは名乗れまい。

 

だから記念日と称してしまえ。皮肉は却下だぜ、クワイエット

 老いを認める。いくらでも言い換えましょう(この時点で老いだ)。「現時点での限界を認める」。でもくじけはしない、卑屈にならない。わたしは自分の知識のメンテナンスをしたいと思います。今だって武器が好きなら、やっぱり実際の武器をメンテナンスするように、知識をメンテナンスしていきたい。

かつてわたしは、モデルガンでですが、ハンドガンのフィールド・ストリッピングなんぞ目をつぶっていても出来たものです(実際やった)。それくらいの知識を、かつてのように身体化したい。

まぁようするに、人生を楽しみたいって話です。誰かに追いつきたいとか、引けをとりたくないとか、で趣味をするのだったら、ハナから趣味をしない方がずっと健全だと思います。ようやくわたしもそのあたりを心底了解するようになりました。趣味人として周回遅れのスタートかもしれませんが、まぁそれはよろしい。

なぜ趣味をするか、といったら、自分の機嫌をとるため、というのが、今わたくしが気に入っている表現です。インプット→アウトプットの義務だとか、創作生産性の義務だとか、今はもういいや、と「思い込もうとしている」のです。思いのほかこの「自分の機嫌をとる」っていうの、つい日々の生活で忘れてしまいそうになるんです。

つい「無駄にしたくない」とか「趣味的生産性がー」とかって考えそうになる。でも、今は「おっとっと、いけないいけない、自分の機嫌をとろう。やっぱ今日も疲れてるんだから」っていうように思い返そうとしています。意識しないと、つい義務感に引っ張られる。純粋じゃないですね。純粋でいたいんだ。少なくとも趣味においてはどこまでも純粋にいたい……!

そして自分の人生は、常に趣味人たりたいのだ。でも趣味を義務にしたくはない。ここのところ難しいなーっ。常におのれとの格闘か。でも己自身を大切にするのはおんのれじゃ、の精神です。趣味道の功夫クンフー)です。生き延びたんだから趣味に感謝できたら最高だ。よし、これから自作中2武器のデザインをし直しですわぁ。

 

※今回の章タイトルは以下の曲から引いています。

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キミたちの日常には耽美シューゲイザーの幻想が足りないのは明白

今日も仕事や日常にお疲れですか。そうですか。嫁姑問題? マイワイフがキレて自分のおもちゃを全部処分した? あるいは土地遺産問題? どうでもいいわ、しね!

よし、古今東西ドリームポップ/シューゲイザー(以下耽美シューゲ)を聞こう! わたしたちの疲れた生活には、幻想に身を任せ、幻視の為に轟音を聞き、心象風景に逃げるっちゅうことが足りんのですよ!

 

●耽美シューゲのオレオレ定義

幻想

・ノイズギターの壁が揺れている

・クリーンギターのピャァアンとした鈴鳴りの音が揺れている

・心象風景を幻視してしまう……

・ヴォーカルは不思議系、あるいは幼年期への憧憬に溢れた切なさ系

the pillows山中さわお氏はオルタナの定義を「当時の先鋭的アプローチにカントリー音楽の流れが混ざり合ったもの」としたそうですが、それなら耽美シューゲはもっと簡単で「フィードバックギターノイズシンフォニーとカントリー精神の融合」っていうのが一番手っ取り早い定義です。

・疾走よりも揺れ揺れの耽美幻想を

・おれたちはエフェクター(とくにファズと空間系)に多額の金額を投じる

・じゃあヴィジュアル系V系)?って言われると、それは違うが、しかしthe cureとかの80'sゴスの流れを無視してドリームの耽美を語ることは不可能だし……まあここに関しては「フィードバックギターノイズ(の壁)」を絶対に必要としている、ってあたりでひとつどうか

・ちょっとだけ、イモい(田舎っぽい)(だからバリバリ都会系の耽美シューゲって成り立たないんよね)

・馬鹿野郎その上記イモさは幻想への銀の鍵なんだろが

 

●以下のyoutube参考音源ですが(取説)

「これが耽美シューゲの教科書だッッ」とするつもりはありません。以下は単に自分の音楽favブックマークです。わたくしが耽美シューゲを聞きたいな、ってときに引っ張り出してる音源、ってだけです。

だから、耽美要素のない「素晴らしい轟音」は、あえてここから排除しています。モグワイ入れてないし、ソニックユースもだし。最近改めてニルヴァーナのカートのギターサウンドってやっぱ良いな、って思ってるんですが、それでも耽美とはズレるので入れていません。

今回このfavブックマーク記事をupるのは、ひとえに今の自分がアートスクールを聞いて、耽美シューゲはやっぱり良いな、と思ったのが理由のひとつ。

もうひとつは、アートを勧めてくださった音楽ブログ管理人さんが、今現在inジャストナウタイム、「Loveless」以前のMy bloody valentineに相当ハマりかけておられて、じゃあ耽美シューゲの沼世界にズッポンと蹴落としてしまえ、という酷い理由です。

じゃ、今日もレッツ轟音!

