残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

過去日記抜粋2006年分

※この過去日記抜粋は、以前にお話しした通り、一周年記念企画という名目の恥さらし(笑)です。

060603
平成十八年六月三日

日記でありんすが、しかし、
ああ、
ノーフューチャー!

文意を整理……
つまり、今現在午前五時半。昨日、中途半端な時間(七時!)に寝てしまい、丑三つ時に起きて映画を観て、その後眠ろうとしたけど全然その夢かなわず、今を迎える。今の気持ちはまさしく22世紀の敬虔な神官のそれ。
うそ。
だってこんなに頭がぼんやりしているのでありますよ。全然セイントじゃねーですよ。なんだ、体内時計に逆らうとこの仕打ちか? 何様だ? 閻魔様か?
でも、この時期に、「体内時計に逆らわずに規則正しく生活している方が楽だ」という真理を得たのは良いことでありました。う〜ん、それに辿り着くまで本当に長かった……。それもこれもつまり、強制されたからだ! ルーチン的な生活を。わたしは規則正しい生活を送ってこなかった。それはメキシコの刑務所に入れられた犯罪者が、規則や人倫というものを尊ばないのと同じだ。強制されて、何が起こるのだ。あ、いや、何か成果をあげる人もいるのは分かっていますよ……ええ、ごめんなさい……(弱気)。
ただ、私には、本っと〜に意味がない、ということ。

鬱について。
そもそも、規則正しい生活を、といっておきながらこの体たらく、という時点ですでに鬱のネタが。
てきぱきと動けないこと。
お金を使いすぎること。
フラッシュバック現象。
創作の停滞。
沈殿する未来。
各種取り揃えておりますコンプレックス。
(ため息)
ああ、頭がぼおっとする。
この頭の感覚が、今は、とても怖い。
それは、自らの破滅に繋がっているからだ。
何も創作せず、
無様に死んでいく未来。
このぼおっとする感覚こそが鍵だ。門だ。
今、わたしは、
何をしている?
文章を書いているということで、まあ、及第点。しかし、この脳感覚は、いかんともしがたい。
眠らない? 
それ、できますか?
自らの誇りにかけて、という常套句。
何でしょう、誇りって。
マイナス方向に更新されていく私の誇り。
怠惰に解き放たれていく、かつて決めた規則。
ああ、だるい。
……倦怠! これこそが! ああ、悪魔!
しかし、どうしようもないなぁ。
ああ、ほんと。

そういえば、ここ最近、
ほんと珍しく、鬱以外の気持ちを味わった。
あれは開放だったのだろうか。う〜ん。わからない。


しかし、わたしは、
まだまだ鬱をネタには出来ないかな?
だって、ほら、上の文を見よう、どうにもユーモアがない。
これじゃあユーモアエッセイにはならんなぁ。もっとも、これはパーソナルな日記だからね。ただの吐き出しさ。それは何になるのか? さあ……どうなんだろう。


060611
手慰みに、そこらの物をいじってしまうということがあります。そうだよ、こたつ机の下に転がっている円筒形の小箱やティッシュで作ったこよりのことだよ。情けない醜態の暴露さ。
そんな、まあ、何と言うべきか、残骸ともいえるそれらをみていると、ふつふつと心にわきあがってくるものがあります。
詩的な精神じゃなく、
暴虐的な怒りでもなく、
率直なむなしさが。
あ〜あ、だったらやらなきゃ良いのに、と、そりゃあわたしも脳みそありますからおもいますわよ。でもやってしまうという事実。それは、実はそんなにどうでもいいようなことではないかもしれません。実は。
何かから逃げたがっているのです。
いじる行為をしているとき、必ず(私は)それを思っています。
やらなくちゃいけない用事、現実的な面倒ごと、早いとこけりをつけておかねばならぬメンタル的問題、など。
どうにも、わたしは弱いのです。さっさと片付けるのが良いとは知っていながらも、めんどくさい。疲れる、嫌な気持ちになる、という予想が、わたしに二の足を踏ませます。
だからといって、先延ばしにすることが、まさしく火に油を注ぐ行為であるのも事実。事物に対しても、自分の精神に対しても。何も解決していないという現実が存在しているのですから。
ぴょ〜んと火の中に飛び込める精神があったら。
なぜわたしは怠惰の水の中に居たがるのか。
わたしの精神は一瞬の安らぎばかり求めます。安らぎ以外はいらないといわんばかりの態度で求めます。それは怠惰と形容される行為です。
ただ、思うのは、
どうしてそうなってしまったのか、ということです。


