残響の足りない部屋

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マルチタスク上の無能

早くも新作小説企画・同時進行マルチタスク計画が暗礁に乗り上げた

先日の松江行でずいぶんと気が楽になったと言うか、やる気が自然な形で出てきたので、資料整理やプロット整理をほどほどに切り上げ、いよいよ実際に新作小説を書くことにしました。

ところが人生ままならないものです。一か月以上前から言っている「複数企画進行」が、実際にやってみると思ったより難しいというか。いや、小説を書くこと自体は順調なのです。とりあえず、以前言った「(3)くたびれオタ向けの現代ファンタジー・長編」から書きだしました。わりにいい感じに、すらすらと書きだすことが出来、プロットも順調に決まって来て、ネタもかなり潤沢に溢れ出てくるという、「執筆」だけみてみれば、全く問題ない状況なのです。

じゃ何が問題かというと、一言で言うと、「今この小説にだけ集中してぇ!」ってなことなのです。そう、そもそもこの小説は、マルチタスク執筆のうちのひとつとして計画されていたもの。他の小説も同時進行させながら、ということをやるのがそもそもの計画でありました。しかし実際書きだしてみると、自分にはそのような同時進行作業というのがそもそも向いていないような感じがすっげぇするのですね。

ひとつの企画に集中できている、そのことだけを取り出せば確かに「良い」のですが、そもそもこのマルチタスク企画自体、自分を試す意味合い、そして鍛える意味合いでもって計画したわけです。要するに、「器用になるために」こうしたというか。そしてこの器用さは、これから文章を書き続けていこうという人間――とくにわたしのように短編を主としてやっていこうとしているような人間の場合――にとって、あればあるだけ困るものではないのです。

が、この始末(笑)……笑ってる場合じゃないのですが、しかしまあ事実、わたしは一度にひとつのことしかできない愚直――「愚」は確かに愚であり、「直」は融通の利かない、という意味……つまり「愚」であります。

なんだかなぁ……いや、ほんといざ小説を書き出すと、他の小説を書こうという気になれない、という。それしか見えなくなる。……結局、それがわたしなんでしょうかね。まあ、「集中ができない・ひとつのものも作れない」よりはいいのかもですが。少なくとも一応作ることが出来ているわけですし……と自己弁護します……が、長い目で見た時、このマルチタスク能力は必要かも、という結構な疑念が……。

そういうわけなのでmixiの日記も

mixiの方で書いたのですが、やはりこのマルチタスク能力のなさゆえに、ブログとmixi日記の両立が自分の中で厳しくなってきて……なので、しばらくmixiの裏日記を止めることにしました。やるからにはどちらかに力を傾けたい、どっちつかずは嫌だ、まあそんな感じで……それにあの日記、ロクなこと書いていませんし。超今更ですが。

ほんと、一度に複数のことが出来ない……複数の場を設けて書くということすらできない……twitterもやめ、mixi日記もやめ、な感じで……ああ、融通が利かない。

なんなんでしょう、この性格。子供のころから全然変わっていない……一度やりだしたときの集中力は結構あるのですが、やりだすまでにかなりの時間がかかり、持続力もない。同時に複数のことをこなせない。何一つ変わっていない。子供のころ、ブロックや模型を組み立てていたころと変わらない。

こういう性格って、一生なんでしょうか? 多分そう……でも本当は、良い結果を生むところは残し、悪い結果しか残さないところは改善していく、というように「改良」していくのが大人なんでしょうが……いや、今までの人生でそれを怠ってきたのが……いや、考えもしなかった、というのが事実……(グダグダ)。

というわけで、mixiの日記をしばらく止めますが、さすがにこっちでアレ(愚痴・お薬・ダークサイド面の吐露)をやるわけにはいけないので(当然)そういったのは書きませんが。ただ、あっちでやっていた「文芸雑惑」はこっちで引き継ぎたいところ……はい、気分でやりたいと思います。単純に、過去ログの転載でも一記事になるでしょうし。

音楽について、つれづれなるままに思うところを

レディオヘッドソニック・ユースを聞いて、自分に現代音楽が向いているか、という判断をする、というのはわりに適切な判断方法かもしれません。
……がそもそもこのことには自己矛盾を含んでいまして、そもそもレディオヘッドソニック・ユースを聞く人間は最終的に現代音楽に行く人間であるから彼らの音楽を聞くのであって……というテーゼ。つまりは、純粋な「音」に対する偏愛及び耽溺。
それにしても『キッドA』は一聴しただけで大のお気に入りになりました。そして素直に、「これはある種のテクノが好きな人間にとってはご褒美以外の何物でもないなぁ……」という感慨を持ちました。
テクノ(エレクトロニカアンビエント方面)という音楽が、大事に大事にしてきたある種の概念や、音像を――それはとても説明に困る概念であり音であるのですが――、とても正統に受け継いでいる、と、思いました。

ブラームス交響曲第一番を聞いて、なんとなく、個人的に、「ここから俺は交響曲作家としてやっていくんだ」というブラームスの静かな決意みたいなものを思ったのはわたしだけなんでしょうか? まあ人が何て言おうとわたしがそう思ったのですから別にいいのですが、
しかし、それにしても、交響曲という形式に取り掛かり、まず一作完成させるまで数十年の歳月を経た、というのは、個人的に思わされるところがあります。
完璧主義?――いや、それもあるでしょうが、憧憬と野心と不安と疑念とを抱えたまま、「第一番」のモチーフを抱え続けて作曲家活動をしてきた、ということは、「主義」だけに納まらないものがあったと思います。「納得できる作品」を作る、ということ……それは余りに、ある面において「人生」に相似しています……だからこそ「俺はここからやっていくんだ」というあの曲の静かな意志に、妙に思わされるところがあるのです。構成の古典性を通り越して。

今回の更新ですが

まあ小刻みな更新になってきたというのは良いことなのですが(どこまで続くことやら)、それでももっと短い文量でいいですよね。……どうにも、やっぱりわたしは一度書くとなったら長文になるという傾向があります。先の「集中力」によるもの、といってしまえばそれまでですが、そればっかりでガンガン書きまくる、といったことのみでもいけないだろう、とは思います。はい。

本日のBGM:ナンバーガール『サッポロOMOIDE IN MY HEAD状態』(久しぶりにナンバーガール聞いてます。それも解散時のラストライヴ盤。奇妙な余裕感と、そして戦慄すべき鬼気が混在するノイジーさ。ギターノイズを撒き散らしまっすぐに突っ走る(楽曲的にも、ライヴ的にも)その姿、それに「これが最後だったのか」という感慨を抱きます。良くも悪くも……そして今、アルバムはラストの「OMOIDE IN MY HEAD」「IGGY POP FANCLUB」を、それはそれは猛烈に、直線的に、ノイジーに、最後の不退転で)