残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

読書日記2010・春(中編)


はじめに


前回からの続きで、今回も読書日記です。というかですね……前回、「近況報告」でいらんこと書き過ぎました。素直に反省しましょう、ヘイ・キューティー・ボーイ……(全然真面目じゃない)。まあとにかく前回は本題導入まで長すぎました。今回はサクっといきましょう。


ああそれとひとつだけ。ふと先日気付いたことが。mixiの日記で書いたのですが、今なぜ小説が遅々として進まないのか、というわたし的大問題。これ、やっと答えが出ました。ようするに、「薬飲んでるから」というシンプルな理由でした。意識をフラットにさせる薬なんか飲んでたら「創作力」なんて湧いてこねーよ、と。ですが、薬を抜かしては普通に生活することは叶わず……このジレンマ。しかしまあ……最近はようやく薬にも慣れてきたのか、少しずつ小説が書けるようになってきました。ここまで至るのに長かった……。ともかくも、「書ける」という事実、これは素直に慶賀すべきことです。個人的に。ああよかった……まあ、これが続かなかったら意味ないんですけどね。


読書日記

○『現代世界美術全集22 アンソール/マグリット

ここ数カ月、折を見ては、図書館にある画集に目を通していました。マティスドラクロワティツィアーノベラスケス……渋澤龍彦の『幻想の画廊から』も実に興味深い本でした。そして今、ギュスターヴ・モローの画集を取り寄せしてもらってます。それらの画家について語っていけば尽きることはありません。とくにベラスケスにおける「ポージング」の意義! それは、モデルに「ポーズ」させることにありがちな「作為性」を遥かに超え、ひとつの「造形美」に足をかけているのです。……しかしここで語るべきは、上に書いたアンソールとマグリットの画集です。とりわけわたしが語りたいのはアンソールです。今までアンソールについて不勉強だった自らの不覚を情けなく思いましたね。ここまでわたし好みとは! まあ、美術史のどこに位置づけるか、という点で難しい画家だから、ということが、わたしがアンソールについて不勉強だった理由である、のかも。しかしそれは言い訳ですね。


わたしはあらゆる芸術において、表現において、「幻視者」を好む傾向にあるようです。かつてこのブログでルドンについて言及したことがありますし、結局のところ、わたしが印象派に惹かれるのも、その色彩・光の氾濫を通して画家たちが何を幻視したか、についてなのでしょう(それがすべてとは言いませんが)。晩年のモネの抽象画にすら近づいた色彩表現、そこにおいてモネは何を見ていたか。遡ればドラクロワにせよ、「ロマンティシズム」の回路を経て、何を幻視したか、とも言えなくもないのです。……まあ、絵画における幻想性について言及していけば、それこそ元を辿れば宗教画、果てはアール・ブリュットの世界にまで至るのですから、片手間で論じ切れる話題ではありません。


ともかくもわたしが語りたいのはアンソール――印象派以降の印象派、20世紀美術の先駆者たる、ベルギー人の画家、ジェームズ・アンソールです。まずわたしが圧倒された(あるいは、眩惑された)のは、その煙幕を張るかのようなタッチです。「海辺のカーニヴァル」「嵐のあと(虹)」「嵐を鎮めるキリスト」いずれも、対象は曖昧模糊としていて、それが独特の静けさを醸し出しています。と同時に、アンソールは激烈な色彩感覚の持ち主です。傑作「雷に打たれて墜落する反逆の天使」、画面効果だけを云々するとすれば、一見、これはもうほとんど抽象画です。そして、フォーヴィズムの先駆のようにも感じられます。怒涛、という表現が似合います。そう、アンソールはその「静」の中に、このような「激情」を飼っていました。アンソールの絵は静かではあっても、人に「落ち着かせる」という感じを与えません。薄くもやのかかった画面から、片方で、その絵は「死」の方向へドアを開け放っています。