何かに疲れ続けたのか、怠け癖がひどいのか、さて、どちらなのかは良くわかりません。安らぎ、安らぎ、と、わたしの精神は言い続けます。
今もです。
わたしは、このあとに書こうと思っていたことを不覚にも忘れてしまい、いっしょけんめ思い出そうとしているのですが、わたしの精神は、もう横になれ、といいます。眼球のだるさ、という行為でもってわたしを屈服させようとします。
……ひどいなぁ。
どうして、こんなことになってしまったのでしょう。
なんとなく、「怠惰の果てに自己が自己を殺す」という可能性が、存外大きいということに、びっくりしています。
なぜわたしは安らぎばかり求め続けるのでしょう。
砂ぼこり、汚れ、多くのかすり傷、とげ、汚濁、湿り気……わたしは無菌室にいたい、という声が聞こえてきましたよ。わがままものめ。
そんな自分が人並みにがんばることが出来るのはいつの日か、と考えるのですが、どうにも頭がぼんやりして、まあいいや、と思ってしまうのでありました。え? ナルシスト?


060924
どうにもわたしは自分を信じることが出来ません。それはわたしのオブセッションとなった感すらあります。まるで溶接されてしまったかのように。
……あるいはそのような不信こそが問題なのでしょう。つまり、信じないから、もうどうにもならない。ゆえに努力もしない、という嫌な論理的結論……というかこれはむしろ怠惰的結論と言うべきでしょうか。
しかし、自分を信じる、とはどのようにすればよいのでしょうかね? そう、このように言葉に表すのは簡単です。そしてその解決に至る道も言葉を紡ぐことによって表現できます。「解決に至る道」はまさに物語です。ちょっとしたストーリーテリングの能力があれば、すぐに我々の眼前に展開することが出来ます。夜中寝付けない子供におとぎ話をするくらいの能力があれば……。たとえ自らが経験していようとなかろうと。
そう、なんとだっていえるのです。しかし人の「解決」というものは、自分を信じるということは、言葉によってはなされません。どうにも、実際に「生きて」初めてなされるもののようです。……ああ、そのようなことをも言葉によって綴っているこの今!
なるほど、ここ最近、「まずは行動あるのみ!」という実地的思想が若い層に蔓延していますが、しかし何を批判できましょう? わたしは沈思黙考を好む人間です。ですが、「行動!」の思想を貶そうとは思いません。どちらにも長所があり欠点があります。問題はその欠点=陥穽に足をとられないことなのです。そして、わたしはその問題とやらにつまずきかけている人間のようです。行動力の不足、というか、編み上げた論理だの思考だのに足をとられて躓いている、といったところでしょうか。そう考えると、わたしのような失敗をおかすことのない若者たちは、う〜ん、上手くやっているのだなぁ。感心ですよ。あ、いや、皮肉じゃなく。


書くべきことは書ききったかな?
まさか。
書くべきことの範囲をこの土日二日に絞ったから浮かんでこないのであって、その枷を外したら一晩中だって書いていられるでしょう。いや、むしろすべきことはそれなのかもしれません。ひょっとしたら。
……でもそれをするのはまだ早いでしょうか? 早い? いや、いままでの自分が遅すぎただけだろう、と言う声が聞こえてきます。そしてそれに対して、あせるな、地道に静に行け、と言うもう一つの声。右派と左派。そしてぼんやりした頭。状況としては、いかがなものか。まあ、まだこのように認識できているならば、良いか、と思います。しかしその判断も即座に否定される。自らの中の批判精神によって。批判精神? わたしはこれにもっと良い名前が与えられるような気がします。「忠告者」と「臆病者」との間のどこかにその名前は潜んでいるような、そんな気がします。……あるいは、全然パラレルな位相にいるかもしれませんが。