●Ride「Like A Daydream」

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まぁ、アートスクールから耽美シューゲという路線で、わかりやすいのをひとつ、っていう。

「ドリームポップ」と「シューゲイザー」の違いはひとえに「フィードバックギターノイズシンフォニー」(の壁)がどうしようもなく含まれているか否か、という問題です。だから耽美シューゲ以前にドリームな音楽を演っていた奴らも「耽美先史」として語ることは出来ます(それこそキュアーとか)。でもそこまでいくと際限がないんで、この記事では一応「ジーザス&メリーチェイン以降」とザックリさせてください。

しかしライドのこの音源、ドリーミーでありながらどこかスコンと抜けている所が、なんとも良いです。

そうなんですよ。耽美轟音濃度がマシマシになればなるほど良いか、っていうと、そこはそうとも言い切れない部分があるのが耽美シューゲの難しいところですね。次郎系ラーメンじゃないんだから。Lovelessは最高の名盤ですが誰にとってもの名盤ではない、っていう話でもある。幻想を夢見るには、時として軽やかさも必要だったりするから。

●MONO「Nostalgia」

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で、そんなことを前に言っときながら、いっきにポストロックでシリアスな方向にいくというね。日本のレジェンドです。

薄曇りの空に遠く鳴る鐘の響きのようなフィードバックノイズシンフォニー。どこまでもシリアス、どこまでも幻想。現実と夢想の両方を、鮮烈な血すら滴らせているギターで貫いて、貫いて、あの地平まで!

●Ringo Deathstarr「Kaleidoscope」

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アメリLo-Fi文化というか、海岸端のガレージロック文化というか。

特にこの国には、ヘナチョコさと狂った轟音の壁を、さも「うーん、おれたち当たり前にやってるだけなんだけどな」と言わんばかりに肩の力を抜いて耽美シューゲを演っている奴らが結構いまして。

その代表格……インディー臭ぷんぷんで、「リンゴ・デススター」なんてバンド名を名乗っているくらいへなちょこで、アメリカの空の彼方に抜けていきそうで、どうしたって夢を見ちゃう、そんなインディー耽美シューゲ。次のバンドもそんな感じだよ。

 

●Soft Blue Shimmer「Chamoy」

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(公式bandcamp)

softblueshimmer.bandcamp.com

いやもう、こいつら最高なんですよ。カリフォルニア、ロサンゼルスのインディーバンドです。

自分は日本のインディーポップ/カセットテープレーベルのGalaxy Trainで知ってカセット買って聞いてみたんですけど、空(そら)の空気感や、水の飛び散り方が伝わってくるかのような瑞々しい揺れ揺れギターノイズ、クリーンギター。そこに絶品のエモーショナルなメロディのヴォーカルが乗るっていう、疾走軽やかさが。

あぁ良いなぁ、ああ良いなぁ、少なくとも今の自分のせせこましい圧迫された日常とは違うなぁ、っていう、軽やかさがあります。

 

●Cosmic Child「Blue/Green」

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最近知ったシンガポールシューゲイザーバンドです。いやぁ収穫収穫。王道の「鐘が鳴る」感じの空間系ギターワーク。そして空間の中をたゆたっているかのような、ぼんやりしたヴォーカル(誉めています)。王道の耽美シューゲです。こういう「居るところにはやっぱり居るもんだ」っていう音に触れられるから世界音楽旅行はやめられないです。

●Westkust「Cotton skies」

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スウェーデンシューゲイザーです。女性ヴォーカル。あああ爽やかーーーーッ!! こうやって轟音ギターとヴォーカルが一気に「世界の色鮮やかさを塗り替えてしまう」って感覚が、幻視、幻想を追い求めてやまない音楽リスナーの醍醐味ですよ。どこまでも走って行って飛んで行ってしまえっ、っていう爽快感。

まあ確かにド耽美は少なめですが、夜寝てこういう夢見ることが出来たら最高じゃないっすか?

 

●土曜日と人鳥とコーヒー「ニーナ(Re:Recording 2016)」

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アートスクールに影響を受けた、と、ギターヴォーカル/コンポーザーのYuki氏は語っていました。このギターの「揺れ」方、喪失を歌うヴォーカル、その幻視の仕方。これが耽美シューゲじゃなかったら一体なんだ、って感じの神戸の現在活動中のバンドです。

 

Sigur Ros「Olsen Olsen」

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「これはシューゲイザーなのか?」って言われたら、確かにギターノイズ要素は少ないかもしれない、と答えるしかないところがあります……。

しかし「空間に幻想が鳴り響いて、幻想音楽が現実を本当に再編成してしまう」っていうのの、ひとつの証左なんです。このPVは。だから最後までPVを一緒に見てみてください。

