残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

もしも紙の本や音の盤を愛し続けているのならば

しかし「苦楽」特典缶バッジ、思っていたよりややデカいな! 自分は缶バッジが好きで、特典で缶バッジが付くとなると、たいていそれを選んでしまうのですが、他の缶バッジより明らかにデカいぞ。(そう言いつつニヤニヤしながら帽子につける)

 

暑中お見舞い申し上げます

ひどく暑いですね。そして病禍の社会で毎日を過ごしておられて、お疲れ様です。お元気ですか。お元気であってください。どうか。そして、またいつの日か、直にお会いできたら、と思います。

もしかしたら、わたしにも、あなたにも、不幸なる未来がやってくるのかもしれません……前回にお会いした時が、今生の別れなのかもしれません。しかし今は、お互いがしっかと日々の守りを固め、正しく感染症を恐れ、しかし対策する。自衛し耐え忍び、生活をする……という事しか出来ません。

せめてそういう、日々の自衛の営みに「希望」という名札(ラベル)を貼ってやる程度のことです。缶バッジみたいですね。

なんにせよ、この暑さと社会神経戦で、バタっと倒れないようになさってください。わたくしにとってあなた方は、倒れられたら凄くイヤだなー、と思うような方々であります。

 

それと、「楽しみ方」を忘れないようになさってください。趣味の話です。

とくにSNSに居たりすると、ついつい「趣味の界隈の現状を憂う」みたいな感じに、アレコレ語ってしまうことが増えてしまいます。そういう屈託が分かるくらいには、わたしたちも趣味を長く続けてきたんですね。

趣味を長く続けてきた事そのものは、まぎれもなく趣味人の証明。趣味道を歩んできたという、誇らしい道程の歴史です。

わたしたち、初心者のとき、右も左もわからなかったときに、あの傑作に心をブチ抜かれてからこのかた、ずいぶんいろんなことがありましたね。そして、今も趣味人を続けておられる。素晴らしいことじゃないですか。

趣味を長く続けてきたことを、呪いの道程ととらえちまうのは、やっぱよろしくありませんよ。

 

でもねー。この社会の病禍のなか、趣味人として機嫌よく居続けることって、難しいですね。

どんなに正しく科学的な知識を持ち、知見をアップデートし続けて「正しく恐れ」続けていても、わたしたちは「恐れ」続けたことによって、確実に疲れてしまうわけです。

その日々の疲れに、スルっと「悪しきもの」が入り込んでしまいます。陰謀論にせよニセ科学、オカルトにせよ。もしくは、疲れから、自然と機嫌悪くなっていきます。趣味に集中できなくなっていきます。うーん。

 

ところで、自分は「この作品は、物理媒体で持っておくべき価値があるから、紙の本やCD、レコード盤を買うッ」という作品・作家がいくつかございまして。今日の話題はそれなんですよ。

 

8月の予約本と予約CD

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予約して買ったCDと本

人間椅子「苦楽」(22枚目のフルアルバム)

panpanya「魚社会」(8冊目の商業単行本)

 

数か月前からweb予約して、この8月初頭に自宅まで届きました。予約し、確実に手に入れるということをするだけの価値のある本、CDです。

アルバム「苦楽」、まず通しで2回聞きました。最後の曲「夜明け前」。なんと誇り高い曲、精神性でございましょうか。骨太な意志、不屈の意志を、歌詞と曲と演奏と歌唱から感じます。

曲調は結構バラエティ豊か。前々作「異次元からの咆哮」にアルバム構成的には似ているかも。


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↑ アルバムの最初を飾るリードトラック「杜子春」。今回の文芸ロックのひとつは芥川ですよー。

 

panpanya先生の本は、紙の本で手に取って、触り、匂いを嗅ぎ、愛でながら、内容の漫画作品を読むのが、実に楽しいですね。今回も装丁が実に楽しいです。さぁカバーをめくるんだ。そして特殊加工のカバー裏を触るんだ、触るんだッ。

modernclothes24music.hatenablog.com

 

panpanya先生のファンたる自分は、漫画雑誌「楽園 Le Paradis」本誌及びweb増刊で、掲載作品を逐一チェックしておりました。先生のホームページの日記も逐一チェキ。しかし、こうして纏めて&通して読むと、また味わいが違ってきます。カステラ風蒸しケーキは一種の瞑想なんだよ。

 

見慣れたはずの日常が、僅かに角度を変えただけで世界はかくも曖昧模糊。いずれが幻なのか、この世か、あの世か…。

 

panpanya先生の楽園コミックスからの2nd単行本「蟹に誘われて」の既刊解説の言葉。この文が、自分は凄く好きなのです。

社会は、世界は、少しだけ見る角度を変えれば、まったく別の何ものかが見えてくる時がある。日常といいつつも、それは深淵の混沌なる大迷宮かもしれない。

あるいは、すぐ隣に虚無があるかもしれない。そう、すぐ隣に、目と鼻の先の街角に……


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そう考えると、希望を抱けるかどうかはともかく、そこはかとなく楽しくなってきませんか。少々の痛快ささえある。

 

確かに「毎日楽しく」って難しいです。特に最近は。でもそれだけに、「あいつ、あのコロナ禍の頃、楽しく過ごそうとしていたんだぞ……ッ!」っていうの、趣味人として、キレッキレにカッコ良くないですか!?

いや、他人からの評価を求めるばっかりなのは趣味人として、少々よろしくございません。でも、自己評価としてはどうでしょう。未来の自分が過去を振り返って、「コロナ禍っていう大変な頃だったけど、あの頃の自分は趣味に頑張っていた」って評価できたとしたら。

……それは、己の臨終の間際であっても、結構誇れることだと思うんですよ。三途の川ゆく時でさえも、持っていくことが出来る誇り。自分は確かに趣味に生きることが出来たし、それほど自分の人生にとって趣味はやはり大切なものだったんだ!っていうことは、やはり誇れることです。

よーし、それじゃ今後の生き方は変わらず、趣味の路線でおもかじいっぱーい!ですよ。そう思い直すことは、自分にとって有意義なことです。

じゃ何をするか?ますますCD聞いて、panpanya先生の漫画読んで、模型作ることですなぁ。なんだ、今までとやること、まったく変わっていないじゃないですか!

