残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

読書日記2010・春(前編)


近況報告


新生活! 春の桜花咲き乱れる今日この頃、学生は、新社会人は、新たなるフィールドに第一歩を踏み出しました! 


まあ、そんな季節ですね。これを機に、今までの自分とは違った自分になろうとしている人も多かろうと思います(例えば「脱オタ」とか)。というか、新しい環境に身を置くことになったら、その時点で自己の組成(在り方・スタイル)をある程度は変えなくてはならない――もっと正確に言えば、「順応」させなければならない、そういうことが言えます。もうこれは不可逆的真実というか、そうしなかったら生きていけませんからね、世間では。年齢を重ねるごとに、空気を読む術を習得していかなくてはならない、それが「大人の階段を上る」ということの真実なのですなあ(詠嘆)。


それをどう思うか? ま、しょーがねーんじゃないですかねー? と大人の反応をするわたしです。どんな大力量の人間を待ったところで、個人は組織/集団に勝てるわけがないのが道理ですし。シャープな才能も、強靭なタフネスも、沼のように引きずり込まれ、触手のように絡め取られ、アイロンのようにゆっくりと押しつぶされる、それが事実です。嫌な事実だなぁ。もちろんわたしも、それを「嫌」だと思っている以上、この状況をブレイクスルー出来る大力量の存在の到来を夢見ることがあるのですが、現実は、ねぇ。ヒーローは空想の産物? そんな諦念を抱いている時点でわたしも平々凡々たる「大人=大衆」の一人だということでしょうか。嫌な結論だなぁ。可能な限り、「人間に作られたものが「壊せない」という「不可能」はないのだ!」(元ネタ・銀河鉄道999)という「少年の心」を忘れないようにしたいものですが、現実は、現実は、現実は……(エコー)


まあ、新生活をはじめる皆さん、くたびれない程度に頑張ってください。そんぐらいしか言えないなぁ(苦笑)。というかですね、わたし自身が人のことをかまっている余裕がないのです。持病はともかくとして、仕事(の物量)が……。ちょっと万里の長城を眺め見るがごとき果てしなさを呈してまして……。簡単に言えば、表作成・データ打ち込み・グラフ作成なのですが、365日×12ヶ月×8店舗×5年分、のデータを打ち込んでいかないといけなくて……。発注主(父君。母君と並んで、ウチの家業の実質的リーダー。双頭体制といいますか)からこれを作成するように言われたときは、何とかなるだろう、とタカをくくっていたのですが、いざ打ち込んでみると、そのデータの膨大な量に思わずグッタリ。幸いなのは、期限が差し迫っている仕事でない、というのが救いですが、しかし一品目・一店舗・一年分を仕上げるだけでもそこそこ大変でしたぜ(口調が変)。というわけで、今は毎日これにかかりきりです。ですので、新成人・新社会人のことなんか知ったこっちゃねえといいますか(ひでえ)。四月は出会いの季節ともいいますが、そんなことをしている暇はわたしにはないっ!(断言)。


そんな感じの近況です。小説……暇を見つけて書きたいと思っているんですけどねぇ……。まあ、仕事を一段落出来る地点にまで持って行ってからかな〜、と思ったり。あ、そうそう、このブログの改行設定ですが、前回の記事を見返してみて、「いくらなんでも詰まりすぎ」な感を覚えましたんで、ちょっと今回変更してみました。読みやすくなっていれば良いのですが……。


読書日記


前回予告した通り、お久しぶりの読書日記です。文芸ブログの、文芸ブログの沽券が……っ! まあそれはともかく、久しぶりということで、勘を取り戻すという意味でも、つらつらと書いていきたいと思います。ちなみに、漫画込みです。ていうか今回は漫画が多いです。


さて、三月……ええ、わたし的には大変な月でした。というのも、欲しい書籍が山のように、鬼のように発刊されたからです。あたかもカタストロフ的というか……。どの書籍も自分的に「外せない」ものだったので、それ以外、すなわち、衝動買い的に「あ、買ってもいいかな」みたいなユルい気持ちで買うような本は、ことごとくカットしていきました。う〜ん、それだけ見ればソリッドな買い方だったと言えましょう。まあ、こんな月は今後二度と来ないでしょう……多分。この月に関しては、ネットでだいぶ前から事前情報を集めて、貯金をしておいたので、何とか無事に対処できたのですが。四月もちょっとは買いますが、三月ほどではありません。ましてや五月なんか、新刊で買いたい漫画が一冊だけ(榛名まお『めげない! ひよっこ精霊士』三巻)というピースフルな月ですし。三月……さすが年度末だったぜ……と詠嘆して、いい加減本題に入りたいと思います。


