残響の足りない部屋

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ラブラブルプレイ日記(4)

奈々子さん&つぐみルート終了

Q:小説書いてるくせして、ここでエロゲのヒロインの可愛さを上手く描写できないというのはどうなのですか?
A:面目次第もございません。何も言い返せません。

……で、一週間かけてクリアしました。自分にしてはホント珍しい。即座に二週目入ってるあたり、わたしのハマり具合が察せられるかと。いやそれにしても、期待以上の素晴らしい出来でありました。いちゃラブ・バカップルゲーの金字塔です。
発売前はですね、あんまり期待しすぎるとバカを見るって思ってたんですよ、今までの経験上。ところが体験版の余りの出来の良さ、インタビューでのこだわり、期待は加速する一方でした。そして完成版のこの出来です。
ただ前回書いたように、このゲームが万人向けかというと、それは全く違い……その前に、キャラについて書きましょうか。
背伸びしたり気を張ったりするのも女の子の可愛さであるのは間違いないんですけど、やっぱり素の姿が可愛い、というのが――そして自分だけにそれを見せてくれるというのが――真理なんですね。ナチュラルな魅力、といえば簡単ですが、
ほら、最近の萌えキャラって、ことごとく添加物バリバリって感じじゃないですか。属性・記号の行きつく果ては、そうした「機能性を追求した萌え」……ようするにテンプレ展開・キャラってことです。
それを否定しているわけではないんですけどね。「だからこそ」二次元美少女文化はこれだけ花開いたわけでありますし。ですが、そのテンプレ展開・機能性ばかりを重視して、「このように配置しときゃ萌えるだろ」みたいなおざなりな作りになっているのがありがちなのは遺憾です。
奈々子さんにしてもつぐみにしても、要素自体はすでにあるものなのです。ただ、「この女の子ともっと仲良くなったらこんなに楽しいんだろうな〜」ってのをとことん追求しているからこそ、このゲームの価値はあるのです。要素だけを取り出してみたら、ただの萌えゲーであることは否定しません。ええ。いざ付き合ってみたら結構甘えんぼでへちょいお姉さんだった奈々子さん。男性恐怖症だったのが付き合うごとにどんどん小動物的にころころ可愛くなってくるつぐみ。
ではなぜそのような「ありふれた展開・記号」がこれほど我々のツボを突くかというと、「素の女の子の可愛さ」を執拗に描こうとする意志の表れがあるからなんですよね。まあ、素といっても、やっぱりそれはエロゲのそれです。バイアスがかかっていることは否めません。我々が見ているものは幻想です。しかしsmeeスタッフは、その幻想の可愛さを描くことに執拗なる情熱を傾けています。服装・髪型変化の膨大な差分、メールのやりとり。作品構造自体は極めて単純ながら、手間が非常にかかっています。

萌えゲーの物語とは何か?
何回も「このゲームには物語としてのダイナミクスはない」と書いていますが、ではこのゲームの物語は何のためにあるかというと、とにもかくにも女の子の可愛さを描写するためなんですよね。ネタバレになりますが(別にネタバレしたところでさして問題ないとは思いますが)、どのルートも最後に「ちょっといい話」があります。それはそれまで描いてきた「可愛さ」を、別の角度から洗い直して、きゅっとまとめて、「やっぱりこの女の子は最高だ!」って感じにもっていくための話なのです。つまりはハッピーエンドのための物語。
そのような物語のあり方をあなたはどう思うでしょうか? 予定調和? 所詮萌えゲー? そう言われたら、ちょっとわたしも反論しようがありません。その通りなのですから。
ですが、萌えゲーとは何でしょう? エロゲーマーも中級以上になってくると、「萌えゲーなんて誰でも作れる簡単なものさ」なんて言う人が増えてきます。……いえ、確かに簡単に粗製乱造される萌えもあります。それは認めます。しかし、真にダイレクトに胸を焼き付けるような萌えを作るのは、やはり難しいのだ、と思わざるを得ません。「キャラ萌えゲー(笑)」と言うのは簡単です。が、ひとつの強烈な萌えは手抜きによって得られるものではありません。仮にそんな手抜き萌えに萌えられたとしても、一年後には忘れられている、というのが相場です。そんな現場をよく見てきました。萌えの形がそのようなインスタントなものにすぎないと定義するなれば、萌えゲーなんて簡単に作られ、簡単にプレイできるものなのでしょう。
でも、萌えってそんなに薄いものなのかなぁ、ってわたしは思うわけです。我々の脳髄を突きぬけていったキャラたちのことを思い返すに、そのようないい加減な作りも、いい加減な享受も、そこにはなかったはずです。もっともこの感覚こそが旧世代のオタの感覚だと言われればそれまでかもしれません。アニメの1クールごとに嫁を変えるのがクールなのでしょう(誰が駄洒落を言えと)。
ですが、「真の萌え」(あまりこういった言い方は好きではないのですが)は、その背後に、綿密な作りこみと、我々の妄想を過剰に喚起する磁力を持っているものです。その一環として、「物語性」があります。我々が萌えるためにはある種の物語性を必要とします。そしてその物語は、訴えかける力を持っていなくてはなりません。ダイナミクスは必要としなくても、少なくとも我々を「萌え萌えキュン」させるだけの得体のしれない力が必要なのです。
それを考えるだに、「萌えゲーのシナリオなんて〜」とはとても言えなくなってきます。舞台設定とキャラの設定・記号・属性は「ありもの」かもしれません。ですが「動かし方」一つで萌えキャラの生死は決まるのです。このあたりがおざなりになったのが「絵だけゲー」であり「つまらない萌えゲー」なのでしょう。
繰り返しますがラブラブルの物語は「うわこの女の子めっちゃ可愛いなぁ!」以外の何物でもありません。それだけじゃないか。はい、それだけです。ですがそれを完全に徹底的に描き切ったこと。はじめに打ち出したコンセプトを最後まで貫き通したこと。「恋する女の子は可愛い!」余計なものに見向きもせずただこのことだけを追求した潔さ。早瀬ゆう氏の功績とはそこにあるのではないでしょうか?
すべての物語が感動や謎解きを訴えかけるものであったら、我々はきっとうんざりしてしまいます。我々に求められているのは、「こういう物語以外はつまらない」とする狭量さではなく、「こういう物語もアリなのではないか」と論ずる必要性ではないでしょうか。誰しもが同一の方向性を目指さなかった(目指せなかった)からこそ、文芸はかくも面白いものになったとわたしは確信しているのですが。

(続く。次回総論という形で最終回にしたいと思います)

●BGM:今回はとくになし