残響の足りない部屋

音楽旅行と模型人生と愚にもつかないジョーク

日記8月上旬 AIの絵、AIに学ぶ小説の読み方、絵を描く修行

●AIが描く絵

最近、インターネットの話題になっていますね。AIに適切な文章を入力したら、イマジネーションを刺激する雰囲気のある絵が出力される話。

togetter.com

仮にAIがあらゆる絵を描けるようになったとして、それでもこの私、自分自身が絵を描こうと努力することは、確かに意味があることなのだーーと、自分の中で納得はしてはいます。

……してはいますが、絵の勉強の為の努力、という話で言うと、ちょっと私の心意気がほんのちょび~っと削がれる感を覚えてしまうのも、また、こう、些細な事実でございますが。

だってさぁ(口調変更)、むべなるかな話じゃないですか。こちらが自分の絵の下手さに苦悶しながらも、それでも慣れないながらもヘタな絵を描いて、少しでもマシな絵を描こうとしているのに、あちらはAIに言葉を入力してPON出力!ですよ。ちくしょーッ(白目)。

もともと自分は「言葉」サイドの人間だったのです。小説や詩を書いていましたからね。外国語も今ではやるようになりました。もし自分が絵を描く道に行かなかったら、たぶん別な世界線の私は、あのAI絵にハマっていたのかなぁ、とも思うのです。

そしてAIが出力する絵、とくにファンタジックな雰囲気の絵がね、またレベル高く映るんですよね、自分の美的センスをヴィンヴィン刺激します。

……でもね、私は、創作世界観であるところのレッズ・エララ神話体系をやっているんですよね。自分がレッズ・エララの世界&神々を作らなきゃ、意味がない箱庭遊びなんですよ、これ。なので、AI絵を「敬して遠ざける」スタンスで今はいます。AI出力に任せるのは、たぶんレッズ・エララの創作の一番美味しい所を逃している、と直感が告げるのです。

 

●AIに小説の楽な読み方を学べないものか

その一方で、自分の「小説を読むのが凄く苦手」という悩みに、ひとつの示唆を与えてくれる技術かもしれません。AIに言葉を入力して絵を生成する、というのは。

というのも自分は、小説を読む時、常に脳内でビジュアライズするのを義務化しているからです。自分が一番最初に小説を読む時、「脳内で文章をビジュアライズする」というやり方で小説を読んでしまったから、その時の方法のまま、今に至ってしまいました。だから、適当に小説を読めないんです。今や、小説を読むのが今は凄く苦手になってしまいました。自分にとって小説を読むとは、その一作の映画を脳内で撮る、というのとほとんど同じですから。そりゃ疲れるよなぁ。

AIが文章をビジュアルとして出力するルーチンに興味があります。文章から絵をどのように生成するか。それは、自分の頭の中で起こっていることと基本的には同じはずです。速度は比較にならんとしても。このあたりのルーチンを少し学ぶことによって、「脳内ビジュアライズを楽に行うやり方」を学べないかなぁ、と、ちょっと期待しているところはあります。つまり、「小説の楽な読み方」を自分は知りたいのですね。それくらいには、今の自分は小説・物語に対する心理的負担感というか、「手を出すにはだいぶめんどい……」意識があるのです。

 

●絵・漫画を描く勉強の道

果てしがないですね……。日々少しずつ、絵や漫画を描くようにしています。自分の脳内でビジュアルでもって世界や神話が生まれるのなら、やはり絵で描くのが一番ストレートなやり方です。

それに、自分はやっぱり絵や漫画が好きなのです。光に細い髪先が透ける表現とか、風に草が揺れる表現とか。虚空の表現、躍動感ある人体の動き(モーメント)の表現。やっぱり自分は、3Dよりも、絵(2D)が好きなのです。こればっかりは、目を逸らしても、どうしても嘘が付けなかった。