アイスランドの音楽です。自分が耽美シューゲの定義を「フィードバックギターノイズシンフォニーとカントリー精神の融合」と断言している理由のひとつです。

ART-SCHOOL「Flora」全曲感想ついったー連投

取り立てて意味のない前説

先日、久々に創作用のついったーアカウントにログインしました。

twilogを貼ります)

twilog.org

自分(残響@modernclothes24)のアカウントは、以前書いたように、昨年末で消去致しました。
この日記ブログをHTTPS化して、そのURL&ブログカード表示のテストをするために、唯一残してあった創作アカウントに久々に入ってみた次第です。

もうタイムラインの眺め方すら忘れてしまったくらい久々のついったーログインでした。せっかくだからちょっとだけツイート(つぶやき)してみよう、と。でも、やっぱり今の自分は、SNSを忌避しているようで、タイムラインの中でつぶやき行為していてしんどくなってきました。「人々の往来のなかにいる」って感覚がつらい。

ただ、この創作アカウントは、twitter小説のリアルタイム連投行為をそもそも行っていたものだったんですよ。なので、かつて日常的に行っていた「ついった連投(連ツイ)」がどれくらい出来るのかのセルフ調査を行うため、前々からきちんと聞いてみようと思っていた、ART-SCHOOLの4thアルバムについての連ツイ感想をしてみようとした次第です。

 

・過去に書いたアート関連の記事

(2ndアルバムについて)

遅ればせながら、Art-Schoolの2ndアルバムと自分の迷いon 2017-2018のおはなしを書いてみる。 - 残響の足りない部屋

(音楽世界地図scrapbox企画)

ART-SCHOOL - for only what sounds hearing over

 

●開始

ART-SCHOOLの『Flora』をはじめて聞くのよ。以下リアルタイムリスニング感想を投下します

1.「Beautiful Monster」

力強いベースの動きに、明るいコードワークが、なんとも「地に足の着いた」感を見せます。なんだ木下理樹元気でやってたじゃないか感。固かった種子は、それでも確かに芽吹き花となって咲いたという、春先の雨あがりからのささやかで力強い祝祭の息吹がある。

ベースはゴリっと刻んでいますが、ギターワークは浮遊する。そして木下の歌も夢見つつも、日常の確かさと祝祭の浮遊をどっちも纏っている。花が咲いたよ花が

2「テュペロ・ハニー」


Tupero Honey (LIVE)


またもやメジャーコード感の明るさに、なんとシンセが絡む。だけれどバンドサウンドの疾走感と幾何学的なギターワークが、明るさの中にも繊細さを見せる。木下理樹元気でやってたじゃないかパート2。

 

3「Nowhere land」

やや変拍子ちっくなリズムに乗せて、日記めいた木下の歌詞。本来ならカッティングやベースのR&B、シティポップ・ファンク感が軽快さを出すんでしょうが、そこに木下の歌と詩が乗ると一気にグルーヴがズルズルっと「屈託ロック」になるのが面白み。リズムが木下に喰われた!

 

4「影待ち」


Aメロで心細い街の灯りを表すかのようなミュートギターに木下の詩が乗る。サビの歪んだグランジギターとコーラスワークがまた良い。心象風景の繊細
どよ~んと重くなることなく、やっぱり日常を歩いているんだな、っていう歩みもある。「Love/Hate」じゃこういう足取りしてなかったぞ

 

5「アダージョ

今作、リフを練りこんでいますね。リズムも音色も。前よりも「明るくなった」ことの是非はともかく、リフの音楽的練りこみ土合は評価せんと嘘だろう

攻撃的なギターですが、クリーン音が補助して、ちょっと南洋的な抜け感もあったりして、木下理樹の「光」の解釈が変わったのか?とか

 

6「Close your eyes」

ギターの「揺れ」が心情の揺れをとにかく想起させる、っていうのはこのバンドのお家芸ですね。ただサビで「心の屈託や醜さを轟音でマスキングし葬る」みたいなのは今回あんまりないように思えます。地に足のついたといえば確かにストレートか。でも生の無邪気な肯定はやっぱない

 

7「LUNA」

ギターの落ち込んでいくアルペジオと電子音、空間処理。当時のポストロック界隈の影響もあるのかしら。そこまで実験的にも振り切ってはいないけど。

遅めのテンポの、やっぱ夜を歩いている曲。光はあっても冷め覚めとした月明かり。木下は本作では「(悲痛に)呟く」のでなく「歌う」のですね

 

8「Mary Barker」

明るいシャッフルビート、そうか何か酷い歌詞を載せるんだろうな、というアートスクール木下理樹への妙な予測ってなんなんでしょうか。でもこの曲ではそういう酷さの方へは行かないでよかった。良い意味で「昔の曲」って感じがします。古き良きあの日々、なニュアンス

 