「死」――それは、アンソール芸術にとっては切っても切り離せないモチーフ、「仮面」に象徴されています。仮面・骸骨・道化性……これらがモチーフとして扱われる絵においては、アンソールは半ば狂気に足を踏み入れています。そして恐ろしいのは、その絵における構図が、「ある程度整頓されている」ことなのです。このことが、アンソールの仮面の絵を見るわたしを戦慄させずにはおけません。わけがわからなくなる世界観において、その世界はきちんとそれなりの法則性をもってそこに定位しているのです。このことは、アンソールが狂気の世界にいかに生々しく触れ合っていたか――アンソールの世界においては、狂気がはっきりと具象化されていた、という事実。


1900年代以後のアンソールの作品の評価は軒並み低いです。しかしわたしは思うのですが、「この路線」に身を置き続けること自体、もともと危険な賭けだと思うのです。そして、人は、その世界に居続けるには、あまりに弱いです。どだい無理な話なのです。「狂気」に憧れを抱く凡人(と断言します)は知りません。理性を、神経を残した人間が、狂気に苛まれるときの、あのおぞましさを。気持ち悪さを。狂気は――素晴らしいものでもなんでもありません。自らを取り巻く知覚世界が歪んでいくときのあのサイケデリックな酩酊の感触は、慣れるとかそういう問題ではないのです。狂気に慣れなんてありません。そこから逃れるには、薬か発狂か自殺かのみです……。平和を、ただ平和を――それは古今東西、あらゆる「狂気に怯える者」たちが祈り続けてきたことです。しかし――いや、話がそれました。ともかくも、アンソール芸術がある時点からその生気を失っていった、という指摘はある面では正しいです。あるいはアンソールの神経は、焼き切れてしまったのかもしれません。


しかし……1915年作「母の死顔」の静謐さ……わたしはこれを見たとき、即座に「ピエタ(=十字架から降ろされたキリストを抱くマリアの聖母子像)」を想起しました。もちろん、本来の「ピエタ」とは立場は逆転しています。しかし、死の暗喩を描き続けた画家が、何かに祈りを捧げているように、この絵からは思えるのです。それは、母を悼むためはもちろんのことですが、しかし「焼き切れてしまった自分」を悼んでいるのではないか? ……書いてて自分でもよくわからなくなってきました。しかし、この絵を描いたときアンソールは55歳、彼が死んだのはその34年後、89歳です。アンソールは芸術上ではラディカルでしたが、実生活上では極めてセンシティヴな人物であったといいます。初期において画壇から受けた冷遇とは裏腹に、「創作力が衰えた」と言われる後年になってから、急に名声が高まってきました。それらをひっくるめて考えると――彼はいったいどのような苦悩と矛盾とを抱き続けて生き続けていったのか、そう思ってしまいます。


後年のアンソールの作品は、淡く、夢幻の境地を彷徨う、といった感があります。幻視に幻視を重ねた末の幻視……その一般的評価は、不幸にも低いです。しかし、その夢のような(あるいは、悪夢のような)幻視を、一顧だにしない、ということは出来ないのです、わたしは。同情ではありません。ただ、「どういう気持ちで絵を描き続けたのだろう」という素朴な疑問なのです。……いや、もう答えは出ているかもしれませんね。「それ(具象化された狂気)がそこにある以上、描かざるを得なかった」のでしょう。


○異識『あっちこっち』三巻


先日『けいおん!!』を観ていたとき(およそ半年ぶりにテレビの前に座りました)、当然のように芳文社の『きらら』のCMが入りました。「なんで『はるみねーしょん』だけ白黒なんだ」とツッコミを入れたくなりましたが、まあそれはさておき、『あっちこっち』もCMの対象になっていたのにびっくり。ほう、そこまでになったか……と思ったものでした。『ひだまり』『GA』の次と目されるようになった、と。『きらら』的にプッシュされているんだなー、と。


あ、『はるみねーしょん』についても、TVでその名が出ることにちょっと驚いたものでしたが、こちらは、プッシュ云々というよりは……『きらら』の中でも独自路線を突き進んでますからね。大沖漫画は『萌え4コマ』の範疇に納まる漫画ではないと思います……だが、そこが良いのですが。