「Analog Homepage」更新 キャンプ日誌6th

本館ホームページ(テキストサイト)、アナログホームページ更新しました。

6月初旬に行った、ソロキャンプ(6回目)のレポートです。

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森のなか

 

キャンプ日誌6th ~彼らの領域(テリトリー)

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10年ぶりに「らき☆すた」の二次創作小説を書きました

そんなこんなで10年ぶりに……。タイトルは、

「泉家とV」

●泉そうじろうはバ美肉しない

あきれるほど平和な埼玉県春日部市の住宅街の一角、
今日も泉家はインドアでありました。

Vtuberの動画を、ネット接続大型テレビで、親子で見ている泉こなたと泉そうじろう。変わらんなこいつら……。

泉こなた(以下:こ)「ねぇお父さん、バ美肉する気ないの?」
泉そうじろう(以下:そ)「技術的にはぶっちゃけ3時間あれば、今日中に【はじめまして! ヴァーチャル美少女小説家おじさん【彼方そう】ちゃん はじまります】をupることは可能なんだが……」
こ「おーいバ美肉する気満々だよこの父親……」
そ「ところが、どうもオレはVtuberに向いてないのではなー、と悟ったんだよ」
こ「えー。具体的にplz」
そ「仮の3Dモデルは持ってるし、俺のハイエンドスマホだったらモーションキャプチャーも楽にいけるし、VRヘッドセットだって良いの持ってるし……」
こ「完全に私が言える口じゃないけど、いくら使ったの?」
そ「そういうわけで、VRモデルに、いわゆる【魂】を入れることは技術的には可能なんだ。3時間あればupることは物理的に可能、っていうのはそういうこと。でもな……俺には、【魂】がないんだよ」

●魂、嫁、仮想ピグマリオン造形の失敗

こ「えーーーっ!」
あんぐり口をあけて衝撃顔で父を糾弾する娘(オタク)。
こ「お父さん、私をどう育てたか忘れたのっ!【オタクとは魂の在り方だ!】って私に冗談抜きで1歳から叩き込んだんじゃないっ!今さら何を!」

そ「まぁ聞きなさい。俺の嫁泉かなたという美少女がいるのだが」
こ「知ってるよ!私のお母さんだよっ!」
そ「こなたには見せていなかったが、VRかなた、もうあるんだよ」
こ「ええっ」

スマートフォンをぽちぽちやる父(リアル)。
そんで画面に出てきたのは、確かに、儚げなこなた瓜二つの容姿をした、在りし日の泉かなたの姿であった。
黒い3D空間に、漂うように、眠るように、VRかなたは在った。

こ「あー、お母さん……」
そ「3Dモデルはいろいろいじっていたんだよなー。オレは絵も模型(立体)も出来ないから、こーして文章(純文学小説)に行ったわけだが、3Dモデルをいろいろ改造するのは、案外出来なくもなかった。いずれヴァーチャルリアリティの時代が来るのは確実だし、装備さえ整えておけば……やれるorやれないで言ったら、やれることになるのはわかっていた。ま、それでこうしてやってるのが、ピグマリオンコンプレックス(人形偏愛症)もいいとこだが」
こ「でも、そこまで用意しておいて、何でやらないのさ、Vのお母さん」
そ「んー、上手く言えないから、わかんないとこいろいろ質問してほしいんだが」
こ「大丈夫、今の時点でツッコミ所の過積載だから」
そ「かなたのトレースは、オレにとっては【出来る】ことなんだよ」
こ「それこそ、今から3時間も要らずに?」
そ「そう。かなたが居なくなってから、どれだけ脳内で反復しまくったか、って話だ。トレースなんて簡単だ。そして俺以上に上手くトレース出来る奴なんていないさ」
こ「で、ここまで装備を整えたんだから、私の居ない間、実験はしてみたんだ。それで、【出来ない】って悟っちゃった」
そ「その通り。トレースは出来る。……だが、それ以上何になる?って瞬時に思ってしまったんだ。そりゃあ、モニタの中にVのかなたはいる。俺が完璧にトレースしたかなたがいる。だが……そこに居るかなたは、それ以上ではなかったんだ。【どこにも行かない人形】でしかなかったんだよな。ま、当たり前の話ではある。でも……この【どこにも行かない】【それ以上の可能性がない】っていう感覚は、ちょっとな……」

 

こ「でもさー」
そ「ん?」
こ「それはVのお母さんを作ろう(トレースしよう)として失敗した話でしょう? それは辛かったと思うけど、でも、趣味として美少女キャラ作ってバ美肉するって話とは違うじゃない?」
そ「あー、かなたと全く関係ないVの者を作って、アバターとしてVをやればそれで楽しいじゃん?っていう」
こ「そうそう。【オレには魂がない】なんて言うのは早いんじゃ」
そ「そうだな……オレは小説を書いてるから、まぁVをやらなくても別に……っていうのはひとつの答えではある」
こ「まぁ、何十年も第一線で小説家やってる人が、【人物造形と世界構築】の才能がないって話は毛頭ないわけだし……小説の方が自由に動かせるよね」
そ「エラソーな言い分かもしれんけど」
こ「……バ美肉、面白くなさそう、って思ってる?」
そ「あー、それが近いのかもなー。ガワを別の美少女にして受肉、そして魂はこのおじさんたるオレ、っていう風にしてVの者を作る。そしてアイドルする。まぁ、ふつうはそれで、楽しくやっていけるよな。……ただ……変な話だが、そうして出来た【彼方そう】ちゃんの傍らに、【かなた】は生きていないんだよ」
こ「不在……って感覚……?」
そ「隣に、どーしたってかなたが居てほしいというか。そりゃ無理だっていうのはそうなんだが。しかし、前に作った(トレースした)Vのかなたの……静止しきった姿がチラつく。隣にいるはずの存在の不在の感覚。そう思ってしまった以上、どうも俺はVのバ美肉に「魂」を注げない、って思ってしまった」
こ「お父さん……苦しい?」
そ「さらに変な話なんだが」
こ「うん」
そ「そんな風に思えてしまっている自分がそんなにイヤじゃない、っていうのがある。オレはずっとこういう風に妻を想い続ける奴なんだ、っていうことを再確認した。ずっと延々と、かなたのことを考え続けている。後悔じゃなく……オレは相当に想い出ってものを大切に……ヴァーチャルリアリティ以上のリアリティを感じているんだ、っていうことを……」
こ「……」
そ「これは、未亡人とピグマリオンコンプレックスのこじらせ悪魔合体もいいとこだとはわかっているが、な」