9「SWAN DIVE」

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鐘のような耽美な空間ギター。ビートはしっかりと踏みしめて曲を進行させます。その中を木下の詩が歩んでいきます。

何かの光に向かってか、これまで目にしてきた光を忘れはしないぞという決意か。でもその光はもう一度終わったんだと。ギリギリまで両手を広げて入水するダイブ(水泳用語「スワンダイブ」)のよに

 

10「SAD SONG」

グランジ疾走曲。あ、2ndの頃よりバンドサウンドが上手くなっている!(失礼

そんなグランジロック手練感もあって、歌もしっかり聞かせてくれます。つまり詩の主人公もそれだけ一応はリアルに強くなったのだ、というか。でも相変わらず悔恨をしている……からこその魅力ですが勿論

 

11「Piano」

グランジ轟音を最終的にぶつければいいんだろ」みたいなバンドから「いろんな音楽を味わってみよう」みたいな音楽性の発展がみられる今作のアートスクール。そういう意味でもポジティヴと言えるでしょうか。中心にあるのが木下の悲劇美学ですから「とっちらかり」はないんですが。

うん、意外なほど「音楽性の散漫なとっちらかり」も「バンドの実験性」も感じられない。サウンドの色とりどりに、木下の詩と歌がしっかりと喪失悲劇の釘をブッサしているから、そこでのブレはないんですよね。それだけ伝わってくる木下の詩と歌なんですが

 

12「IN THE BLUE」

大地(グラウンド)的な広がりのあるドラムのビート。そしてシューゲイザー轟音。うっすら被さる高音が光というか光への希望らしきものを感じさせる。「堕ちる」耽美轟音ではなく「見据えて前に向かっていこう」という肯定感がある。生き生きとしている。バンドサウンドも「前へ!」と

 

13「THIS IS YOUR MUSIC」

シンセとギターの祝祭性。シャカシャカしたドラムワークが疾走性を余計煽る形の。「いくぜ!」って感じの。前の曲(Tr.12)からの展開と考えるととてもしっくりくる。それでもサビで「パッパッパラ~」と言われてビビったけどw

 

14「光と身体」

アコースティックギターが用いられたバンドサウンドのミディアムテンポ曲。「しっかりした」歌です。悔恨はあれど憐憫はない、悲痛ではあるけども絶望ではない、という。よし、木下、君は「しっかり悲しむ」ことが出来るようになったんだな、って偉そうにw
音としても説得力がある

アートスクールに「力強さ」って表現するの、すごい座りが悪いんですが、じゃあこう言いましょう「良い歌やないか……」

 

15「low heaven」

アルバム全体のエンドロール的な牧歌的ゆったり曲。結構ここまでの満足度が高いので、今このエンドロールを聞いていて「よし……」としているリスナー(自分)です。

木下と愉快なアートスクールの仲間達がどっかへ旅に出るなら「行ってこい!」でも「き、気を付けてね…」でもなく「そっか、じゃあ、また」みたいな軽さで十分でないか。それくらいには彼らも強くなったし、大丈夫だ、と思える。きっと。
少なくとも彼らがこの15曲のアルバムで見せてくれた物語に、そこらへんで心配にさせるようなヤバさは薄かった。「何かまたお話してよ」って送り出そう。

ああそうか。自分は木下理樹ART-SCHOOLに、「語り手」性というのを、いつしか求めているようになったんだな、と、ふと。おお久々じゃないか木下、ほう、何か話がある、ふむじゃあお茶でも飲みながら聞かせてくれよ、みたいな。自分の中に木下の物語を「聞かせてくれ」という態度が出来た。

「美しいけど辛いなぁ。それゆえの美しさだなぁ」と思っていた2ndアルバム「Love/Hate」だけど、本作「Flora」で木下に対するまっとうな信頼度が増した。この人の話、バンドの色彩を見たい聞きたい、と思った。聞いてよかった。バンドがポジ方向に振れた事の「わかりやすさ」が界隈でどう思われてるかは、まあお察しはする

ただまぁ、盤として「聞いてよかった」と素直に思えたし、木下理樹の世界に自然でまっとうな親しみを抱くことが出来た。個人的にはそのことがうれしい。

 

 

●このアルバムを聞くきっかけになった文章、そしてフリージア、バンド合奏

 

mywaymylove00.hatenablog.com

 

この連ツイ後、上記ブログ管理人・カナリヤさんからレスを頂き、このアルバムとも関連の深いシングル曲「フリージア」を教えて頂く。

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なるほど、今作Floraにつながる「路線」が見えます。あるいは木下理樹の見る風景の色彩、闇の温かさ、光の冷ややかさに、これまでとは違う、何かしかの変化があったのだな、ということがわかります。いろんな音を使っていますが、しかしオーバープロダクションという感じはしない。それよりも、ひとつの古い映画を見ているかのような情景感があります。この曲はこの曲だけでまとまっている、というか。だからシングルカットだけで、アルバムには入れられなかったのかな、とも。もちろん、だからといってアルバムよりも下、ってことはないんですが。シングル盤の数曲だけで構成される小宇宙のリードトラックとして任せられる、ということだと思うんです。