そんなわけで、なるべく絵を描くようにしています。自分の箱庭創作ホームページと、レッズ・エララの告知ついったーに、出来た絵やまんがを投稿しています。

redselrla.com

ドット絵「月光症候群」

AIが描く方が、美しい絵が出来るでしょう。その絵を採用した方が、自分の箱庭神話は遥かに美しく、レベルが高くなるでしょう。

それでも、私は絵を描く人生を送ってみたい。前にも申しましたが、これ以上絵に対するコンプレックスを心の中で飼いたくない。コンプレックスを熟成し、自分の人格を腐らせたくない。

modernclothes24music.hatenablog.com

かつて、美大生に憧れていました。「GA 芸術科アートデザインクラス」や「スケッチブック」や「ブルーピリオド」の登場人物みたいに、絵を描く生活、絵に本気で向き合う生活を送ってみたかった。そんな生活が送れたらどんなに幸せだろう、と。

実は、なんとか今、自分はそんな「絵を描く生活」を送れているのです。ですが、かつて夢見ていたような幸せの中に居るにも関わらず、自分の画力の低さにのたうち回っています。これは変な話です。自分は今、下手だろうが何だろうが、幸福に絵を描けているのですから。それを心にしかと留めなくてはなりません。絵を、絵を描く生活を、苦行にしてはいけないのです。あらゆる武道の修行が、本質的には「道」を究める事であり、それは人格の円満たる完成……つまりは、自分自身に納得する。そういうことなのですから。

自分の画力が下手だと、なかなか自分自身に納得って出来ないですけど。それは確かに。それでも、もうコンプレックスから目を逸らさなくて良いんだ、自分に嘘をつかなくて良いんだ、という「納得」から、私はこれからも絵の修行を行っていくべきだと思います。

自由になりたい。それが自分が絵を描く目的です。自分の脳内を自由に絵にしたい。絵を組み合わせて漫画にしたい。そうすることで、自分は自身から、やっと自由になれるのだ、と思っています。誰かに認めてもらいたいんじゃない。商業的にヒットしたいんじゃない。ただ、自由になりたいだけです。自由になるために、今の仕事をして、そうして得たお金で、絵・漫画を描くのです。

自分は絵を描いて「自由」になりたい。なので、AI絵で自分の箱庭神話を描かせないのは、「それだとイマイチ自分が自由になれないと思う」という理由からですね。これはあくまで自分自身のみの話であって、AI絵や、AI絵を楽しんでいる方々に対して、批判的な気持ちは全然ございません。

方向性が違うという話……というか、自由じゆうとカッコのよろしい言葉を使っていますが、この感覚をリアルに書けば、ようは自分の痒くて痒くてたまらないポイントがあって、それが「自分が絵を描く」ことでしか掻けない、ってだけの話なんですよ。AIじゃ、微妙にかゆかゆポイントとズレるとこしか掻けないっていう話ですよ! そう、つまり絵とはムヒ軟膏だったんだよ!(な、なんだってー!)

酒を呑まない人生

私は今36歳で、自分の人生で、酒を呑まないことに決めている。

成人してからこのかた16年で、その間お酒を呑んだすべての総量を計算したら、おおよそコップ3杯になる。多めに見積もってコップ5杯か。これには養命酒などの薬膳酒や、料理酒の味見も含んでのことである。

お酒が「嫌い」というよりも……。まず、アルコールが喉を通る時のあの焼ける感じが極度に苦手だ、というのがある。しかし、そもそもコップ3杯も飲んでいない人生なのだから、もともとお酒で酩酊したこともない。だから、嫌いも苦手も、まだ判別できる状態ですらない、とも言える。

それでも、酒を呑まない人生にしている。自分の意志でそう設定している。

私の母方の祖父は、焼酎を良く飲む人間であった。その飲み方があまりよろしいものではない。飲んでは愚痴を言い、飲んでは気分が大きくなり下品になる。そして、祖父が来客をもてなす時は、当然酒であった。来客もまた祖父と同様になる。