 

VRワールドで語ろう

こ「ねぇお父さん、Vのお母さんのデータ、もらってもいいかな」
そ「どう考えてもこなたにはその権利はあるし、オレが断る理由はないなぁ」

スマートフォンの通信で、こなたのスマホにVのかなたのデータを転送する父。
こなたは、眠ったような母が映る、自身のスマホを、ためつすがめつ眺めながら何かを考えている。

そ「まぁあまりドキムネワクワクする話でなくて申し訳ない。趣味人としてもなぁ」
こ「そんなことはないよ」
首をふるこなた。
こ「……ありがとう、お父さん」
そ「おう」

 

 

その後、だいぶ月日は流れ。
あきれるほど平和な埼玉県春日部市の一角。
泉家はやっぱりインドアでありました。

こ「ねーお父さん、VRChat入ってよ」
そ「おー? どこに行けばいいんだ?」
こ「自作のワールド作ったんだ」
そ「へー、じゃあかがみちゃんたち呼ぶか」
こ「それは駄目」
そ「ん?」
こ「まぁたまには親子水入らずでいいじゃない」
そ「んーー? まぁ、いいか……なんだろな」

 

羽のアイコンをポチっとす。
ワールド「彼方」

そ「ここは……」
こ「見覚えあるでしょ?」
そ「ああ……そりゃあな」

そのVR空間は、こなたが泉家のフォトアルバムから、ヴァーチャル再構成した空間だった。
例えば、そうじろうとかなたが避暑地の草原に行った時の写真
例えば、そうじろうとかなたが海に行った時の写真
二人の学生時代の写真
もっともっと昔の、子供の頃の二人の写真
こなたが生まれた時の写真
いろいろな写真から再構成した空間の巨大サムネイルが、たくさん空中に浮かび、ふたりを走馬灯のように囲んでいる。

こ「結構モデリングに苦労しました!w」
そ「第一声がそれかw」

そうじろうのアバターの隣にいるのは、泉こなたであり、Vのかなたであった。
目は開いている。そうじろうを見て、彼方の方角を眺めている。

こ「トレース出来てないところは、いっぱいあると思うんだよ。だから、教えてくんない? 完成度は高くしたいからね」
どこか照れくさそうな少女。
こ「さ……いろんな話を、聞こうじゃないか」
そ「そうだな……。じゃあ、まずはこの草原からいくか……」

 

どこからともなく、こなたでありかなたは、白い麦わら帽子を手に取った。
なるほどな、とそうじろうは思った。
オレひとりだけじゃ、この景色を見ることは出来なかったな……と。

 

●10年前に描いたらき☆すたSS

modernclothes24music.hatenablog.com

modernclothes24music.hatenablog.com

 

(3)

らき☆すたSS - 残響の足りない部屋

 

(4)

らき☆すたSS - 残響の足りない部屋

 

(5)

らき☆すたSS - 残響の足りない部屋

 

(6)

らき☆すたSS - 残響の足りない部屋

 

(7)

らき☆すたSS - 残響の足りない部屋

 

(8)

modernclothes24music.hatenablog.com

 

読書日記:『らき☆すた』8巻について - 残響の足りない部屋

 

「らき☆すた」オフィシャルサイト/「らっきー☆ちゃんねるWEB」/「らきすた」公式サイト

「何者かになりたい」とか、天啓とか、ルサンチマンとか人生とか

「お前は何者だーっ!?」と問われたら、「永遠に遊び人で、テキストサイト管理人だーっ!」って答えたいんです。

 

●熊代亨氏の新刊(既刊全部読んでる)

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熊代亨氏(シロクマ先生)の新刊「何者かになりたい」を読みました。何で読んだかっていうと、自分はこの人の出す本を、無条件に読むことにしているからです。2012年の処女作の「ロスジェネ心理学」からずっとです。
昨年、この強迫清潔時代の社会を素描(デッサン)した「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」の感想(まがいの文章)をこのブログで3回ほど書いたんですが、自分はまだ咀嚼しきってないなーと感じています。

 

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想 - 残響の足りない部屋

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その2 - 残響の足りない部屋

清潔を巡る問答ーー熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その3 - 残響の足りない部屋

 

ところで、自分は今35歳なんですが、簡易自分年表を書くと、

大学・大学院(中退)

家業の仕事&小説家志望

ネットでものを書く

突然作曲が出来るようになって、同人サークル活動を開始

ひとりTRPG(←イマココ!)


という感じでこれまで生きてきました。


今(なう)、自分は「何者かになれたのか?」って問うてみました。
そんですぐわかったのが、「こうやって自分のことで、何者問題を出すのって、久々だなぁ……」と思ったものです。


思えば、かつては散々「自分は何者かになれるのだろうか」「何者かにならなくてはならないんじゃないか」と考えていたものでした。
ある時は「社会において仕事をしていれば何者かには、もう成れているんだろう」と安易に考えて、自分を納得させようとしたときもあります。
けれど「自分の根源の表現欲求が社会的に成就せねば、やはり何者にもなれていないだろう」と考えもしました。目は逸らせなかった。


ところが、最近はどうも、何者問題について考えることがなくなってしまっていました。確かに、最近自分は安定はしている、とは思います。多分。
こうやって考えないってことが、即ち何者かになれた、ってことなのでは?という風に背理法じみた言説もあると思うんです。うーん……びみょい……(微妙い)。
どうだろう。どのタイミングで「気にならなくなったのか」。

●30歳で突然始めた同人作曲

例えばひとつ挙げられるポイントとしては、2015年の秋に、突然「作曲」を始めた、っていうのがあります。
それまで、自分は楽器で遊んではいたのですが、どうもオリジナルの作曲が出来ないーっ、才能ないのかなー、自分の人生そんなものかなーと思っていたのです。