しかし、幸せになかなかなれないバンド、詩人ですね。ずーっと幸せを憧憬しているけど、自分にはそんな資格がないって信じ切っている。だからこそ見られる美もあるんですが、しかし、まぁ。

今、ふと、2ndの時の感想でも書きましたが、木下理樹にとってバンド・アートスクールが有る(トディをはじめとして)っていうことは、本当に、善いことなんだろうな、と自然に思います。

有難い、という言葉がありますが、有るのが難しい、ということで。

それは、木下理樹が自分の手足としてバンドメンバーを使う、ということではありません。

「そこにバンドがあって、皆で作っていける」ということが、ひとつの幸せの形なんだろうな、と。

もちろん、それはバンドメンバーとの和気あいあいを意味しているわけでもないんですが。「この悲しみがいつか消えてしまわぬように」というナイーブさを覆い隠すための手段としてバンドをやっているのでもない。

それでもバンドは……ああそうだ、日本語には「合奏」って言葉がありましたね。その営みが、木下理樹にとっては、我々が思っているより、もっと重要なのではないか、と思った次第です。

あなたのオルタナはなに

オルタナオルタナティヴ・ロック)って何ですか?

そこ行くあなたですよ。あなたのオルタナを聞きたいんですよ。わかっているんですか。

もう今おれはオルタナじゃないし、とか聞きたくないんですよ。あの日のオルタナが消え失せてしまいそうで、って話即ちオルタナなんですよ。

わかっているんでしょう。内心思っているんでしょう。だから話してくださいよ。あなたの心象風景を。

 

自分のオルタナの定義の話をします。

初めに、オルタナってのはノイズギターなんですよ。でもノイズをギャギャンンと余裕をもって鳴らしてさぁこれがオルタナで御座い、っていう安易さがオルタナなわけはないんですよ。商業オルタナなんつう悪名はここにかかるんですが。ええい、そんなものにこれ以上文字数を費やす暇はない。
で、その追い詰められた人間が放つ特有のノイズギターは、ある風景を絶対に伴うわけです。それ即ち心象風景の具音化であります。
ギターやアンプやエフェクターのブランド。それがあるからオルタナなわけじゃないんです。その愛器と幾多のライヴの死線を潜り抜けてきたからこそ愛器を愛器と為す「マイ楽器ラブソウル」の信頼。それは風景をこじあける鍵。あの日の心象風景を具音化させる鍵。だからファズを愛で思いっきり踏み込んでギターソロを奏でフィードバックノイズが走り電気音が感電する。どうだこれだ。


つまるところ、オルタナっていうのはギターノイズを使った音を介して、奴ら(音楽家)とおれら(聞き手)が対峙する。まずこのピリっとした対峙感があって、そこで奴らとおれらが音の中で無言の会話をするわけです。奴らの独特の意味わからん言語を、おれらは何とか聞き取ろうとする。そして時折垣間見える奴らの心象風景に、おれらがどこかで忘れ去ろうとしてきた感情を見出し、託し、同化させ、そしてまた音を聞く。

このギターノイズを介した心象風景の対話がオルタナティヴロックミュージック現象であります。

 

メジャーシーンからどんだけ離れているか、独自のキワキワバンド生活を送っているか、っていうのがオルタナの定義じゃないんですよ。メジャーから離れているっていうのは、ソニーミュージック本社東京都千代田区からどれだけ地理的に離れているか、っていう話じゃないことは明白ですが、しかし「独自のキワキワバンド生活」云々、っていうのにオルタナの本質を見出そう、っていうのは、ソニーミュージック本社東京都千代田区六番町から沖縄県波照間島(はてるまじま)まで離れる、っていうのとそんな違いはないと思います。
そのあたりの「アンチメジャー距離競争」っていうのは、さすがに今はないとは思います。あってもらっても困る。
自分はオルタナの定義を心象風景に置きたい。

 

心象風景の起こるノイズギターミュージックがオルタナ、っていうのが自分の荒い定義ですが、自分はこれでいいや。少なくともその定義で聞くオルタナに自分は用があるし、今も自分はその心象風景を大事にしている。

www.youtube.com


例えばの話、bloodthirsty butchersの「デストロイヤー」を聞いていて、「うあぁあ」と思うわけです。気分がアゲアゲになるのでもなく、リズムで踊りだすんでもない。

いつかの自分はどっかに向かって走っていたらしきことを思い出す。

なんで走っていたのかはよくわかんないけど、人生がハピハピHappy楽しすぎてそんな走り方をするとはちょっと思えないって感じではある。
そんときにセイタカアワダチソウが空に向かって伸びていたことを思い出す。