あ、しかし今回(から)の読書日記で、それを踏まえた注意点がひとつ。三月、とにかく買いすぎたので、ここで感想を書きたい品目が多いのです。それから、「最近読んで感銘を受けた本」ということでいうと、三月発売以外の本も取り上げたいので、さらに品目が多くなります。というわけで、今回はきっちり腰を据えて論じてみよう、というよりは、断想的というか、印象批評的になると思います。ですが、考えてみたら、このブログの「読書日記」はいつもそういったスタイルだったな……と望遠(苦笑)。ただ、今回はその傾向がさらに強まると思いますので、ご容赦を。腰を据えてひとつの本を読み解くのも大事だとはわかってはいるのですが、しかしここ最近は面白い本が出すぎた(本に触れすぎた)もので……まあ、常套句を持ち出せば、「書かずにはいられない」ってやつです。……さすがに前置き長いですね。ではいってみましょう。しかし、全部は今回の一回では書ききれないので、今回と次回の二回で書きたいと思います。


長月みそか『少女素数』一巻


三月一番の衝撃(都条例を別にして)。この作品は『きららフォワード』で連載がはじまった当初から大注目していて、単行本発売を待ち望んでいた待望の一冊なのですが、いやはや、素晴らしい。「少女性」のあくなき探求、それを紙の上で鮮やかに(画面効果的にも、人物造型的にも、精神的にも)描き出しています。


このブログではあまり触れてこなかったのですが、今までこのブログでさんざん二次元美少女について触れてきたわりには、わたしは一言もそれらの作品/キャラに対して「萌え」という言葉を使っていません。それは何故か。それは――わたしが少女に対して抱いている感情が「萌え」ではなく、「少女崇拝」であるからなのです。少女の美の瞬間性/永遠性に対する崇拝。それがわたしの少女に対する意識の在り方です。なので、二次元美少女に萌える=愛でる、といった回路をとっていません、わたしの場合。別に「萌え」を蔑視しているわけではありません。わたしもかつてはその徒でした。ただ今は別のフェイズに行ってしまった、ただそれだけのことです。「愛でる」よりも、「美」に対する隷属をこそ。


まあ一言で言えば「はいはいロリコンロリコン」なのですが、ここでひとつだけ付け加えさせていただきたいことが。わたしがロリ者であることは否定しません。むしろ進んで認めるところであります。しかし、わたしはロリではありますが、ペドフェリア(幼児性愛者)ではない、ということです。この二つの言葉が不幸にも、同義語として扱われているところが、現代日本のロリに対する見方の貧困なところなのですが(そこまでいうか)。それはともかく、わたしは少女を性の対象としては見ていません。理由は「崇拝」の対象だからです。そのあたりが一般的なロリコンの人とは異なるところだと思います。具体的に言えば……『はじるす』、プレイしようとも思いませんし、『LO』とかも、雑誌としてのクオリティは客観的に認めつつも、「耽溺」することはできません。まあ、そんな感じです。


前置きが長くなりました(今日のわたしは前置きが長い)。ともかくもこの『少女素数』という作品、これはまさに、わたしのこの「少女崇拝」の概念を言い表してくれた、素晴らしい作品なのです。だから単純に作品として好き、という以上に、「感謝」の気持ちすら強いのです。表現技法のことを言っていったら尽きることはありません。トーンの使い方(色彩感覚)、ネームのダイナミクス。しかしここでは、次のことを重点的に指摘しましょう。すなわち、双子の少女の行動の一瞬一瞬における、「空間の意味」すら塗り替えていくような、その鮮烈さ。それが定位できるのが一瞬であるがゆえに、作者は目につく機会を逃さずに、紙面を、空間を、「少女性」で埋め尽くしていきます。どこを切っても「かわいい」の概念がむき出しになるこの事実。


ちなみに今回ここまで、この感想において、富士夫やぱっクンの存在/視点というものを「意図的に」無視して書きました。それはわたしがこの作品に、自己の「少女崇拝」観の理想像を投影するためにした所為であります。しかし富士夫の以下の言葉を無視することはどうしてもできません。それは、わたしがこの作品に対する絶対的な信頼を確信した言葉であると同時に、わたしの「少女性」に対するマニフェストともいえる言葉であるからです。


「おんなのコってなんていうか/妖精を宿してる時期みたいなものがあるんじゃないかなあ」
「もしその正体を見極められたら/あたらしいものが創りだせそうな……そんな気がするんだ」