ところが、夜中、ケミカル・ブラザーズのアルバム「We are the Night」を聞いていた時。

ある時ふと「音と音を、パソコンで重ね合わせれば、それで曲って出来るんじゃない?」と思ったのです。とりあえず楽器とパソコンを用意して、その通りに音を重ねてみました。


……出来ちゃった。

それ以来6年間、どういうわけだか創作同人サークルを立ち上げて同人即売会でオリジナルの同人音楽CDを発表するようになってしまいました。現在までで、アルバム2作、EP(多めの量のシングル、ミニアルバム)6枚を作りました。最新作は、EPを2枚同時制作&発表しました。何をやってるんだ35歳。

じゃあ自分=「同人作曲家」みたいな何者になれた、っていう風に結論ですか。そうですか?どうですかッ? 

いや……そこじゃないんです。全然違う。

自分は作曲家としての才能より、リスナーとしての才能の方があると思っています。CDを合計8枚(作)制作して、そこが覆るかと思っていたら、別に覆りませんでしたね……。
それよりも、上記のようにそういう「良く分からない天啓(エピファニー」が人生には起こる場合もある、ということを自分は言いたいのです。たまたま自分はそれをキャッチ出来た。それで、生きがいがひとつ出来た。それは、自分の人生を生き生きしたものにしてくれましたが、しかしそれで「何者かになれた」とは、あまり思えていないのです……。

 

●社会人ロールプレイ

むしろ、いつの間にか自分は、社会をやたらに怖がらなくなったなー(感慨)、っていうのの方が、大きいような気がするのです。
同人活動をするために、仕事をするのですが、いよいよ仕事を手を抜くわけにはいかないなーとも思うようになりました。「同人活動にのめり込んで、仕事がおろそかになる」ってパターンは、なぜか行きませんでしたね自分の場合。

学生時代から、いろいろ病気を持っていました。ある程度生活できる、っていうところで、仕事をちゃんとやるようになりました。
そのあたりから、一応社会人ロールプレイ(コスプレ)が始まったんですね。


「社会人」というキャラロールを重ねて「へー」とわかったのが、「みんな結構頑張ってるんだな」っていうこと。少なくとも、自分の同業者には寛容になりましたね……自分が持っていた「お客様意識」がどんどん減っていきましたね。そういう類推が出来るようになりました。
あるいは、仕事相手と気を遣ったり遣われたり、フォローされたり、こちらもしたり。
毎日の仕事の手順を、少しずつ効率化していったり。

正直、自分が作曲できるようになったことよりも、「社会の末席で少々はやれた」ってことの方が、「何者問題」を無効化さしていったなー、という感じがします。プラスを積み上げていったというより、マイナスを除去していったニュアンスです……。そうか、自分も発達したんだなぁ……適応したんだなぁ……

別に「社会と仲良くしよう、世間を愛そう」ってしたわけではないんです。
今も、社会とは距離を置きたく思っています。もともとの自分の性質が非=社会的傾向が相当あります。反社会的、ではないです。反抗するほど、社会というものに価値を見出していないんです。昔から。
ただ、「そんなにビビらなくてもええやん」と、どこかで思えたんでしょうね。それまでの自分は結構狭いところでビビっていたと思うのです。

 

●自分忘れ、何者忘れ

「何者かになりたい」っていうのは、「ひとかどの人間としてリスペクトでもって見られたい」と、言葉を開いて翻訳してみます。
話が前後しますが、自分は、小説を書いていたときは、痛切にこれを感じていました。小説を書いてプロになって一発逆転だーっ、みたいな。うわぁ。
何らかのルサンチマン見返し欲望があった。……薄々は「チャラにはならんぞ」とは思っていても、「でもなってみなくちゃわかんないじゃないですか……」と無理に自分を奮い立たせていました。

なるほど、無理をしていたんですね。そりゃ何者にもなれんわけだわ。
それに比べて、作曲の時ののーてんきな無理のしていなさが、対照的です。
また、社会人ロールプレイの時の「一歩一歩さ」というのも、そんなに間違っていなかったのだ、と。

変な話です。「自分探し」ならぬ「自分忘れ」=「何者忘れ」みたいなことを続けていたら、いつの間にかほんとに忘れてしまっていて、気づけば何者かになっていたのか、という。
じゃあ、どうやったら「自分忘れ」「何者忘れ」が出来るのか、って言われたら、わたしは答えられないんですが、この本『何者かになりたい』は、しっかり答えてくれるんですよね。さすが。

本によれば、「何者かになりたい」とは「アイデンティティの獲得をしたい」ということになります。
そして、「げげっ、自分にはアイデンティティがないッ!」と気づいた時の危機(クライシス)を回避するなり、あらかじめ備えておくなりの「努力」をした方がよい、というおはなしです。サカナクションのこの曲のような状態が笑えない状態になる前に、と。


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わたしのことで言えば、ずーっと社会と没交渉で小説を書いていたり、社会人経験を踏まずに同人活動にハマリこんだり、というルートにもし入っていたら、自分は今も「何者問題」で怨嗟の声を上げていたと思います。まず間違いないな……

ようは、創作活動と「おっさん化」を自分はうまく組み合わせたのかもしれません。社会人ロールプレイをすることで、レベルアップで自分は「おっさんスキルツリー」を上げたな、と思うことがあります。その結果がおっさん化です。
そうすることで、自分は、同人サークル活動で、「何者問題」を結構回避できたのかもしれません。同人活動って、この「何者問題」の蟲毒の壺みたいなものがあるじゃないですか。おそろしい。

いや、自分にしたってトラブルがなかったわけじゃないですよ。でも、一応サークル活動、作曲歴が、6年続いたってことは、それなりに「健全さ」はあったのではないかと……(と思いたい)。

 

自分は世慣れているわけではないです。未だに社会人ロールプレイがよわよわです。でも、まったく出来ていないわけでもないようです。
こないだ、長年の友人の結婚式に、ありがたくもオンラインでお呼ばれしました。その時、友人のひとりとして軽いスピーチも振って頂いたのですね。おお、自分の社会人ロールもここまできたか、と。