話を戻します(どーしてわたしは話を横に逸らしたがるのか)。『きらら』がプッシュするのも当然の話で、単純にこの漫画、面白いですし、人気もありますし。実際、漫画読みの間ではじわじわと人気が口コミ的に広がっていった漫画ですからね。それも、「萌え4コマ」という文脈というよりかは、「おい、ここに次世代型ツンデレがあるでよ!」的な文脈において。しかし……つみきさん、ツンデレっていうか、デレデレですよね? 過去にわたしはtwitter上で「三千院ナギ(『ハヤテのごとく!』)はツンデレというよりかはデレデレじゃね? 最初から」と書いたことがあるのですが、何かおんなじような現象が……ああ、だから「次世代型ツンデレ」なのか。ナギも、つみきさんも。


思うのですが、最近のツンデレ(=次世代型ツンデレ)は、「暴力型ツンツン」と「ツンの皮を被ったデレデレ」の二極が台等してきているような。もちろん、古典的な、「ツン:デレ」の比率が「7:3」ないし「8:2」なツンデレも依然として多いのですが。しかしまあ……完っ全に記号として定着しましたね、ツンデレ。過去に、オタ向けコンテンツには妹が必ず実装、という時期があったのですが、最近ではツンデレがそれに取って代わりましたね。……「次世代ツンデレ」というのも、このツンデレの全面的普及に対する反動……というか、安易な「べ、別にあんたのためなんかじゃ〜」的構文に代表される「定型的ツンデレ」があまりにも溢れかえるようになったから、といいますか。ようするに、オタも食傷したのでしょう(無論、ツンデレならもう何でもいいよ、という境地に至っている人は、この問題の埒外にあるわけです)。


……ていうかこの議論、少なく見積もっても2〜3年は古いですね。う〜ん、わたしは実は、オタ業界から離れていた時期があって、まあその間は、古典を読んだりジャズを聞いたりしていたわけですが、ふとしたきっかけで久方ぶりに業界に戻ってみたら、ツンデレ全盛だった、という経験があるのです。わたしがオタ業界から離れる前は、ツンデレという言葉がこれほど流布してはいませんでした。時代の趨勢を感じたといいますか……そうそう、そういえば、わたしの友人に、「ツンデレ」という言葉がない時期において、F&Cの『Canvas』の桜塚恋が最高だー! と公言していた人間がいます。まあわたしのマイミクさんの土方おうむ君なのですが。数年前に「今でも恋萌えかい?」と問うてみたら、「何を当たり前のことを」と軽く返答されましたね。彼こそ筋金入りのツンデレ者、ツンデレの権威だと評してもよいだろうと思います。


一度芽生えたニーズは消えることはそうそうありません。ですので、ツンデレも消えることはないでしょう。「妹」が数の変化こそあれ、崇拝者(属性者)はいなくならなかったように。いや、「妹萌え」は、その中に「実妹萌え」というセクトを作ることと相成りました。攻略出来る妹=義妹、という認識は、数年前のソフ倫規制の緩まりにより、過去のものとなりました。ツンデレも、そういった形で、より細分化・セクト化していくことでしょう。その事例のひとつが、「次世代ツンデレ」の体現としての『あっちこっち』であるといえます。


……と、期せずしてオタ文化論となってしまいましたが、やはり本編の内容についても触れなければならないでしょう。意外や意外、伊御さんに心境の変化! 正直、伊御さんが「意識」するようになった時点でこの漫画は一直線に「ゴール」だと思っていたのですが、なかなかどうして、異識氏は長期戦に設定したようです。今度はいかに伊御さんがデレるか、といったところが焦点になるというわけですね。……意地悪い見方をすれば、ドラマCD第二弾も出たことですし、そうそう『きらら』もこの作品を終わらせようとはさせないでしょう。いつもどおりつみきさんのデレを魅せるか、あるいは伊御さんのデレを魅せるか。ゴールはそれこそすぐにでも出来るのです、この作品。なればこそ、異識氏には、やりたいことをやれるだけやってほしいものです。読者(もちろんわたしも)は付いていきますよ?


