これは前回の記事のような愚痴ではなく、未来をしっかり見据えるつもりで思考を言語化したくて書く文章です。
●いつまで私は創作が出来るのかなぁ
はじめに断りますると、今現在なうな私(筆者・残響)は、自身の生きがいとしての創作活動を止めようとしている、ということではございません。
この創作活動とは、私がオリジナル創作としてはじめた「レッズ・エララ神話体系」の文や漫画やホームページ、音や絵や立体のことです。学生時代に初めた創作世界観で、37歳の今、もう20年経つのですね。
20年も続けていれば飽きるか、この世界観? と思っていたら、案外飽きなかったのですね。それは自分の才能が凄いとかいう話ではないです。ですが、自分がしつこい性格だから、ということでもないようです。おそらく、20年前の自分の世界観デザイン…ゲームデザイン、と言い換えてもよいかな。そのデザインが、偶然ガチャの当たりを引いた、と言えるのかもしれません。
●エッジ切断とゲームデザイン
レッズ・エララ神話体系の構造はおおむね、
(1)各時代によってシリーズが構成され、メインとなる舞台が成立する。
(2)各時代によって登場キャラは異なり、メインキャラを狂言回しとして設定
(3)あとは設定に基づいて、キャラ同士が漫才やコントをする
というものです。
ゲームデザインが上手くいった、という例を話すと、(1)の時代、舞台設定ですが。
かなり早い段階から「中世」「現代〜近未来」の2つは設定されました。時雨とエヴィルの時代感覚と、セリゼや月読の世界感覚は「違う」という確信がわりと最初の方からあったのです。
普通なら、この2つの世界観の違いは、それぞれ別の作品になるはずなのですが。
しかしレッズ・エララの場合は「同じ世界の違った時代の話」という風に纏めてしまいました。強引に同居。なぜなのでしょう。
…まぁ、多分当時の自分(あほ)は「ニコイチにしてしまえば一気に世界が大きくなるぞっ」というだけの発想だったと思います。カツカレーとかカレ牛(カレー牛丼)みたいな発想だな。安直であります。
しかしこれは地味に効いたというか。はじめから「これは中世の話なんですよ」のように限定してエッジを作る。大きな世界の流れの中の一部分、という風に。レッズエララはそういう風に「無理にエッジを立たせる形で作った設定」がいくつもあります。
そうしていく中で各時代の世界観のディテール、これがですね、(変な例えですが)端っこが強引に「切断」される感じがあるんですよ。エッジが際立つというよりも、エッジを無理やり設定(切断)してあげることにより、ザラついた独自の味わいが出たというか。むしろその切断面こそが時代性の本質が垣間見える、というか。この時代の世界観ではここまでしか描けません!という断念。それは地味に効きました。
普通、セリゼや月読の話だったら、普通にちょっと現代っぽいファンタジーにしていけば順調に進むはずです。でも、「現代のレッズエララ世界はここまで!」とエッジで切断してあげたら、変なものが出てきた。「神討ち」の設定なんかとても良い例で、「この現代には異常な最強者が8人居る」と設定したら、世界が途端に変になりだした。ぐゅるり、と世界全体がうねりだした感覚を今でも覚えています。
そんなこんながいくつもあったレッズ・エララ神話体系です。つまり、最初のゲームデザインが偶然上手くいった。今これと同じように上手くいかせられるようなゲームデザインをしろ、と言われたらちょっと困ります。なにしろレッズ・エララには、設定内であればなんでも放り込める。それはすなわち、いつまででも続けられる、ということです。
そして、このレッズ・エララという世界観は、「最後」がもう決まっているのですね。レッズ・エララという世界は最終的に終焉、滅亡します。これはもうはっきり決まっていて、なにしろ「極東魔王」シリーズがこの終焉をしっかり描くためのシリーズであるのですから。まぁガージャーシャ・レチリパというキャラがあんなに手淫狂いになろうとは思いもよりませんでしかけどね!(本当だよ!)