鳥取砂丘『境界線上のリンボ』一巻


この作品も、単行本としてまとまるのを待ち望んでいた作品でした。ともかくも、世界観が素敵です。独特の透明感・浮遊感。それは、この舞台となっている街が空中に浮いているから、というわけではなく(それもあるけど)、細部までオリジナルのファンタジー設定を練りこんだ、「細部と全体との絶えざる相関性」を常に想起させる、その世界観の構築性。それはネームにもひしひしと表れていて、泥臭さや猥雑ささえ洗練された箱庭世界が現出しています。現実からふわっと浮き上がるかのような感触。それをこの本を読んでいて思いましたし、またそれは、優れたファンタジーがもたらしてくれる最良の要素でもある、と感じます。


この漫画はストーリー4コマです。……冷酷な評語を下してしまえば、世間ではストーリー4コマに対する風当たりは、いささか厳しい感があります。それは、ストーリー漫画のネームを切れない漫画家が、ネームを切るのに楽な4コマという手段に逃げているから、ということからくるようです。そして、元来ストーリー性に乏しい4コマにストーリー性を持ちこんだというその時点で、その漫画は「ストーリーを重視する、という人間本来の傾向」に沿った漫画となってしまい、結果的に、4コマ本来の「ネタの切れ味」に欠ける4コマの評価が上がってしまう、という事実。4コマ漫画の熱心な読者は、熱心な読者ほど、「ネタの切れ味」を求めます。そういう向きからしてみれば、ストーリー4コマなど邪道、ということになるのでしょう。


わたしの立場を表明するならば、「半分同意」します。4コマの本道はネタの切れ味にこそあります。ストーリーでもなく、ましてや「萌え」でもないはずです。ここで『あずまんが大王』の功罪、という視点を持ち出してみます。『あずまんが』の画期的な点は、秀逸なキャラクター造形と、「間」を生かしたネタの強度にこそあります。ところが『きらら』創刊以降の「萌え4コマムーブメント」は、この二点を、「萌え」と「ユルさ」という二点に還元した漫画を創作することとなりました。結果何が生まれたか。……まあ、皆さんが思い浮かべている「萌え4コマ」で合ってると思います。そこそこきれいな/かわいい(それを引き立たせるためにデフォルメをかけた)絵で、オタ受けするゆるネタの粗製乱造。起承転結のダイナミクスにも欠け、オチでクスリと笑わせることすら半ば放棄する、といった態度。『あずまんが』の時点ではまだ目立っていなかった「アンチ萌え4コマ」という立ち位置、それは、爆発的に流行した「萌え4コマムーブメント」によって、はっきりと顕在化するようになりました。


ここで萌え4コマ作家たちが、ネタの強度を追及する方向に行ったならば、事態は変わっていたかもしれません。しかし彼らが次に舵をとったのは、「ストーリー性の導入」でした。その方面で、海藍氏やきゆづきさとこ氏が成果をあげていたからでしょうか、あるいは、面白いネタを思いつくよりも、ストーリー性を導入した方が、自己の作品のポテンシャルが上がる、と考えたからでしょうか。しかし、そのような態度ではたして、優れたストーリーなど紡げるものでしょうか? 答えを書くのももはや無粋かもしれません。ひとつだけ書けば、「萌えシチュを思いつくことと、4コマのオチやストーリーを考えることとは、まったくの別物だ」というあたり前の事実、それを記しておくことにします。


確かに、優れたストーリーをあの起承転結の僅々4コマの活殺の中で表現できたなら、それは素晴らしい達成です。問題は、それが達成された例が少ない、ということなのです。……あるいは、この成功例の少なさをもって、「ストーリー4コマなど不要」という論をぶつ人もいるかもしれません。上に書いたように、安易なストーリー4コマの流行がもたらした4コマ界の下降は、それだけ見れば確かに当たっている、と言えなくもありません。しかし、では、業田良家氏の『自虐の詩』はどうなのだ、と問うたら、彼らはなんと答えるのでしょうか? 「アレは例外」? しかし、そういった見方は「マンガ夜話」的史観にとらわれ過ぎではないでしょうか? 業田氏や、先に述べた海藍氏やきゆづき氏。彼らは、ネタの強度を保ちながら、それをさらに際立たせるためにストーリー性を導入しました。あるいは、そもそもあずまきよひこ氏ですら、構造的に見てみれば、ストーリー4コマの利点を最大限活用した、という事実が導き出せるのではないでしょうか? それゆえに、わたしは「ストーリー4コマ邪道論」に対して、一理あると思いつつも、擁護したい気持ちをどうしても捨てることはできないのです。


そしてわたしはこの『境界線上のリンボ』という作品を、「ストーリー4コマの成功例」として数えたい、と思っています。確かにネタの切れ味よりも、浮遊感あふれる透明な世界観を、四つのコマの中で描写している、そのように評を下すことが出来ます。しかし、ともかくもそれは成功している、とわたしは思いました。あらゆる古今東西の傑作は、例え理論的に間違っていようとも、結果的に面白ければ、それは「成功」なのです――長々とストーリー4コマ論をぶちましたが、結局は、このことを言いたかっただけ、かもしれませんね(笑)。