要するに、良い酒の飲み方というものを見てこなかった私である。そうだな、私は酒の嗜み方、というものを、教育されるどころか、見ることすら叶わなかった。

これでは酒に対するイメージがどんどん悪くなるのは当然である。

 

ところで、酒を薦められることはないのか、と思うかもしれない。もちろんある。その度に断っている。私を知る人間で、私が酒を一口でも飲んだ姿を見たことがある者はいないはずだ。なにせ、実際に呑んでいないのだから確かである。

とにかく私は酒を呑まない。例外がない。

こうなるに至ったのは、ひとつは私の父君の影響が強いかもしれない。父君はとても若い頃、酒場でバイトをしていて、その時にアルコール中毒になったという。それ以来父君は一切の酒を断った。この断ち方は、息子である自分から見ても、相当徹底していたと思う。

彼(父君)の酒の断ち方の特徴は、「誰の酒だろうと断る」ことにあった。相手がどんな人間だろうと、社会的立場が上だろうと、とにかく断る。一切断る。そこに相手に対する忖度はなかった。これを成立させたのは、つまり、断酒において「例外」というものがなかったのだ。

よく、「あの人に勧められたら断れない」という話で、つい酒を呑んでしまう、ということを聞く。付き合いの酒は断れない、と。この話を展開すると、

「君はプライベートで酒を呑んでいるだろう。俺(上司とか)は君と親密レベルを上げたいのだ。俺の酒を拒むということは、俺からの親密レベル要求を破棄することになるのだぞ(圧)。酒が飲めないということはあるまい、君はプライベートで酒を呑んでいるのだから(QED)」

……という話である。つまり、上司(等)によるプライベートをたてにとった侵食という、酒の勧めである。これは確かに断れない。自分がプライベートで酒を楽しんでいる以上、上司の酒を断るのは、上司を断絶するのに等しい。ひどい。

しかし、「プライベートでも一切酒を呑まない」とすればどうだろう。相手が侵食するこちらのプライベート飲酒は、もはや無いのだから、相手が酒を無理強いする条件はいとも簡単になくなる。「私はいついかなる時でも飲みません」となっているのだから。「例外」を作らないことが、ここでは重要なのである。

もっとも、例外がないと言ってきた彼の断酒であるが、自分が見てきた中でただひとつだけあった。地元の神社の神事の時であった。この御神酒を一杯だけ口をつけた。つまり父君は、神にまつわる酒だけはやむなく飲み、人界の酒は飲まなかった、と言えるかもしれない。これは、筋の通った話であると自分は思う。

かいつまんで書いたが、私はこの父君の飲酒(断酒)に影響を受けていると思う。「例外」を作らなければ、酒を断ることは出来るのだ、と。

 

それにしても、酒を呑まないことで、デメリットもそれなりにあるのではないか?と思うときもある。酩酊によって、上手く人生のストレスを吐きだせない、というのは、確かに人生の色彩をハードにさせる。

「緊張と緩和」ということでいえば、自分の人生には緩和(リラックス)があまり足りていないかもしれない。上手く酒精でもって、人生の緊張を緩和させる必要がある、という話は、受けとめるに吝かではない。一理ある。常に緊張して、相手にそれをぶつけるような人間など、よろしくないにも程がある。

緩和のためには、別に酒でなくても良いのだが、しかしちゃんとリラックスという時間と行動を、自分の人生にセッティングしておく必要がある。これは確かに、課題である。一日の終わりに、自分の緊張した精神を上手くほぐしてあげること。明日に上手くつなげていくこと。

 

酒は飲まないけれども、精神病、神経症のお薬はPONPON飲んでいるというのもある。この手のお薬と酒を併用したら、待っているのは破滅と死だ。実際、そうして亡くなった自分の友人もいるのだ。これだけはしちゃアカンだろう、と思う。彼の死を想う度にそう思う。