空の雲と夕暮れの赤が混ざって、少しずつ蒼の空が黒がりに混ざっていく。

薄い川の水の流れがやけに透明だったていうこととか。

どっかの工場の煙突だったか、どっかの団地の日常の灯りだったか、ともかくどっかの誰かの日常の静けさを感じながら。

自分は町の郊外を走っていたことを思い出している。35歳に無事になることなんて皆目信じていなかった歳若い頃があったんだよ。


それから年月が過ぎ、性欲と酒精と承認欲求で人間は腐っていくんだよ。そんな風景をどんどん見てきた。

でも性欲と酒精に逃げる前に確かに人々は頑張っていたっていうのもしっかり見てきたんだよ。どっちを許せばいいんだかよくわかんないよ。


そんな日々がどんどん重なっていく。一個一個のエピソードの鮮烈さが失われていく。熱い水に刃を入れるかのようなヴィキッとした鮮烈な印象が遠くなっていく。


やがてこんな自分でもどんどん日常がうまく回るようになっていく。仕事だって出来ちゃったりする。過去の自分からの進歩に笑ってしまう。だが心のナイーブさが磨滅していってるのにも気づいている。ナイーブさが無くなったから仕事も生活も無事に進められるって話だ。大人になったなぁ。


でも、いつかの自分がどっかに向かって走っていたあの時の鮮烈な悲しさと、赤い空に高速で際限なしに飛んで行ってしまいそうな感情ってやつ。そんな少年の自分に、どっかで嘘をつき続けているような気がする。

 

そんな一切合切を、オルタナティヴ・ギターノイズロック音楽が、スカーンとあの頃に蹴落として、スカーンとあの頃に非常に共振する風景を見せてくれる。「これだった、よな?」っていう感じで。

それが自分にとってのオルタナなわけです。そんなに簡単に忘れていい心象風景じゃないだろう?っていう。

 

以上の話を一言で纏めると「10代リマインダー」っていう空恐ろしいドライな表現ありがとう嬢ちゃんウヘヘ、っていう事になっちゃいますが、そんな事言ってくる奴はワンパンするにも値しないよ。


あなたにとってのオルタナとは何ですか?よろしかったら聞かせてやってくれたらうれしいです(コメント欄にでも)

清潔を巡る問答ーー熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その3

 

その1

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想 - 残響の足りない部屋

その2

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その2 - 残響の足りない部屋

 

この本の第5章は「秩序としての清潔」です。
「清潔」の分析をします。

 

Q「清潔でなくてはならないのですか?」
A「国民総出で全家庭が皆ことごとくオール・ボットン便所に戻りたくはなかろうでしょう。いやボットン便所もまた清潔への第一歩だったのですよ」

Q「清潔であるメリットは何ですか?」
A「疫病の回避ですかね」

Q「では疫病を回避できたら、そこでクリアっつうことで、どんどん増大していく清潔志向は、ほどほどに解除できないもんですかね」
A「いえ、次の疫病、次の汚濁、次の次の不潔を駆逐していくのが清潔道です」

 

Q「そもそも人間って動物は不潔ではないのですか? 平野耕太は漫画「ドリフターズ」で、戦国時代の人間観として「俺もお前も糞の詰まった肉袋」とキャラに言わせていますが」
A「アレ戦国の蛮族死生観やん」
Q「でも人間という動物の構造は変わっていないわけですよね。おつむに情報をたくさん詰め込んだら、戦国時代の蛮族とは別の知性体になれた、と断言はできますでしょうか」
A「当たり前に人を殺していた時代よりは進歩しているのでは」
Q「そこなんですよ。我々は現代人だ、って言っておりますが、たかだか70年前、世界大戦をやっていたじゃないですか。あの時代の方々を侮蔑するつもりはございませんが、あの時代の民衆の思考回路の極論に「生き残る為の殺人の肯定」は有った、と言えなくもないんじゃないでしょうか」
A「それを発言する時点で現代社会ではギルティの予感がしますぞ」
Q「もうちょい。つまり戦後70年を経て、戦後世代、まして先進国のミレニアル世代にとって、「生き残る為の殺人の肯定」は「漫画か?」というのが基本的思考回路です。だけどこの変遷はたかだか70年でしかないわけです」
A「つまりあなたの言いたいことは……死生観や清潔観といった人間観・世界観のフィジカル側面は、ただの現代人の加速した思い込みに過ぎない、と?」
Q「そこもうちょっとお話で詰めてみません?」
A「いいでしょう」

 

Q「本書の熊代氏はこの章で「秩序・清潔」と「暴力・不潔」を対比させて語っていますが、「秩序」を担保し保障するのは暴力です」
A「芥川龍之介の「侏儒の言葉」でも引いてみますか。---「しかしまた権力も畢竟はパテント※を得た暴力である。我々人間を支配する為にも、暴力は常に必要なのかも知れない。あるいはまた必要ではないのかも知れない」」