この「最後が決まっている」というのも、良いエッジの立て方(切断法)だったと思います。額縁が決まっている、というニュアンスで。そしたらもうあとはポストアポカリプスという私の大好きなジャンルを深めていけば良いだけですから。それまでのキャラクターを総動員させてね、そいつらの荘厳な死をね、うふふうふふ(やべぇ)。「ミズの墓を護るセリゼの消滅」のシーンは自分で考えていて鳥肌立ちましたもの。
うーむこれは確かに創作がやめられない。なんだ前の記事の自分は。こういう風に物語が出来るんじゃないか。
●生活ゲームデザイン
ただその一方で、どこまで自分の身体と時間がついていくのかな?と思うようにもなりました。
37歳です。いま。
20年かけてだいたいのレッズ・エララのスケールというか可能性が把握出来ました。これからそれをどんどん書き込んでいけば、かなり楽しそうです。でも、前述のようにここまでの規模の別のゲームシステムを新しくもう一個作る、のは難しそう。
まぁレッズ・エララをライフワークとして心中でも全然良いのですが。しかしそしたら今度はもうひとつの問題が出てきます。
「身体はもつのか?」
漫画を描いている時に痛感したんですが、漫画を、絵を描くのには、腰を酷使しますね。あと目も。絵を描いていて「こりゃあ頻繁に腰をいたわらないと、全身破壊するな」と何度も思ったものです。絵を描くにはそれくらいフィジカルを酷使するのだなぁ、と。まぁこれは自分が絵の素人だから、身体の使い方をわかっていないだけの話かもしれませんけど…しかしこの先、最終的には同じです。どうせ身体は老いますし、それに従ってフィジカルパワーも落ちますて。どんな神絵師でも素人絵師でも、年はとる。
あとそれから、年を取った時の自分の社会的状況だとか、金銭の余裕だとか。現在毎日忙しくしている割には貯金ないですからね私(生々しい)。レッズエララをやるためには、とりあえず生きていなくてはならず、健康で文化的な最低限度の生活を営んでいる必要があります。あとインターネットに常時接続出来る環境。
別にいつ死んでも良い、といまから考えているのが私という人間でして。以前、何度も何度も何度もなんども「死ぬほうがまし」という持病の極限発作をくらいまくった数年間で、死生観は変わってしまいました。いつでも死んでも良い。あとは野となれ山となれ。無になることは、少なくとも無限の苦しみではない。
さらに、自分が炎に包まれる幻覚を見た時の臨死体験では「うわー困ったなぁ!」という思考を抱くばかりで、創作への悔しさもなければ「生へのあがき」もなかった。臨終の時もそういうものなのだろうな、と思った。
まぁこれは突発的な臨終の場合であって、もっと段階的にじっくりと死への道筋(老境)になった場合は、もっと準備を整えられる、という違いはあります。できればそっちでありたいものですが。
ようは「いつまで遊んでいられるかなぁ」という話です。それには自分の生活者としてのレベルをより一層知り、日々研鑽する必要があります。己を知る。なるべく創作を続けていたいけれど、
(a)無理な酷使を毎回のプロジェクトでするのはもうよそう
(b)毎日の生活を楽に続けられるようにしよう
この2つが今の自分にとってかなりの問題ですね。もちろん無頼派を気取るわけではないですが、これまでどうも創作で身を削りすぎた。
毎日の生活と、創作活動。この2つを、まるで世界をひとつにするように合わせなければならない。
なんということだ!中世世界と現代世界の2つを合わせることをしたこの残響さんが、こんどは生活と創作を合わせる「日常ゲーム」デザインをすることになろうとは!
日常ゲーム2.0 --エクストリーム・生活メンテナンス趣味 - 残響の足りない部屋
しかしまぁ、このゲームデザインが出来れば、自分はかなり長く創作を続けられるということですね。…っていうか、これレッズ・エララのデザインより格段に簡単じゃねぇか(愕然)。
なんだ、そうか。ということは、なんとかなりそうな気がしてきましたぞ。えっ、そんな結論でいいの? いいじゃないですかw てなわけでどっとはらい。また次の日記で〜。