まぁとにかく、なるべく服薬コンプライアンスを遵守し、きちんと服薬して病気と付き合っていこうとしている。なら、酒を断つくらい何ということはない。

しかし、身体へのダメージということを考えると、酒で肝臓をやってしまってはいないが、その分薬でダメージはキテいるからな。酒はないが、薬はある。こうバランスをとって(?)考えてみると、まぁ……ちょいマイナス収支で済んでいるのは僥倖かな、と。酒飲んでたら凄いことになっていたな、肝臓……内臓。

 

もっとも、ここでこう薬の話を出す、ということでお察しのことかもしれないけれども、自分は(あるいは自分の家系は)「依存」というものに弱い。両親ともに煙草は良く吸う。そもそも父君にしたって、断酒キャリアの最初はアル中であったではないか。自分も清涼飲料水(ジュース)については中毒であると思っている。禁断症状も出た。ジュースで、と笑うかもしれないけど。

そして薬だ。「薬さえ飲めばなんとかなる」という考えが自分の中に、ないとは言えない。今でこそ、「生活全体や、身体のホメオスタシスを向上させていって、そうして薬を適時使っていくことで、健康になっていくのだ」というトータルの身体観を持つようにはなってきたが、それでも薬をPONと入れて楽に、という考えは、まだある。薬を頼りにするのは間違ってはいないが、それは心身をトータルで健全にしていこう、という身体観を持ってはじめて効果を成すものだ。薬に依存してはいけない。

だから、自分が酒に手を出したら、まず間違いなく依存し、生活を破壊するだろうな、という確信がある。酒精による酩酊という快楽に抗える自信がない。まったくない。そんなことがわかり切っている人間に酒を持たせてはいけないのだ。DVするのが解り切っている人間に子供を産ませるのはどうか、というのと同じくらい。

「上手く付き合っていくことが大事なんだよ」という正論はまぶしすぎる。酒を呑む自分は……鬱や、自信喪失になったとして(なる)、そこに酒があったら、絶対に手を出して「逃げる」。これは間違いが無い。そういう自分の中の破壊衝動・自己破壊精神と、酒はすぐ仲良くなる。最悪の形で。そんなのは簡単に予測できるのだ。

 

ただ、酒を呑まないという「我慢」「苦行」をしているのではない。むしろ自分は「酒を呑まない、という実験」を、自分の人生をかけて行っている、と思っている。

ここまで酒を呑まない人生だったら、この先どうなるんだろう。とマジに楽しみにしている。こんなに酒を呑まない人生を行っている人は、そう多くはない。そして、今、酒を呑まないことは、無理をしてもいない。だったら、このまま人生を送っていって、どうなるかちょっと自分で楽しみだったりもするのだ。

別に、酒を呑まないから生産的だ、というつもりは全くない。むしろ、自分の酒を呑まない人生からは、「酒を通した友情」や「酒も含めた食文化」というものをスルーしているから、トータルで実りは多いか、というと、それは言い切れない。先にも述べたように、緩和(リラックス)が足りないし、とくに「酒と音楽」というコンビネーションは全くスルーだ。

それでも、酒を呑まない人生というのは、自分は納得はしている。納得してるから、全く後悔もない。そして自分は、たぶんオリジナル創作の箱庭遊びを続けていくのだろう。酒もなしに。そういう人生観がどういう人生に辿りつくのか、ちょっと見てみたい気持ちがあるから、やっぱり酒を呑まない人生なのでした。

自作漢詩の書作品の受賞のご報告

今年のはじめ、漢詩を詠みました。五言で二行です。

 

「船行」

陽光将曳船
水慶鱗雲煌

 

書き下し文:
陽光(ようこう)将(まさ)に船を曳(ひ)かんとす
水は慶(よろこ)ぶ鱗雲(げいうん)の煌(こう)たるを

意:

陽の光が、今まさにこの船を曳いていこうとする(船はすいすいと流れ行く)。
鱗雲は輝き、水面にも映り、この水(海or川)も喜んでいるようではないか。

 

「残田 響一」名義で詠んだこの創作漢詩で、北海道の書家・阿部 岳流氏が書作品を作成されました。ありがとうございます。

そしてこの阿部氏の書作品「船行」ですが、第73回・毎日書道展で佳作を受賞されました。おめでとうございます。

現在、東京の国立新美術館で開催されている毎日書道展・漢字部Ⅱ類 (文字数が3字から20字以下の漢字作品)で、展示されております(室番95)。

www.mainichishodo.org

 

よろしかったらご覧ください。

 

阿部さん、本当におめでとうございます。
そして、拙作漢詩をお使い頂き、素晴らしい書作品に仕上げて下さり、本当にありがとうございます。

 

阿部さんには、これまでも私の自作漢詩を何度も書作品にしていただきました(過去の毎日展で賞を取られたこともあります)。

とくに近作ですが、まず私が漢詩を詠むのですが、その際「篆書作品」として成り立つよう意識して漢字を組むようになりました。
つまり、漢詩を篆書(書道の書体・古いスタイル)の作品として良い物にするため、お互いに話し合いながら詩句や字のバランスを推敲する「草稿作成」まで共同で行うようになったのです。
今作「船行」も字典(漢字の書体の辞書)を用意しながら、草稿を練るお手伝いをさせて頂きました。

 

言葉を操る者として、いつも得難い経験をさせて頂いております。
また、最近私が描いている漫画作品でも、描き文字など、阿部さんの「書」には影響を受けております。

 

これからも阿部岳流さんのご活躍をお祈り申し上げます。頑張ってください。自分も創作活動を頑張ります。

最近の本館ホームページ更新(2022/07/24)

本館/創作ホームページ「レッズ・エララ神話体系」ですが、最近は絵(イラスト)をUPしています。ドット絵、アナログ絵、デジ絵です。

redselrla.com

 

redselrla.com

そろそろBBS(掲示板)がシステム上の理由で使用できなくなるので、次のBBSなり、コメント記入出来るシステムを探さなくては……

ART-SCHOOL「Just Kids.ep」

EPの3曲目「ミスター・ロンリー」というと、すぐにOSSAN&OBASANは昔から続く深夜ラジオ番組「ジェットストリーム」のテーマ曲「ミスター・ロンリー」を想起しますね。とりわけ古い時代のジェットストリームは、深夜、疲れきった心を慰撫するように、映画音楽やイージーリスニングといった穏やかな音楽を「飛行機内放送」というテイで流していました。懐かしい……(OSSAN

www.youtube.com

病んだこころっていうのは何でしょうか。ともかくも疲れております。そのくせ、見かけほどゆったりしてはいなくて、いつもダメな意味で激動です。なので、慰撫を……心を休ませてくれるものを必要としています。

アートスクールの心臓・木下理樹は、2019年から体調不良により活動を休止していました。今回のEPはそこからの復活作です。

www.youtube.com

2005年のナイン・インチ・ネイルズトレント・レズナーの4th「with teeth」の時も思ったけど、こういう「病を経てからの確かな一作」というのはとても嬉しく思います。

木下理樹の病がどういうものであったかは、わかりません。インタビューと、音から、少し伺えはしますが、自分は詮索する気にはなれません。

spice.eplus.jp

伺える、というのは、体調不良の最中、とてもこのひとは憔悴しきって、焦燥に駆られていたのだろうな、ということ。安らぎを求めていたのだろう、と思う。それが歌詞と音からわかる。サウンドコンセプトからわかる。

おそらく、通常の木下だったらイージーリスニング的な音楽など唾棄していたでしょうが……ひょっとしたら、この休養時、結構聞いていたとしても、とくに不思議ではないとも思える(推察)。