※パテント……特許

Q「人間を管理するためにも、清潔は常に必要なんでしょか」
A「いや、そこは違います。清潔はやはり耐えざる社会の衛生メンテナンスによる【善き報酬】にほかなりません。というか、そうであるべきなんです。清潔はステータス画面のグッド・パラメータであったはず」
Q「はず、ですよね。じゃなんで、こんなに息苦しいんですか、清潔衛生志向の現代コロナ禍社会は」
A「やはり清潔を強迫する【強迫性】によるものではないでしょうか」
Q「暴力と強迫の違いは?」
A「単純に、暴力によるやがての破壊を手前にほのめかす圧力……それを強迫と呼ぶのではないでしょうか。語義的には」
Q「強迫性障害によくみられる、過度の圧力反復性は?」
A「……良い指摘です、と言うのもなんですが(苦笑)。つまり清潔という【目的】を完璧に完遂するために用いられるのがそれ、と考えるのが妥当でしょう」
Q「なるほど、完璧に完遂。あなたがおっしゃった清潔道……「次の、次の次の不潔」の駆逐の為」
A「やばいですね、ヘルシングの世界だ」

 

Q「熊代氏は戦後世代よりこの話を進めています。もちろん私が上記で戦中世代のラディカルさを持ち出したのは極論を提示するためでありますが、しかし戦中世代は【自然】の中で闘争を行っていた、ともいえるわけです。現代の衛生社会……人工的管理社会が到来する以前の、【自然】と共にあった社会で」
A「そこはどうでしょうね。熊代氏もこの章の末尾で、500年以上前のエラスムスを引いているわけです。【都市】の誕生と民衆の衛生志向は、常に軌を一にするものであったでしょう」
Q「おっと失礼、これは確かに。しかし、衛生を巡るラディカルさが、この戦後70年で異常加速したのは、異論ありませんね」
A「ありません。この本、つまり熊代氏の目の見る問題提起は、そのあたりの急激な上昇を巡る諸相についての問題です」
Q「【自然】の話ですが、対比されるのは【人工】です。もう少し言葉を補えば、【自然(不潔)】と【人工(清潔)】の対比ですが」
A「少し話を急ぐようですが、それを【自然(不安定、不確定)】と【人口(確定的)】と補ってもよろしいでしょうか。結局、不潔と清潔を巡る話は、人間の「不安定で不確定な自然世界」を御する為の、安全と快適さ……つまり【確定性】を人工的に求める営み、と抽象できます」
Q「具体例プリーズ」
A「例えば便所ひとつとってみても、水洗便所を得るまでに、どれだけの人間の苦労があったか、っていう話です。草原の隅っこで獣やほかの蛮族の敵におびえながら糞をへりだす原始人スタイルから、人間は進歩しました」
Q「我々、うんこの話が好きすぎではないでしょうか」
A「汚言症なんでしょうかねw しかし、【自然】の例示としては分かりやすいんジャマイカと言ってみるテスト」

 

Q「だから【人工】は否定出来るものでなく、【清潔】も同じ。コトは程度問題ではないのでしょうか?」
A「問題は清潔道ーー「次の、次の次の不潔」の駆逐、というラディカル性をどう自覚するか、にあるのでしょう。しかし強迫性障害が一部の人間にしか、そのつらさを正しく認識されていない以上、基本的に清潔を巡るラディカルさは、オーバーキルを常とするのが普通になるでしょう」
Q「オーバーキルが普通、ですか。では次の清潔、次の次の清潔、は……」
A「ザラキめいた即死呪文に近づいてきたなぁ(涙」
Q「現代人は戦争でもしとるんですかw」
A「そこです」
Q「えっ」
A「相互監視社会、ディスコミュニケーション、正論ポリコレ合戦、リスク管理、除菌……実際のところ現代人は相互に【闘争】をしている、というモデルを、もはや早々に当てはめてみた方が、安全側の議論だ、という気が、わたくし、あなたの言葉で急激にしてきました」
Q「これは【市民社会の議論】のレベルではない、と?」
A「「万人の万人に対する闘争」ということばがありましたね。悲しいですが、現状が「そうではない」と言い切れますでしょうか。もちろんホッブズが『リヴァイアサン』で描いていたものと逐一の一致はしませんが、しかしインターネットを見るだけでも、万人が万人に対して闘争してるように見える時があります。どうでしょう」
Q「……じゃあ、どうすればいいんですか」
A「………………」

 