森博嗣『創るセンス 工作の思考』


いつか書くだろうな、とは思っていたのです。森博士は、この手の本を。これは、博士の「工作哲学」についての本です。「もの作り」とはいったいいかなるものか――わたしはこの本を、「工作論」であると同時に(この本の次に「小説論」が発刊されるのを控えているのにも関わらず)「創作論」である、とも思いました。実際本の中でも、そのように言及している部分がありますし。


博士は次のように論を集約します。


「『上手くいかないことが問題』なのではなく、『上手くいかないことが普通』なのだ」


このことは、小説を書いているとつくづく思わされます。実際にワープロの前に座ってものを書いていると、書かなかった頃では想像もしなかった「創作の不可思議」に出会います。そしてそれこそが、「創作の秘密」なのです。「醍醐味」と言ってもいいかもしれません。ときに、信じられない符合が、フィードバックが、創作をしている最中には起こります。常套句を持ち出せば、「まるで奇跡のように」。インスピレーション、という一語で片づけるには、あまりに不可思議な「実感」を伴っています。しかし、そんなことはそうそうあるものではありません。むしろ博士が上記で言ったように……それを創作文芸に応用すれば、「普通に書けそうなところが、案外書けなかったりする」、のが実情なのです。博士は言葉を変えて次のようにも言います。


「どんな物体であっても、計算どおりにものが出来上がることは奇跡だといって良い」


本当にそのとおりで、わたしも、ものを創作していて、予想もしないところでつまづいたり、書きながら、当初の予定とは別方向に、展開が地滑り的に推移していったり……というか、書きながら「あ、あんな書き方するんじゃなかった!」と気づいたり、また逆に「こういう表現アリなんじゃないか?」と、「どう書くか」が変化していきます。書くという行為は楽しくも恐ろしいもので、一瞬先は闇、といった相を呈します。わたしの実力不足、というのを重々承知したうえで、あえて言いますが、創作とは「ままならないもの」です。そこがまた……なんてね。



「技術のセンス」とはいかなるものか――それを今のエンジニア、そして少年たちが失っているか。博士はこのセンスを次のように集約します。これは上の博士の言葉の展開と言ってもよいでしょう。


(1)上手くいかないのが普通、という悲観
(2)トラブルの原因を特定するための試行
(3)現場にあるものを利用する応用力
(4)最適化を追求する観察眼


このこともまさに「創作論」に適応できるのですが、しかしここでは、博士が本書の中で度々嘆息していたことに言及しましょう。すなわち、いかに現代のエンジニアが「楽観的」で「応用力に欠ける」か、そして「現場経験のなさ」。すべては、実際に手を汚して物を作った経験がないからだ、と博士は言います。いつか博士が他の本で、「最近の工学部の学生は安いスチール棚ひとつ組み立てられない」と書いていました。また他の本では、「エンジニアを目指す学生は、手を動かして「ものづくり」のセンスを身につけてほしい」とも。すなわち、現状はそうではないのです。理科離れ、科学離れ以前の問題の、「工作離れ」。なぜそうなってしまったか。博士はあっさりと言ってのけます。「ゲームのせいだ」。ここまでスパッと言ってくれるともう何も言えなくなりますね(笑)。最初にハードをそろえてしまえば、あとは山のようにあるソフトで、あらゆることが現実以上に面白く疑似体験できる。それこそ、ありとあらゆるジャンルに至るのですから、ゲームというものは。ある意味で、豊かにはなった。しかし、自分でゼロから作ることをしなくなった、博士はそう言います。


本書の冒頭部分で博士の工作少年としての個人史が描かれているのですが、わたしもそれにならって昔話をしてみましょう。博士の少年時代においては、「工作少年」はごく当たり前の存在でした。今は? わたしの経験から言わせてもらえば、超、超希少種になってしまいました。かく言うわたしも、「工作少年」ではありませんでした。それでも、少ない小遣いの大半を、ためらいなくプラモデルにつぎ込みまくった少年でした。漫画もゲームも大事でしたが(活字や音楽に目覚めるのはもっとあとの話です)、まずは今月発売のガンダムデスサイズH(ヘル、と普通に読める人はわたしと同世代のガンオタ)と武者頑駄無でした。模型屋でキットを手に取ったときの興奮は筆舌に尽くしがたいものがありました。そんな純粋な模型少年が、今や、「トノイケと木之本みけのおかげ(せい)で、すっかりエロゲ界も尿耐性がついたな……」なんてことをぼんやり考える人間になってしまいました(比較が最低)。


