残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

湖を見ていました

相も変わらず

ええ、今日も今日とてエロゲをやっていますが。しっかしほんと趣味は、読書と音楽とエロゲしかしなくなりました。そして事実上、エロゲもノベルゲームしかしていないので、個人的定義に則るならば、この「読書と音楽」の範疇に入ってしまいます。とするといよいよわたしは読書と音楽しかやっていないことになります。なんてこった!

まあそれは良いのです。なるべくならシンプルに人生過ごしたいものです……仕事→小説→読書→音楽→仕事→エンドレス……うん、まあシンプルといえばシンプルです。無地の白いシャツのごときシンプルさです……言い換えれば、味も素っ気もねぇ人生ってことですが。

とはいえ、それは人から見たまでのこと。実際はこのシンプルネスの中でも、いろいろな諸相があり、矛盾があり、混沌がある……とはわたしの弁です。それが実感というところです。少なくとも、その営為に「飽きて」はいないです。その生き方が幸福なのかどうか……あまり人づきあいをせず、往来の行人の中よりも、書物の中に、絵画の中に、音楽の中に「人間」を見出そうとするわたしの生き方……それは阿呆以上の阿呆なのかもしれません。事実わたしは真顔で憐れまれたことがあります。わたしはその憐れみを最初はジョークと思っていたのですが、よくよく話を聞いてみると、実に彼/彼女とわたしとの人生観の間に、非常な隔たりがあるがゆえの「憐れみ」――。

怒ったか? いいえ。ただ、どんどんわたしは「人」から離れていっているな、と感じるだけです。おかしいですね。わたしは人間を求めているはずなのですが。ですが……ですが事実上、わたしはどんどん人の集まる場所(有形的意味でも、無形的意味でも)から離れていっています。まあようするに引きこもり(笑)在宅ワークと通販は楽でいいなぁ――半分冗談ですよ?(でも半分は本気以上に本気)

「わたし」

確かにわたしは事実上の引きこもりですが、外に出るのが怖いとか、人と接するのが怖いとか、そういったことではないのです。それを言ってしまえば、学生時代の方がよっぽどそれらに対して怖がっていました。しかし今は、多少は面が厚くなったというか、鈍感になったというか、まあ「普通の人」を演じ切れるくらいにはなりました。そうでなくちゃ。それでこそ社会人だ。

ようするに、惰性の人間関係とか、周りはすべきというけれども個人的には価値を見いだせないこと/ものとか、そういう「切ってもいいもの」は切っていけばいいな、と、恐れなくなったというか、冷酷になったというか。そう思うに至ったというのも、人生もそれなりに積んでくると――とくにわたしのように一生クラスの病気を抱えていると、自ずから先が見えてくるからなのですね。先というか……実際の限界というか。(だからもう今まで抑圧されてきた分、これから好き勝手に生きてやろう、という捨て鉢な気持ちになるわけで)

少なくとも、これ以上体力が増進することはないでしょうし、気力・精神力・集中力・持続力も、今あるものでなんとかやっていく他ありません。こう、「限界」を「身体で感じ取る」くらいの年齢になってくると――まあわたしの場合はそれがやってくる年齢が人より早かったという話ですが――もう冷静になってきますね。というか、ならざるを得ないというか。

とはいえ、先日松江の宍道湖までのんびりしに行きました

そんな感じで、小説を書き終えたとはいえ、思考が煮詰まり気味であったのは事実です。人生の影は創作に否応なく影を落とすようです。なので、最近「よし書きはじめるか!」みたいな感じになかなかなれずにいました。で、心を癒すため、クラシックを聞いたり、エロゲをやったりしてました……逃れようとしてやっていることではないのですが、しかし逃れたい気持ちは常にあります。

ですが先日、わたしの父君と母君(あえて敬称)が松江のイングリッシュガーデンで開催されている「ドールハウス展」を見て、帰りにイタリア料理のレストランに行く、というので、わたしもついていくことにしました。考えればお盆からこの方、仕事仕事で、ゆっくりできる機会がわたしも両親もなかったのです。わたしは小説もありましたしね。

気分転換を求めていたのでしょう……とまれ、出雲(当方島根の出雲市の山奥在住です)から高速で、松江まで行きました。

父君が車を走らせている途中、宍道湖がいきなり――本当にいきなり、ぱっと眼の前に開けたのです。それを見て、「ああ、考えれば、次の長編小説の舞台は湖畔の町だったなぁ……」とふと思い返しました。取材……うん、事実上の取材かな、と思い、わたしはひたすら湖を眺めていました。