そこで自分はトチりましたね~(笑) あがってしまって、脳内で用意していたスピーチ文が、ポーン!と消し飛びました脳裏から。自分が結婚式にお呼ばれしたのがこれが初めてとはいえ、しかしなぁ……。むしろ友人の新郎氏に、フォローしてもらってその場をナントカ収めたという有様です。ごらんの有様だよ

とはいえ、それでも自分も発達・適応していくわけです。今度からはスピーチのテキスト原稿を用意しよう、それを読み上げよう、と固く決意しております。自分のべしゃり能力(トーク能力)は高くないぞー、と肝に刻む。それでひとつ自分も賢くなったわけです。

今、自分は何者かになったのか?
どうでしょう。でも、今書いた「スピーチの原稿を用意しよう」と反省し努力しようとしていることは、間違っていないと思うんです。その営為を続けていこうと思えてることが、「自分は何者か?」の答えを言語化するよりも、もっと大事だと思っています。ほんとに。

その上で、自分はどうなりたいか。どういうアイデンティティを構築していきたいか。
どうせ他人がどう思うかは知ったことではなく、また、他人を操作することはものすごい無理筋です。無理ゲーです。やれるもんならやってみろな難易度です。
だったら、自分がどうなりたいかを真剣に考えて、トライ&エラーをするしかない。

そこでやっぱり自分は、「昔ながらのテキストサイトをやっていたいなぁ」と思うわけでした。えっ、いまはてなブログにこの文章書いてるのに? これから頑張りますとも。
作曲したり、ひとりTRPGしたりしながら。そのリプレイを、ひとりで淡々とテキストサイトに綴っていくという、昔ながらの、世間と没交渉テキストサイトです。
上記の新郎氏は、20年前から、良いテキストサイトを、この令和の今も運営されているのですから。
自分は、15年以上前に、その姿にあこがれたし、今なおその気持ちは強くなっている。

 

やりたい事がある、っていうことは、この「何者問題」の一番の特効薬かもしれませんね。ただ、その気持ちを健全に保っていき続けるっていうのは、これまた一大事であります。
じゃぁそういうものが無かったら。未だ見えぬアイデンティティを獲得したかったら。

この本には、「地味なトライ&エラーを重ねていって、少しずつ自分を改善していき、いろんな可能性を得ていく」とか、「おっさん化にもひとつの理がある」とか「地道に泥臭く重ねていこう」ということが書かれています。いちいちごもっともだ、と思います。
と同時に、この本って、なんだか熊代氏の著書『認められたい』の裏版、進化版、のような気もするんですよ。

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結局、「社会的・客観的な」何者かになりたい、っていうのは、誰かに良い意味で「認められたい」っていうことですから(「主観的な」何者、はまた別ですが)。
でも、認めさせてやるッ!っていう不安定で危険な人を誰が認めるんだ、っていう話で。それよりは、こつこつ自分がやりたいことや、自分が成りたいようなロールモデルに向けて努力していくことを重ね続けて、いつの間にか認められたら、その時ひとは「何者かになっている」んだと思います(こっちが「主観的な」何者、の健全な方)。

かくいうわたくしは……本当に何者かになったのでしょうか。
どうなんだろうね。さっきは「それより、今やりたいことや、改善したいことがあるから、そっちに意識をやっていたい」って書きました。それは本当にそのように思っているのですが、でも答えをズラしてしまったような気もしなくはないです。少なくとも、今、「何者かになりたい」と強く、歪むほど希求している人(ルサンチマン)がこの文章の読者だとして……そういう人に、何を言ってあげられるんだろうね、って今思いました。

言えないよなぁ……。言えないですよ。何を言っても、「いまが楽で、楽しい奴の、上段からかます戯言だろッ」っていう精神。そのルサンチマン精神はすごい覚えがあるから。
ただ「戯言じゃないぞ」とは言いたいかな。自分が今、この安定に至っているのは、戯言だけじゃ絶対辿りつけなかった。戯言の強度だけでは。君も知っているだろう、戯言にすがるしか出来ない時であっても、その戯言は本当はそこまで強くもないから、虚勢を張ってしまうっていうことを。

言えるとしたら。わたしは、かつての自分のそういうルサンチマンの時期を忘れているわけではない。あの頃の自分に何らかの贈り物をしたい、と今も強く思っている。それは本当なんです。
そして、そうやって忘れていないってことは……かつての自分がしてきた、正当な努力、間違った努力、見当違いの努力、変な決意、「こんなもの買ってどうするんだ」みたいなジャンク品、かつての自分が見聞きしてきたいろんなもの……それらを忘れていない、っていうことですし、それらは確かに「安定した何者」へ至る、かけがえの無い宝だった、ということです。

頑張って生きていれば、人生どうにかなると思います。パッと散らしたくなるのを何百回、何千回我慢してきたか。その時の破壊衝動は全部本物だったさ。
あるいは、自分がここで書いていることとか、この本『何者かになりたい』で書かれていることも、どこかに「自分を騙しだまし、前に向かせていく」みたいなところがないか?っていったら、「け、結構ある……」としか言えないとこもあります。

ただ、そこを言ってしまえば、自分はこの熊代亨氏という書き手の本を、全部読んでいるのです。シロクマ先生としてのブログも。つまりそれは「この人の言うことは、聞いてみよう」っていうことです。そう思い続けて、この人の文を読んできました。血肉とする価値のある言葉だった。だからずっと読んでる。
「えーっ」と思うような言葉でも、自分に与え続けてみて、それで自分が良い方向に変わったことだって、何回もあったのです。そういう「書き手への信頼」が生まれることだって、その後の人生であったりする。
だから手練手管でどーにか自分を前に向かせていくのは、それはそれで全然アリだし、そうやって信頼する文章家の言葉が自分を作っていくのも、良いことですし。

「えーっ」と思うことは、まだまだ続いていくんだろうな、って思います。
そう思うと、故に、だから、まだ自分は「何者かになっていない」のではないか、って思っちゃいますw
最短距離で「何者か」になるのではなく、それよりも、毎日の道草を楽しんでいければ良いですね。……今はそのことばっかりを考えています。