我々の、いや、わたしの敵は倦怠だ、怠惰だ、と言い聞かせます。何度言い聞かせたって足りることはない。いや、おそらく、わたしは二十年分の量を言い聞かせないといけないのでしょう。そうだ。本当にそうかもしれません。


061022
「こんなのなら自分にだって書ける」
プロだろうがアマだろうが能無しだろうが同じように思うのでしょう。文面は同じ。そして、自分にどれだけのものが書けるか。問題はそこです。
あ、いや、違うかも。「こんなの」をどう捉えているか、どう分析しているか。すでに、その時点からプロとアマと能無しとの差が出てきているんだった。そうだ。それはともかく……。
プロのものが一定ラインを超えているのは言わずもがな。問題は残り二者、とりわけどんじり。彼らにとって、冒頭の文における「自分」というのは、少なからず幻想が入り込んでいます。幻想に塗りたくられています。美化されています。そこからいかに脱皮するかが、アマからプロへの脱皮ともいえるのでしょうが、まあ、これとて言うは安し。
ぽん、とそこに置かれた、自分が書いた物。さて、これは、「こんなの」よりも優れているものでしょうか。それとも、「こんなの」でしょうか。
「こんなの」の価値を瞬時に見抜き、分析し、「こんなの」よりもはるかに出来の良いものを作る。理想ですね。だれもがそう考えているでしょう(多分)
ただ留意すべきは、人間の弱さ。
物書き志望者は、往々にして「こんなの」に引き寄せられていってしまうのです。悪文は、弱き素人の文を染めます。文のレベルにしても、思想にしても。どういうわけか、悪文というものは、臭いとか、泥水のようなもので、すぐに染めてしまうのです。
例えば、「こんなの」はレベルが低い、でもそれでも一応は意味が伝わります。故に、彼は文章に技巧をこらす努力をやめ、文章の内的緊張がなくなってしまいます。そして、低きに安住してしまいます。
また例えば、「こんなの」よりは自分はましだ、と、「こんなの」を馬鹿にすることにより、自分の優位を確かめ続ける。少なくともこれほどではない、もっと自分には価値がある。しかし、彼は無自覚のうちに、文章の基準を「こんなの」においているのです。高いところを見ているのではない。ただ、より低いところと自分との相対によってのみ文章を見る。当然のことながら、そこに発展はありません。
あるいは、悪文を読み続けるといった行為。来る日も来る日も「こんなの」を読み続けたら、そりゃあ、自分の文体がその方向に引きずられていきますよ。無意識のうちに。「いや、それでも自分は素敵な文章が書ける」ああ幻想! そういうのだったら、ちょっと書いてみてはいかがでしょうか。絶対たいしたことのないものがそこに生まれ出てくるはずですから。なぜか?
その理由は、彼が「こんなの」を読み続けているからです。そもそも素敵な文章が書けるのだったら、なぜ今更「こんなの」を読んでいるのですか? 小説の中に悪文を挿入する必要があるので、そのための取材とか、現代の物書き志望者の調査レポート執筆以外に、何のため?(追い詰めてみる)
言い訳はなんとでもできます。そりゃあ、作家志望なんですからね、昼食のおかずをつくるように、いいわけの1つや3つや5つ(奇数)くらい作ることができなくちゃね。でも、「楽」を選択した事実は消えません。
あなたは言うかもしれません。「楽」じゃいけないのか? 上達がすべてか?
答えは次のように。
さあ? 知りません。でも、確か、わたしは数分前にあなたのことを「作家志望」の方とお聞きしたものですから。