○原作 ZUN 漫画 比良坂真琴『東方三月精 〜Oriental Sacred Place』一巻


とにかくわたしが書きたいのは、この漫画の東方界隈での評価の低さです。いや、評価が低くない、ということはないのでしょうが、いかんせん、界隈ではニコ動だの百合だの電波曲だのが取りざたされることが多くて……ああ、このカオティックぶり。紅魔郷妖々夢をマイペースでのんびりプレイしていたあの青春の日々が懐かしい(望遠)。それはともかく、数として売れていることは事実でしょう。でなければ第三部にまでいきませんものね。とはいえ、界隈で『三月精』が話題になることは少ないです。具体例を示すとすれば……えれっと氏の『三月精ってばおちゃーめさん!』以外にロクに三月精同人誌を見かけたことがないという事実。東方アレンジで三月精の曲が取り扱われることの少なさという事実。そして何より、イラスト系サイトだったりPixivだったりをつらつら眺めていて、パチェやうどんげや早苗さんはよく見かけるものの、三月精の三人(三匹?)は見かけることがついぞない、という事実。いつになったら三月精の抱き枕が出るのやら(むしろ三人だからベッドシーツ? いや、欲しいわけではありませんが)。……東方ファンの正直な気持ちを予測するとすれば、『三月精』は「原典」として神棚的に扱うアイテムだとしても、それ以上ではない、というのが実情ではないでしょうか?


だとしたら、何ともったいないことか、と思います。何故ならば……ZUN氏のテーマ設定・ストーリーテリング・キャラ造形についてはしばらく置きます。それは他の方面(原作ゲームに関する多角的論考)で語りつくされているでしょうから。しかしここで書くべきは、比良坂氏の「漫画力」です。もっと言えば、「漫画的地力」です。数ある同人漫画家からなぜ比良坂氏が選ばれたか。それは、原作に対する愛情の真摯さと、確実な漫画的力量によるものである、とわたしは思っています。ともかくも、比良坂氏の漫画は、ストーリー展開=ネームの切り方が、画面の描写が、キャラの動かし方が、非常に「安定」しています。確かな画力に基づいたその描写は、「漫画」として読ませます。ZUN氏の世界の中で、しっかりと職人的な仕事をしています。また、それだけ職人的な仕事に徹することが出来るのは、そこらの同人作家に比べて、遥かに東方の世界を愛し抜いているから、とも言えます。そのことは、漫画の画面から伝わってきます。東方を愛するがゆえに、背景・小物の一つに至るまで手を抜かない、という仕事ぶり。


そもそもが「ZUN節」をSTG以外の媒体で表現しきること自体、大力量の人物の到来を待たなくてはなりません。何故ならば、幻想郷の少女たちが織りなす物語は、徹頭徹尾「遊び」という枠内で行われているからです。このこと(ストーリーにおけるスペカの存在理由)に関しても、すでに論じつくされた感があるので、詳細は略しますが、ここで書きたいのは、ストーリーを展開させつつも、「これは『遊び』ですよ」というカッコ付きの世界観を描写すること。普通であるならば、ぐっとシリアス方面に舵をきりたくなるところを、「ZUN節」を表現するには、あえてその誘惑を押さえなくてはならないこと。これを可能たらしめるのは、やはり黄昏フロンティアという大力量であり、比良坂真琴という大力量によるものであった、といっても過言ではないでしょう。とくに比良坂氏に関しては、その抜群の「安定度」が、東方の世界をスムーズに展開する上でも、また、読者がリーダブルに漫画を読める、という意味でも、多大なる貢献をしている……それなのに、この評価の低さはどうしたことか、そんな思いで、今回の文をものしました。内容に関しては一言。いつもと同じで安定していていいですね。あっさりしていますが、上に書いた文章から、それが、わたしなりの最大の賛辞と受け取ってもらえれば幸いです。


本日のBGM:ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス『エレクトリック・レディランド』(不気味なまでに何回聞いても飽きることがなく、新たな発見が毎度のごとくある。わかっちゃいるんだけど、「クロスタウン・トラフィック」でのイントロや、「ジプシー・アイズ」のドラムの入りから歌いだしにかけて、といったところで、もう体がグル―ヴィーに反応してしまう。それはそうと、『THE EFFECTOR BOOK』VOL.5のユニヴァイブとオクターブ・ファズの特集、面白かった。各種エフェクター紹介ページが輝いて見えたぜ……)