 

※もちろん、その毎日の市井の道草をのんびり眺め続けるのが、物理的に精神的に神経的に、この現代社会で難しくなってきていることを描いたのが、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」です。やっぱこの本重いわ。

外国語で遊ぶことについて

30歳を過ぎてから、いろんな外国語に触れることが趣味になりました。

いま、「外国語に触れること」と書きました。一般でよく言われる「外国語勉強」の方が、通りが良いのだとは思います。でも自分の外国語との関わりは、「勉強」という言葉で表すような一生懸命さや真面目さは薄いので、「外国語に触れること」と書きました。「外国語と戯れること」でも良いし、「ちんたら外国語で書かれたものを読むこと・ダラダラ外国語の音を聞くこと」というのは事実として非常に的確に表していると思う。

ともかく、外国語で遊んでいます。うん、これが一番しっくりくるかな。

多くの方にとって、外国語は「きちんと学ばなきゃいけないもの」とされています。もちろん、外国語の読み書きのレベルを上げるためには、きちんと学ぶことは必要です。

でも、そう思い込むあまり、脅迫されるように外国語を学び、外国語が自らにとっての重しとなってしまうことも、よく見られることです。だったら、自分のようないたって呑気な「外国語で遊ぶこと」も、それなりに意味はあるんじゃないか?とも思うわけです。ということで、趣味としての外国語をここで書いてみます。

●外国語の何が楽しいのか

うわ、いきなりの難問設定しちゃいましたネ自分。でも、外国語に触れて、いつだってそれで楽しくやっているのだから、この設問に答える意味はあります。

端的に言って、その楽しさは「いろんな国の知らない言葉を、見たり聞いたりするのが楽しい」ってことに尽きると思うのです。

外国語の四大要素……読み・書き・リスニング・発話、の各部門のレベルは上げるに越したことはありません。もちろんその通りなんです。でも、再び申しますが、それを強迫的に行うのでなく、楽しみながらやっていきたいと思っています。

「いろんな国の知らない言葉を見たり聞いたり」ってことに興味を持つっていうのは、「未知」に対する興味なのですが。ようは外国語……例えば文字や文章を見て、「面白そう」っていうのが第一に自分は来るんです。「イヤだなぁ」ではない。

わたしがこう思うのは、はて何でだろう。わからない。それに、こういう「外国語が(街中に)ある」ってことを忌避する人も居るってことも知っております。まぁそういう人のことはともかくとして、自分はいつの間にか、「外国語がある」ってことを面白がれる人間に育ってしまったようです。

面白いんですよね。知らん言葉を知るっていう営為そのものが。それは、ランナーの「走るのが気持ちいい」、水泳選手の「泳ぐのが気持ちいい」っていう、根源的な「快」に近いと思う。

ただ、自分は「勝負・競争の精神」っていうのが非常に欠落している人間なので(嫌悪の前に、欠落っていうレベル)、外国語のレベルで勝負しよう競争しよう、って気はまるでございません。

だから外国語を勉強する自分が凄いとも思っていない。むしろ「ま~たこんなことやってるのか!」っていう「余計なもの」意識すらあります。例えるなら、暇つぶしに顎のヒゲを指でポツポツ抜いて「うわ、こんなに抜いたのか」っていう感じの「ま~たこんなことやってぇ~」というやつ。外国語勉強を誇る気になれないっていうのはそれです。

でも、世間では外国語勉強っていうのは「とても良いこと」とされているので、自分とのギャップがあります。自分はただ、個人的な「快」をちょこちょこやっているだけに過ぎないので。

なので何かの話の流れで「へー外国語勉強してるんだ、凄いね」と言われると、逆にこちらが凄いバツが悪いのです。「こんな自分を誉めてくれる貴方の度量の方が凄い」と素直に即レスしてしまいそうになるけども、相手にとってはこういうレスは卑屈に受け取られるみたいだから黙っています。バッドコミュニケーション。

外国語の本質はコミュニケーション……なのか?

そう、そこで自分はちょっと疑問に思ってしまうわけです。以前、自分が尊敬している長年の友人が、講座に通い、一年間中国語を勉強されました。外国語を趣味とする自分は、非常にシンパシーを覚えたものです。

で、講座に通われている友人氏が、「外国語は結局、コミュニケーションじゃないですか」と仰ったのです。その時に自分は即レス出来なかったのですが、「……?」とちょっと疑問に思ってしまいました。

友人氏に反論するつもりは毛頭ないのです。友人氏は非常に真面目に講座に通われ、日々ご自宅で予習・復習をされていました。素晴らしいと思います。その日々の功夫クンフー)の果ての「外国語はコミュニケーションである」というお考えなら、それは非常に尊重したい。

ただ自分にとっての外国語(に触れること)は、コミュニケーションの要素がかなり「無い」な……と、何度も考えて、やはりそう思ったものなのですから。

外国語を見て、読んで、聞いて、面白がっている(インプット)。逆に、自分が身に着けた外国語で、創作をしてみる(アウトプット)。

例えば、拙い外国語で文章の下書きをしたり(英語やドイツ語で文章を考えると、だいぶ文章の内容や構造が変わるんですよ)、TRPGのオリジナルキャラクターを作ったり(その外国語の文化圏のキャラって設定で)。

「他人が読んで最低限わかるようなレベルで」ってことを意識することが、即ちコミュニケーションなんだよ!……と言われると、まぁそりゃそうかもしれませんけど……とこちらもお答えしますが、レス声は小さくなっていきます。「他人が読んで最低限わかるようなレベル」って、コミュニケーションにかける意識としちゃ、下から数えた方が早くねっすか。

そりゃ、外国語を身に着けたってことは、それだけ当該外国語を話す外国人の方とコミュニケーションをとれるってことではあります。実例。前に、ストリートミュージシャンの演奏を聴いていて、聴衆の中に外国人の方もいました。ミュージシャンの人に「ちょっと曲の意味やMCを通訳してくれない?」と頼まれて、ガタガタ通訳もいいとこでしたが、それでもまぁ向こうが「あぁなるほど」と笑って言ってくれるくらいのことは出来たんじゃないかと自惚れます。