ドールハウス展(こういう職人芸の細工を見ていると、模型を作りたくなってきて困ります)を見たあと、レストランの予約時間まで時間を潰そうということで、イングリッシュガーデンのすぐ傍は湖なのですが、わたし達はそこで宍道湖を眺めていました。わたしが見たい、と言いだしてのことです。

ゆらゆらと揺れる湖の水の量は、あらためて言うまでもありませんが、本当に多い……いや、「大きい」ものです。湖はそれほど広く、「悠々」という言葉ではあらわせないほどでした。――あるいは、わたしはこうして湖を虚心坦懐に眺めていなかったら、小説で湖を「悠々」と簡単に形容するだけで事をすませてしまったかもしれません。

父君が撮った写真があるので、ここに掲載します。以下の二枚がイングリッシュガーデンでの湖です。



湖を眺めていると……とても静かな気持ちになりました。いろいろのことを考えました。自分は小説に対して、傲慢な気持ちでとりかかっていたのではないか? 今まで何を焦っていたのか? たとえ限界のある人生にしても、いやそれだからこそ、冷静に、そしていたわりをもって、自己の身体をスケジューリングしなくてはならないのではないか? そして……わたしは自然を、人間を本によって求めました。これからもそれは変わることはないでしょう。事実、わたしは田舎暮らしをしている癖をして、未だに都会生活の癖のままです。つまり、自然と戯れることをよしとしない人間です。

が、しかし、今ここにある自然を眺めることにより、何かしらの「感じ」を得られないほど、焦ったり、余裕をなくしたり、感性を鈍化させたりするようなら、何の人生だろう、と思いました。……空に魂が抜けていくような感じを覚えるほど。

その後、場所を移して、今度は宍道湖に落ちる夕日を眺めました。以下の二枚も、父君が撮った写真です。



飽きることなく、わたしは湖を眺めていました。そして静かに、次に書く小説のことを考えていました。

やがて、わたしはいよいよ精神の静けさ――いつ以来でしょう? 「静かな精神」などというのを得たのは?――を感じながら、これまた静かに、しかし沸々とした確信を感じ始めました。何の? 小説を書くことの、です。

誰が何と言おうと知ったことではない、自分は自分の小説を書くのだ、書き続けることに意義があるのだ――この発言は多分に傲慢に聞こえるでしょう。他人から見たら、そのような印象を与える言葉だというのは承知しています。ですが、この確信を感じているわたしは(信じてもらえればの話ですが)敬虔な気持ちでありました。

湖を見ていて、すごく、小説が書きたくなってきたのです。そして、多分書きあげることが出来るだろう、と思ったのです。

結果が出るか出ないかの恐れはいつもあります。ですが、これから先も自分は小説を書いていくことが出来る……こういう風に思い直せたことは、わたしにとってひとつの励ましであり、同時に奮い立たせるものでした。「その希望」だけは持っていていいのだ、と信じることが出来たこと……あるいは、これはわたしが創作者としてひとつ殻がむけたことなのかもしれません。

相も変わらずロクな小説を書かないと思います。ですが、何かを為せるだろうという確信が持てたこと、これは、これ以上ない幸運だと思うのです。創作上の躁状態、と一笑に付してもかまいません。ただ、わたしにとっては、「書き続けていこう」という風に思えただけで結構なのです。

何か

……いや、某任意のことではありませんよ?(笑) 何か、妙な思いのたけを書いてしまったような気がします。というか、もっとシンプルにまとめろよなぁ、と思いました。これからは頻繁に更新するために、記事あたりの文量を減らして、小刻みな更新を心がけよう、と思って書きだしたのに〜。ほんと今回の更新、いつにも増して散漫というか、何というか。

でも書きたかったから書いた! 後ろは見ない!

少しは見ろよ、と「冷静な自分」は言いますが……

ともあれ、今回はこんな更新でしたが、これからは出来るだけ頻繁に更新したいと……何かずっと前からこんなこと言ってるな。努力の意志はあるのですがー! しかし、一年前の更新頻度を思い返すだに、あのころはわりによくやっていたのではないかと思うのですよ。少なくとも、やっぱり初心に帰る必要はありますね、切実に。

本日のBGM:シューベルト弦楽四重奏曲第14番ニ短調 D.810 『死と乙女』」(最近クラシックばかり聞いています。しかしこの曲の戦慄さはどうだ! 演奏はアマデウス弦楽四重奏団。この夏はロックばっかり聞いていたのですが、秋はクラシックばかりになるのでしょうか。それにしてもこないだ聞いたベートーヴェンのピアノ協奏曲はよかった……)