しかし確かに熱心にプラモを作ってはいたのですが、「工作少年」と自分を呼称は出来ませんでした。模型屋に展示されているディスプレイ・モデルや、模型雑誌を見て、「こんなんどうやって作れんだ……」って思ってましたし、第一、手先が絶望的に不器用で、細かい工作や塗装はすごく苦手。木工も全然駄目だし、電子工作なんか憧れではあっても、遠い遠い世界でした。どのくらい不器用かというと、ハンダごてすら、電動糸ノコすら、ロクに出来ないくらい。本物の工作少年はこんな具合ではありません。前述の超希少種の工作少年は、紙でレコードを作ろうとしていたほどでしたからね……しかも、彼にとっては、「思いつき」でやってみた、ってな具合で試作してましたから……。ですが、「作ること」の楽しさ、そしてその文化というものは、確かに認識していたと思います。底辺なりに。


ですが、この程度の人間ですら、周りでは少なくなっていた、という事実。もうわたしの世代はそういう世代になっていたのです。プラモ作りが好きな少年は、学年で10名前後だった、と記憶しています。生まれてからプラモすら作ったことのない人がザラにいる、という世代。「今ガンプラ作るのはオッサンだよ」と、いつ頃からかまことしやかに囁かれるようになりましたが、今の子供社会においては、工作離れ、プラモ離れがより深刻になっていると思います。……実際、模型屋で子供を見かけることが、最近ではほんとないですし。「ニッパー」「ランナー」「バリ」「デカール」の意味を知らない子供たちなのです、今は。


まあ模型に関しては語っていけば尽きることはないので、この話はこの読書日記が終わってからにしましょう。うん、次回のテーマはそれだ。題して「いかにしてわたしは1/144アルケーガンダムを積むようになったか」。ほーら、タイトルだけで屈折してるでしょー? それはさておき、博士はこの現状を、不可逆だとは知りつつも憂いています。ですが一方で博士は、「大人が子供を「教育」できるなんて、思いあがりだ」と喝破します。大事にすべきは子供の「好奇心」。そして「教育」という行為自体が、「アンチ好奇心なのだ」、と。子供の好奇心は子供が成長するほど抑制される……「これは駄目」「そんなこと考えるな」。代わりに、「創り出す喜び」をハナっから考えさせない受動的な「楽しみ」をいっぱい大人は与えます。「こちらを見なさい」「これがやるべきものだ」。方々で博士は書いています、今の若者は、「楽しみ」を受動的にしか楽しめない――そればかりか、「人生」までも、と。幸せすぎて身動きがとれなくなっている、博士はそう言います。


どのような人生を送ろうと人の勝手です。ですが、「それ」に触れないまま人生を過ごすにはあまりにもったいない――老婆心といえば老婆心。しかし、一度「こちらから」能動的に楽しむ「楽しみ」を覚えてしまったら、なかなか前のような過ごし方には戻れないよな〜、わたしはそう思いますし、多分博士も同じように思っているでしょう。だって、こんなに楽しいのですから。「作る=創作」というのは。


●次回のこと


前編・後編で終わらせるつもりだった読書日記ですが、書きたいことが多すぎて、結局前中後編になってしまいました。すいません。あと、週一ペースが地滑りのようにずれこんでいます。いけません……まあ、最近鬱症状が復活してきた、というのもあって、一挙手一投足が遅くなりがちです。しかし、毎日の文章量を己に課すことは怠ってはいけない、と、一応の矜持だけは持っています。そこはひとまず大丈夫かと。では次回、読書日記最終回です。というかいろいろと多すぎ。


本日のBGM:ダイナソ―Jr.『ファーム』(とりあえず、年末から今年にかけて、これ何回聞いた? レコードだったら擦り切れるほど聞いてますよ(まあ誇張ですが)。しかしこの枯れた甘みと轟音と延々と続くマスシスのソロは良い……)