ここで書いたようなこと……そりゃそういうことも出来なくもないですが。でも、それは、結局自分にとっては副産物なんですよね。「コミュニケーションのために外国語勉強を頑張る」ことは自分には出来ないと思うんです。おお、クズ発言きたな……さすがメッキのコミュ強、真に誠なる非=社会的人間であります。

それよりはむしろ、本を読みたいのです。本を読むということは、作者とのコミュニケーションである!というお話なら、うん、そうかもしれない、とレス出来るかもしれません。

外国語原書の現場本番読書

そもそも日本語の読書にしても、自分の場合「ま~たこんなもん読んでるのか」という感じで、人に誇れるものでもないなぁとは思っておりますが。多少は文章を書けるようになりましたが、それも所詮副産物です。上と同じこと書いてんな……。

ともかく、外国語で書かれた文章や書物の読書をしています。今は、こないだイギリスから届いた、スティーヴ・ジャクソン&イアン・リビングストンの『ファイティング・ファンタジー 火吹き山の魔法使い』『ソーサリー!1 シャムタンティの丘を越えて』を読む、っていうかゲームブック攻略しています。ほらこれのどこが凄い読書なんだいって話です。

いつまでも教科書ばかり読んでいるのではなく、「あらかた基本的なところを押さえたら、さっさと外国語の原書や海外のブログ記事を読んじまった方がいい」と自分は思っています。「現場・本番」にすぐ行ってしまうという。

教科書をずーっとドリル解くみたいに勉強する方法は、自分には合いませんでした。学校式の学習スタイルが合わない人間ですね。無論のこと、外国語のレベルを上げるということは、結局「知っている単語の数や、文法(表現)を増やし続ける」ということです。なので、単語&文法の勉強は、いくら外国語で「遊ぶ」からといって、やはり必須なわけです。

しかしあまり言われていないことですが、単語&文法の機械的暗記、学校ドリル解き的暗記は、「文脈(コンテキスト)がない」という地味な弱点を抱えています。日本語では同じ意味なのだけど、外国語では確実に違ったニュアンスがある、っていうパターンよくありますよね。

これをどうにかするには、とにかく現場・本番の場数を積み続ける他ありません。そういうわけで、自分は原書や海外ブログ記事をガリガリ読んでいった方が、楽しくレベルを上げることが出来ました。いわゆる「精読or多読」の話ですが、自分は「多読本番の現場を恐れない」というスタンスですね。もちろん、きちんと精読するのもまた楽し、というスタンスでもあります。どちらも大事。

「現場・本番」スタイルのもうひとつ良いところは、まさに現場・本番なので、自分の限界がすぐに知ることが出来る、っていうことです。すぐ読めない単語、意味を掴みにくい表現、ってものが出てきます。それを「恥ずかしい」ととらえるか、「やったぜ、知らない単語や表現を覚えるチャンスだ」ととらえるかで、学習スピードの差は飛躍的に出てきます。

そう、そこで教科書を「使う」のです。今自分が知りたい単語・表現がそこに書かれている可能性はあるどころか、可能性の塊なのですから、教科書は。そこに至って初めて、教科書の項目を暗記する意味が出てきます。

●外国語と「恥」

とりわけ日本人にとってなのでしょうか。外国語、とくに英語をうまく話せない、読めない、っていうことで、「恥ずかしい」と思うのは。上手く話せなかった、恥ずかしい。あいつより英文が読めない、情けない。こんな自分は恥だ、と。

何回も聞いてきたセリフです。この日本という国で外国語を勉強すると、「恥」の感覚に襲われることが多いです。例えば英語で「ネイティヴ的にはこう表現しなくちゃいけない」とか。

もうやめませんかそういうの、って思うのです。こう言ったところで、この恥の帝国・日本では相変わらず「外国語をミスると恥ずかしい」でずっと覆われ続けるのですが。それでも、「恥、と考えるの、もうやめましょう」と言いたいです。

なんでそう、外国人ネイティヴと「ペラペラトーク」をするのが理想、否、今日からでも出来なくちゃいけないんだ、そうしなくちゃ恥だッ、とかって考えるんでしょうか。

まぁこれはね、日本人にとっての「舶来意識」ってものがあるんですよ。光は海外より来る、っていう意識が古くから日本人にはあります。昔は中国(隋、唐の時代)でした。今は欧米です。

良く聞かれますよね。「欧米では●●(進んだ事例)だから……」っていう言い回し。欧米だからって正しいとは限らないでしょうに。ともかく、なんでか日本人は「本物」ってものを、海外(の人)に譲り渡してしまいます。そのくせ、日本にしか無いもの(文化、風習)をやたらと誇りたがります。外国の人が日本に溶けこもうとするのを「ガイジン」と呼びます。

やめませんかこういうの。もっと外国語……言葉を「雑に」扱いませんか。具体的には、ある程度雑に通じてれば、ダサい発音だろうが、スペル間違っていようが、もうOKにしませんか。日本語もそのようにしませんか。外国人の片言表現をネタにして笑うのやめましょう。

あなたは海外に行ったとき、外国人の片言日本語並みに、その土地の外国語を片言でもしゃべれるのですか。正直、わたしは無理ですよ。わたしはポルトガル語を、日本に出稼ぎに来ているブラジル人の片言日本語並みに、運用することが出来ません。ポルトガル語、自分の外国語勉強の中でも、結構力入れてるんですけどね。それでもまだまだ全然です。

外国語の現場で、あざ笑うのやめましょう。マウントとるのやめましょう。「恥」の意識をやめましょう。はっきり言って、言語学習の邪魔なんだそういうの。

でも恥の帝国・日本で、「恥」の感覚を捨てるのて難しいですよね。本当に難しい。

ただ、自分は、外国語に触れるようになって、少なくとも、世間で日本語を頑張って使って生活している外国の方々には、優しくなったと思います。自分は彼らほど外国語を喋れないからな……っていう厳然たる事実を、しばしば思います。ふらりと外国に行ける時代じゃ今はないですが、たぶん自分はいつか外国に行きます(原書古本と中古レコード・カセットのため)。そしたら、彼らほど外国語を運用できはしないのです。そのことは容易に想像がつく。だから、彼らのことを笑うことは出来やしないのです。彼らは今の自分以上に確実に頑張っている。