病気に苛まれ、周囲の社会から取り残されての焦燥感、というのは、僭越ながら私も覚えがあるから。アレは、動けないんだ。動けないくせに、やたらにダメな意味で退屈しないんだ。神経はいつも研ぎ澄まされて、それが卑屈と結びついて。……いや、木下がそうだった、と断定はしません。あくまで推測と、個人的な経験なだけです。

EPの音を聴いて思うのは、木下が「光を求めてやまない」ということ。まずもって、ギターの音に、光がある。朝露が零れ落ちるかのような繊細さ、遠くを見つめる憧憬、そして、音と歌詞に、ささやかでもいま日常の中に確かにある安らぎを、大切にしようという意志が、ある。

木下理樹は、このアルバムで鳴らされている音そのものを愛している。大事にしている、と私は思った。このアルバムの音像は、暴力的にささくれ立って泣きながら逆ギレ的にぶん殴る音、ではないのです。かつてのアートスクールだったら、「表現」「芸術」の名のもとにそれをやっていたかもしれない。ただ、今回はそうではない、と私には思える。木下理樹とバンドがちいさな光の音を放つことに、木下自身が癒されている。その結果、このEPを聴くリスナーは……いや、少なくとも聞いている私は、木下が救われたことのお裾分けをもらっている感じがした。

けして鼓舞しまくる内容ではない。光と音の波を自意識に載せて絢爛たる世界を展開しまくるような豪勢さもない。地味と言えば地味かもしれない。ただ、朝露が零れ落ちるかのような静けき落ち着いた心情がある。内省の暴力的な嵐はとりあえず一段落して終わって、再び音楽を紡いでいこう、日常を紡いでいこう、という意志がある。

「病後の一作」という面もあるかもしれない。別にそれで判官贔屓的に本作の評価をグン上げしようとは思ってないです。けれど……これはアートのリスナーとして大変ニワカな自分が申すのもなんですが、ART-SCHOOL木下理樹の作品って、いつもどこか「病中・病後」なところってなかったでしょうか。だからこの場合、「病後の一作」としての贔屓目って成り立たないかも、と。

むしろ、自分はコロナ禍の中にあって、こういう私小説的な、地味で、しかし穏やかな光を放っている一作が生み出された、ってことの方が嬉しいですね。そういうのは、音楽というものにおいて、本当に良いことなんだ。表現媒体としてのEP(4曲入り)というのがまたよろしく思います。
この狂いつつある現世で、作品を作り続ける……バンドが奏でる音に、自分自身で癒され、作品を丁寧に作る、っていうことは、簡単なことではないから。

木下理樹が丁寧に音楽を作ったことを、私は喜びたいと思います。

 

 

●参考記事

↓ 今回、アートの新譜を聞こうと思った記事です。ありがとうございました。この記事には愛がしっかとある。

sigh-xyz.hatenablog.com

 

↓ 私はまだまだ、ここまでアートへの愛を深められておりませんで。愛が凄い。

mywaymylove00.hatenablog.com

 

↓  過去に私が書いたアートスクール「Flora」の感想。アートの4thにおける「ポジティヴ」さと今回のEPの「ポジティヴ」は、少々異なっているように思えます。今回のEPの方が「日常性」を感じる。

ART-SCHOOL「Flora」全曲感想ついったー連投 - 残響の足りない部屋

 

↓ 今回の記事と魂が通底している

深夜に延々と癒し系音楽映像の垂れ流しを見て静かに涙を落つる心情を君は経験したことがあるか(フィラー映像入門) - 残響の足りない部屋

本館ホームページ更新(ドット絵)

本館ホームページ「レッズ・エララ神話体系」更新しました。(今お読みのこの日記ブログは、その別館扱いです)
今回は、今年書き溜めていたドット絵を連続でUPしたものです。

 

redselrla.com

 

↓ こういうのです。

 

現在残響の最新作は、漫画同人誌の第3作目を制作中です。がんばります。体調を戻すのもやっていきます。