Q「清潔を巡る話が、「万人の万人に対する闘争」にまで行きついてしまったのは悲しい話です。いったい皆誰と戦っているんだ(AA略)、っていう」
A「ここで熊代氏は【清潔】がおかしいのでなく、清潔を維持しながら【排除、阻害、先代からの不合理】を普通の人々に喰らわせるに至ったなにがしかをきちんと検討し、この現代社会の人工的な秩序というシステムそのものをチェックする必要がある、と述べています」
Q「前回の記事でこのブログの管理人はメンテナンスの必要性を言いましたが」
A「それが暴力性や強迫性につながらなければ良いんですがね。少なくとも、現状の清潔社会もまた、ある種のメンテナンスを絶えず行ってきた結果であるのですから」
Q「つまり、闘争に陥らずに、メンテナンスを続けていく【無限の撤退戦】が今求められるというのですか?非常に地味な結論になりますが」
A「いっぱつカマシたれ~、的な革命思想にまずは陥らないのが重要です。というか、一番最初に話を戻しますが、この社会の【清潔】なるものを、自分自身が勝ち取って磨き上げていない(つまり所与の前提となっている)事も、そもそものオカシな話であるのです」
Q「まぁ、自分でキレイにしてメンテナンスした玩具は愛着がわきます……そういう話ですかね?」
A「それを社会にまで敷衍できたら良いですね、という話です。しかし安易に社会参画がどーの、というのもわたしの趣味ではなく。やれる範囲で自分の生活のメンテ。それがそもそもの【清潔】だったはずですから。なによりも問題は「次の、次の駆逐」という清潔強迫性障害なんです」

 

(熊代氏のこの本の感想はまだ続きます)

最近わたしの音の暮らしはこう

この数か月、VaporwaveやチルウェイブやシンセウェイブやLo-Fiヒップホップのmixを延々とBGMとしてかけている事が多くなった。

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不意に空いた休憩時間、そんな現実の時間(とき)の流れを、無為に溶かしていってるという感覚がたまらない。
実際、それだけ自分も疲弊しているのだと思う。
だいたいこのveporwave感覚は、日時が変わっての深夜TVのタルい番組やCMを延々と見ている感覚だ。深夜ネットサーフィンをしてどこぞのまとめサイトでユルい動画や音を延々流し聞きしている音感覚だ。明日も起きなきゃならないのに眠れず、微妙な焦燥感とダルさがコーヒークリープのように入り混じった灰色タイムフィーリン。
現在、世間は連休らしい。たまたま今日だけは自分も休日が重なったが、その休日の時間をこういうダルい音で溶かしている。

たびたび自分が言う「世界音楽旅行」で例えれば、これは知らない国に入国して「ウォーッ」とテンションが上がっている状態、ではない。
むしろ旅の途中、安宿に泊っていて、降り続く長雨で外にも出られずに、窓の外を延々と眺めているような感覚。
ヨーロッパよりはむしろアジアの地方都市の感じの。妄想で例えるという。

疲れているのだろうな。本館ホームページガリガリ更新する熱量が今ちょっと薄れていて、脳内の思考を、こうしてただ文章にして放出している。自分もダルければ音もダルい。このシンクロに癒されているといえば、癒されている。

(……twitterを止めて以来、日常でふと脳裏に泡のように浮かんでくる、他愛もないささやかなジョークを、たゆたう河川のごとき世間の流れに放流するという「即興を詠じる場」を失ってしまった。もちろん捨てたのは自分であるが)

(……もうひとつ。無理をして「明るく振舞おう」って事を考えて、そのように実行に移そうとしている時点で、やはりすでに疲れている……)

別に自己正当化するわけではないが、上記「このダルさ」もまた音楽の旅と言えるのかもしれない。人生は旅、というのもまた手垢がついた表現だが。

向井秀徳アコースティック&エレクトリック

そういえばまた向井秀徳の音楽を聞いている。それも向井秀徳アコースティック&エレクトリックのライヴ音源をひたすらに。

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ナンバーガールのヒリヒリ感やZazen Boys(とくにMIYA加入以降)の戸愚呂巻く蛇のようなキワキワ感も素晴らしいものでありますが、今は向井アコエレをとにかく聞いている。そして染みる。自分も歳をとったのか、と一瞬思うが、いやそれは本質ドンズバではない。このわたしの日常の最近、やっぱり何かしら疲れている。でもその疲れている目に映る風景に愛おしみを抱きたいとも、少し思っている。その道しるべのような道祖神の音。それが今の自分にとっての向井アコエレなのだと思う。

どの時代の向井アコエレか、と考えたのだけど、しかしどの時代の向井アコエレでもOKのような気がする。06年のフジロックでも、最近のフェスでも、この向井アコエレの弾き語りスタイルの演り方が変わっていないのだから。というか、向井アコエレの本質は、時代性とか流行とかとは実際無縁の所で弾き語っている唄うたいなのだ。冷凍感覚を抱えたどっかの誰かがふと立ち止って聞き染みる歌なのだ。すごいな向井は、と思う。失いたくない唄うたいだと思う。

 

未だに音楽に飽きていない自分自身に少しながら、ぢわぢわと驚いてもいる。

 

(カナリヤさんの日常報告シリーズに対する返歌でもあり)

Illusion Is Mine - Nothing is difficult to those who have the will