 

●絵の勉強は外国語勉強である

未知や能力不足を、「快につながるチャンス」ととらえるか、「恥」ととらえるか、っていうのは、だいぶ違うなーと改めて思います。30歳あたりで、このあたりが上手く自分のなかで整理できたのは、良いことでした。

ただ、自分は外国語ではそう思えるんですが(それくらいのレベルには達した)、例えば「絵を描く」ことでは、まだまだこのレベルには達していないのです。

自分はたまに絵を描く練習をします。絵を描けないコンプレックスをもうこれ以上じゅくじゅく膿んだ傷口にしたくないので。

なので、なるべく自分の絵の下手さを「恥」と思わないようにする。そして「最低限他人に何を描いた絵なのかわかる程度の絵」になればよいな、っていう雑さ。まずこの2つを意識し、勉強していくようにしています。

なんだ、偉そうに外国語の話をしましたが、「絵という言語」においては、自分もまだまだ過ぎるっていうことですね。いや、絵は外国語ですよほんと。

絵の機能は「美」と「図示」の二つに分けられることに気づきました。人の視覚を魅了する「美」と、人に描いた絵の意味を分からせる「図示」。で、自分はまずは「図示」の方面をきちんとやっていこうと思っています。これは最低限の必要事項ですから。そういう意味で、自分の外国語との交わり方が、絵の勉強にも役立つのだなーと最近思っております。

模型工作生活(モデルライフ)、腕の鈍り、安全第一

ガンプラバンダイ製のガンダムシリーズのプラモデル)を久々に組む。
模型工作の腕が鈍っている、と認識する!

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いつもの感じ

・小さな透明のプラスティックトレイは、バリ入れ。ニッパーでバリを取ってから、歯ブラシでニッパーに着いたバリを落とす。
・基本的に切り出したパーツをポイポイ、プラモ箱に避難させながら組んでいくスタイル。1プラモ箱が1プロジェクトになる。ついでにヤスリとかも入れておく。

 

今回思ったのは、ニッパーの使い方に無駄が多いということ。
この数年、ゴッドハンドの極薄刃ニッパーを使用している。パーツ切り出しで、ランナーとパーツをいわゆる「二度切り」で切り離していることは、自分の事で恐縮だが丁寧な工作だと思う。

  1. サクサクと大雑把にランナーからパーツを切り離し、
  2. 僅かなバリをチマっとニッパーで取る。デザインナイフを使うまでもない。
  3. 最後に軽くヤスってパーツ切り出し完了、

という流れだ。
ただ、この後半の「(2)バリ取り→(3)ヤスる」の過程で、腕の鈍りを感じる。やや深めにザクりとニッパーを入れている感があるし、ヤスリでの研磨もやりすぎている感がある。総じていえば「大雑把(力で解決)」。

もっとも、あまり細かいことに神経的・強迫的に拘らずに、模型を楽しく組もうという意識は、常に持つようにしている。
大型の装甲パーツや、左右対称の大きめのパーツなどは、説明書を読まずにあらかじめランナーからザクザク切ってしまう式の工作法を採用している。
さすがに自分も模型を作ってきて、これで30年にもなるので、大きめのパーツなら、いちいち説明書とパーツを対応確認する形で作らなくても、取り立てて問題はない。工作過程で「見失う(どのパーツだかわからなくなる)」ことはない。
ロボット系のプラモデルでは、やはり人体状の可動関節は、慎重に説明書通りに組むべきだと思う。


「完璧に作ろう」みたいに神経を使う工作スタイルを、つとめて止める意識でいる。誰かのために作らされているのではないのだから。
そうだ。「キットを作らされているのではない。自分の意志で模型を作っているのだ」という意識でいたい。
パーツ切り出しや削り出しのような、工作手順のひとつひとつを楽しみたく思っている。ひとつの手順に没頭しているときの、無心の境地が良い。

 

だが、「(悪い意味での)神経の遣わなさ」というのが「悪い意味の雑さ」に繋がり、それが「危険」に繋がらないか?と危惧する。上記「大雑把(力で解決)」というあたりがそれだ。
スピード工作が悪いということではなく、
・雑に適当に、どんどん流れ作業を進めることが、模型工作の楽しさの充実から離れていくことが嫌だ。
・怪我が怖い。ニッパーやナイフの手元の狂いや、粉塵やゴミが目に誤って入ったりなど。

サクサクと早く手を動かすのが進みすぎると、大切なことを見失ってしまうかもしれない。
とくに、自分という愚かな人間は、自身の精神にすぐ「義務感」をセットしてしまう。本当に良くない。
まだまだ焦っているというのか? これは趣味なんだぞ、仕事じゃないんだぞ遊びなんだ!
数や速度を稼ぐのが目的ではない。意味もなく強迫的にレベルを高めるのは、模型工作生活の「目標」ですらない。
なんと「模型工作生活(モデルライフ)」を健全に営み続けることの難しいことか。すぐに雑念が入る。……雑念が入る、と認識できているうちはまだ良い。怪我をしていないのだから。


そうだ、「安全第一」。

  • 粉塵やゴミを掃除し、
  • 道具をメンテし、
  • 換気をする。
  • ライトに気を配り、目をいたわる
  • 長時間の座り作業をあえてストップ
  • →軽いストレッチと運動を欠かさない。
  • あらゆる刃物(ヤスリ含む)に注意し、
  • 薬品(接着剤・塗料をはじめ)の取り扱いには気を付ける。


こういったことも含めて、模型工作生活(モデルライフ)の充実なのだと考える。
丁寧な暮らし、という言葉があるが、模型工作において、丁寧さとは確実に「善」である。
「工作レベルを高めなくちゃならない」と強迫的に思い込むことは、常に大正義とは言えない。
だが、自分なりに丁寧に工作をすることは、模型工作生活の1にして全・全にして1。真理とすら言える。
今日の自分が、丁寧な工作をし、明日の自分の工作と人生に繋げていくこと。これが模型工作生活なのだから。